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虚ろな影は少女と共に
9話 倉實礼は呑み込まれる
放課後。夕刻と呼ぶには早く、昼と呼ぶには遅すぎるこの時間に岬から見える春の海はどこか曖昧で、私から現実感を奪っていった。
この時期でも海沿いは風が強い。特にそう感じさせられたのは都会とは違い、ここは風が「視える」からなんだろう。ぼんやりとそう思った。風に揺らぐ波は隊列をなしているようにゆらゆらと、しかし確かにその足並みを揃えて行進を始める。私は波を通して風を「視た」。そう見えてしまったのだ。
見えないものを意図せずして視てしまうことは往々にあるだろう。それが実在しているかどうかなんてものはこの際どうでもよい。普段は寮で本を読んだりファミリアの先輩と談笑する私が、まだ薄ら寒い岬に来た理由は、見えるはずがないものを視てしまったクラスメイトの話を聞くためだった。
「幽霊事件」の概要を知るため。
立案者でもある東口さんが教室ではなくここを選んだのは、モニカ教諭の耳には入れたくないからということだった。もう知っていそうな気がするけれど……。
おそらく教師陣が動き出す前に、生徒達の領域にとどめたまま沈静化させたいというのが本心だろう。
岬のつま先に建てられた東屋(貴澄さん曰く、西洋ではガゼボと呼ぶらしい)から伸びる2つの影は、私を見つけると小さく揺れた。
「ごめんなさい。モニカ先生にちょっと頼まれごとがあって……」
「こちらもついさっき着いたところだよ。本題に入る前にまずは一杯、倉實さんもどうだい?」
誘われるまま丸ベンチに腰を掛けると、中央のテーブルに置かれたガラスのティーポットでは茶葉が舞踏会を開き、置かれた4つのカップからは赤く甘い、どこか官能的な香りが立ち込めていた。
「そういえば、今日の集まりは3人のはずだけど……紅茶が4人分あるっていうのは粋なはからいなのかい? 幽霊ご本人様もご招待していたとは、透子も考えたね」
呵々と笑いながらカップを口元に寄せる東口さんをよそに、ひとつだけ取り残されたカップは、飲み手が見つからないまま寂しく途方に暮れているようにも見えた。
「ちょっと、縁起でもないこと言わないで。って、今日はいつもの4人の集まりではないの?」
ピシャッと東口さんに鋭い視線を投げかけるも、ものの数秒でキョトンとした表情を見せる貴澄さん。コロコロと変わる表情は見ていてこちらを飽きさせることがない、私のお気に入り。彼女には悪いと思ってるけど。
「あの子はあくまでもここまで話が広まった理由が知りたかっただけだし、こういった話は苦手なんだ」
「お茶だけでも飲みに来てくれたら良かったのに…… 」
「どんなに美味しい紅茶であっても、幽霊事件という付け合わせがあるならきっと来ないだろう。そんなに気を落とすようなことじゃない。また誘ってあげればいいさ」
――さて、そろそろ本題に入ろうか。
ティーパーティ開催の合図だった。
「さて、今日日クラス中で話題になっている幽霊事件だが、あれは正確に言うとこの学院で起きた事件ではないんだ」
「どういうこと? まさか夜中に無断外出でもしていたというの? 」
「いや、そういうことでもないんだ。まじめな彼女はそんなことは決してしなかっただろうね。事件が起こったのは学院じゃなくて、学生寮だったんだ」
勝手に学院内で起こった事件だと決めつけていたけれど、そもそもの前提が違ったようだった。
この学院と寮は目と鼻の先にあるほどの近さではあるけれど、行き来するためには1度校門を経由し、学院の外に出る必要がある。たしかに、わざわざ夜の学院に侵入するようなことはこの学院の生徒に限ってはないだろう。
「寮でそんなことがあったなんて...... 私も貴澄さんも全く気づかなかったわ」
「特別なにかおかしなことがあった。ということはなかったわね…… 強いて言えば、夜中にお手洗いに行く時、閉め忘れただったのか廊下の窓が開いていたくらいかしら」
鍵の閉め忘れくらいはよくありそうなことだし、取り立てて挙げるようなものでもなかったかもしれない。
「君たちが気付かないのもおかしくはないさ。この事件は君らとは反対側、私や日和側の方で起きた事件だからね」
私達側ではなく、東口さんや多蔦さん側で起こったこと。私達が気づかなくてもおかしくはない。つまり
「私と貴澄さんとは反対側、ということは事件が起こったのは寮の'西側'......?」
小さく頷く東口さんの様子を見ると、どうやら正解だったようだ。
この学生寮は少し特殊な作りになっている。1階には14の部屋があり、東西にそれぞれ7部屋ずつ配置されている。
東側は寮長室と、101号室から私と貴澄さんの住む106号室まで。私たちとは反対、ということは東口さんと多蔦さんの部屋は西側なんだろう。
「ねぇ東口さん。怪我をしたのはその子だけなの? 西側は107号室から113号室まであるのだもの、他に被害に遭って悩んでいる人もいないとは考えられないわ…… 」
いつにもなく心配そうな表情を浮かべている貴澄さんは、その外見の幼さとも相まってどことなく危うげに見えた。多分、彼女は身の周りの人が傷つくことにも、まるで自分が受けたことに様に心を傷めているのだろう。だって彼女は、貴澄さんは優しいから。
触れてしまえば壊れてしまいそうな脆く彼女の表情は見るに耐えられず、ついつい目の前の紅茶に目を落としてしまう。
「今のところ、ほかに被害者がいるという情報は私の耳には入ってないよ、これからも増えることはないだろうさ」
これからも増えることはない。いくら貴澄さんを安心させるためとはいえ、そんな無責任に言い切って良いのだろうか……
身体から毒が抜けきったかのような彼女の表情を見るに、かえってこれくらい強い薬の方が良かったのかもしれない。
「そういえばもしかして君たち、私らの‘西側‘に来たことがないんじゃないのかい? 」
西側と東側は、エントランスホールから東西に伸びる長い廊下によって接続されている。双方ともかなり距離が離れている為、基本的に東側の人間が西側に行くということはない。逆も然り。
でもなぜ今そんな話を東口さんはしたのだろう。たしかに西側には行ったことがない。行く用事もないし。
いや、それよりも――
「なぜわかったか。だろう? 簡単だよ」
口元にまで寄せていたカップをテーブルに置き、一呼吸おいてから彼女は口を開いた。
「存在しないんだ。西側に113号室なんて部屋は」
彼女は口角を少しばかり吊り上げながら、ここからが面白いところだと言わんばかりの調子で続ける。
「私もね、年中施錠されているしプレートもついていないものだったから、空き部屋か物置とばかり思っていたんだ。まあそんなことはどうでもよかったんだ。この事件が起こるまでは」
西側にそんなおあつらえむきな部屋があるとは知らなかった。なんの部屋かだなんて、誰も知らない。硬く閉ざされた開かずの間。それにここは宗教学校だ。雰囲気だけで言えば最高の舞台が出来上がっている。
「時刻は先週の金曜日、消灯時間を過ぎたころだったかな。112号室の彼女はどうにも眠れなくて、エントランスにあるお手洗いに向かったらしいんだ。窓もカーテンも閉め切られていたから視界はかなり悪かったけど、歩けないくらい暗かったわけではないらしい。
その帰り道、部屋に向かう途中に妙なことに気付いたらしい。普段は鍵のかかっているあの部屋の扉が、今日は少しだけ開いていることに気付いたんだ。話を聞いた時、真っ暗なはずなのになぜわかったのかって不思議に思ったよ。なにかおぼしめしのようなものだったのだろう。
普段閉まっている部屋の扉がたまたま開いていたら、ついつい覗きたくなってしまうのは仕方がないわけで、当然彼女も覗こうとしたらしい。
だが、肝心の部屋の中は見えなかったらしいんだ。いや、覗こうとした瞬間に何か足元を引っ張られた感覚がして、そのまま体勢を崩して床に頭を打ってしまった。彼女が今日病院に行ったのはこの時にできた傷というのが口実だったね。
そして起き上がろうとした時、足元に何か引っかかっていることに気付いたんだ。見てみると、ずたずたに大きく引き裂かれた血まみれの制服が扉の間に挟まっていたんだって。
深夜にそんなものを見せられたら堪ったものじゃない。しかも追い打ちをかけるようにして彼女、耳元に息を吹きかけられたんだとさ。振り返らなくても後ろに誰かが居るとわかったらしい。影がゆらゆら揺れていたのが床に映ったのが見えたからね。
しばらくは全身が凍ったように動けなかったそうだよ。ある程度体が言うことを聞くになって振り向いてみると……誰も居なかったらしいんだ。
きっと、あの部屋を知ろうとしたからあんな目に遭ったんだって、一目散に部屋に帰ったきり、部屋に閉じこもっているんだとさ。
それからだ、ファミリアの異変に気付いた同室の子に話が伝わって、そこからクラス中に広まった。しかもあの部屋、112号室の隣だろう? もしもあの部屋に番号がつけられるのであれば、113号室。13だ。キリスト教だとこの数字の意味は忌み数として忌避されているくらいは知っているね? だからあそこには号室が割り振られておらず、悪しきものと一緒に学院側が鍵をかけている。ということになっているらしい。あくまでも噂だし、どこまでが嘘か本当かなんてものも神のみぞ知る。という次第だ」
ご清聴どうも、と言うと彼女は空いた席に置かれた冷めた紅茶を一口で飲み干し、ガゼボを後にした。
沈みゆく夕日の中、残された私たちの胸に残ったものは、紅茶の暖かさとえもいわれぬ悪寒だけだった。
入浴をしているときも、夕食を食べているときも、私の心はどこか宙に浮かんでいるようだった。部屋に戻った今でも、どこか地に足突かないような感覚が私の心を支配した。
情報の波に飲み込まれ、なにもかもが曖昧だった。
この事件を自分がどこからどこまで理解できているのか、どこまでが真実なのか、そもそも、なんでこんなに首を突っ込むような真似をしているのか…… 謎を解き明かすのが楽しいから?
そんなことない、怪我人が出ているというのにそんなこと…… あってはいけない。すこしでもそういう思考をしてしまう自分が少し嫌いになった。
それでも実際、真実を探求して、事件を解決して、その先に何がある? 目の前に漫然と広がる虚無感に、思わず机に広げたノートから目を逸らすようにして明後日の方向を見つめた。
「さっきからなにか考え事をしているように見えるけど…… 何か悩み事でもあるの? まだ1年生なのだから、なんでも気軽に相談してくれていいのよ? あ、別に2年生になっても相談してくれてもいいの。これは言葉の綾みたいなもので…… 」
「あ、あはは…… ちょっと今日の聖書の授業内容がなかなかに難しかったので、それで疲れてしまっていたんですよ。お気遣いありがとうございます」
渚先輩の不器用な気遣いが今はうれしくも、心苦しかった。こんな話で先輩方にいらぬ心配をかけるわけにはいかないし、私がこの事件の発信源の1つとなることがどこか嫌だった。
「あら、確かに聖書の授業は躓きやすいとよくいうものね。世界観とか考え方とか、普通に暮らしていて身につくものでもないし…… 私や満も当時は苦労した覚えがあるわ」
「翡翠。もう昔話をするような歳になったのかい?」
「あなたと同い年ですけど」
睨む、まではいかないけれど鋭い視線を向ける彼女をよそに、潮凪先輩は彼女の唇にそっと人差し指を置きながら
「親睦を深めるのは結構。だが、貴澄さんを起こしてしまわないくらいのボリュームで頼むよ」
振り返ると、貴澄さんはいつの間にか布団をかぶり眠りについていた。
彼女が何も言わずに寝るだなんてことは今まで1回もなかったし、相当疲れていたんだろう。クラスメイトの心配をしていた分、私より彼女の方が疲れていたのかもしれない。
「2人ともあんな様子だなんて、今日いったいどんな授業内容だったのかしら…… 」
ごめんなさい。今日は聖書の授業なんてありませんでした。顎に手を当てて考える先輩の知的な姿に、思わず申し訳ない気持ちになる。こんなことに先輩の思考を消費してしまうことは、まさに無駄遣いと言えるだろう。
「起こしてしまうのも悪いですし、私も今日は寝ることにします」
「それがいい。ではおやすみ。また明日」
潮凪先輩が部屋の電気を消すと、あたりは暗闇と静寂に包まれた。
ベッドに潜り込むと、溜まっていた疲れが雪崩のように襲い掛かってきた。私の思っているより、私自身は疲労困憊しているのかもしれない。
おやすみなさい――
目を閉じると徐々に体から力が抜け、他の感覚も後を追うようにしてどんどん曖昧になり、夢の世界行きのバスに乗る。
バタン。と、妙に現実味を帯びたドアの閉まる音を聞くと、そのままバスは音もなく出発した。
ん? バタン?
違和感をそこに置き去りにして、私は夢の世界へとその身を委ねて身を沈めた。
この時期でも海沿いは風が強い。特にそう感じさせられたのは都会とは違い、ここは風が「視える」からなんだろう。ぼんやりとそう思った。風に揺らぐ波は隊列をなしているようにゆらゆらと、しかし確かにその足並みを揃えて行進を始める。私は波を通して風を「視た」。そう見えてしまったのだ。
見えないものを意図せずして視てしまうことは往々にあるだろう。それが実在しているかどうかなんてものはこの際どうでもよい。普段は寮で本を読んだりファミリアの先輩と談笑する私が、まだ薄ら寒い岬に来た理由は、見えるはずがないものを視てしまったクラスメイトの話を聞くためだった。
「幽霊事件」の概要を知るため。
立案者でもある東口さんが教室ではなくここを選んだのは、モニカ教諭の耳には入れたくないからということだった。もう知っていそうな気がするけれど……。
おそらく教師陣が動き出す前に、生徒達の領域にとどめたまま沈静化させたいというのが本心だろう。
岬のつま先に建てられた東屋(貴澄さん曰く、西洋ではガゼボと呼ぶらしい)から伸びる2つの影は、私を見つけると小さく揺れた。
「ごめんなさい。モニカ先生にちょっと頼まれごとがあって……」
「こちらもついさっき着いたところだよ。本題に入る前にまずは一杯、倉實さんもどうだい?」
誘われるまま丸ベンチに腰を掛けると、中央のテーブルに置かれたガラスのティーポットでは茶葉が舞踏会を開き、置かれた4つのカップからは赤く甘い、どこか官能的な香りが立ち込めていた。
「そういえば、今日の集まりは3人のはずだけど……紅茶が4人分あるっていうのは粋なはからいなのかい? 幽霊ご本人様もご招待していたとは、透子も考えたね」
呵々と笑いながらカップを口元に寄せる東口さんをよそに、ひとつだけ取り残されたカップは、飲み手が見つからないまま寂しく途方に暮れているようにも見えた。
「ちょっと、縁起でもないこと言わないで。って、今日はいつもの4人の集まりではないの?」
ピシャッと東口さんに鋭い視線を投げかけるも、ものの数秒でキョトンとした表情を見せる貴澄さん。コロコロと変わる表情は見ていてこちらを飽きさせることがない、私のお気に入り。彼女には悪いと思ってるけど。
「あの子はあくまでもここまで話が広まった理由が知りたかっただけだし、こういった話は苦手なんだ」
「お茶だけでも飲みに来てくれたら良かったのに…… 」
「どんなに美味しい紅茶であっても、幽霊事件という付け合わせがあるならきっと来ないだろう。そんなに気を落とすようなことじゃない。また誘ってあげればいいさ」
――さて、そろそろ本題に入ろうか。
ティーパーティ開催の合図だった。
「さて、今日日クラス中で話題になっている幽霊事件だが、あれは正確に言うとこの学院で起きた事件ではないんだ」
「どういうこと? まさか夜中に無断外出でもしていたというの? 」
「いや、そういうことでもないんだ。まじめな彼女はそんなことは決してしなかっただろうね。事件が起こったのは学院じゃなくて、学生寮だったんだ」
勝手に学院内で起こった事件だと決めつけていたけれど、そもそもの前提が違ったようだった。
この学院と寮は目と鼻の先にあるほどの近さではあるけれど、行き来するためには1度校門を経由し、学院の外に出る必要がある。たしかに、わざわざ夜の学院に侵入するようなことはこの学院の生徒に限ってはないだろう。
「寮でそんなことがあったなんて...... 私も貴澄さんも全く気づかなかったわ」
「特別なにかおかしなことがあった。ということはなかったわね…… 強いて言えば、夜中にお手洗いに行く時、閉め忘れただったのか廊下の窓が開いていたくらいかしら」
鍵の閉め忘れくらいはよくありそうなことだし、取り立てて挙げるようなものでもなかったかもしれない。
「君たちが気付かないのもおかしくはないさ。この事件は君らとは反対側、私や日和側の方で起きた事件だからね」
私達側ではなく、東口さんや多蔦さん側で起こったこと。私達が気づかなくてもおかしくはない。つまり
「私と貴澄さんとは反対側、ということは事件が起こったのは寮の'西側'......?」
小さく頷く東口さんの様子を見ると、どうやら正解だったようだ。
この学生寮は少し特殊な作りになっている。1階には14の部屋があり、東西にそれぞれ7部屋ずつ配置されている。
東側は寮長室と、101号室から私と貴澄さんの住む106号室まで。私たちとは反対、ということは東口さんと多蔦さんの部屋は西側なんだろう。
「ねぇ東口さん。怪我をしたのはその子だけなの? 西側は107号室から113号室まであるのだもの、他に被害に遭って悩んでいる人もいないとは考えられないわ…… 」
いつにもなく心配そうな表情を浮かべている貴澄さんは、その外見の幼さとも相まってどことなく危うげに見えた。多分、彼女は身の周りの人が傷つくことにも、まるで自分が受けたことに様に心を傷めているのだろう。だって彼女は、貴澄さんは優しいから。
触れてしまえば壊れてしまいそうな脆く彼女の表情は見るに耐えられず、ついつい目の前の紅茶に目を落としてしまう。
「今のところ、ほかに被害者がいるという情報は私の耳には入ってないよ、これからも増えることはないだろうさ」
これからも増えることはない。いくら貴澄さんを安心させるためとはいえ、そんな無責任に言い切って良いのだろうか……
身体から毒が抜けきったかのような彼女の表情を見るに、かえってこれくらい強い薬の方が良かったのかもしれない。
「そういえばもしかして君たち、私らの‘西側‘に来たことがないんじゃないのかい? 」
西側と東側は、エントランスホールから東西に伸びる長い廊下によって接続されている。双方ともかなり距離が離れている為、基本的に東側の人間が西側に行くということはない。逆も然り。
でもなぜ今そんな話を東口さんはしたのだろう。たしかに西側には行ったことがない。行く用事もないし。
いや、それよりも――
「なぜわかったか。だろう? 簡単だよ」
口元にまで寄せていたカップをテーブルに置き、一呼吸おいてから彼女は口を開いた。
「存在しないんだ。西側に113号室なんて部屋は」
彼女は口角を少しばかり吊り上げながら、ここからが面白いところだと言わんばかりの調子で続ける。
「私もね、年中施錠されているしプレートもついていないものだったから、空き部屋か物置とばかり思っていたんだ。まあそんなことはどうでもよかったんだ。この事件が起こるまでは」
西側にそんなおあつらえむきな部屋があるとは知らなかった。なんの部屋かだなんて、誰も知らない。硬く閉ざされた開かずの間。それにここは宗教学校だ。雰囲気だけで言えば最高の舞台が出来上がっている。
「時刻は先週の金曜日、消灯時間を過ぎたころだったかな。112号室の彼女はどうにも眠れなくて、エントランスにあるお手洗いに向かったらしいんだ。窓もカーテンも閉め切られていたから視界はかなり悪かったけど、歩けないくらい暗かったわけではないらしい。
その帰り道、部屋に向かう途中に妙なことに気付いたらしい。普段は鍵のかかっているあの部屋の扉が、今日は少しだけ開いていることに気付いたんだ。話を聞いた時、真っ暗なはずなのになぜわかったのかって不思議に思ったよ。なにかおぼしめしのようなものだったのだろう。
普段閉まっている部屋の扉がたまたま開いていたら、ついつい覗きたくなってしまうのは仕方がないわけで、当然彼女も覗こうとしたらしい。
だが、肝心の部屋の中は見えなかったらしいんだ。いや、覗こうとした瞬間に何か足元を引っ張られた感覚がして、そのまま体勢を崩して床に頭を打ってしまった。彼女が今日病院に行ったのはこの時にできた傷というのが口実だったね。
そして起き上がろうとした時、足元に何か引っかかっていることに気付いたんだ。見てみると、ずたずたに大きく引き裂かれた血まみれの制服が扉の間に挟まっていたんだって。
深夜にそんなものを見せられたら堪ったものじゃない。しかも追い打ちをかけるようにして彼女、耳元に息を吹きかけられたんだとさ。振り返らなくても後ろに誰かが居るとわかったらしい。影がゆらゆら揺れていたのが床に映ったのが見えたからね。
しばらくは全身が凍ったように動けなかったそうだよ。ある程度体が言うことを聞くになって振り向いてみると……誰も居なかったらしいんだ。
きっと、あの部屋を知ろうとしたからあんな目に遭ったんだって、一目散に部屋に帰ったきり、部屋に閉じこもっているんだとさ。
それからだ、ファミリアの異変に気付いた同室の子に話が伝わって、そこからクラス中に広まった。しかもあの部屋、112号室の隣だろう? もしもあの部屋に番号がつけられるのであれば、113号室。13だ。キリスト教だとこの数字の意味は忌み数として忌避されているくらいは知っているね? だからあそこには号室が割り振られておらず、悪しきものと一緒に学院側が鍵をかけている。ということになっているらしい。あくまでも噂だし、どこまでが嘘か本当かなんてものも神のみぞ知る。という次第だ」
ご清聴どうも、と言うと彼女は空いた席に置かれた冷めた紅茶を一口で飲み干し、ガゼボを後にした。
沈みゆく夕日の中、残された私たちの胸に残ったものは、紅茶の暖かさとえもいわれぬ悪寒だけだった。
入浴をしているときも、夕食を食べているときも、私の心はどこか宙に浮かんでいるようだった。部屋に戻った今でも、どこか地に足突かないような感覚が私の心を支配した。
情報の波に飲み込まれ、なにもかもが曖昧だった。
この事件を自分がどこからどこまで理解できているのか、どこまでが真実なのか、そもそも、なんでこんなに首を突っ込むような真似をしているのか…… 謎を解き明かすのが楽しいから?
そんなことない、怪我人が出ているというのにそんなこと…… あってはいけない。すこしでもそういう思考をしてしまう自分が少し嫌いになった。
それでも実際、真実を探求して、事件を解決して、その先に何がある? 目の前に漫然と広がる虚無感に、思わず机に広げたノートから目を逸らすようにして明後日の方向を見つめた。
「さっきからなにか考え事をしているように見えるけど…… 何か悩み事でもあるの? まだ1年生なのだから、なんでも気軽に相談してくれていいのよ? あ、別に2年生になっても相談してくれてもいいの。これは言葉の綾みたいなもので…… 」
「あ、あはは…… ちょっと今日の聖書の授業内容がなかなかに難しかったので、それで疲れてしまっていたんですよ。お気遣いありがとうございます」
渚先輩の不器用な気遣いが今はうれしくも、心苦しかった。こんな話で先輩方にいらぬ心配をかけるわけにはいかないし、私がこの事件の発信源の1つとなることがどこか嫌だった。
「あら、確かに聖書の授業は躓きやすいとよくいうものね。世界観とか考え方とか、普通に暮らしていて身につくものでもないし…… 私や満も当時は苦労した覚えがあるわ」
「翡翠。もう昔話をするような歳になったのかい?」
「あなたと同い年ですけど」
睨む、まではいかないけれど鋭い視線を向ける彼女をよそに、潮凪先輩は彼女の唇にそっと人差し指を置きながら
「親睦を深めるのは結構。だが、貴澄さんを起こしてしまわないくらいのボリュームで頼むよ」
振り返ると、貴澄さんはいつの間にか布団をかぶり眠りについていた。
彼女が何も言わずに寝るだなんてことは今まで1回もなかったし、相当疲れていたんだろう。クラスメイトの心配をしていた分、私より彼女の方が疲れていたのかもしれない。
「2人ともあんな様子だなんて、今日いったいどんな授業内容だったのかしら…… 」
ごめんなさい。今日は聖書の授業なんてありませんでした。顎に手を当てて考える先輩の知的な姿に、思わず申し訳ない気持ちになる。こんなことに先輩の思考を消費してしまうことは、まさに無駄遣いと言えるだろう。
「起こしてしまうのも悪いですし、私も今日は寝ることにします」
「それがいい。ではおやすみ。また明日」
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ベッドに潜り込むと、溜まっていた疲れが雪崩のように襲い掛かってきた。私の思っているより、私自身は疲労困憊しているのかもしれない。
おやすみなさい――
目を閉じると徐々に体から力が抜け、他の感覚も後を追うようにしてどんどん曖昧になり、夢の世界行きのバスに乗る。
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