春の天使に逢いに行こう。

月兎もえ

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1日目

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クツクツと、鍋が呼吸しているような、音がする。そして、部屋中に甘酸っぱいオレンジの香りが広がっていた。
「ちょっとキッチン借りるね。」ハルはそう言って、キッチンに入って行ったのだった。
「もうちょっとでできるよ。」ハルはにこにこして、言った。
「何作ってるの?」
「何だと思う?」ハルは悪戯っぽく笑う。
「えー。ゼリーとか?」ちょっと面倒な会話だな。
「ハズレ。はい、次。」
すごく面倒くさい。
「ジャムとか?」
「正解!マーマレードだよ。」ハルは小さく拍手してくれた。
あれ?ちょっと嬉しい。
「正解した美姫さんには、味見をする権利をあげましょう。」そう言ってハルはキッチンに戻り、スプーンを持ってきてくれた。ジャムは、ツヤツヤと半透明なオレンジ色をしていた。スプーンを受け取り口に入れた。
「おいしい・・。」
そう、おいしかった。今まで何を食べても食べ物が美味しく感じなかった。このジャムは、ちゃんと味がした。甘くて、少し酸っぱくて、ほんのり苦い。苦味までも心地よかった。
「良かった。」ハルは優しい眼差しで微笑んだ。
「じゃあパンと飲み物持って、外で食べよう。いいお天気だし。美姫は飲み物担当ね。」
何だかハルのペースにどんどん巻き込まれていく。話し方や仕草はおっとりしているけど、意外とサバサバした所があるんだな。
「何飲みたい?」
「美姫が飲みたい物。」
ハルは甘党っぽいから甘いのがいいかな?でもジャムも甘いし・・
「美姫。今相手のこと考えてたでしょ。嬉しいけど、美姫が飲みたい物を考えて。」
ハルは何でもお見通しだ。さすが天使。
「私が飲みたい物・・」何だろう?あっ!
「・・ココア。ココアが飲みたい。」暖かくて、少し苦めのココアが飲みたい。
「いいじゃんココア。良く決められたね。」
「こんなことで褒めてくれるんだね。」
「こんなことじゃないよ。美姫は相手のことばっかり考えちゃうからね。今、自分を大切にする一歩が踏み出せたんだよ。」
「大袈裟だよ。」私が笑うと、ハルは「おっ!笑顔!」と言って嬉しそうに一緒に笑ってくれた。
チーン!
パンが焼けた。オーブントースターを開けた途端、オレンジの香りから香ばしい香りが絡み合う。こんがりと焼けたトーストが出てきた。
「ちょうどいいね。」ハルはそう言ってあつあつのトーストを急いで手にし、ラップに置いた。そして出来立てのジャムを瓶に詰めた。私は牛乳を温め、純ココアを少し多めに入れてかき混ぜた。ココアなんて久しぶりだな。いい香り。昔よく、お母さんがおやつに入れてくれてたな。そしてココアをポットに注いだ。

ハルは瓶とラップに包んだパンをそのまま持ち、「よし。じゃあ行こう。」と言って玄関のドアを開けた。

ハルは私がくつを履いて出るまで、ドアを開けたまま待っていてくれて、優しくドアを閉めてくれた。「ありがとう。」というと、「いいえ。」と微笑む。
「本当いいお天気だね。空が綺麗。」
ハルが空を見上げて言った。私も空を見上げると、少し驚いた。
「本当だ。綺麗。」
「でしょ。空って綺麗なんだよ。」
ついさっき、ドアを開けた時も見たはずなのに、まったく別の物に見える。
「よし、出発。」ハルと並んで歩きだした。
「どこに行くの?」
「どこでしょう?」始まった。
「公園?」
「正解!すごい!一発だね!」ハルは両手でパンと瓶を持ったまま、拍手をしてくれた。
「そりゃ何となくわかるでしょ。」
「いやいや。すごいよ!」
家から5分もたたずに公園についた。公園は滑り台やブランコくらいしかないけれど、緑豊かで、背の高い木が、公園を囲んでいた。地面は芝生で覆われ、所々に秋なのにたんぽぽが咲いていた。
「ここで食べようか。」ベンチがあり、ハルはゆっくりと腰掛けた。
「使う?」私はハルにウエットティッシュを差し出した。「女子力!ありがとう。」と言ってくれた。

「はい。こっちが美姫ね。」ハルからパンを受け取った。
「あっ!スプーン忘れた!でもまぁいっか。美姫、手にかかったらごめん。」
ハルはそう言って瓶を斜めにしてパンにジャムを落とした。ぼとん、とジャムが落ちる。「あー入れすぎた。ごめんごめん。」と言いながらもハルは笑っていた。
「次は美姫がジャムかけて。」
「私?でも失敗しそうだから。」
「美姫は優しいね。でも、失敗してもいいじゃん。たいしたことないよ。」ハルは「さぁ!」というように、私の目の前にパンを持ってきた。私は瓶を手に取り、ハルのパンにジャムをかけた。ぼとん。
「上手いじゃん。ありがとう。」
ハルの笑顔にほっとする。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」まだ温かいパンはサクッと音を立て、口いっぱいにパンの香ばしさと、ジャムの甘酸っぱい味が絡み合う。
「おいしいね。」自然と言葉が出た。ハルは私を見て「おいしいね。」と言ってくれた。なぜだか涙が出てきた。私の背中を何も言わずにさすってくれた。1粒、2粒と流れた涙は次第に大雨になった。私は声をあげて泣いた。
どれくらい泣いたのだろうか?すっかり涙を出し切った私はふぅ、とため息をついた。
「落ち着いた?」ハルは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「うん。ありがとう。」ハルは、にこっと笑って、私の顔をティッシュで拭いてくれた。そして、「もらうね。」と言って、ポットを取り出し、ココアをコップに注いで私に手渡してくれた。
「ありがとう。」ココアから湯気がたちこめ、両手で包むと温かかった。ふうふうと冷まして飲むと、ココアの温かさが喉を通り、お腹まで行ったのがわかった。
「私ね、生きていたくなかったんだ。」ハルは、「うん。」とうなずいてくれた。
「就職もなかなか決まらないし、面接行っても失敗するし、一次面接受かっても、本当にここで決まって良いのかな?とも思ったり。でも落ちると、その度自分の価値が下がったみたいで。」
「うん。」
「新卒じゃあるまいし、何言ってるんだっとも思うけどね。」私は自嘲した。
けれど、ハルは首を振った。
「新卒だって、再就職だって、不安な気持ちは一緒だよ。ダメだったらだれだって落ち込むのも一緒。美姫がそう思うのは、ちゃんと一生懸命考えてるからだよ。だから、迷うのは良いことだよ。」ハルは真剣な目で私を見た。
「でも、考え抜いた末、迷った先が違ったら、何やったるんだって思わない?」
「思わなくてもいいんだよ。だってその時、一生懸命考えて、だして見つけた答えだもん。適当に考えてたわけじゃない。違ったら違ったでしょうがないよ。その時思った最前だったんだから。後悔する必要はない。違ったら、また美姫の今思う、良い道を見つければ良い。」
「そっか・・」
「それにね、違った道も無駄なこと何てないんだよ。直接役にたたないこともあるかもしれない。でも、いつか必ずその経験がいろんな形で力になってくれる時があると思うよ。その経験も美姫の一部だから、大切にしてあげなきゃね。」ハルは私の肩を優しくたたいてくれた。
「うん・・。」私はいつも後悔ばかりしていた。あんな面接行かなければ良かった。とか、こんな所就職しなきゃ良かったとか。でも、その一つ一つの後悔が、私自身を傷つけていたのかもしれない。
「ここで突然ですが、美姫のいい所を発表したいと思います!」ハルは急に立ち上がって言った。「どぅるるるる」効果音つきみたいだ。
「優しいところ!」ハルは拍手した。
「えっ。そんなことないよ。」ハルに優しくした記憶がない。
「優しいよ。まだ美姫とは会って数時間しかたってないけど、優しいって感じたよ。ウエットティッシュくれたり、「ありがとう」ってお礼を言ってくれたりしてくれたじゃん。」
「そんなの普通じゃない?」ハルは首を振った。
「普通って結構曖昧で、人によって全然違う物なんだよ。美姫は優しい。自分はそう思うよ。」ハルは私をまっすぐ見て微笑んだ。
「ありがとう。」そんなこと言ってもらったのは初めてだ。
「これから5日間、美姫の良い所を見つけて教えてあげるね!」
5日間限定の私の天使。これからこの天使は、私にどんなことをしてくれようとしてるのか?ちょっぴりワクワクした気持ちでいる。
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