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夏篇 付かず離れずそれが良い、わたしたちは、そんな関係
25話 春愁秋思
「小白、今日はここでしようか」
珍しく純先輩から話かけられたのはみんなで夕食を終え、部屋に戻ろうとしている時だった。
「ここで……ですか?」
「もうちょっとゆっくりしていきたいし、そのついでにね」
ふたり分だけのコップに水を灌ぐその姿に、ふたりだけで話したいなにかがあるのだろうと察した。
「じゃあ、わたしと美咲ちゃんは先戻ってるね。いきましょう」
「あ、はい」
雑音と雑踏がふたりの気配を消し、私と先輩とふたりだけの空間が出来上がった。まるで台風の目みたいに、お互いが機会をうかがっているように、ただ水をすする音だけが私と先輩とを繋いでいた。
――今日はここでしようか。
多分相良先輩の建てた『日課』を、ここで消化するつもりなんだろう。
お互いに今日の出来事を淡々と話す。笑顔も笑い声も上がらない先輩との日課を『消化』と称したのは言い得て妙。
場所が変われば内容も変わると思っていたけれどただ場所が変わっただけで、先輩は本当にここでゆっくりしていたかっただけなのかもしれない。この人のことがよくわからない。
「小白は憂のこと、どう思ってる?」
視線を落としながら聞かれたその問いに私も顔を下げた。好き、と答えれば良いだけだろうけど、それが先輩の求めている答えではないだろう。
「……やさしい先輩、ですよね。先輩が居なかったら私はたぶん、今ここに居ません」
「隣に居ただけなのに?」
「隣に居てくれたからなんです。まともな返事すら返さなかった時だって、どんな時だって隣に居てくれたからなんです。あぁ、この人になら頼っても……良いんだろうなぁって」
そっか。可もなく不可もない回答だったのか、やはりいつものような反応をしてみせる先輩はどう答えて欲しかったんだろう。そもそも、この問に正解なんてあったのだろうか。
たいして喉は乾いてないけれど今日はよく水を飲む。続かない、途切れ途切れの会話の間にできた溝を埋めるように。
逆に先輩はどう思っているのだろう。なんとなく聞いて良いものかどうか迷っていたけれど、この空間と水でも埋められない溝がそうさせたのだろう。
「逆に先輩は、どう思ってるんですか。その、先輩、相良先輩のこと」
「別に、聞かれても面白い答えは出せないから」
「面白いかどうかは私が決めます」
いくらファミリアだからと言って踏み込みすぎただろうか。こんな生意気なことを言って、そこまでして聞きたかったことでは……あったのかもしれない。
「水、なくなったから注いでくる。小白も今日は、もうちょっと付き合って」
「あ、ありがとうございます」
あの反応は及第点、といったところだろうか。それともやはり先輩はここで話しておきたいことがあって、まだその本題にすら入っていないから、ということなのか。どちらにしろ『先輩』絡みの話であることは間違いないだろう。
大げさに深呼吸して、いったん思考をリセットしてみてもすぐにまだまだ続くであろうふたりの時間が私を覆う。
「はい」
「ありがとうございます」
なみなみに注がれた水を見、帰す気がないなと、ひとり思った。
「尊敬しているよ。自分は憂みたいにはなり、にはなれないなって知ってるし。けど最近は、心配」
確かに、おもしろいかどうかで言えばおもしろくないかもしれない。背後から顔をのぞかせている不穏が大きすぎるから、かもしれない。
「ふたつ、質問してもいいですか?」
ただ、あえて踏み込まなければずっとこのままだ。
答えを聞く前に唇を滑らせ、喉を震わせ、自分を奮わせる。
「どうして先輩みたいにはなりたくないんですか?」
本当に踏み込んでほしくないことであったらあんなわざとらしい言い方しないだろう。自分から話すようなことでもないから隙を見せる。
大事なことほど自分から切り出さない。
先輩に対しては知らないことのほうが多いけれど、これは私が知っている数少ない先輩の内面。
「何もかもを大切にしたがるからだよ。それがもちろん悪いことだとは思ってない、けど、けどそれで必要以上に憂は傷ついてる。大切にしなければ傷を負う必要も、ないのに」
「先輩は今も傷ついているんですか?それはわたっ――」
「今もじゃないし、小白は関係ない。憂からはな……さないよな。一年生のころは憂、笑ってる時よりも泣いてる時のほうが多かったの」
耳を疑ったけれどそれより、彼女を疑った。笑顔という言葉を体現しているような先輩が泣く、それも笑っている時よりも多かったなんて、とてもじゃないが信じられない。純先輩だけでなく、知った気でいた『先輩』のことも実は、これっぽっちも知らなかった。
私でも明後日でもなく、昨日を見つめているような表情に目を奪われ、なにも言えずただただ続くであろう言葉を待ち続ける。
「迷い込んだ鳥を飼ってたことがあったんだ去年の春頃かな、ぼろぼろに傷ついて飛べもしなかったくらいのが。飛ばせてやりたいとお世話してた一羽が死んだとき、初めて憂の泣いた顔を見た。夏、帰省から帰ってくる時のバスでお気に入りの髪留めをなくして泣いた。本人は泣いてないって言ってたけど、目元が赤くなってた。流石にその時はみんな笑ってた」
それほど可笑しかったのか、堪え切れない先輩は頬を緩めて笑む。久しぶりに見た先輩の笑顔がこんな話題の中でだと、うれしいという感情は1ミリも湧いてこない。
「そして冬、大好きな先輩が、ファミリアが進級して部屋を去って、泣いた。あの時は酷かった。ちょうど春の小白みたいな……っと、ごめん」
「いえ、もう大丈夫ですから」
私の中に入ってくる混沌としたソレを押し込めて顔だけ笑って見せる。
「別れが辛いんでしょうね、先輩にとって」
「だから余計に大切にして、離れまいと包み込んで、それでも別れが来て、余計に傷ついて。繰り返して」
負の連鎖、と言いたそうにしているのが表情でわかる。たぶん今、私は先輩と同じ顔をしていると思う。
先輩のなりたくない理由を知ると同時に、先輩が先輩を心配している理由も知れた気がする。この繰り返しは永遠には続かない。先輩が傷に、痛みに耐えられなかった時、それは唐突に終わる。
内在する混沌の中に憤りにもよく似た感情が鈍く光っているのを見た。
傷つく必要なんてないのに、そういう人ほど深い傷があって、痛みは忘れてもソレは決して消えることなく在り続ける。ものであっても動物であっても、勝手に離れていくそれらに一抹の怒りがこみ上げた。なんて自分勝手な怒り、なんて思いつつも、その別れがなかったら涙なんて流す必要もなかったのに。
「そんな憂をずっと隣で見てきたから、ああはなりたくないって思ってる。……私ならずっと一緒に居てあげられるのに」
突き放すような言葉の中には浴場で聞いた『嫉妬』があったような気がする。
相良先輩が涙するたびに、向けられない感情が大きくなる度にそれもまた大きくなることに先輩はたぶん、気づいてないだろう。
「先輩のこと、好きなんですね」
「それはライク?ラブ?」
「そう聞いている時点でそういうことですよね」
「好きにして」
ばつの悪そうな顔をしている時点で口に出さずとも答えを言ってるようなもの。
あぁはなりたくないと言うけれどどうだか、ね。
「それで、ふたつ目は?」
「あぁっと……なんでしたっけ」
「忘れちゃったの?」
「そうみたいです」
まだ半分以上残っていた水を一気に飲み干して、立ち上がる。
「そろそろお先に失礼しますね」
「つまらない話だったから、眠くなってきた?」
「えぇ。それでも、今日はお話できてよかったです」
自分で返した言葉なのに、言葉を交わす度、自分は本当にこの先輩と仲良くなりたいのかどうか、疑わしくなる。
「あぁそうだ、最後に」
私を見ずに告げる。居ても居なくても良いといわんばかりに、それは私に向けての言葉でもあり、先輩自身にも向けての言葉でもありそうだと、思った。
「憂のやさしさに甘えすぎないで。それは小白のためじゃなく、憂のためだから」
忠告のようにも助言のようにも、表明のようにもとれたそれは多分、どれにも当てはまっているのだと思う。
しかし回りくどい先輩が最後にこうも直接言ってくるとは、うまい返しを見つけられなくて、軽く頭を下げて食堂を後にした。
扉を閉めると同時に、忘れたと言ったふたつ目の質問にも蓋をして、静けさだけが居座る長い廊下をただただ進んでいく。
――その心配の種は、私ですか?
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