2 / 48
春篇 邂逅
1話 開口
潮の匂いは私の鼻腔に触れ、目が痛くなるほどに鮮やかな海は、どこか私を呑み込もうとしているように思えた。見慣れない土地に、不安の波は私の心に激しく打ち寄せた。
「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」
静けさが充満した車内に父の声が響いた。片腕をなくした私は、当然のことながら一般的な高校入試を受けることが出来なかった。そこで父は、口頭試問方式での試験を実施しているネモフィラ女学院への受験を薦めた。
ネモフィラ女学院。聞いたことの無い名前であったが、創立65年のなかなか歴史のあるミッションスクールであるらしい。海沿いの片田舎にぽっかりと空いていた広大な敷地を利用し作られたそれは、学校というよりは良家の娘、いわばお嬢様方の花園と形容した方が近しいだろう。
海沿いに建てられていることもあってか、この学院にはどこか現実味がなく、絵に描いたような世界が広がっている。そんな世界に私は今日、足を踏み入れることになるのだ。
こんなただの一少女である私が? 本当に? どこか間違いであってほしかった。これが夢ならば一刻も早く覚めてほしいとまで願った。先刻の父の言葉が頭によぎる。
新しい生活に不安を隠しきれない私に対しての気遣いの言葉なのだろうが、かえって私の心を迷わせる。帰れるのなら、今すぐにでも帰りたい。受け入れてくれる場所がある。
「だめ、少しでもいい、どんな小さくても、まずは前に進まなきゃ……」
感情を表に出すのが苦手で、内気で、無口な私だけど、これ以上後ろ向きな選択はしたくなかった。
「それに、これからは1人じゃない。そのためにお父さんもこんな遠いところまで連れてきたのじゃない」
「……僕がこんな仕事早く辞めて、ずっと礼の傍にいてあげられたらよかったのに」
「こんな、なんて言わないで。私なら大丈夫。そのためのファミリア制度じゃない」
全寮制であるこの学院では、他の学校にはない特殊な制度を導入していた。
ファミリア制度。
私くらいの歳の子の多くは、多感な時期であり、学生生活や日々の生活の中での悩みを1人で抱え込んでしまう人が多い。そんなときに傍に寄り添い、ともに助け合える友人を“学校側が作ってくれる”制度。
隻腕である娘が、他の人となんら変わりのない生活を送れるよう、傍で寄り添ってくれる友人がいてほしいという父の願いが、この学院への受験を勧めたもう1つの理由だとか。友達作りが苦手な私にとっては、生活の助けになるというよりも、友人を“作ってくれる”ことに対して期待を感じていた。
期待と不安を織り交ぜた私の心をよそに、空は雲1つなくどこまでも青く広がっていた。
「岬が見えてきた、そろそろ着くよ」
父の運転に身を委ねていると、学院の目印でもある岬が見えてきた。そこには学院のモチーフなのか、結婚式場などで見る小さな鐘楼と、白塗りで西洋風の申し訳程度な東屋のようなものが併設されていた。
「お父さん。ここからは歩いて行ってもいい? 少し風にあたりたいの」
「……父親としては、少しでも長く娘と一緒に居たかったけどね」
「夏休みはちゃんと帰ってくるから。そのときにはちゃんと家にいてよね。今度はどこ?」
「大阪」
「お土産、楽しみにしてるね。それじゃあ……」
「礼」
扉に手を掛け、絵に描いたような世界にいよいよ足を踏み入れようとした時、先ほどとは調子の違った父の声を聞いた。
「なに?」
「いってらっしゃい」
「……うん。いってきます」
ルームミラー越しに見た父は、どこか寂しそうに笑っていた。
「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」
人類史上初の月面着陸を成功させたアームストロング船長の言葉が頭によぎる。彼のような人類単位の壮大な意味ではないが、私にとってこの一歩は、今までに私が踏み込んできたどんな一歩よりも大きいものだった。
(だれか……居る?)
岬に建てられた簡素な東屋に一人、静かに佇む女性の姿があった。
白い肌にほんのりと赤みがかったその様はまるで桜のようで。少しウェーブのかかった長い黒髪は、陽光にさらされ艶やかに光る。まるで妖精のような美しさだったが、海沿いということも相まって
「妖精みたい」
「えっ?」
思わず口に出てしまった言葉は、どこか遠くを見ていた彼女を引き付けた。
「ご、ごめんなさい! そ、その」
(つい口に出ちゃってなんて、とてもじゃないけど言えないわ!)
「君は……知らないな」
あの人の視線は次第に顔から滑り落ち、やがて私の本来“あるべきもの”のある空間に吸い込まれた。
ああ、またか。見られることには慣れてきたと自負していたけど、相手が相手なだけあり、思わずその場から逃げだしそうになる。頬が紅潮しているのが自分でもわかる。
「そう、君も」
彼女は私から視線を外したと思えば、そばに置いていた鞄を手に取り、立ち上がる。
「ご、ごめんなさい! それでは……」
その場から逃げ出そうと背を向けた瞬間、私の左腕は無機質のように白い彼女の腕に引かれ、まるで磁石のように彼女の方へと引き寄せられた。肌と肌とが触れ合い、制服越しにでもわかるほどの膨らみが私を受け止める。潮風は彼女の長い髪を揺らし、鼻腔にはかすかなレモンの芳香を届ける。あまりに突然のことで私は硬直し、その場を動けなくなってしまった。
「君はひとりじゃない。私だって……」
短くも重いその言葉は、氷のように固まってしまっていた肢体をゆるやかに融かしてく。
どうしてこの人が私にそんな言葉をかけたのはわからない。今はそんなことがどうでもよくなるくらい、心が安らいでいる。
「え、えっと、私だって……?」
「あぁ、いや、なんでもない。それよりも早く行ったほうが良い。君、新入生だろう? 初日から遅刻はオススメしないな」
「私のことは、また会えたら教えるよ。じゃあね」
先ほどまで私の目の前にあった温もりは、その熱を帯びながら学び舎へと足を進めていた。
学び舎から聞こえる大きな鐘の音を聞き、私も急いで岬を後にした。
「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」
静けさが充満した車内に父の声が響いた。片腕をなくした私は、当然のことながら一般的な高校入試を受けることが出来なかった。そこで父は、口頭試問方式での試験を実施しているネモフィラ女学院への受験を薦めた。
ネモフィラ女学院。聞いたことの無い名前であったが、創立65年のなかなか歴史のあるミッションスクールであるらしい。海沿いの片田舎にぽっかりと空いていた広大な敷地を利用し作られたそれは、学校というよりは良家の娘、いわばお嬢様方の花園と形容した方が近しいだろう。
海沿いに建てられていることもあってか、この学院にはどこか現実味がなく、絵に描いたような世界が広がっている。そんな世界に私は今日、足を踏み入れることになるのだ。
こんなただの一少女である私が? 本当に? どこか間違いであってほしかった。これが夢ならば一刻も早く覚めてほしいとまで願った。先刻の父の言葉が頭によぎる。
新しい生活に不安を隠しきれない私に対しての気遣いの言葉なのだろうが、かえって私の心を迷わせる。帰れるのなら、今すぐにでも帰りたい。受け入れてくれる場所がある。
「だめ、少しでもいい、どんな小さくても、まずは前に進まなきゃ……」
感情を表に出すのが苦手で、内気で、無口な私だけど、これ以上後ろ向きな選択はしたくなかった。
「それに、これからは1人じゃない。そのためにお父さんもこんな遠いところまで連れてきたのじゃない」
「……僕がこんな仕事早く辞めて、ずっと礼の傍にいてあげられたらよかったのに」
「こんな、なんて言わないで。私なら大丈夫。そのためのファミリア制度じゃない」
全寮制であるこの学院では、他の学校にはない特殊な制度を導入していた。
ファミリア制度。
私くらいの歳の子の多くは、多感な時期であり、学生生活や日々の生活の中での悩みを1人で抱え込んでしまう人が多い。そんなときに傍に寄り添い、ともに助け合える友人を“学校側が作ってくれる”制度。
隻腕である娘が、他の人となんら変わりのない生活を送れるよう、傍で寄り添ってくれる友人がいてほしいという父の願いが、この学院への受験を勧めたもう1つの理由だとか。友達作りが苦手な私にとっては、生活の助けになるというよりも、友人を“作ってくれる”ことに対して期待を感じていた。
期待と不安を織り交ぜた私の心をよそに、空は雲1つなくどこまでも青く広がっていた。
「岬が見えてきた、そろそろ着くよ」
父の運転に身を委ねていると、学院の目印でもある岬が見えてきた。そこには学院のモチーフなのか、結婚式場などで見る小さな鐘楼と、白塗りで西洋風の申し訳程度な東屋のようなものが併設されていた。
「お父さん。ここからは歩いて行ってもいい? 少し風にあたりたいの」
「……父親としては、少しでも長く娘と一緒に居たかったけどね」
「夏休みはちゃんと帰ってくるから。そのときにはちゃんと家にいてよね。今度はどこ?」
「大阪」
「お土産、楽しみにしてるね。それじゃあ……」
「礼」
扉に手を掛け、絵に描いたような世界にいよいよ足を踏み入れようとした時、先ほどとは調子の違った父の声を聞いた。
「なに?」
「いってらっしゃい」
「……うん。いってきます」
ルームミラー越しに見た父は、どこか寂しそうに笑っていた。
「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」
人類史上初の月面着陸を成功させたアームストロング船長の言葉が頭によぎる。彼のような人類単位の壮大な意味ではないが、私にとってこの一歩は、今までに私が踏み込んできたどんな一歩よりも大きいものだった。
(だれか……居る?)
岬に建てられた簡素な東屋に一人、静かに佇む女性の姿があった。
白い肌にほんのりと赤みがかったその様はまるで桜のようで。少しウェーブのかかった長い黒髪は、陽光にさらされ艶やかに光る。まるで妖精のような美しさだったが、海沿いということも相まって
「妖精みたい」
「えっ?」
思わず口に出てしまった言葉は、どこか遠くを見ていた彼女を引き付けた。
「ご、ごめんなさい! そ、その」
(つい口に出ちゃってなんて、とてもじゃないけど言えないわ!)
「君は……知らないな」
あの人の視線は次第に顔から滑り落ち、やがて私の本来“あるべきもの”のある空間に吸い込まれた。
ああ、またか。見られることには慣れてきたと自負していたけど、相手が相手なだけあり、思わずその場から逃げだしそうになる。頬が紅潮しているのが自分でもわかる。
「そう、君も」
彼女は私から視線を外したと思えば、そばに置いていた鞄を手に取り、立ち上がる。
「ご、ごめんなさい! それでは……」
その場から逃げ出そうと背を向けた瞬間、私の左腕は無機質のように白い彼女の腕に引かれ、まるで磁石のように彼女の方へと引き寄せられた。肌と肌とが触れ合い、制服越しにでもわかるほどの膨らみが私を受け止める。潮風は彼女の長い髪を揺らし、鼻腔にはかすかなレモンの芳香を届ける。あまりに突然のことで私は硬直し、その場を動けなくなってしまった。
「君はひとりじゃない。私だって……」
短くも重いその言葉は、氷のように固まってしまっていた肢体をゆるやかに融かしてく。
どうしてこの人が私にそんな言葉をかけたのはわからない。今はそんなことがどうでもよくなるくらい、心が安らいでいる。
「え、えっと、私だって……?」
「あぁ、いや、なんでもない。それよりも早く行ったほうが良い。君、新入生だろう? 初日から遅刻はオススメしないな」
「私のことは、また会えたら教えるよ。じゃあね」
先ほどまで私の目の前にあった温もりは、その熱を帯びながら学び舎へと足を進めていた。
学び舎から聞こえる大きな鐘の音を聞き、私も急いで岬を後にした。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【純愛百合】檸檬色に染まる泉【純愛GL】
里見 亮和
キャラ文芸
”世界で一番美しいと思ってしまった憧れの女性”
女子高生の私が、生まれてはじめて我を忘れて好きになったひと。
雑誌で見つけた、たった一枚の写真しか手掛かりがないその女性が……
手なんか届くはずがなかった憧れの女性が……
いま……私の目の前にいる。
奇跡みたいな出会いは、優しいだけじゃ終わらない。
近づくほど切なくて、触れるほど苦しくて、それでも離れられない。
憧れの先にある“本当の答え”に辿り着くまでの、静かな純愛GL。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
迷子を助けたら生徒会長の婚約者兼女の子のパパになったけど別れたはずの彼女もなぜか近づいてくる
九戸政景
恋愛
新年に初詣に来た父川冬矢は、迷子になっていた頼母木茉莉を助け、従姉妹の田母神真夏と知り合う。その後、真夏と再会した冬矢は真夏の婚約者兼茉莉の父親になってほしいと頼まれる。
※こちらは、カクヨムやエブリスタでも公開している作品です。
再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる
まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」
父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。
清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。
なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。
学校では誰もが憧れる高嶺の花。
家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。
しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。
「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」
秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。
彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。
「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」
これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。
完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。
『著者より』
もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。