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第1話 無能と呼ばれた婚約破棄
煌びやかなシャンデリアの光が、王都の舞踏会場を金色に照らしていた。
音楽が優雅に響く中、私は胸元を正しながら立っていた。今夜は――私とアラン様の婚約を正式に発表する日。けれど胸の奥には、言葉にできない不安がひっそりと渦巻いていた。
アラン・グラスト公爵家の次男、私の婚約者。金髪を整え、誰よりも華やかな笑みを浮かべる彼は、社交界の誰もが羨む存在だった。
そんな彼が、私の隣に立つことを望んでくれた――はずだった。
なのに、今夜の彼の視線は、私ではなく別の誰かに注がれている。
「リリアーナ・ベルフェン嬢」
アラン様の声が響いた瞬間、音楽が止まり、会場中の視線が私たちに集まった。
胸が締めつけられるように痛い。嫌な予感が、確信に変わる。
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
その言葉は、冷たい刃のように私の心を貫いた。
一瞬、周囲の誰もが息を呑んだ。だが、次の瞬間、さざ波のようにざわめきが広がる。
「えっ……」
私は思わず声を漏らした。
アラン様は、いつもの優しい微笑を浮かべていない。かわりに、軽蔑の色を帯びた冷笑を浮かべていた。
「君のような“無能”を妻に迎えるわけにはいかない。王家の名誉を汚すつもりはないんだ」
――無能。
その言葉が、頭の中で何度もこだまする。
私の力は、治癒魔法に似て非なるもの。どんな傷も癒せず、役立たずと罵られた。宮廷魔導士見習いとして努力を重ねても、成果は認められなかった。
けれど、アラン様だけは理解してくれていると思っていた。そう信じて、今日まで――。
「アラン様、どうして……?」
かすれた声で問いかけると、彼は隣の女性に優しく微笑んだ。
淡いピンクのドレスを着た彼女――ソフィア・ローゼン。かつて私の親友だった人。
「彼女こそが、真にふさわしい淑女だ。君のように魔力ばかり多くて使い道のない女より、ずっと王都に相応しい」
「……っ」
ソフィアは上品に頭を下げ、勝ち誇ったように私を見た。
「リリアーナ様、ごめんなさいね。でも、アラン様を本当に愛しているの」
会場の空気が、冷たく固まっていく。貴族たちは遠巻きに私を見ながら、ひそひそと囁き合う。
「やっぱりね、無能令嬢って噂は本当だったのね」
「かわいそうに。でもまあ、公爵家には荷が重かったのよ」
誰もが、私を笑っている。
それでも、涙は見せたくなかった。
「……わかりました」
私は静かに頭を下げた。
「ご婚約の件、承知いたします。どうかお幸せに」
その言葉を口にするまで、喉が焼けるように痛かった。
それでも笑ってみせた。せめて最後の矜持だけは、失いたくなかった。
踵を返し、長いドレスの裾を引きずりながら会場を後にする。背後から聞こえる笑い声が、刺のように胸に刺さった。
外は冬の夜風。頬を撫でる冷気が、涙を凍らせる。
星の瞬く空の下、私はひとり、静かに呟いた。
「……無能、か」
王都で生きていく理由を失ったその夜。
私の運命を変える、一通の手紙が屋敷に届くのだった。
△
薄い封筒に刻まれた紋章――それは、王国でも最も重んじられる家の印だった。
“ロウズ公爵家”――辺境を治める一族であり、冷徹公爵と呼ばれる男、セドリック・ヴァン=ロウズの印。
私は信じられない思いで手紙を開いた。
『あなたの魔力を一度見せていただきたい。
もしも王都に居場所がないのなら、ロウズ領まで来るといい。
――セドリック・ヴァン=ロウズ』
それは、まるで運命に導かれるような招待状だった。
私は震える指で紙を握りしめ、長い間、何も言えずにいた。
王都の屋敷を去る朝、メイドたちは誰一人として見送りに来なかった。
かつて私の部屋を飾った花瓶も、豪奢なカーテンも、もう何の意味もない。
けれど不思議と、心は穏やかだった。――失うものなど、もう何もないのだから。
馬車の扉が閉まり、王都の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
凍てつく街路の石畳、背を向けた知人たちの冷たい目。
あんな世界に、戻る理由なんてない。
そう思うと、わずかに前を向く勇気が湧いてきた。
窓の外を流れる雪景色を眺めながら、私は自分の手を見つめる。
治癒魔法も使えない“無能”の手。けれどこの手で、何かを作れるなら――。
辺境の地へ向かう旅路は、思ったよりも長く、そして厳しかった。
夜は冷え込み、宿場町では暖炉の火が恋しかった。
それでも、旅の途中で出会う人々は、王都の誰よりも温かかった。
「嬢ちゃん、手、冷えてるだろ? これを持って行きな」
小さな村で出会った老人が、使い古した手袋を差し出してくれた。
その優しさに胸が熱くなり、思わず頭を下げた。
「ありがとうございます……」
王都では、誰も私にそんな言葉をかけてくれなかった。
身分や肩書きのない場所で、人は純粋に他人を思いやることができる。
それだけで、心が救われる気がした。
やがて、雪原の向こうに灰色の城が見えてくる。
高い塔と鋭い屋根を持つその城は、まるで凍った巨人のように静かに佇んでいた。
――ここが、ロウズ領。
馬車が止まり、扉を開けると、冷たい風が頬を打った。
足を踏み出すと、雪がきゅっ、と音を立てる。
そこに立っていたのは、黒い外套を纏った一人の男。
「あなたが……リリアーナ・ベルフェン嬢か」
低く落ち着いた声。
漆黒の髪に、氷のような青い瞳。
その存在だけで空気が張りつめるような、圧倒的な威圧感。
「はい……。セドリック公爵閣下、でいらっしゃいますか?」
彼はわずかに頷いた。
感情の読めないその瞳が、まっすぐに私を射抜く。
まるで心の奥を覗かれているようで、思わず息を呑んだ。
「寒かっただろう。……中へ」
その一言だけを残して、彼は背を向けた。
無駄のない所作、凛とした背筋。
“冷徹公爵”という呼び名が、ほんの少しだけ理解できた気がする。
石造りの廊下を歩くと、足音が反響して不思議な静けさを生んだ。
暖炉の火がちらちらと揺れ、オレンジの光が彼の横顔を照らす。
その横顔は、冷たさの奥に、かすかな哀しみを宿しているようにも見えた。
「王都でのことは耳にしている」
セドリックは振り返らずに言った。
「……あなたは、無能ではない」
「え……?」
「魔力の系統が珍しいだけだ。理解できぬ者が笑うのは、よくあることだ」
静かに、けれど確信に満ちた口調。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。誰も私をそうは言ってくれなかったのに。
「君の力を試してみたい」
彼は立ち止まり、振り返った。
「明日、屋敷の薬草園に来るといい。そこに、君の答えがある」
そう言って、セドリックは去っていった。
残された私は、ただ立ち尽くす。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
――この人は、いったい何者なのだろう。
そして、どうして私の“力”を知っているのだろう。
その夜、窓の外で静かに雪が降っていた。
月明かりが積もる雪を淡く照らし、世界を白く包んでいく。
その光を見つめながら、私はふと思う。
もしかしたら――ここで、私はやり直せるのかもしれない。
◇
夜明け前の空気は、肌を刺すように冷たかった。
私は外套の襟を握りしめ、深呼吸をした。
今日、セドリック公爵の言葉通り、薬草園へ向かう――この地で初めての朝だ。
廊下を抜けて中庭を歩くと、雪に覆われた温室が見えた。
白い息を吐きながら扉を開けると、そこには意外なほど穏やかな空気が広がっていた。
ガラス越しの光が差し込み、薄く霜をまとった薬草たちが微かに輝いている。
「ここが……公爵様の薬草園……」
枯れかけた草木の間から、かすかに緑の香りが漂う。
けれど全体的には元気がない。王都で見た研究用の薬草園よりも、ずっと荒れていた。
「なるほど、放っておかれたままなのですね……」
私は袖をまくり、土に指を差し込んだ。
――冷たい。
だが、その奥にはまだわずかな生命の温もりが残っている。
そのとき、背後から静かな足音が近づいた。
「来たか」
低く響く声に振り向くと、セドリック公爵が立っていた。
黒の軍装のような服に身を包み、片手に手袋を持っている。
その姿は、氷の彫像のように完璧だった。
「ご指示のとおり、参りました」
「よろしい」
彼はわずかに頷き、温室の中央に歩み寄る。
「ここに、王都から取り寄せた試験用の苗がある。……この中で一つも根づかなかった」
テーブルの上には、枯れた苗が並んでいた。
私が触れた瞬間、わずかに光が宿る――が、すぐに消えた。
「……」
私は唇をかみしめた。
無能と呼ばれた日々が頭をよぎる。何度試しても結果が出なかった過去。
けれど、あの頃とは違う。
もう誰かに認められるためではなく、自分のために力を使いたい。
私は両手を苗の上にかざし、ゆっくりと魔力を流した。
柔らかな光が、指先から土の中へと染み込んでいく。
体の奥から、温かい流れが生まれるのがわかった。
「……?」
セドリックが、わずかに眉を動かした。
光が土の表面を包み込み、枯れていた苗の先端に淡い緑が戻る。
「芽が……」
「生き返った……のか」
私自身、信じられなかった。
これまでどんなに努力しても、何も変わらなかったのに。
けれど今、確かに草木の命が脈打っているのが感じられる。
「これは……治癒ではない。生命力そのものを増幅している」
セドリックが低く呟く。
「つまり、君の魔力は“命を育てる”力か」
彼の瞳が、真剣な光を帯びた。
まるで氷の奥から炎が覗いたような熱を帯びている。
「面白い。王都の者たちには理解できまい」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
やっと誰かが、この力を“面白い”と言ってくれた。
「君は明日から、この薬草園の管理を任される」
「えっ……私が?」
「そうだ。ここを蘇らせられるのは君だけだ」
私は思わず背筋を伸ばした。
驚きと喜びが入り混じる。だが、それ以上に感じたのは――信頼。
「……ありがとうございます、公爵様。必ず、花を咲かせてみせます」
深く頭を下げると、彼はわずかに目を細めた。
「無理をするな。……寒さが苦手なら、カレンに言え」
「カレン?」
「屋敷のメイドだ。明るい娘だが、少々おしゃべりだ。君の手伝いをさせる」
セドリックは踵を返し、出口へ向かう。
その背中は堂々としていて、孤高の王者のようだった。
扉の前で彼がふと立ち止まり、振り返る。
「――君のような者が、無能であるはずがない」
その一言が、私の胸に深く刻まれた。
彼が去ったあとも、その声の余韻が心に残る。
私はそっと苗を撫で、呟いた。
「この場所で、私は生き直すのですね……」
外では雪が止み、薄い雲の間から朝日が顔を出していた。
温室の中に、柔らかな光が差し込む。
それはまるで、長い冬の終わりを告げる光のように――静かに、私の世界を照らしていた。
煌びやかなシャンデリアの光が、王都の舞踏会場を金色に照らしていた。
音楽が優雅に響く中、私は胸元を正しながら立っていた。今夜は――私とアラン様の婚約を正式に発表する日。けれど胸の奥には、言葉にできない不安がひっそりと渦巻いていた。
アラン・グラスト公爵家の次男、私の婚約者。金髪を整え、誰よりも華やかな笑みを浮かべる彼は、社交界の誰もが羨む存在だった。
そんな彼が、私の隣に立つことを望んでくれた――はずだった。
なのに、今夜の彼の視線は、私ではなく別の誰かに注がれている。
「リリアーナ・ベルフェン嬢」
アラン様の声が響いた瞬間、音楽が止まり、会場中の視線が私たちに集まった。
胸が締めつけられるように痛い。嫌な予感が、確信に変わる。
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
その言葉は、冷たい刃のように私の心を貫いた。
一瞬、周囲の誰もが息を呑んだ。だが、次の瞬間、さざ波のようにざわめきが広がる。
「えっ……」
私は思わず声を漏らした。
アラン様は、いつもの優しい微笑を浮かべていない。かわりに、軽蔑の色を帯びた冷笑を浮かべていた。
「君のような“無能”を妻に迎えるわけにはいかない。王家の名誉を汚すつもりはないんだ」
――無能。
その言葉が、頭の中で何度もこだまする。
私の力は、治癒魔法に似て非なるもの。どんな傷も癒せず、役立たずと罵られた。宮廷魔導士見習いとして努力を重ねても、成果は認められなかった。
けれど、アラン様だけは理解してくれていると思っていた。そう信じて、今日まで――。
「アラン様、どうして……?」
かすれた声で問いかけると、彼は隣の女性に優しく微笑んだ。
淡いピンクのドレスを着た彼女――ソフィア・ローゼン。かつて私の親友だった人。
「彼女こそが、真にふさわしい淑女だ。君のように魔力ばかり多くて使い道のない女より、ずっと王都に相応しい」
「……っ」
ソフィアは上品に頭を下げ、勝ち誇ったように私を見た。
「リリアーナ様、ごめんなさいね。でも、アラン様を本当に愛しているの」
会場の空気が、冷たく固まっていく。貴族たちは遠巻きに私を見ながら、ひそひそと囁き合う。
「やっぱりね、無能令嬢って噂は本当だったのね」
「かわいそうに。でもまあ、公爵家には荷が重かったのよ」
誰もが、私を笑っている。
それでも、涙は見せたくなかった。
「……わかりました」
私は静かに頭を下げた。
「ご婚約の件、承知いたします。どうかお幸せに」
その言葉を口にするまで、喉が焼けるように痛かった。
それでも笑ってみせた。せめて最後の矜持だけは、失いたくなかった。
踵を返し、長いドレスの裾を引きずりながら会場を後にする。背後から聞こえる笑い声が、刺のように胸に刺さった。
外は冬の夜風。頬を撫でる冷気が、涙を凍らせる。
星の瞬く空の下、私はひとり、静かに呟いた。
「……無能、か」
王都で生きていく理由を失ったその夜。
私の運命を変える、一通の手紙が屋敷に届くのだった。
△
薄い封筒に刻まれた紋章――それは、王国でも最も重んじられる家の印だった。
“ロウズ公爵家”――辺境を治める一族であり、冷徹公爵と呼ばれる男、セドリック・ヴァン=ロウズの印。
私は信じられない思いで手紙を開いた。
『あなたの魔力を一度見せていただきたい。
もしも王都に居場所がないのなら、ロウズ領まで来るといい。
――セドリック・ヴァン=ロウズ』
それは、まるで運命に導かれるような招待状だった。
私は震える指で紙を握りしめ、長い間、何も言えずにいた。
王都の屋敷を去る朝、メイドたちは誰一人として見送りに来なかった。
かつて私の部屋を飾った花瓶も、豪奢なカーテンも、もう何の意味もない。
けれど不思議と、心は穏やかだった。――失うものなど、もう何もないのだから。
馬車の扉が閉まり、王都の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
凍てつく街路の石畳、背を向けた知人たちの冷たい目。
あんな世界に、戻る理由なんてない。
そう思うと、わずかに前を向く勇気が湧いてきた。
窓の外を流れる雪景色を眺めながら、私は自分の手を見つめる。
治癒魔法も使えない“無能”の手。けれどこの手で、何かを作れるなら――。
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夜は冷え込み、宿場町では暖炉の火が恋しかった。
それでも、旅の途中で出会う人々は、王都の誰よりも温かかった。
「嬢ちゃん、手、冷えてるだろ? これを持って行きな」
小さな村で出会った老人が、使い古した手袋を差し出してくれた。
その優しさに胸が熱くなり、思わず頭を下げた。
「ありがとうございます……」
王都では、誰も私にそんな言葉をかけてくれなかった。
身分や肩書きのない場所で、人は純粋に他人を思いやることができる。
それだけで、心が救われる気がした。
やがて、雪原の向こうに灰色の城が見えてくる。
高い塔と鋭い屋根を持つその城は、まるで凍った巨人のように静かに佇んでいた。
――ここが、ロウズ領。
馬車が止まり、扉を開けると、冷たい風が頬を打った。
足を踏み出すと、雪がきゅっ、と音を立てる。
そこに立っていたのは、黒い外套を纏った一人の男。
「あなたが……リリアーナ・ベルフェン嬢か」
低く落ち着いた声。
漆黒の髪に、氷のような青い瞳。
その存在だけで空気が張りつめるような、圧倒的な威圧感。
「はい……。セドリック公爵閣下、でいらっしゃいますか?」
彼はわずかに頷いた。
感情の読めないその瞳が、まっすぐに私を射抜く。
まるで心の奥を覗かれているようで、思わず息を呑んだ。
「寒かっただろう。……中へ」
その一言だけを残して、彼は背を向けた。
無駄のない所作、凛とした背筋。
“冷徹公爵”という呼び名が、ほんの少しだけ理解できた気がする。
石造りの廊下を歩くと、足音が反響して不思議な静けさを生んだ。
暖炉の火がちらちらと揺れ、オレンジの光が彼の横顔を照らす。
その横顔は、冷たさの奥に、かすかな哀しみを宿しているようにも見えた。
「王都でのことは耳にしている」
セドリックは振り返らずに言った。
「……あなたは、無能ではない」
「え……?」
「魔力の系統が珍しいだけだ。理解できぬ者が笑うのは、よくあることだ」
静かに、けれど確信に満ちた口調。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。誰も私をそうは言ってくれなかったのに。
「君の力を試してみたい」
彼は立ち止まり、振り返った。
「明日、屋敷の薬草園に来るといい。そこに、君の答えがある」
そう言って、セドリックは去っていった。
残された私は、ただ立ち尽くす。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
――この人は、いったい何者なのだろう。
そして、どうして私の“力”を知っているのだろう。
その夜、窓の外で静かに雪が降っていた。
月明かりが積もる雪を淡く照らし、世界を白く包んでいく。
その光を見つめながら、私はふと思う。
もしかしたら――ここで、私はやり直せるのかもしれない。
◇
夜明け前の空気は、肌を刺すように冷たかった。
私は外套の襟を握りしめ、深呼吸をした。
今日、セドリック公爵の言葉通り、薬草園へ向かう――この地で初めての朝だ。
廊下を抜けて中庭を歩くと、雪に覆われた温室が見えた。
白い息を吐きながら扉を開けると、そこには意外なほど穏やかな空気が広がっていた。
ガラス越しの光が差し込み、薄く霜をまとった薬草たちが微かに輝いている。
「ここが……公爵様の薬草園……」
枯れかけた草木の間から、かすかに緑の香りが漂う。
けれど全体的には元気がない。王都で見た研究用の薬草園よりも、ずっと荒れていた。
「なるほど、放っておかれたままなのですね……」
私は袖をまくり、土に指を差し込んだ。
――冷たい。
だが、その奥にはまだわずかな生命の温もりが残っている。
そのとき、背後から静かな足音が近づいた。
「来たか」
低く響く声に振り向くと、セドリック公爵が立っていた。
黒の軍装のような服に身を包み、片手に手袋を持っている。
その姿は、氷の彫像のように完璧だった。
「ご指示のとおり、参りました」
「よろしい」
彼はわずかに頷き、温室の中央に歩み寄る。
「ここに、王都から取り寄せた試験用の苗がある。……この中で一つも根づかなかった」
テーブルの上には、枯れた苗が並んでいた。
私が触れた瞬間、わずかに光が宿る――が、すぐに消えた。
「……」
私は唇をかみしめた。
無能と呼ばれた日々が頭をよぎる。何度試しても結果が出なかった過去。
けれど、あの頃とは違う。
もう誰かに認められるためではなく、自分のために力を使いたい。
私は両手を苗の上にかざし、ゆっくりと魔力を流した。
柔らかな光が、指先から土の中へと染み込んでいく。
体の奥から、温かい流れが生まれるのがわかった。
「……?」
セドリックが、わずかに眉を動かした。
光が土の表面を包み込み、枯れていた苗の先端に淡い緑が戻る。
「芽が……」
「生き返った……のか」
私自身、信じられなかった。
これまでどんなに努力しても、何も変わらなかったのに。
けれど今、確かに草木の命が脈打っているのが感じられる。
「これは……治癒ではない。生命力そのものを増幅している」
セドリックが低く呟く。
「つまり、君の魔力は“命を育てる”力か」
彼の瞳が、真剣な光を帯びた。
まるで氷の奥から炎が覗いたような熱を帯びている。
「面白い。王都の者たちには理解できまい」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
やっと誰かが、この力を“面白い”と言ってくれた。
「君は明日から、この薬草園の管理を任される」
「えっ……私が?」
「そうだ。ここを蘇らせられるのは君だけだ」
私は思わず背筋を伸ばした。
驚きと喜びが入り混じる。だが、それ以上に感じたのは――信頼。
「……ありがとうございます、公爵様。必ず、花を咲かせてみせます」
深く頭を下げると、彼はわずかに目を細めた。
「無理をするな。……寒さが苦手なら、カレンに言え」
「カレン?」
「屋敷のメイドだ。明るい娘だが、少々おしゃべりだ。君の手伝いをさせる」
セドリックは踵を返し、出口へ向かう。
その背中は堂々としていて、孤高の王者のようだった。
扉の前で彼がふと立ち止まり、振り返る。
「――君のような者が、無能であるはずがない」
その一言が、私の胸に深く刻まれた。
彼が去ったあとも、その声の余韻が心に残る。
私はそっと苗を撫で、呟いた。
「この場所で、私は生き直すのですね……」
外では雪が止み、薄い雲の間から朝日が顔を出していた。
温室の中に、柔らかな光が差し込む。
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無能扱いで王城を追われた令嬢の私、辺境で開花したチート才能を見出した冷徹公爵様に独占的な溺愛と永遠の寵愛を誓われ今さら土下座されてももう遅い
さくら
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