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一話 〈1〉
しおりを挟む「此処は物語の世界なのよ。私はいずれ断罪されて幽閉された後、孤独と飢えの中で死んでしまう悪役令嬢なの」
十三歳の冬。
同い年の幼馴染はなんともトチ狂ったことを言いながら、片手に持った血塗れの万年筆を、何かに縋るようにして握り締めていた。
足元には刺された掌を押さえて呻く家庭教師が蹲っている。
彼女の父である公爵に命じられ、とてもじゃないが十三歳の少女に施すようなものではない厳しい教育を行っていた女性だ。
「だから、何をしてもいいのよね。結局はただの物語なのだし」
薄ら笑いを浮かべて家庭教師を見下ろすマリーディアの目には、ぞっとするような冷たい光が宿っていた。
本気だ。多分、次は掌ではなく目を狙うことだろう。
何が何だか分からないが、とりあえず会いにきて良かった、と思った。
幼い頃からの遊び相手だったと言うのに近頃は顔を合わせることすら許されていないものだから、とりあえず窓から侵入してみるか、と試してみたのが良かったんだろう。
いや、本当は良くないが。公爵家子息としては何一つ誉められた行動ではないが、僕は家を継ぐ気はさっぱりないのでそれで構わなかった。
「お、お嬢様、こんなことをして、ただで済むと思っていないでしょうね」
「五月蝿い。それ以上喋ったら、刺繍糸で口を縫い付けるわよ」
「お父様が見たらなんと言うか……!」
片手を押さえつつマリーディアを睨み上げた家庭教師は、彼女の目を見た途端、細く喉を鳴らした。
悲鳴にすらなれなかった呼吸の残滓が、室内に小さく響く。
人は本当に恐怖した時、案外大きな悲鳴は上げられないものだ。
真っ青になった家庭教師は壁際まで後ずさった後、それでも憎々しげな声で「私は公爵様の御命令で……」と吐き捨てていた。
椅子から立ち上がったマリーディアが、ぶつぶつと恨み言を溢す家庭教師へと一歩踏み出す。
なんだかよくない予感がしたので、僕は半開きになった窓から身を乗り出して彼女の進行方向へと割って入った。
ついでにそれとなく家庭教師の傷を治癒魔法で治しておく。治癒魔法得意で良かったな、と改めて思った。
怪我という名の証拠の隠滅には大変に役立つ。
「えーっと、マリー、とりあえず物語ってどういうこと?」
「私も詳しくは分からないけれど、全部作り物ってことよ」
「作り物?」
「この世界は全部偽物なの。貴方も私も、お父様もお母様もみーんな嘘っぱちなの。頑張ったところでなんの意味もないし、私は主人公の邪魔をしてお芝居を盛り上げて、結局は適当に死ぬだけの存在なのよ」
さっぱり分からないが、一つだけ確かなことがあった。
マリーディアの精神はもう限界、ってことだ。
彼女は真面目で努力の出来る、素晴らしい女の子だけれど、宮廷魔導師団長を務める公爵は娘にいつもそれ以上の結果を要求していた。
自分はその程度のことは十歳の時には既に出来ていただとか、どうしてお前はそんなに物覚えが悪いんだとか、防御魔法しか使えないだなんて恥晒しもいいところだ、とか。
要するにマリーディアは天才の元に生まれた娘としては、ほんの少し期待外れだった、ということだ。
まあ、それでも十分すごいんだけどね。
ともかく、もうマリーディアの精神は限界で、彼女はこのクソみたいな状況を打破するべく、現実から逃げられるように世界を都合よく捉えたんだろう。
抑圧された感情が爆発して、何か架空の物語を生み出したに違いない。
マリーは父である公爵への敬愛と恐怖と自己否定で、変な捻くれ方をしていた。
下手に真面目な分、気の抜き方がよく分かっていないのだ。それでも、昔はもっと素直に笑っていたような気がするけれど。
「へー、そうだったんだ。驚きだな」
「……信じてないでしょ。別に、いいけれど」
「いやいや、信じてるよ。その物語って、僕はどんな役割なの? やっぱり家を出て冒険者として大成してたりする?」
「ロバートは…………影も形もないわ。脇役でもない、無名の群衆ね」
「えっ」
えっ。ひどい。
ひどい衝撃を受けた。
なんてひどい扱いなんだ。
一瞬、その場の何もかもがどうでも良くなりかけたが、彼女が未だに血に濡れた万年筆を握りしめたままだったのを見て、そしてその先端が実質、彼女自身へと向けられるのを察して、とりあえず気を逸らす作戦は続けることにした。
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