『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」

第28話「灯の堕ちる夜」③

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 扉を開けた瞬間、熱を帯びた空気が肌を打った。
焼酎とタバコと香水が入り混じった、夜特有の濁った匂い。
照明はピンクと紫の中間色で、天井のミラーボールがゆっくり回っていた。
 スピーカーからはかすかに流行りのアイドルソング。
だが、その明るいリズムの上から、怒号と罵声が重なっていた。
 空気は、もう壊れていた。
カウンター席では、数人の常連客が顔を強張らせたまま動けずにいる。
その奥――ボックス席。
派手なネオンの光が断続的に照らすその一角に、異様な光景があった。


 三人の男が立ち上がり、テーブルを挟んで怒鳴っていた。
グレーのスウェット、ベージュのスカジャン、そして金髪のパーカー。
いずれも、酔いで顔を真っ赤に染め、目が据わっている。
 テーブルの上には倒れたグラス、割れた氷、散らばるおしぼり。
甘ったるいカクテルの匂いに混じって、アルコールの刺激臭が鼻を刺した。
テーブルの上には倒れたグラス、
散らばった氷、跳ねた酒がテーブルを濡らしている。
 その前に座る三人のキャストが、微かに震えていた。
バニー衣装はそれぞれ個性的で、
片方は純白のクラシカルなレース、
もう一人は黒のベロア素材に短めのボレロ。
 普段なら華やかなその衣装も、
今は乱れ、肩紐がずれ落ち、視線は定まらない。
恐怖というより、
何をすれば場が収まるのか分からない――そんな絶望が滲んでいた。


「おい、なんだよこの接客。笑顔ねぇじゃん」
「金払ってんのに、ムスッとしてんじゃねえよ」
「つまんねぇんだよな~、こういう愛想ないタイプ」
男たちの声が店内を汚すように響いた。
ステージ側の照明が一瞬暗くなり、BGMのテンポが乱れる。
カウンターにいた客たちは動けず、氷を混ぜる手も止まっていた。


 その中で、
ひときわ静かな気配漂わせた黒いバニースーツをまとった女が奥から現れた。
 蘭華。
店のオーナーであり、この空間の“聖域”をつくった女。
髪は艶やかな黒。肩に流れるように落ち、冷たい光を吸い込んでいる。
彼女の表情はいつも静かだ。微笑も怒りもなく、ただ状況を見つめているだけ。
「すみません、お客様。少し声を落としていただくのと
キャストへのお触りはご遠慮いただいてもよろしいでしょうか?」
 蘭華の声は、柔らかいが芯があった。
男たちは顔を見合わせ、嘲るように笑う。
「なんだよ、オーナー登場? ママか?」
「違う違う、今どき“ママ”じゃなくて“店長”って言うんだろ」
「まぁ、俺らのテンション下げんなよ。楽しみに来てんだからさ」
そう言いながら、スウェット姿の男が隣のキャストの肩に手を置く。
キャストはびくりと体を固くし、それを見た他の二人が声を上げて笑った。


 蘭華はゆっくりと近づき、テーブルの端に手を添えた。
「その手、どけてください」
 声量は変わらず、しかし温度が消えていた。
男たちは一瞬、言葉を失った。
だがすぐに薄く笑い、グラスを手に取る。
「……感じ悪いねぇ、店長さん。客に向かってその口の利き方はねぇだろ」
「この店、そういうスタイルなんですか?」
「コンセプト、変わった?」
 蘭華は答えない。
代わりに、ゆっくりと視線を動かし、キャストたちの方を見た。
その瞳の奥には、
怒りでも悲しみでもない、もっと深い感情――守る決意だけがあった。


「《Avalon》は、誰かが安心できる場所にしたいんです。
 お客様にとっても、働く子にとっても。
 だから――暴力も、強要も、ここにはいりません」
 一拍の沈黙。
その言葉が落ちた瞬間、笑っていた男たちの表情が変わった。
金髪の男が立ち上がり、テーブルのグラスを掴む。
「はぁ? 説教かよ。店長のくせに、調子乗んなよ」
 そのまま、グラスが投げられた。
壁にぶつかり、カン高い音と鈍い音とともに割れたガラスと氷が散る。
透明な破片がカウンターのライトを反射してきらめいた。


 蘭華の頬に、ひとつの雫が伝う。
それが酒か汗か、本人にもわからなかった。
彼女は無言のまま、テーブルの上のボトルを見つめた。
手が震えていないのが、逆に恐ろしく見えるほどだった。
「……これ以上続けるなら、通報します」
「おかわり頼むよ、な? 機嫌直せよ」
 蘭華は微動だにしなかった。
「……今日はもうお帰りください」
 短く、はっきりとした口調。
 その声が静寂を割った。
その場の空気がぴんと張り詰める。
笑い声が消え、音楽だけが虚しく流れる。
酔っ払いたちは互いに顔を見合わせ、次の瞬間、挑発的な笑みを浮かべた。
「なぁに? 追い出すつもりか?」
「可愛い顔して気が強いじゃねぇか。惚れそうだわ」
「でもよ、店員の教育がなってねぇよな? なぁ?」


 金髪の男が言うと同時に、手を伸ばしてキャストの一人の顎をつかむ。
彼女は身を引こうとするが、肩を押さえられて動けない。
蘭華がその手を払いのける。
「やめてください。もう一度言います、帰ってください」
 声のトーンが低くなる。
その瞬間、彼女の瞳の奥にあった怒りが、はっきりと火を灯した。
 スカジャンの男が、舌打ちした。
「チッ……なんだよ店長。仕事だろ? 愛想よくしろや」
「……ここは“そういう店”じゃないわ」
「へぇ、そういう店じゃねぇのに、この格好か? 十分そっち系だろ」
 男たちの笑い声が、薄っぺらい音楽を押し潰す。


 カウンターの奥の常連客たちは俯いたまま。
誰も動かない。
キャストの一人が、震える声で「やめてください」と言ったが、
その声は騒音にかき消された。
蘭華が一歩踏み出し、その手を払いのけた。
「触らないでください」
 低く、凛とした声。
 店内の誰もが息を呑む。
「は? なんだよ。ちょっと触ったくらいで」
「触ったらダメだって言ってるでしょ」
 蘭華の口調は変わらない。だが、その奥にある怒気は誰の耳にも伝わった。
スカジャンの男が鼻で笑う。
「はぁ……なんか偉そうだなぁ。若いくせに店長か?」
「ええ。店を守るのが、私の仕事なんで」
「守る? 誰から?」
「あなたたちから」
 その一言が、火に油を注いだ。
金髪の男が舌打ちをし、スウェットの男がグラスを掴んだ。
「じゃあ、守ってみろよ」
 乾いた音が響く。
グラスがテーブルに叩きつけられ、中の氷と液体が跳ね散る。
甘い香りが一瞬にして刺激臭に変わった。


 蘭華は微動だにせず、その破片を見下ろした。
頬にかかった酒の雫を指で拭い、静かに言う。
「……本当に、出ていってください」
 沈黙。
店内の音楽がやけに遠く聞こえる。
誰も笑わない。
ただ男たちの息だけが荒く響いた。
金髪の男が低く呟く。
「なぁ、マジで出てけって言ってんの?」
「そうです。これ以上騒ぐなら、通報します」
 淡々としたその言葉に、スカジャンの男が肩を震わせて笑った。
「警察? 笑わせんなよ」
 蘭華は一歩も引かない。
視線は真っ直ぐ、口元の表情も崩れない。
怒りでも、恐怖でもない。
その瞳には「絶対に折れない」という意志だけがあった。


 ……店の外で、雨が音を立てていた。
 軒下のコンクリートを叩く雨粒の音が、かすかに響く。
 そして、階段の方から足音。
 低く、重い靴音。
 一定のリズムで近づいてくる。
蘭華は小さく息を吐き、視線を入り口に向けた。
 「……来た」
 その一言を誰に向けるでもなく呟く。
 彼女の胸の奥で、張り詰めていた糸がわずかに震えた。


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