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七話 〈2〉

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「もう少し早かったらなあ、なんで僕っていつもこうなんだか……」

 視覚情報を奪うために薄暗く灯りを落とした室内で、心の底からの自嘲を込めて呟く。

 開かれた扉からマリーが覗いて来た時、本当に肝が冷える思いだった。
 あと少し遅かったら、きっと彼女はリエナ嬢に誘われるままに屋敷に入り込み、帰らぬ人となっていただろう。
 考えただけでぞっとするし、胃の腑が焼ける思いすらする。
 が、激情に身を任せたところで、マリーの為にはなりはしない訳で。

 この世の全てが剣で解決出来たら容易いのに、と思うことはよくあるが、父曰く、そう簡単には行かないのが世界というものだ、そうだ。
 仰る通りだな、とは思う。この世界はあまりに不完全で、不条理で窮屈だ。そういうところが愛しいと思っているのだが、今回はちょっと、勘弁願いたかった。

 明かりを落とした屋敷の中では、すっかり身の丈すら変わってしまった伯爵が、元気に暴れていらっしゃる。
 上級精霊をやっとこさ説得し終えて取引を交わし、ああこれはやばいやばい、と屋敷に駆けて来たのが今から一時間ほど前の話だ。
 そこには魔法薬で意思の奪われたリエナ嬢と、とっくのとうに正気を失った伯爵と、今日も元気に導きを与えている精霊がいた。

  伯爵の方は、初めは割と理性的に話が出来ていた……ような気がしなくもなくも、なくもなかったが、僕が『ロバート・アルメール』だと名乗った途端、すっかり様子がおかしくなってしまった。
 狂気の扉が開かれたかのように、止めどない妄言が溢れ出す。

「ああもう全く、どうしてこうなったんだ? 僕が何をしたというんだ! ただ君を愛しているだけなのに、全てが奪い取られていく! 僕は幸せになりたいだけなのに!」

「あの男のせいだ! 全て、全て、彼奴のせいで僕はずっと苦しめられていた!」

「大丈夫だよシャルロッテ、これでようやく君が僕のものになるんだ。取り戻せるんだよ、やり直すんだ、僕らの幸せな生活を」

 獣のような唸り声に混じるのは、ローヴァデイン公爵閣下への憎悪と、シャルロッテ夫人への執着、そして紛れもない自己愛だ。
 伯爵が見えているのは、もはや今ではない。今の栄光も、功績も、彼にとっては意味がないのだ。

 ガーシアル・エルフィン伯爵は、シャルロッテ・ローヴァデイン────否、シャルロッテ・リラフラー公爵令嬢・・だけを求めている。
 彼にとっては初恋の愛しの人を手に入れることだけが目的であって、それ以外はてんでどうでもよろしいのだ。

 彼がマリーディアを求めたのは、『シャルロッテの身体』とする為だった。死者の霊魂を呼び戻し、新たな肉体を与える禁忌の魔法。
 精霊の囁きは、彼に知恵と肉体の限界を超越する魔法薬と、その結果得られる際限の無い探究を与えたらしい。

 エルフィン伯爵は最初、シャルロッテ夫人の遺体を墓から掘り起こそうとした──というのが僕が関わった調査では明らかになった事実だ。
 けれども、暴いた墓には夫人の遺体は無かった。暴かれた墓にではなく、暴く前の墓に遺体が無かったのだから、まあ、要するに、初めから『入っていなかった』のだろう。

 誰がそれをしたのかなんて考えるまでもない。埋葬を偽装出来る人間なんて葬儀を取り仕切る当主くらいのものだ。
 全く、執着とはかくも悍ましきものか。彼女の遺体はおそらく、今はローヴァデイン公爵家の有する屋敷の何処かにあることだろう。きっと、亡くなった嫡男の遺体と共に。

 公爵夫人はどうにも、ある一定の層には抜群に刺さる、気を狂わせる程に魅力的な御婦人だったようだ。エルフィン伯爵も、ローヴァデイン公爵も、彼女の為だけに生きているかに等しい情を抱いている。

 親世代の情念が拗れに拗れている、というのは、僕らにとってはかなり厄介だ。子供というのは、親の影響を最も近くで受ける羽目になるし、なんなら被害だって一番酷くなってしまう。
 我が父が今も昔も母君一筋であることは、アルメール家にとっては確かな幸運だったと言えよう。僕が父を尊敬しているのは、剣の腕以外にもそういう面で極めて誠実だからである。

「君だって本当は僕を愛していたんだろう? そうだ、僕らは惹かれあっていた! それをあの男が、権力を使って君を無理矢理手にしたんだ!」

 哀れなのはエルフィン伯爵夫人だ。ガーシアル・エルフィンは、真に公爵夫人を愛していたのなら、それこそ研究を理由に婚姻など遠ざけて独身を貫き、養子でも取って家の役目を繋げばよかったのだ。
 まあ、ローヴァデイン公爵は恋敵がいつまでも独り身でいるのを許すような男ではない訳だが、そこで押し負けた時点で夫人のことは諦めるべきだった。

 政略と、あとは乙女の望みを唆したことによって上手いことエルフィン伯爵家に当てがわれた侯爵家の令嬢は、確かにガーシアル・エルフィンを愛していた。
 愛されないとは知りながらも、己の献身によって心変わりしてくれると。恋ではなくとも、愛を育むのとは出来たはずだと。
 それは儚く尊く、そして愚かな夢だった。結局は伯爵夫人も、最後には気がおかしくなってしまったのだろう。

 あるいは、エルフィン伯爵の元にやってきた精霊が、もう少し色恋沙汰に興味や関心があれば良かったかもしれない。そしたら、ある程度のことは『都合よく』済んだだろうに。
 まあ、魔法薬の才に惹かれてやってきただろう精霊に、人間の心の機微を理解しろという方が難しいか。

「シャルロッテ、君は僕と結ばれる運命だったんだ、僕こそが君に相応しい、知っているはずだよシャルロッテ、君はいつだって、いつだって本当は僕を、僕こそを愛していた!」

 なりふり構わずに襲ってくる相手を殺さずに拘束するのは、だいぶ骨の折れる作業である。
 しかも婚約者の友人の父親ともなれば尚更だ。

 振るう剣は、鞘がついたままのものだ。間違って脳天をかち割ったりでもしなければ、余程のことでは死にはしない。骨は折れるかもしれないが、娘に薬まで盛り、未遂とはいえ公爵令嬢に危害を加えようとしたのだから、そのくらいの負傷は覚悟していて当然だろう。
 彼にはまだ、生き残ったまま当主として退き、リエナ嬢に家督を譲ったあとに『持病の悪化』で『領地に療養』に向かう仕事が残っている。

 にしても。すごいな。ちょっとした上級の魔獣くらいの強さはある。
 精霊の囁きを得たこと自体は、彼にとっては最大の幸福だったことだろう。向かう先があまりにも酷かった、というだけで。

 両足の脛を打ち、襲ってくる形を失った腕を仕留めて、転がった身体を見下ろして語りかける。

「ガーシアル・エルフィン。精霊はもはや貴方には力を貸すことはないでしょう。少しでも娘への情があるのなら、諦めて全てを受け入れてください」

 最後に対話だけでも試みてみようかと思ったが、伯爵はやはり、呻くような声で公爵夫人の名を繰り返すばかりだった。
 思わず、溜息混じりの吐息が溢れてしまう。これは彼に向けてというより、僕自身に向けてのものだ。
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