悪役令嬢として断罪され追放された私、辺境で拾ってくれた騎士団長に才能を見出され溺愛と寵愛の中で幸せに暮らしています―今さら戻ってこいもう遅い

さら

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第4話 笑顔を取り戻す朝



 朝の空気は、刺すように冷たかった。けれど、窓を開けた瞬間に感じたその冷たさは、どこか清らかでもあった。夜の雪がすっかり止み、あたりは静寂の中で光を孕んでいる。遠くで鳥の声が響き、屋根の上から雪がひとすじ滑り落ちた。

 私は手を合わせて小さく息を吐く。今日も生きている。昨日より少しだけ、前に進める気がした。
 厚いマントを羽織り、玄関に出ると、ミーナが手を振って迎えてくれた。
「おはようございます、レティシアさん! 今日も孤児院ですか?」
「ええ。パンを焼くのを手伝おうと思って」
「団長が喜びますね。最近、みんなの顔が明るくなったって言ってましたよ」
「まあ……そんなことを?」
「ふふっ。照れて言ってませんけどね」

 館を出ると、雪原に朝日が差していた。金色の光が大地を包み、凍った木々をきらめかせる。息を吸うたび、胸の奥まで清らかになる気がした。
 道すがら、村人たちが雪かきをしていて、私を見ると笑顔で手を振ってくる。
「おはよう、嬢ちゃん! 今日も孤児院かい?」
「はい、少しだけお手伝いを」
「助かるよ。子どもたちがあんたの話ばかりしてるんだ」
「うふふ、光栄ですわ」
 笑い合いながら通り過ぎる。――ほんの数週間前まで、人々の視線は私にとって恐怖の象徴だった。それが今では、温もりのしるしに変わっている。

 孤児院の扉を開けると、焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐった。
「レティシアお姉ちゃん!」
「おはよう!」
「今日はパン? それともお裁縫?」
 子どもたちが一斉に駆け寄ってくる。
「ふふ、今日はパンね。みんな、こねるのは得意かしら?」
「ぼく、昨日もやった!」
「わたし、こねすぎて手が白くなった!」
「それは粉よ」
 笑いが弾け、部屋の空気があたたかくなる。修道女が微笑みながらオーブンを開け、香ばしい香りが立ちのぼった。

「焼き上がりましたよ。ほら、レティシアさん、こちらを」
「まあ、きれいに膨らんで……!」
 黄金色のパンが並んでいる。私は思わずため息を漏らした。王都の食卓に並ぶ豪華な菓子よりも、ずっと心を満たしてくれる。
 パンを籠に詰めて外へ出ると、冬の光が眩しい。凍った大地の上に子どもたちが並び、手を温めながら私を見上げていた。
「じゃあ、順番にね。焼きたてだから熱いわよ」
「わーい!」
「おいしそう!」

 ひとりひとりにパンを渡していく。受け取った瞬間に小さな手が温もりを伝えてくる。その度に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「お姉ちゃん、王都のお姫様みたいなのに、なんでここにいるの?」
 子どもの何気ない質問に、私は少しだけ言葉を探した。
「そうね……昔、少しだけ迷子になったの。でも、この村で見つけてもらえたの」
「見つけたのはだれ?」
「――優しい騎士さまよ」
「騎士さま! すごい!」
 歓声が上がる。私は微笑みながら、ギルバートの顔を思い浮かべた。彼の灰色の瞳、低く静かな声。そのすべてが、この村の風景に溶け込んでいる。

 そのとき、雪の上を踏む足音が聞こえた。
「……まさか、噂をすればだな」
 振り返ると、ギルバートが立っていた。外套の肩には薄く雪が積もり、息が白く揺れている。
「団長!」
「おおっ、団長だ!」
 子どもたちが一斉に駆け寄る。ギルバートは困ったように眉をひそめながらも、ひとりひとりの頭を大きな手で撫でた。
「お前たち、寒くないのか」
「パンがあったかいもん!」
「ならいい」

 彼は私のほうへ視線を向けた。
「朝からずいぶん楽しそうだな」
「ええ、ここでは毎日があっという間です」
「そうか」
 短い会話なのに、不思議と心が通じた気がした。彼の口元がかすかに緩む。それだけで胸が熱くなる。

「レティシア。村の市場で薬草が足りないらしい。午後に一緒に行けるか?」
「ええ、もちろん」
「助かる。……子どもたち、午後は静かにしていろよ」
「えぇーっ!」
 子どもたちの抗議の声に、ギルバートが苦笑した。私は思わず吹き出す。
「ふふ、相変わらず人気者ですね」
「俺は面倒を見てるだけだ」
「でも、皆あなたを慕っているわ」
「……そう見えるなら、悪くない」

 パンの香りと笑い声に包まれながら、私はふと思った。
 ――ああ、ここにいると、自分の心がほどけていく。

 王都で背負った鎖のような日々。断罪の舞踏会で浴びた嘲笑。すべてが遠い記憶の底へ沈んでいく。今の私は、ただこの雪の村で息をしている。それだけで十分だった。

 ギルバートが村の通りを歩いていく。私は子どもたちの歓声を背に、その背中を目で追った。
 灰色の外套が雪明かりの中でゆらめく。
 ――彼と出会っていなければ、私はもうこの世界にいなかった。

 指先に残るパンの温もりを胸に、私は小さく笑った。
 そして心の中でそっとつぶやく。
 「ありがとう、ギルバート」

 風が頬を撫で、雪がやさしく舞い落ちた。
 その瞬間、私は初めて心の底から笑っていた。





 昼を過ぎても陽光はやわらかく、雪を薄く照らしていた。子どもたちを修道女に任せ、私はギルバートと並んで村の通りを歩いていた。市場へ向かう道は、凍った雪を踏みしめる音だけが響く。家々の屋根からは氷柱が垂れ、煙突の白い煙が空へ溶けていく。
「市場はこの先だ。冬でも人は多い。転ぶなよ」
「ええ、気をつけます」
 並んで歩く距離はわずか数歩なのに、なぜか心臓が早く打つ。歩調を合わせようとすると、彼の歩幅が大きすぎて少し小走りになる。
「無理に合わせるな」
「え?」
「お前の歩き方でいい。俺が合わせる」
 低い声が耳に届く。その優しさに頬が熱くなり、うつむいて雪を見た。

 市場は村の中心の広場にあり、木造の屋台が円を描くように並んでいた。干し肉、毛皮、薬草、パン、蜜ろうの蝋燭――どれも素朴で、けれど温もりを感じさせる。王都の市場では高価な品ばかりが並んでいたが、ここでは人々の暮らしそのものが商品になっている。
「団長さん!」
 商人たちが次々に声をかけてくる。
「いつも巡回ありがとうございます」「奥さん連れてるんですか?」
 奥さん――その言葉に、私は思わず咳払いをした。ギルバートは少し眉を上げ、周囲を見回してから淡々と答える。
「違う。ただの客だ」
「ほう、そうでしたか。失礼しました!」
 商人が笑って去る。だが、周囲の視線が妙に温かくて、私はどうにも顔を上げられなかった。

「……みんな、あなたを信頼してるのね」
「この村じゃ、互いを信じなきゃ生きられん」
「素敵なことですわ」
「王都では違うのか?」
「信じるより、競うほうが早かったです」
 ギルバートが少しだけ目を細めた。
「そういう場所で育つと、疲れるだろうな」
「ええ。けれど、それしか知らなかった」
「今は?」
「……今は、雪が好きになりました」
 彼の表情がふっと緩む。
「それなら、辺境に来た甲斐があったな」

 薬草を扱う屋台の前で足を止めた。乾いた葉や根が瓶に詰められ、淡い緑の香りが漂う。
「この辺りのハーブは強い効能があります。喉の痛みにもよく効くんですよ」
 商人の言葉に、私はふと手を伸ばして小瓶を取った。
「タイムとセージ……少しブレンドすれば、風邪に効くお茶が作れそう」
「詳しいんだな」
「ええ。母が好きだったんです。寒い日にいつも煮出してくれました」
「……母親の味、か」
 ギルバートはその瓶をひとつ買い取ると、私に差し出した。
「持っていけ。あんたが使う方がうまく扱える」
「いけません。お金を――」
「いい。礼だ」
「礼?」
「子どもたちが笑ってた。お前のおかげだ」
 真っ直ぐな視線に、心臓がまた跳ねた。

「……ありがとうございます」
「ふむ」
 彼はほんの少しだけ口元を緩めたが、すぐに視線を逸らした。照れているのかもしれない。その仕草が、無骨な彼には似つかわしくないほど人間らしくて、胸があたたかくなる。

 そのとき、通りの端から年老いた男が近づいてきた。雪にまみれた杖を突きながら、何かを抱えている。
「団長さん……! 助けてくだせぇ」
「どうした」
「村の小屋の屋根が崩れまして、家畜が……!」
「怪我人は?」
「わしの孫が足を……!」
 ギルバートの顔が一瞬で険しくなった。
「レティシア。悪い、先に戻っててくれ」
「いいえ、私も行きます」
「だめだ。危険だ」
「包帯くらい巻けます。薬草も持っています」
 一瞬、彼は躊躇したが、すぐに頷いた。
「わかった。離れるな」

 二人で駆け出す。雪が足元で跳ね、冷たい風が頬を刺す。家畜小屋のあたりから、かすかな泣き声が聞こえた。
 屋根が崩れ、木材と雪に覆われた小屋の前で、人々が慌てていた。中からは小さなうめき声。
「孫が中だ! 早く出してくれ!」
 ギルバートが雪を払いのけ、太い梁を肩で押し上げる。ぎしり、と嫌な音。
「下がれ!」
 彼が声を上げ、木片を蹴り飛ばした。その瞬間、私は地面に膝をつき、子どもの小さな手を見つけた。
「こっちです!」
 冷たい手を握りしめると、わずかに動いた。
「意識があります!」
「引っ張れ!」
 ギルバートが梁を持ち上げ、私は子どもの体を抱き寄せる。

 やがて雪と埃の中から、少年が無事に救い出された。腕に小さな擦り傷。足をかばうようにして泣いている。
「大丈夫、もう怖くないわ」
 私はポケットのハーブを取り出し、素早く包帯にすり込んで膝を巻いた。ハーブの香りがふわりと漂い、子どもの呼吸が落ち着く。
「痛いの、少し我慢してね」
「……うん」
 涙で濡れた頬に微笑みを向けると、ギルバートが傍に立ち、短く言った。
「よくやった」
「いえ、あなたこそ。あんな重い梁を……」
「慣れてる」
 その言葉のあと、彼は小屋の外に視線を向けた。吹雪の残りが風に舞い、雪がきらきらと光る。

 村人たちが安堵の声を上げ、子どもを抱えて帰っていく。
「団長様! 本当に助かりました!」
「感謝します、レティシア様!」
 皆が口々に頭を下げる。私は慌てて手を振った。
「私は何も……ただ少し包帯を」
「それでもあの子が笑ってる。立派なことですよ」
 修道女の声に、思わず頬が熱くなった。

 ギルバートが隣で腕を組む。
「これで分かっただろう」
「何がですか?」
「お前は、誰かを助けられる人間だ」
 その言葉に、胸がいっぱいになる。何も言えず、ただ小さく頷いた。

 夕日が雪原を橙色に染める。長い影がふたりの足元に伸びていた。
 ギルバートがふと笑った。
「今日はよく働いたな。帰ったら熱いスープでも飲め」
「ふふ……あなたもね」
「俺はいい」
「だめ。あなたも、ちゃんと温まってください」
 軽く笑い合うその瞬間、空に初めて星が瞬いた。

 あの夜、私はようやく気づいたのだ。
 ――私はもう、誰かに許しを乞う必要はない。
 この地で、笑って生きること。それが、私の新しい罰であり、救いなのだと。

 遠くで鐘が鳴り、辺境の夜がゆっくりと訪れる。
 雪明かりの下で、ギルバートの横顔が優しく揺れていた。




 館に戻ったのは、すっかり陽が落ちてからだった。夜の空気は一段と冷たく、息を吐くたびに白い霧が生まれてはすぐ消えた。ギルバートは無言のまま門を押し開け、私を先に中へ促した。
「冷えただろう。火を強くしておけ」
「ええ。でもあなたのほうこそ。あんなに重い梁を……腕は大丈夫ですか?」
「このくらい、どうってことない」
 そう言いながらも、彼の袖口から覗いた皮手袋の端には、血の跡が滲んでいた。
「嘘ですね」
「何がだ」
「痛むでしょう」
「……少しな」
 彼は観念したように苦笑する。その無防備な表情に、胸が締めつけられた。

「待っててください。薬草を煎じます」
「自分で――」
「いいから座って」
 少し強い声で言うと、ギルバートは目を瞬かせ、それから素直に椅子へ腰を下ろした。私は台所の片隅に向かい、昼に買ったばかりのハーブを取り出す。タイムとセージをすり潰し、湯に溶かして布に染み込ませる。
 戻って彼の手を取ると、皮手袋の下の掌には切り傷があった。
「これ、放っておいたら化膿しますよ」
「戦のときはもっと酷かった」
「ここは戦場じゃありません」
「そうだな……不思議だ」
「何がです?」
「お前に言われると、妙に従う気になる」
 彼の言葉に、思わず動きを止めた。
「……それは、私がうるさいからでしょう?」
「いや。違う」
 短く否定したその声が、低く心地よく響く。

 湿布をあてながら、私は小さく息をついた。
「これでしばらくすれば楽になります」
「ありがとう」
「どういたしまして。……あなた、意外と聞き分けがいいのね」
「誰にでもこうして世話を焼くのか?」
「いいえ。あなたが初めてです」
 自分でも驚くほど素直な言葉だった。ギルバートは少しだけ目を見開き、照れ隠しのように咳払いをした。
「……そうか」
「ええ。あなたは不思議な人です。怖いようで、でも放っておけない」
「怖いのは否定できんな」
「怖くなんてありませんよ」
 彼が私を見る。焚き火の光がその瞳に映り、柔らかく揺れた。

「レティシア」
「はい」
「お前は……もし王都から呼び戻されても、行くのか?」
「どうしてそんなことを」
「いつか、そうなる気がする。噂は届く。お前みたいな人間が辺境で暮らしていると」
 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。あの夜の断罪の声が脳裏に蘇る。
「戻りません。あの場所に私の居場所はないわ」
「だが、貴族としての名も、誇りも――」
「全部あの夜に置いてきました。もう、拾う気もありません」
 きっぱりと言い切ると、ギルバートはしばらく黙っていた。火がぱちりと弾ける。
「……そうか」
「ええ。私が生きている理由は、もうここにあるから」
 そう告げた瞬間、彼の目が少し揺れた。

 やがて彼は立ち上がり、暖炉のそばの窓を開けた。冷たい夜風が流れ込み、焚き火の炎が小さく揺らぐ。
「星が出てる」
 外を見やると、群青の空に無数の星が瞬いていた。雪の大地に反射して、夜が少しだけ明るい。
「こんなにきれいな空、久しぶりに見ました」
「戦の夜も、たまにこうして空を見た。血の匂いの中で、空だけが静かだった」
「それでも、生き残って……こうして、ここにいる」
「皮肉だな」
「いいえ。奇跡です」
 その言葉を聞いた彼は、目を伏せて微かに笑った。

「お前がそう言うと、本当にそう思えてくる」
「ふふ。なら、もっと奇跡を増やしましょう」
「どうやって」
「みんなで笑うんです。あなたも、子どもたちも、ミーナも。……それがこの村の奇跡ですわ」
 そう言うと、ギルバートはふと静かに息を吐いた。
「お前が来てから、ここが変わった。俺自身もな」
「変わった?」
「ああ。前より、誰かの笑い声を聞くのが……悪くないと思える」
 その言葉が胸の奥に沁みた。彼の声が、雪の夜のように穏やかに響く。

 私は立ち上がり、窓の外を見た。星の瞬きが、まるで雪に溶けていくように儚い。
「ギルバート」
「なんだ」
「あなたがこの村を守ってきたように、私もあなたを守りたい」
「……俺を?」
「ええ。あなたの孤独を、少しでも温められたらと思うの」
 沈黙。けれど、拒絶の気配はなかった。彼はただ私を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……そんなことを言われたのは初めてだ」
「きっと、誰もあなたの強さの裏を見ようとしなかったから」
 彼が視線をそらす。頬の古傷が炎に照らされ、淡く光る。

「……レティシア」
「はい」
「お前がここに来てくれて、本当によかった」
 その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「私もです。あなたに拾われて、今こうして笑えている」
「……拾った、か」
「違いますか?」
「いや。たしかにあの夜、お前を拾った。でも今はもう違う」
「違う?」
「お前は、自分でここに立ってる」
 彼の言葉が、暖かく胸の奥に灯った。

 外では雪が静かに降り始めていた。
 夜空の下、灯の中でふたりの影が寄り添うように伸びる。
 やがてギルバートは帽子を取って、軽く私の頭を撫でた。
「もう遅い。……おやすみ、レティシア」
「おやすみなさい、ギルバート」
 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 残された静寂の中で、私は胸に手を当てた。鼓動がまだ早い。けれど、それは恐怖ではなく、希望の音だった。
 ――この温もりを、ずっと大切にしていこう。

 雪が舞い落ちる。外の世界は冷たくても、部屋の中には灯がある。
 それが、私と彼の歩む新しい朝への約束のように思えた。




 夜が更けるほどに雪は細かくなり、館の屋根に積もる音さえ聞こえそうだった。私は自室の机に灯をともして、糸と針を手に取った。明日のために、子どもたちへ渡す手袋を作っておきたかったのだ。
 外は寒いけれど、心は穏やかだった。もう恐れるものはない――そう思える時間だった。

 針を進める手が止まったのは、廊下から足音が近づいてきたときだった。
「まだ起きてるのか」
 扉の向こうからギルバートの声がした。
「ええ。少しだけ縫い物をしていました」
「……また誰かのためか」
「はい。明日、子どもたちに渡したくて」
 彼は少し黙ってから、扉を開けて入ってきた。外套を脱ぎ、雪を払う。焚き火の光が彼の髪を赤く照らす。
「手伝うことはあるか」
「ふふ、裁縫は剣と違って難しいですよ」
「そうだな。だが見ているだけならできる」
 その言葉に、思わず笑ってしまった。彼が椅子を持ってきて私の隣に腰を下ろす。

 糸を通す指先が震える。距離が近すぎて、鼓動が耳の奥で響く。
「……どうした」
「いえ。少し、緊張してしまって」
「俺といると緊張するのか?」
「ええ。だって、あなた……怖い顔をしてるから」
「それはすまん」
 小さく笑うその声が、意外なほど優しい。私は針を進めながら、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。

「今日、村の人たちが言っていましたわ。あなたがいなければ、この辺境はとっくに滅んでいたって」
「そんな大げさな」
「いいえ、本当のことだと思います。……私も、あなたに救われた一人です」
 針を止めて顔を上げる。彼は黙っていた。焚き火の音だけが、二人の間を満たしている。
「私はあの夜、もう生きる理由を失っていました。でも、あなたが手を差し伸べてくれた。あれがなければ、今ごろ……」
「……あれは、俺が勝手に助けただけだ」
「それでも、私には奇跡でした」
 彼の瞳が静かに揺れた。何かを言いかけて、けれど言葉を飲み込んだようだった。

「お前、変わったな」
「変わった?」
「最初は、氷みたいな目をしてた。誰も信じてない目だった」
「……そうかもしれませんね」
「今は、火を見てるようだ。……あったかい目をしてる」
 その言葉が胸に響いた。涙がこみあげそうになる。
「あなたが……温めてくれたから、です」
「俺は何もしていない」
「嘘。あなたはずっと、人を守ってきた」
「……守りきれなかった命のほうが多い」
「それでも、誰かを救う力がある。私がその証明です」
 沈黙が訪れた。だが、重くはなかった。むしろ、心が満たされていく感覚。

 やがてギルバートが、小さく笑った。
「レティシア。お前、強いな」
「また、それですか。私はそんなに強くありません」
「強い。どんなに傷ついても、前を見る目をしてる」
「……あなたもよ」
 言葉が重なった瞬間、二人の視線が交わった。焚き火の光が、灰色の瞳の奥に小さな灯を映す。
「……ギルバート」
「ん?」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「全部にです。あの夜から今まで、あなたがいてくれたことに」
 その声が震えていたのを、自分でも感じた。彼はしばらく何も言わず、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 ごつごつとした掌が、私の頭に触れる。指先が髪をそっと撫で、温もりが伝わった。
「……よく生き延びたな」
「あなたが助けてくれたから」
「いや。お前自身が生きようとした。俺はその手伝いをしただけだ」
 そう言いながら、彼はほんの少し微笑んだ。あの無骨な男の顔に浮かぶ微笑みは、雪明かりよりも柔らかい。
 涙が溢れそうになって、私は慌てて顔を伏せた。
「泣くな」
「泣いてません」
「嘘つけ」
 そう言って笑う声に、胸の奥が熱くなった。

「明日は祭りの日だ」
「祭り?」
「この村の守り神を祝う日だ。屋台が出て、子どもたちが踊る」
「まあ……そんな行事があるのですね」
「お前も来い。孤児院の子らも連れてな」
「ええ、もちろん」
「楽しみにしてろ。……久しぶりに、笑って過ごせる日になる」
 ギルバートは立ち上がり、帽子を取って小さく会釈した。
「もう遅い。冷える前に寝ろ」
「あなたも、早く休んでくださいね」
「わかってる」

 扉が閉まると、静寂だけが残った。外では雪が静かに降り、夜の闇を包み込んでいる。
 私は糸を巻き取りながら、胸の奥に宿ったあたたかな鼓動を感じていた。
 ――この気持ちは、なんなのだろう。

 冷たい冬の夜の中で、私の心だけが春のように芽吹いていた。
 明日は祭り。笑顔の一日になるはずだ。
 それが、きっと、彼と私の新しい物語の始まりになる。

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