1 / 48
プロローグ 隻腕
その日はひどい嵐だった。風が鈍色の雲を重たそうに引きずるこんな日は、月も雲隠れ。
私を導いてくれるのは、頼りなく明滅を繰り返す切れかけた街灯の明かりだけだった。横殴りの激しい雨は、すぐさまに私を理不尽に濡らし、暴風は傘と私を攫うように吹き付ける。
その度に、役に立っている気のしない傘なんていっそ捨ててしまおうかと思わせられた。
何度も思い、何度も捨てられなかった。
「溺れる者は藁をもつかむと言うけれど、身をもって知ることになるとはね」
その手を放してしまったら、もう二度と歩き出せない気がするから。頼りなく明滅する街灯を頼りに、風の凪ぐ間を縫ってまた歩み出す。その時を待っていたかのように、今日一番の強い風が吹きつけた。
暴風に足を取られた私は、まるで踊り子のように道路に躍り出た。瞬間、明後日の方向からのライトが私を照らし、雨音をかき消すかのようなクラクションのけたたましい音を聞いた。私は宙を舞い、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
雨風に息を塞がれ、助けを呼ぶことさえかなわずにいた私は、ただただ雨と自分の体から流れる赤黒い液体の交わるさまを見つめることしかできなかった。
だんだんと近づいてくるサイレンの音を聞いているうちに、私の意識は糸が切れるようにそこで途切れた。
朦朧としながらも目が覚めると、視界には薄汚れた白い空間が広がっていた。
天上にしては少し薄汚れているけれど、案外こういうものなのかしらね。意識が覚醒し辺りを見回してみると、そこには涙を流しながら私を抱きしめる叔父の姿があった。
「私、生きてたんだ……」
けれど、どこか現実感がなかった。長い夢を見ていて、それがまだ続いているような、そんな感覚。
顔をあげると広がる、見知らぬ病室。
向こうのベッドで寝ている、見知らぬ大人。
窓から見える、見知らぬ景色。
深呼吸をすると、乾いた喉を傷つけるように通り抜ける空気を感じた。そのおかげで、ここはもう夢の世界ではないと、なんとなく思った。
そばに置いてある飲料水を手に取ろうと、右手を伸ばした時だった。
コツン。と小気味良い音を立ててペットボトルはそのまま床に落ちた。まだ体の自由があまり効いていないだけ。そう言い聞かせながら床に転がったペットボトルを取ろうとすると、体を妙な違和感が支配した。
いつもなら届く距離、掴める距離。そこに手は届かなかった。否。届く手がなかった。当たり前のように右のびていたそれは、今はない。
現実感なんていらない。
タチの悪い夢であってほしかった。
その事実を認識するまで私はたっぷりと8秒かかった。しかし倍以上の時間を費やしてもその事実を否定することはできなかった。
15の冬、わたくしこと倉實 礼は本日を持ちまして、隻腕になりました。
それからは私にとっては地獄のような日々の連続だった。利き手である右手を失ったことによって日々の生活は一変した。
着替えは今までの倍以上の時間がかかるようになったし、箸はまとも扱うことができず、和食であってもスプーンとフォークに頼らざる負えない。
医者からは義手の使用を勧められたが、私はそれを拒んだ。それを装着することで、「右腕のある私」との決別ができないということと、今まで私の「もの」があった空間を外部からの接続で埋めるという行為にたまらなく嫌悪を感じたからだ。
瞳から零れ落ちるそれを拭う右腕はもう、ない。
私を導いてくれるのは、頼りなく明滅を繰り返す切れかけた街灯の明かりだけだった。横殴りの激しい雨は、すぐさまに私を理不尽に濡らし、暴風は傘と私を攫うように吹き付ける。
その度に、役に立っている気のしない傘なんていっそ捨ててしまおうかと思わせられた。
何度も思い、何度も捨てられなかった。
「溺れる者は藁をもつかむと言うけれど、身をもって知ることになるとはね」
その手を放してしまったら、もう二度と歩き出せない気がするから。頼りなく明滅する街灯を頼りに、風の凪ぐ間を縫ってまた歩み出す。その時を待っていたかのように、今日一番の強い風が吹きつけた。
暴風に足を取られた私は、まるで踊り子のように道路に躍り出た。瞬間、明後日の方向からのライトが私を照らし、雨音をかき消すかのようなクラクションのけたたましい音を聞いた。私は宙を舞い、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
雨風に息を塞がれ、助けを呼ぶことさえかなわずにいた私は、ただただ雨と自分の体から流れる赤黒い液体の交わるさまを見つめることしかできなかった。
だんだんと近づいてくるサイレンの音を聞いているうちに、私の意識は糸が切れるようにそこで途切れた。
朦朧としながらも目が覚めると、視界には薄汚れた白い空間が広がっていた。
天上にしては少し薄汚れているけれど、案外こういうものなのかしらね。意識が覚醒し辺りを見回してみると、そこには涙を流しながら私を抱きしめる叔父の姿があった。
「私、生きてたんだ……」
けれど、どこか現実感がなかった。長い夢を見ていて、それがまだ続いているような、そんな感覚。
顔をあげると広がる、見知らぬ病室。
向こうのベッドで寝ている、見知らぬ大人。
窓から見える、見知らぬ景色。
深呼吸をすると、乾いた喉を傷つけるように通り抜ける空気を感じた。そのおかげで、ここはもう夢の世界ではないと、なんとなく思った。
そばに置いてある飲料水を手に取ろうと、右手を伸ばした時だった。
コツン。と小気味良い音を立ててペットボトルはそのまま床に落ちた。まだ体の自由があまり効いていないだけ。そう言い聞かせながら床に転がったペットボトルを取ろうとすると、体を妙な違和感が支配した。
いつもなら届く距離、掴める距離。そこに手は届かなかった。否。届く手がなかった。当たり前のように右のびていたそれは、今はない。
現実感なんていらない。
タチの悪い夢であってほしかった。
その事実を認識するまで私はたっぷりと8秒かかった。しかし倍以上の時間を費やしてもその事実を否定することはできなかった。
15の冬、わたくしこと倉實 礼は本日を持ちまして、隻腕になりました。
それからは私にとっては地獄のような日々の連続だった。利き手である右手を失ったことによって日々の生活は一変した。
着替えは今までの倍以上の時間がかかるようになったし、箸はまとも扱うことができず、和食であってもスプーンとフォークに頼らざる負えない。
医者からは義手の使用を勧められたが、私はそれを拒んだ。それを装着することで、「右腕のある私」との決別ができないということと、今まで私の「もの」があった空間を外部からの接続で埋めるという行為にたまらなく嫌悪を感じたからだ。
瞳から零れ落ちるそれを拭う右腕はもう、ない。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【純愛百合】檸檬色に染まる泉【純愛GL】
里見 亮和
キャラ文芸
”世界で一番美しいと思ってしまった憧れの女性”
女子高生の私が、生まれてはじめて我を忘れて好きになったひと。
雑誌で見つけた、たった一枚の写真しか手掛かりがないその女性が……
手なんか届くはずがなかった憧れの女性が……
いま……私の目の前にいる。
奇跡みたいな出会いは、優しいだけじゃ終わらない。
近づくほど切なくて、触れるほど苦しくて、それでも離れられない。
憧れの先にある“本当の答え”に辿り着くまでの、静かな純愛GL。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
迷子を助けたら生徒会長の婚約者兼女の子のパパになったけど別れたはずの彼女もなぜか近づいてくる
九戸政景
恋愛
新年に初詣に来た父川冬矢は、迷子になっていた頼母木茉莉を助け、従姉妹の田母神真夏と知り合う。その後、真夏と再会した冬矢は真夏の婚約者兼茉莉の父親になってほしいと頼まれる。
※こちらは、カクヨムやエブリスタでも公開している作品です。
再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる
まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」
父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。
清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。
なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。
学校では誰もが憧れる高嶺の花。
家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。
しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。
「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」
秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。
彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。
「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」
これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。
完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。
『著者より』
もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。