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第5話 悪意なき悪人
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あれはもう先月のことだっただろうか。休日に潤井さんと出会ったあの日から、文字を書くことが多くなったような気がする。ノートに走るペン先の軌跡、そこから零れ落ちてかすかに散りばめられた黒い芯粉、ゴムのグリップ、ふとした時に映る水色のシャーペン。そのどれもが私の心に潤いを与えてくれるような気がしてならない。
いや、今は潤いをただただ求めていて、無理やり見出してしまっているのかもしれない。
季節は夏を越えて秋を迎えていた。夏服から冬服へ私たちが装いを変えたのと同じく、この教室もどこか様変わりしたような、涼風から肌を切るような木枯らしが吹いているように思えて仕方がない。
「潤井さんってアイスが好きなんだ~」
「そ、そうなの。この間もね、空木野さんと一緒に食べてきたの。あそこのラムネ味が好きなんだ」
「私も好き!あのパチパチ感が良いよねぇ。今度一緒に行かない?」
「う、うん。今からとっても楽しみ」
後ろの"雑音"を耳に入れまいとひたすらに、解き明かした問題集の問題をいちから解いては消して、解いては消して、授業が始まるまでの"暇"を"潰す"。
「今更、どういう風の吹き回しよ……」
いつも静かな真後ろには声がふたつ。潤井さんと田中さんの仲睦まじそうな光景なんて想像もできなかったのにどうして、今はありありと想像することができた。
あれだけ自衛を語っていた彼女がどうして今更あの子に声なんて掛けて――
いったい何のつもり?
潤井さんも潤井さんよ。いくらそれを知らないからと言ってそんな、簡単に笑顔なんて振りまいて……
……もしかして私、嫉妬しているというの?
ない、それは多分、いや絶対そんなことは、ない。
そもそも前提がおかしい。そもそも私が嫉妬する流れも意味も必要性も、そこにあるはずがない。
私は私のために動いてきた。それは今も変わらない。あの子への理不尽なアレが止まれば、笑顔を曇らすものがなくなればそれでゴール、私も満足するはずだ。
私がいなくても笑うことができるならもう良いじゃない。田中さんが代わってくれた。それだけのことじゃない。
けれどどうして、どうしてこれだけ胸が締め付けられるのだろう。喉が渇くのだろう。傷なんてないのに、痛いんだろう。
振り返ることすらできない。水でも飲めば渇きは癒されるだろうか。思考もクリアになるだろうか。始業間際でも関係ない。席を立ち教室を後にした。
水飲み場には誰も居なかった。人の温もりとは無縁なここがなぜだか教室より暖かい。
体育終わりでもないのにたっぷりと6秒は流れ続けるソレを飲み続けた。
仄かに鉄の味がする。
「美味しい?」
「……無味無臭。だったんだけどね」
ひとりになりたかったのに。いや、ふたりのいない空間に居たかったのに、ソレは私を掴んで離さない。
裾はまるでソレの重力に引っ張られているよう。彼女が世界の中心であるみたい。
「けど……?まぁいいや。それより空木野さんとお話したいことがあって」
「あらそうなの。ちょうど良かったわ」
――私もそんな、気分だったから。
見慣れているはずの中庭は新鮮で、いつもの喧騒が遠く聞こえるこの空間はどこか異質で、気味が悪かった。
生気を感じさせられない秋の息吹が袖で遊ぶ、突き刺さる冷気は不平等にも私に向けられているような気がしていた。
「ねぇ、いったいどういう風の吹き回しなの?」
立ち去りたいけど立ち去れない。2メートルにも及ばないベンチに私たちは、磔にされていた。
「吹き回しっていうのは、何に対して?」
理解しているのかしていないのか、風と一緒に髪で遊ぶ田中さんは掴めない。多分今手を伸ばしても掴みどころなんてなくて、空を切るだけなんだろう。
「何って……仲良いみたいね、潤井さんと最近」
「それが……おかしいっていうこと?」
「田中さんから動いたっていうのが、ね。いじめられるんじゃないの? あの子と居ると」
凪いだ、ような気がした。息吹も冷気も今だけはソコになくて、息をひそめるようにその指先も今は、動かない。
「そうかもしれないね。そっか、そのことだったんだ」
「あなたにいったいどんなメリットがあるというの?」
「いつもメリットデメリットって、それしか言えないの?」
「言えないんじゃないの、言わないだけ」
ふん、そんな吐息が横から漏れ出した。
「メリットというか……そうするしかないからなんだよ」
「どういうこと?」
答えは提示されたはずなのに、それがわからない。
言葉通りの意味は理解できる。けれど、納得はできない。
「私、言ったよね? あなたが心配だって」
「余計なお世話よ。そんなことされなくても私は――」
「ずっとずっとずっとずっと、心配だった。ねぇ空木野さん私ね」
「あなたのことが好きなの」
同じく私も、凪いだ。息が止まり、思考もままならない。
思考の武装がこれだけ脆いものだとは思ってもいなかった。
わからないわからない、それがどうして、わからない。
「これも前に、言ったっけ」
「……ノリが合うとか話しやすいとか、なんとなく好きという好きでしょ。そんな気持ちを大きく見せるなんて――」
「なんとなくじゃないよ!」
彼女はまるで台風の目のよう。その中心を外れると途端に牙をむく。
これだけ取り乱した姿を見るのは初めてで、これが本来の彼女なのかそれとも、そうさせてしまったのかはわからない。
「誰とでもフラットに付き合えるあなたが好き。とりあえず仲良くしておけば立ち位置は安泰なんて考えてるあの子たちと違って、あなたは私の飾りなんか見ないで、私だけを見て付き合ってくれる。
いけないことをいけないといえるあなたが好き。いつも何かから目を背けている私たちと違って、そこに勇気なんてなくても動ける。
そんなあなたが、ただただ好き。ノリが合うなんて思ったことないでしょ。あなたも。
だからあなたまで標的にされるのは耐えられないし、潤井さんとばっかり居るのが、嫌。
それでもあなたはあの子の隣にいるから、だから私はあの子に近づいたの。だから触れたの。だからあなたから――」
遠ざけたの。
肩も指も震えて、頬は真っ赤に染まっていた。
すべてを吐き出して、曝け出した頃には嵐なんてどこか行っていた。けれど台風一過のような青空がそこに広がっているわけでもなく、鈍色の空が広がっているだけ。
けれどその暗雲を晴らすことはできない。私は神様でもなければ善人ですらも、ないのだから。
「ごめんなさい」
彼女の前に映る私は多分、悪人なんだろう。
「あなたが私を好いてくれているのはよく分かった。けれどそれで自分を変えようとも変えたい思わないし、なにより周りが変わることも許せない」
「どうして? 私、こんなにあなたのことが好きで、あなたのことを想っているのに」
わずかながらにも残っていた善性がその言葉を喉から引っ込める。
ごめんなさい田中さん。あなたからの好きで私の心は、1ミリも動くことはなかったの。むしろ、怖い。
感じたことのなかった、知らない感情が湧き上がる。それは恐れにもよく似ているだろう。
"知らないひと"からの好意がこんなに怖いものだと、思わなかった。
「本当にごめんなさい」
手すら付けなかったお弁当を掴み、席を立つ。
恐れと彼女と暗雲と、善性すらも置き去りにして、振り向くこともせず私は、歩き続けた。
いや、今は潤いをただただ求めていて、無理やり見出してしまっているのかもしれない。
季節は夏を越えて秋を迎えていた。夏服から冬服へ私たちが装いを変えたのと同じく、この教室もどこか様変わりしたような、涼風から肌を切るような木枯らしが吹いているように思えて仕方がない。
「潤井さんってアイスが好きなんだ~」
「そ、そうなの。この間もね、空木野さんと一緒に食べてきたの。あそこのラムネ味が好きなんだ」
「私も好き!あのパチパチ感が良いよねぇ。今度一緒に行かない?」
「う、うん。今からとっても楽しみ」
後ろの"雑音"を耳に入れまいとひたすらに、解き明かした問題集の問題をいちから解いては消して、解いては消して、授業が始まるまでの"暇"を"潰す"。
「今更、どういう風の吹き回しよ……」
いつも静かな真後ろには声がふたつ。潤井さんと田中さんの仲睦まじそうな光景なんて想像もできなかったのにどうして、今はありありと想像することができた。
あれだけ自衛を語っていた彼女がどうして今更あの子に声なんて掛けて――
いったい何のつもり?
潤井さんも潤井さんよ。いくらそれを知らないからと言ってそんな、簡単に笑顔なんて振りまいて……
……もしかして私、嫉妬しているというの?
ない、それは多分、いや絶対そんなことは、ない。
そもそも前提がおかしい。そもそも私が嫉妬する流れも意味も必要性も、そこにあるはずがない。
私は私のために動いてきた。それは今も変わらない。あの子への理不尽なアレが止まれば、笑顔を曇らすものがなくなればそれでゴール、私も満足するはずだ。
私がいなくても笑うことができるならもう良いじゃない。田中さんが代わってくれた。それだけのことじゃない。
けれどどうして、どうしてこれだけ胸が締め付けられるのだろう。喉が渇くのだろう。傷なんてないのに、痛いんだろう。
振り返ることすらできない。水でも飲めば渇きは癒されるだろうか。思考もクリアになるだろうか。始業間際でも関係ない。席を立ち教室を後にした。
水飲み場には誰も居なかった。人の温もりとは無縁なここがなぜだか教室より暖かい。
体育終わりでもないのにたっぷりと6秒は流れ続けるソレを飲み続けた。
仄かに鉄の味がする。
「美味しい?」
「……無味無臭。だったんだけどね」
ひとりになりたかったのに。いや、ふたりのいない空間に居たかったのに、ソレは私を掴んで離さない。
裾はまるでソレの重力に引っ張られているよう。彼女が世界の中心であるみたい。
「けど……?まぁいいや。それより空木野さんとお話したいことがあって」
「あらそうなの。ちょうど良かったわ」
――私もそんな、気分だったから。
見慣れているはずの中庭は新鮮で、いつもの喧騒が遠く聞こえるこの空間はどこか異質で、気味が悪かった。
生気を感じさせられない秋の息吹が袖で遊ぶ、突き刺さる冷気は不平等にも私に向けられているような気がしていた。
「ねぇ、いったいどういう風の吹き回しなの?」
立ち去りたいけど立ち去れない。2メートルにも及ばないベンチに私たちは、磔にされていた。
「吹き回しっていうのは、何に対して?」
理解しているのかしていないのか、風と一緒に髪で遊ぶ田中さんは掴めない。多分今手を伸ばしても掴みどころなんてなくて、空を切るだけなんだろう。
「何って……仲良いみたいね、潤井さんと最近」
「それが……おかしいっていうこと?」
「田中さんから動いたっていうのが、ね。いじめられるんじゃないの? あの子と居ると」
凪いだ、ような気がした。息吹も冷気も今だけはソコになくて、息をひそめるようにその指先も今は、動かない。
「そうかもしれないね。そっか、そのことだったんだ」
「あなたにいったいどんなメリットがあるというの?」
「いつもメリットデメリットって、それしか言えないの?」
「言えないんじゃないの、言わないだけ」
ふん、そんな吐息が横から漏れ出した。
「メリットというか……そうするしかないからなんだよ」
「どういうこと?」
答えは提示されたはずなのに、それがわからない。
言葉通りの意味は理解できる。けれど、納得はできない。
「私、言ったよね? あなたが心配だって」
「余計なお世話よ。そんなことされなくても私は――」
「ずっとずっとずっとずっと、心配だった。ねぇ空木野さん私ね」
「あなたのことが好きなの」
同じく私も、凪いだ。息が止まり、思考もままならない。
思考の武装がこれだけ脆いものだとは思ってもいなかった。
わからないわからない、それがどうして、わからない。
「これも前に、言ったっけ」
「……ノリが合うとか話しやすいとか、なんとなく好きという好きでしょ。そんな気持ちを大きく見せるなんて――」
「なんとなくじゃないよ!」
彼女はまるで台風の目のよう。その中心を外れると途端に牙をむく。
これだけ取り乱した姿を見るのは初めてで、これが本来の彼女なのかそれとも、そうさせてしまったのかはわからない。
「誰とでもフラットに付き合えるあなたが好き。とりあえず仲良くしておけば立ち位置は安泰なんて考えてるあの子たちと違って、あなたは私の飾りなんか見ないで、私だけを見て付き合ってくれる。
いけないことをいけないといえるあなたが好き。いつも何かから目を背けている私たちと違って、そこに勇気なんてなくても動ける。
そんなあなたが、ただただ好き。ノリが合うなんて思ったことないでしょ。あなたも。
だからあなたまで標的にされるのは耐えられないし、潤井さんとばっかり居るのが、嫌。
それでもあなたはあの子の隣にいるから、だから私はあの子に近づいたの。だから触れたの。だからあなたから――」
遠ざけたの。
肩も指も震えて、頬は真っ赤に染まっていた。
すべてを吐き出して、曝け出した頃には嵐なんてどこか行っていた。けれど台風一過のような青空がそこに広がっているわけでもなく、鈍色の空が広がっているだけ。
けれどその暗雲を晴らすことはできない。私は神様でもなければ善人ですらも、ないのだから。
「ごめんなさい」
彼女の前に映る私は多分、悪人なんだろう。
「あなたが私を好いてくれているのはよく分かった。けれどそれで自分を変えようとも変えたい思わないし、なにより周りが変わることも許せない」
「どうして? 私、こんなにあなたのことが好きで、あなたのことを想っているのに」
わずかながらにも残っていた善性がその言葉を喉から引っ込める。
ごめんなさい田中さん。あなたからの好きで私の心は、1ミリも動くことはなかったの。むしろ、怖い。
感じたことのなかった、知らない感情が湧き上がる。それは恐れにもよく似ているだろう。
"知らないひと"からの好意がこんなに怖いものだと、思わなかった。
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