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第三章 林間学校
16.ウォークラリーでの危機
しおりを挟む林間学校二日目の朝が訪れた。
昨夜は寝付くのが遅かったが、目覚めはそれ程悪くなかった。
高原の澄んだ空気のおかげかもしれない。
起床した後は、顔を洗ってさっぱりしてから、同部屋の男子達の後ろについていって山荘の食堂に向かった。
ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、漬物、納豆、野菜の煮物という朝食の定番メニューを食べ終えた後は(漬物だけは残した。あれは人の食べる物じゃない)、歯磨きや着替え等を済ませてから、時間になったところで、ロッジを出て山荘前の広場に向かった。
間もなく生徒達全員が集ったそこでは、責任者である美作先生の話があった後、指導員による今日の最初のイベント、ウォークラリーの解説と注意事項等が伝えられた。
そしていよいよ出発となり、各班ごとに、五分程の一定の間隔を置いて森の中を通っている道へと歩を進めていった。
§
「姫、足元には気をつけろよ。大きな石が転がってたり、木の枝なんかが落ちてたりもするからな」
先頭を歩く班のリーダーである来栖が、後ろを歩いていた白鳥を気づかいながら注意を促した。
「そうよ、姫。あんた何もないところでさえ転ぶくらいのドジなんだから」
その白鳥と並んで歩く涼葉が、日常的なルーティンのようにして揶揄う。
なるほど。白鳥はドジっ子キャラでもあるのか。
そういうタイプが好きな男子は結構多いからな。
もちろん見た目のよさが前提ではあるだろうけど。
「怜愛も気をつけてな。せっかく綺麗な足してるのに、傷がついたりしたら大変だ」
「⋯⋯」
心配された雪代だが、要らぬ世話だというように、ぶすっとしかめっ面を作り、何も返そうとはしない。
場合によってはセクハラとも捉えられかねない来栖の発言に、内心不快感で溢れているんだろう。
「あー、山ん中トロトロ歩くのって思ったよりだりーなー。なぁ、最初のチェックポイントってまだつかねーの?」
朝倉、君は堪え性がないな。バスケ部のくせにもうへばったのか?
「私も疲れちゃったー。栄養を補充出来さえすれば幾らでも歩けそうだけど」
橘よ。その栄養とは何で補充されるものなんですかね。
俺がいつ橘の養分にされてしまうのかと戦々恐々として危ぶんでいると、今度は鳴宮が発言した。
「さっき理人に見せてもらった地図によると、後五分も歩けば到着するはずだよ」
「ああ。湊の言う通り、最初のチェックポイントまでもう少しだ。着いたらそこで休憩を取るから、皆もうちょっとだけ頑張れ」
来栖も雪代が絡まなければ、頼れるリーダーだと言えるのかもしれないのにな。
残念なイケメンだ。
俺はそう心の中で見下しつつ、班の最後尾で黙々と足を動かした。
§
あれから俺達は順調に歩みを進め、三番目のチェックポイント、森の中の開けた場所にある広場まで辿り着いた。
そこで待機していた先生から、昼食として受け取ったおにぎりとお茶を食べた後は、暫くそのまま休憩を取ってから、再び歩き始め、近付いてきたゴールを目指した。
「ゴールまでもうそれ程距離は残ってないからな。皆、もう一踏ん張りだ」
来栖が元気付ける様にメンバー達を鼓舞する。
皆疲れの色は隠せないが、ゴールが近いとあって、気持ちは幾分楽になっているようだ。
「このウォークラリーが終わったらBBQが食べられるんだよな! 俺の食いっぷりを見せてやる! 腹が鳴るぜ!」
さっきまで、「だりー」を連呼していたくせに、ご馳走が目の前だとなると、途端にやる気を出す。なんて現金なやつだ。
「自慢げに腕が鳴るみたいに言わないでよ、全く⋯⋯」
呆れたように突っ込んでいるが、涼葉、君も肉には目がなかったはずだよな?
大事に育てていた塩牛タンを奪われたあの時の恨み、俺はまだ忘れた訳じゃないぞ。
「私、牛ハラミ好きー!」
はいはい、白鳥、君はいい子だからたーんとおあがり。
「私は肉と言えば、男子同士の肉体関係が好きなんだけど」
ボソリと橘が呟くのを俺は聞き逃さなかった。
彼女、どこからでも腐った方向に持っていくな⋯⋯。
ジューシーな肉汁滴る肉みたいに、脳内カプで美味しくいただかれてしまわないように、彼女の前での言動には細心の注意を払わなければ。
もう手遅れではないと願いたい。
「僕は肉よりヘルシーな野菜の方が好きかな」
鳴宮は将来ベジタリアンになりそうだな。心底どうでもいい情報が手に入ってしまった。
「ねぇ、君、このウォークラリーが始まってから、私以外のメンバーとは一言も喋ってないよね? ミッションの事忘れちゃってるの?」
雪代が咎めるようにジト目を向けてきた。
そう言えば事前の会議で、会話で班員達を盛り上げようとかいう話だったな。
けれど、親しくない相手との対話スキルが死にかけている俺に、ウイットに富んだ言葉のキャッチボールは無理だと思うんだ。
「けど、まだ心の準備ってものが⋯⋯」
俺が言い淀むも、
「今更? もうゴールのすぐ近くまできてる段階なんだよ? ほら、躊躇してないで、何でもいいから誰かに話し掛けて」
「分かったよ⋯⋯はぁ、鬱だ⋯⋯」
俺が、今から崖から飛び降りるのかとでもいう様に悲壮な覚悟を決め、メンバー達の中で一番ハードルが低そうな白鳥に話し掛けようと、列の前に出るために歩く速度を上げた時──。
道端に生い茂っていた茂みが小さく音を立てて揺れた。
昨夜の肝試しの時のように、山に生息している野生動物だろうと高を括ったが、そこからにゅっと姿を見せたのは、細長い胴体を持つ蛇だった。
体表が赤と黒の斑紋で覆われている。
その見た目から判断するに、毒蛇として知られているヤマカガシだろう。
仮に噛まれたとしたら、対処法を間違えれば死の危険性もないとは言い切れない危険な個体だ。
「きゃああっ!」
ヤマカガシが現れた茂みの近くにいた涼葉が、その不気味な姿を目にして、甲高い悲鳴を上げながらその場にへたり込んだ。
「涼!」
来栖がその名を叫ぶ。だが、その行動は悪手だ。
「しっ。刺激しちゃ駄目だ。ヤマカガシという毒蛇で大きな声を上げたり棒を振り回してやっつけようとすると、毒液を分泌して襲い掛かってこようとする習性がある。音を出来るだけ立てないようにしながらゆっくりと離れるんだ」
俺は囁くように小さな声でメンバー達に告げた。
「で、でも涼が⋯⋯」
恐怖で身を震わせている白鳥が、地面に蹲る涼葉を心配そうに見ながら戸惑う。
驚きと恐怖で腰を抜かしてしまったんだろう。涼葉は昔から爬虫類が大の苦手だったからな。
だが、手を拱いているだけの猶予はない。
俺は動けないでいる涼葉の前に立つと、「あ、うぅ⋯⋯」と声ならぬ声を上げる涼葉の背中と膝裏に手を回して、抱え上げた。
お姫様抱っこ──西欧ではブライダルキャリーとも呼ばれる抱え方だ。
王道ロマンチックポーズとして恋愛もの等でも有名であるが、この非常時に恥ずかしいなんて言ってられない。
「──ッ!」
涼葉が俺の腕の中で身体を強張らせる。
俺みたいなやつに密着されて嫌だろうが、悠長にしていたら毒蛇に襲われてしまう。
ここは我慢してもらうしかない。
「じゃあ、ここを離れるぞ。くれぐれもゆっくりとな」
俺が念押しをし、他のメンバー達は、大人しくその指示に従って動いてくれた。
§
危険を孕んだウォークラリーだったが、辛うじてヤマカガシからは襲われずに逃れる事が叶い、無事にBBQに参加している。
屋根付きのBBQサイトでは、生徒達が網の上で焼かれる肉の周りに群がっていた。
育ち盛りの飢えた──特に男子達は、ウォークラリーで長時間歩いた事で空腹も最高潮らしく、最高のコンディションでBBQを迎えられたようだ。
「うめー! このカルビ、舌の上でとろけるぜ! 口の中に入れた瞬間に消えちまった!」
朝倉が持ち前の大声で、ベタなグルメレポーターみたいなコメントを叫ぶ。
「牛ハラミも最の高だよー!」
さっきまであんなに怯えてたのに、白鳥も変わり身が早いな。
「ほら、涼もどんどん食べて! 焼肉好きでしょ?」
「う、うん」
白鳥に肉をすすめられている涼葉は、ヤマカガシと遭遇した時の恐怖が抜け切らないのか、いつもの凛とした態度に未だ完全には戻せていない様子だ。
俺にお姫様抱っこされた事を屈辱的だと感じ、矜持を傷つけられたと気に病んでいるだけかもしれないが⋯⋯。
「このナス甘みが強くて絶品だね。箸が進むなぁ」
ナルシスト鳴宮はさっきから野菜ばかり食べている。
こいつは腹黒だけど、マイペースで恋愛にも消極的な草食系っぽいイメージだから、ぴったりだ。
「男子同士で肉を奪い合ってる⋯⋯尊い⋯⋯捗る⋯⋯ぐ腐腐腐⋯⋯」
橘は安定して腐の空気を撒き散らしているな。
ネタとして使われないように、視界に入らないよう遠ざかっておこう。
「⋯⋯」
来栖はあまり食が進んでいないみたいだ。
口数も少ないし、皆を引っ張っていくリーダーなのに、適切な行動をとれずに情けない姿を晒してしまったためか、居心地悪そうにしている。
一人離れた場所で、黙々と焼けた肉を口に運びながら、実益をかねた人間観察に励んでいると、白鳥に一言断りを入れた涼葉が、こちらに近づいてきた。
「隣、座ってもいい?」
「ああ、どうぞ」
問われて、頷きながら椅子の脇をポンポンと叩いた。
「食べてる?」
「程々にな。お前はもういいのか? 焼肉は大好物だろ?」
「昔程じゃないわよ。あの頃と今は違うわ。色々と、ね」
「そうか」
含んだような言い方だったが、詮索はしないでおいた。
「お礼を言いにきたのよ。さっきはありがと。おかげで助かったわ。あんた意外と力あるのね」
「皆の前で抱きかかえられて、恥ずかしくなかったか?」
「怖くてそれどころじゃなかったわ。それに、あんたの腕の中って妙な安心感があったし」
そう言う涼葉の耳は、少しばかり赤くなっている。
「そう言えば、昔君の部屋にヤモリが出た時に、爬虫類が大の苦手な君は、俺に抱きついて中々離れずに──」
「ストップ! その記憶は忘れなさいって言ったはずよね?」
慌てた様子で涼葉が制止を掛ける。
「小学生の低学年だった頃の話だぞ?」
「それでも消したい過去である事には変わらないわ」
「君でも引き摺っている事があるんだな」
「誰しも等しく人間だもの。そう言った過去の一つや二つあるのが普通よ。それは、あんたが一番よく知っている事のはずだけど」
至言を宣いつつ、指摘した。
「まぁ俺も一応生物学上のカテゴリーでは人間だからな。階級は最下層だけど」
冴えない根暗な陰キャぼっち──それが自他共に認める俺の人物像だ。
「何それ。あんたは人付き合いが不得手なだけで、他の面では優秀じゃない」
そう言ってくれるのは素直に嬉しいが、過去の栄光ってやつだろう。
今の俺は凡庸の中に埋もれている。
「俺はただの冴えない根暗な陰キャぼっちでしかないよ。そんな俺の傍にいるとあらぬ誤解を招くぞ。だから早く離れてくれ」
冷たく感じられるような言葉だ。けれど、彼女に深入りさせる訳にはいかない。
「別にそんな事気にしないのに⋯⋯分かったわ。あんたがそうして欲しいならもういくわね。ただ私が感謝してるって事だけは忘れないでおいて」
パソコンのハードディスクから一度消えたデータが、時間が経つとともに修復が難しくなっていくように、昔に一度壊れかけた関係を、今になって修復しようとするのは容易ではない。
だが、彼女が俺に向けた幾つかの言葉には、それを何とか実現させてやるという意思が含まれているように感じられた。
──俺と関わる事で、傷付く事もあるだろうに⋯⋯。
とは言え、彼女がこの胸に残したものの余韻に、今は心地よく浸っていたい気分だった。
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