婚約破棄とは特に関係のない二人

藍槌ゆず

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「シルビア、僕たちは婚約破棄した方が良いのかもしれない。君もそう思わない?」
「全くそうは思いませんわね」
「どうして?」
「逆に聞きますけれど、ライアン様は何故そのように思われましたの? 私、貴方が妾を何人侍らせようと全く気にしないのですけれど」

 ある晴れた日。伯爵家の中庭で開かれた二人きりの茶会にて、シルビア・ルーベンスはあくまでも柔らかい声音で、何処か突き放すように言葉を紡いだ。
 優雅な所作でカップを持ち上げる彼女の対面に座るのは、婚約者であるライアン・グドゥルイア。ルーベンス家と同じく伯爵位を持つ家の三男だ。
 二人が資金援助と技術提携の為に十歳で婚約を結んでから、もう八年の付き合いになる。貴族学院の卒業を間近に控え、半年先の式の話を進めようかというところ、突然、『婚約破棄』が話題に上った。

 配膳を務めるメイドの間に流れる空気を知ってか知らずか、特に感情の籠らない所作で首を傾げたライアンは、最近の天気でも語るかのような調子で口を開く。

「いや、僕ら以外はみんな婚約破棄しているから、流行りかな、と」
「家同士で決めた婚約を破棄する、というのは一時の感情に任せて行えるものではありませんのよ。ご存知?」
「勿論そうだけれど、みんなしてるだろ?」
「みんながしているからしたい、というのであれば、私はその幼稚な同調意識を咎めなければなりませんわね。ライアン様、貴方今年でお幾つになりましたの? お友達と手を繋いでいなければ不安で仕方ない時期は幼年クラスで卒業してくださる?」

 澄ました顔で焼き菓子を口に運ぶシルビアが片眉を上げる。少し気の弱いものならば何も言えずに黙り込んでしまう、刺すような冷たさがそこにはあった。
 しかし対面のライアンはといえば、ゆっくりとカップを持ち上げ、やはりのんびりとした所作で口をつけ、大事に味わうように紅茶を飲み込むだけで、特に堪えた様子もない。要するに、いつも通りの彼だった。

「アランもリチャードもサイラスも婚約破棄しただろ? それで怒られたよね」
「ええ、当然の対応ですわね」
「僕たちだけ破棄してない、逃げたんだ、ってみんな怒るんだよ。嫡男じゃなくても仲間に入れてやってたのに、って、この間アランからは凄い分厚い手紙が来たりして、君と婚約を破棄しないとみんなから縁を切られるかもしれない」
「そんな輩とは縁を切ればよろしいのです」
「でもそうしたら、君と釣り合いが取れる人間とは思われないよ。僕が魔道具作り以外ろくでもない男だって、君が何より知ってるだろ?」
「『多少は令息とも付き合いがあった方がいい』と言うのはあの盆暗の愚か者共が正常な思考と判断力を持っていた時の話であって、評判が地に落ちた今では付き合ったところでむしろ不利益しかありませんわ。これを機に是非とも縁を切って頂けばよろしいのではなくて?」

 隠し切れないほどに呆れた声色で告げたシルビアに、ライアンは一度、ゆっくりと瞬いた。ああ、そうか、と呟く声が聞こえて、シルビアはやや頭の痛い思いで目を閉じる。

 ライアン・グドゥルイアという男が魔道具の開発以外に一切の興味がないことは、この八年の付き合いで痛いほど分かっていた。
 貴族としては致命的なまでの察しの悪さと、到底理解できない思考回路。次々と役に立つ発明をする魔道具開発の才とは裏腹に、いつまでも子供のような、よく言えば純粋、悪く言えば愚鈍としか言いようのない性格は、社交界での彼の評価を早々に『シルビア・ルーベンス以外には付き合い切れない』と決定づけるほどのものだった。

「そもそも私と婚約破棄をしたら釣り合いを保つ必要そのものが無くなりませんこと? 物事の優先順位が支離滅裂ですわ」
「婚約を破棄した相手とは結婚してはいけないんだっけ?」
「…………我が国では、貴族間で結婚の許可が下りるのは教会に婚約関係を認められた男女だけです」
「ああ、そんな決まりがあるんだ」
「あるのですよ、ライアン様はご存知ないようですけれど」
「全然知らなかった」

 興味がないから忘れた、の間違いだろうとシルビアは思ったが、口には出さないでおいた。言っても無駄だからだ。
 こんな風に言葉を交わしている時ですら、ライアンの頭の中には新しい魔道具の構築式が並んでいる。思考の半分しか此方と会話していないのだ。
 婚約者に対しなんたる無礼か、と憤る気持ちは、八年の付き合いですっかり凪いでしまった。このくらいで怒っていてはライアンの相手など務まらないのである。

 その思考回路は例の男爵令嬢にすら予測不可能だったようで、高位貴族の令息を瞬く間に籠絡した彼女でさえ、ライアンの頓珍漢な物言いには間の抜けた顔を晒していた。

 あれは少々愉快だった、と思い返して唇の端を持ち上げるシルビアの前で、ライアンがぼんやりとした声で続ける。

「でも王太子殿下も婚約破棄するつもりみたいだからな。殿下にも縁を切られるのは困るんじゃないか?」
「なんですって? その話、詳しく聞かせてくださる?」
「あ、これ殿下に内密にって言われてた、ってアランが書いてた」
「その手紙は何処に? 事実ならば早急にアディントン公爵家にお伝えしなければなりませんわ」
「内密にって言われたんだけど」
「国内の運河開鑿事業の八割を担う公爵家の御令嬢と婚約破棄するつもりの底無しの馬鹿の言うことなんて聞かなくていいと言っているのよ、いいから早く出しなさい」

 目眩を通り越して頭痛まで覚え始めたシルビアが、こめかみを押さえながらライアンを急かす。目配せをしたライアンに応えるように一礼し、場を後にした侍女が邸内へと用件を伝え、やがて、やたらと分厚い封筒を持ち帰ってきた。
 それをライアン経由で受け取り、中身を確かめたシルビアが、すぐさま従者へと言付けて公爵家へ送るように命じる。ライアンが口を挟む暇もなかった。

「バラしたら怒らないかな」
「内密にしていた方が怒られるに決まっていると思いますけれど」
「そうかな」
「そうです」
「そっか。シルビアが言うならそうなんだろうな」

 分かっているのかいないのか、どうでもよさそうに聞こえる口調で頷いたライアンは、やはり何処か他所に意識をやっている様子だった。
 こういう時、シルビアはいつも自問する。私は一体この人の何処が好きなのだろう、と。

 貴族である以上、結婚には政略が組み込まれることは当然のことだと理解していた。暴力を振るわず、生活の邪魔にならない存在であればどんな夫でも良いと思っていた。だからこそライアンとの婚約もこれまでずっと破棄することなく、こうして婚約者として関係を維持してきたのだ。
 不満は当然ある。喧嘩だって幾度となく──ライアンの所為で言い合いにすらならないが──してきた。素晴らしい婚約者だとは口が裂けても言えない。

 だからこそ自問する。私は一体どうして、こんな男が好きなのだろう、と。
 そう、彼女が悩んでいるのは、ライアン・グドゥルイアを好きになれないこと、ではなく、『こんな男を好きだと思ってしまうこと』だった。

 ライアンは決して目を惹く容姿を持ってはいない。焦茶色の平凡な髪色と、いつも眠たげな蜂蜜色の瞳。やや猫背気味で、野暮ったい空気を纏っている。
 成績が飛び抜けていい訳でもなく、優れているのは魔道具の製作のみ。その唯一優れた点ですら、対人能力で打ち消されてしまうような男だ。

 だが、それでも、シルビアは彼が好きだった。本当にどうしてかは分からないけれど。多分、自分は趣味が悪いのだ、と結論づけている。

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