婚約者を妹に寝取られてから一か月後、無口で人付き合いが苦手な王弟殿下に「俺の妻になってくれないか」と言われ、ぎこちない溺愛生活が始まりました

さら

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第11話 嫉妬の色

 殿下と過ごす日々は、静かで穏やかに流れていた。けれど、その穏やかさは外からの影に脅かされることもあった。ある日、王城から使者が訪れ、来週の晩餐会への出席を求める知らせが届けられたのだ。

 封書を受け取った瞬間、胸がざわめいた。あの場にはきっと妹も、そして元婚約者のエドワードもいる。胸の奥に冷たい不安が広がり、指先が震えた。

「……殿下。」

 不安を押し隠すように声をかけると、彼は封書を読み終え、短く頷いた。

「出席は避けられない。だが……俺が隣にいる。」

 その言葉は心強かったけれど、妹の囁きが蘇り、心は揺れた。――殿下の寵愛は長く続かない。胸の奥に染み込んだ毒が、じわじわと顔を出す。

 ◇

 晩餐会の夜。王城の大広間は煌びやかな灯火に照らされ、音楽と人々の笑い声で満ちていた。私は殿下の腕に手を添え、緊張で呼吸を整えながら歩いた。灰色の瞳は前を見据え、迷いなく進んでいる。その背に守られていると分かっていても、視線の波に飲まれそうになる。

 そして――視線の先に妹セシリアの姿があった。彼女は鮮やかなドレスに身を包み、エドワードの隣で優雅に微笑んでいた。私に気づくと、その瞳が挑むように細められる。

「まあ、お姉さま。今日も殿下とご一緒なのですね。」

 嘲るような声音。私は唇を噛みしめ、答えを探す前に殿下が一歩前に出た。

「当然だ。彼女は俺の妻だからな。」

 その一言に場の空気が揺れる。セシリアの微笑がわずかに引きつり、エドワードの視線が複雑に揺れた。

 胸の奥で熱が広がると同時に、どうしようもなく不安が膨らむ。――私なんかでいいのだろうか。殿下はいつまでこうしてくれるのだろう。そんな弱い思いが、心を掻き乱した。

 晩餐会が続く中、何人もの貴族が殿下に話しかけてきた。私は隣で黙って微笑を保とうとしたけれど、そのたびに「お美しい奥方だ」という言葉に胸がざわめいた。殿下を見つめる令嬢たちの視線が、鋭い棘のように刺さる。

 グラスを持つ手が震え、胸の奥で甘い痛みが広がる。――これが嫉妬なのだと、気づいた。

 私は殿下を横目で見つめ、胸の奥で小さく囁く。

「殿下……どうか、私を見ていてください。」

 けれど声にはならず、ただ唇が震えるだけだった。灰色の瞳は人々と視線を交わし続け、私の心は揺れに揺れていった。

 ――静かに、けれど確かに芽生えた嫉妬。その色は、私の胸を甘く苦く染めていくのだった。




 晩餐会の喧騒の中で、胸の奥に生まれた嫉妬はじわじわと広がり、息苦しささえ覚えるほどだった。殿下の隣に立ちながらも、彼に向けられる令嬢たちの熱っぽい視線が突き刺さる。彼女たちの笑みは上品を装いながらも欲望に満ち、殿下の一挙手一投足を追っていた。

 私はグラスを持つ手を強く握りしめた。――私が殿下の隣に立っていいのか。そんな疑念が再び心を蝕む。妹の声が耳にこだまのように蘇る。「殿下の寵愛は長く続かない」……。

 そのとき、殿下の声が耳元に落ちた。

「……顔色が悪いな。」

 低い囁きにハッと我に返る。灰色の瞳が真っ直ぐに私を見ていた。

「す、すみません。少し緊張して……」

「無理をするな。ここは長居する必要はない。」

 殿下の言葉に、胸の奥で何かが熱く弾けた。彼は私の状態を気づかい、逃げ道を用意してくれている。けれど私は、俯いたまま小さく首を振った。

「いえ……殿下の隣にいたいです。どんな視線を向けられても。」

 殿下の瞳がわずかに揺れ、次いで強い色を宿す。

「なら、俺もそうする。君の隣から離れない。」

 その一言に胸が震え、目頭が熱くなった。

 ◇

 音楽が流れる中、エドワードが妹と共に歩み寄ってきた。彼の視線は私に一瞬だけ留まり、すぐに逸らされた。セシリアは相変わらず微笑みを浮かべているが、その奥にある意地の悪さは隠せない。

「お姉さま、殿下にずいぶん大切にされているのですね。羨ましいことですわ。」

 皮肉混じりの言葉に胸がざわめく。けれど殿下がすぐに答えた。

「大切にしているのは当然だ。彼女は俺の妻だからな。」

 灰色の瞳が迷いなく私を見据え、場の空気を切り裂くように響いた。その瞬間、令嬢たちの囁きが一斉に止まり、妹の表情がわずかに歪む。

 私は殿下の言葉に支えられ、勇気を得た。震える唇を動かし、妹に微笑みを返す。

「殿下の隣に立てることを、私は誇りに思っています。」

 セシリアの瞳が鋭く光り、周囲の空気がぴんと張り詰める。だが殿下の掌が私の背にそっと添えられ、その温もりが恐れを溶かした。

 ――嫉妬の色はまだ胸に残る。けれど殿下の声と温もりがある限り、それは甘く、確かな絆に変わっていく。




 晩餐会が終わり、月明かりの下を馬車で帰る道すがら。窓の外に映る街の灯りは、遠く瞬く星のように小さく揺れていた。私は膝の上で両手を組み、鼓動の早さをどうにか落ち着けようとしていた。

 隣に座る殿下は、相変わらず口数が少ない。ただ、私の肩がわずかに震えているのに気づいたのか、静かに手を伸ばし、私の指をそっと包み込んだ。

「……怖かったか。」

 低く響く声に、胸が詰まる。涙が込み上げ、私は小さく首を振った。

「怖かったです。でも、それ以上に……殿下が誇らしかった。」

 殿下の瞳がこちらを見据える。灰色の奥に、揺るぎない光が宿っていた。

「君の隣に立てることが、俺の誇りだ。」

 短い言葉なのに、胸の奥が甘く満たされていく。涙が頬を伝い、私は思わず殿下の手を強く握り返した。

「……殿下。どうしてそこまで、私を大切にしてくださるのですか。」

 問いかけに、殿下は一瞬言葉を探すように沈黙した。そして、かすかに唇を動かした。

「理由などない。ただ……君でなければ駄目だからだ。」

 その告白に、胸が震えて止まらなかった。私は声を失い、ただ殿下を見つめる。視線が絡み、沈黙が甘く流れる。

 ◇

 屋敷に戻ると、夜の静けさが迎えてくれた。部屋に入ると同時に、殿下は私の肩を抱き寄せた。驚きで体が強張ったが、すぐにその腕の中で力が抜けていく。

「もう二度と、自分を疑うな。俺は何度でも言う。君は俺の妻であり……唯一だ。」

 耳元で囁かれる声に、涙が溢れ、嗚咽が洩れる。私は殿下の胸に顔を埋め、震える声で答えた。

「……はい。信じます。殿下を、そして自分を。」

 殿下の掌が背を優しく撫で、灰色の瞳が私を見つめている。言葉よりも雄弁な温もりが、全身を包み込んだ。

 ――嫉妬で揺れた夜は、確かな絆を刻む夜へと変わった。胸に宿る甘く切ない痛みは、もう孤独の影ではなく、殿下と共に歩む証へと変わっていた。



第12話 ふたりきりの休日

 晩餐会から数日が過ぎ、屋敷には再び穏やかな日常が戻っていた。けれど胸の奥にはまだ、あの夜に感じた嫉妬と甘い痛みが残っていた。殿下の言葉に救われたものの、私はあらためて「殿下の隣にふさわしい自分でありたい」と強く願うようになっていた。

 そんな朝、食堂でパンを口に運んでいると、殿下が唐突に口を開いた。

「今日は……城からの用もない。ゆっくり過ごそう。」

 その言葉に、私は思わず目を瞬かせた。殿下が自ら「休日」を告げるのは初めてだったからだ。

「殿下と……一緒に、ですか?」

「ああ。ふたりで。」

 短い返答なのに胸が甘く跳ねる。顔を赤らめた私を見て、殿下はわずかに視線を逸らした。

 ◇

 午前中、私たちは庭に並んで座り、本を開いた。春風がページを揺らし、花の香りが漂う。殿下は黙々と文字を追いながら、ときおり視線を上げて私の顔を見ていた。気づけば目が合い、慌てて俯くと、彼もまた不器用に視線を逸らす。その繰り返しが、可笑しくも甘い時間を形作っていた。

 昼には殿下が自ら台所に立ち、簡素なスープを作ってくれた。私は隣で野菜を切りながら、心がくすぐったくなるのを感じる。

「……殿下、包丁の扱いがお上手ですね。」

「得意ではない。ただ、君に食べてもらいたかっただけだ。」

 不器用な声に胸が震え、頬が熱くなる。差し出された器から立ちのぼる湯気と香りは、何よりも優しく、心を満たした。

 ◇

 午後は館の一室で、私の刺繍を殿下に見せた。まだ拙い花模様だったけれど、殿下は真剣に見つめ、低く呟いた。

「……綺麗だ。君らしい。」

 その一言で胸が熱くなり、涙がにじむ。私は慌てて笑みを作り、針を持つ手を震わせた。殿下はそれに気づいたのか、そっと指を重ねて押さえた。

「……無理をするな。君の手は、俺が守る。」

 指先から伝わる温もりに、胸が甘く締め付けられた。

 ◇

 夕暮れ、窓辺から庭を眺めながら、殿下が小さく囁いた。

「今日のような日を……これからも続けたい。」

 その言葉に、心の奥で熱いものが溢れた。私は震える声で答える。

「私も……殿下と一緒に。」

 視線が絡み、沈黙の中で互いの心が重なる。

 ――ふたりきりの休日。それは華やかな宴よりもずっと尊く、私たちの絆を甘く強く結び直す時間となった。



 夕暮れの色が部屋を包む頃、私と殿下は広間のソファに並んで座っていた。昼間の穏やかな時間の余韻がまだ体に残っていて、胸の奥はじんわりと温かい。窓の外では風が木々を揺らし、夕陽に染まった影が床に長く伸びていた。

「……殿下。」

 思わず声をかけると、彼は本から視線を上げた。灰色の瞳がまっすぐに私を映し、鼓動が高鳴る。

「今日は……本当に幸せでした。」

「俺もだ。」

 その短い返答が、どんな飾った言葉よりも心に響く。私は胸が熱くなり、視線を逸らしそうになったが、勇気を振り絞って続けた。

「これからも、殿下と……こんな日を過ごしたいです。」

 殿下の瞳がわずかに揺れ、次いで強い光を宿した。

「過ごそう。君が望む限り、ずっと。」

 その言葉に涙がにじみ、思わず殿下の手を取った。大きな掌がしっかりと包み込み、温もりが全身に広がる。

 ◇

 夜、寝室に戻っても胸の高鳴りは収まらなかった。ベッドに腰掛け、青い首飾りを指先で撫でる。宝石は月明かりを受けて淡く光り、昼間の殿下の声を思い出させる。――「君が望む限り、ずっと」。

 扉が静かに開き、殿下が姿を見せた。彼は迷ったように一歩踏み出し、低い声で囁く。

「……眠れないのか。」

「はい。殿下と過ごした今日のことを思い出して……」

 殿下はしばし黙ってから、私の隣に腰を下ろした。沈黙が続く。けれどその沈黙は不安ではなく、心を温める。

「……俺も眠れそうにない。」

 殿下の言葉に驚き、視線を向けると、彼の灰色の瞳が月明かりに揺れていた。

「君の笑顔が、頭から離れない。」

 その不器用な告白に、涙が込み上げる。私は笑みを浮かべ、震える声で答えた。

「殿下……私も、同じです。」

 互いの視線が絡み、手が自然と重なった。指先が絡み合い、温もりが溶け合う。

 ――ふたりきりの休日は、夜になっても終わらなかった。心の奥で甘く強い絆が確かに育ち続けていた。




 夜の静寂の中、殿下と並んで座る時間は、昼間の賑やかさよりもずっと濃密に思えた。重ねた手から伝わる温もりは、言葉よりも雄弁で、心臓の鼓動がひとつひとつ強く鳴り響く。

「……殿下。」

 呼びかけると、彼はゆっくりと視線を向けた。灰色の瞳が月明かりを映し、静かに揺れている。その奥に潜む優しさと不器用な不安が見え、胸が熱くなる。

「こんなふうに……ふたりで過ごせることが、どれほど幸せか……言葉にできません。」

 声が震え、涙が滲む。殿下は一瞬ためらい、そして私の肩をそっと抱き寄せた。

「……言葉にしなくていい。俺も同じだから。」

 低い声が耳元で響き、胸の奥が甘く満たされる。私はその腕の中で小さく頷いた。

「殿下……これからも、ずっと……?」

「ああ。何があっても。」

 短い返答なのに、その確かさに涙が零れ落ちる。殿下の手が頬に触れ、指先が不器用に涙を拭った。

「泣かせるつもりはなかった。」

「違います……嬉しくて、涙が出るんです。」

 私が笑うと、殿下の唇がわずかに緩み、普段は見せない表情が浮かんだ。その微笑みに胸が甘く締め付けられる。

 ◇

 その夜、ベッドに横になっても眠れなかった。窓から射し込む月明かりの下で、殿下の寝息が規則正しく響く。彼の横顔を見つめ、心の奥でそっと囁く。

「――殿下。私は、もう一人ではありませんね。」

 答えはなくても、隣にある温もりが全てを物語っていた。

 ――ふたりきりの休日は、終わりではなく始まりだった。揺るぎない絆は夜を越え、これからの朝へと続いていくのだと、強く信じられた。


第13話 雨の日の抱擁

 翌日、空は朝から厚い雲に覆われていた。屋敷の窓を叩く雨音は途切れることなく続き、いつもは明るい庭も灰色に沈んでいる。私は窓辺に立ち、雨粒が滑り落ちる硝子を指でなぞった。

 胸の奥に、ふとした不安が広がる。――幸せな日々は夢なのではないか。いつか妹の言葉が現実になるのではないか。そんな弱気が、雨とともに心を濡らしていく。

 そのとき、背後から殿下の声がした。

「……寒くないか。」

 振り向くと、殿下が立っていた。彼は迷うことなく歩み寄り、私の肩に外套を掛けてくれる。

「殿下……ありがとうございます。」

 外套の重みと温もりに包まれると、胸の奥の不安が少し和らいだ。けれど表情を取り繕いきれず、俯いてしまう。殿下はそれに気づいたのか、低い声で囁いた。

「……また迷っているのか。」

「……はい。こんなに幸せでいいのか、不安になるんです。」

 言葉を吐き出した瞬間、涙が滲んだ。殿下はためらいなく私を抱き寄せ、強く腕の中に閉じ込めた。

「君は俺の妻だ。幸せでいて当然だ。」

 低く真剣な声が胸に響き、全身が熱くなる。雨音がすべてを包み込み、殿下の心臓の鼓動だけが耳に届いた。

「殿下……」

「俺も不安はある。だが、君が隣にいる限り、恐れることはない。」

 その告白に胸が震え、涙が溢れる。私は殿下の胸に顔を埋め、震える声で答えた。

「……私もです。殿下が隣にいてくだされば……どんな雨でも怖くありません。」

 殿下の掌が背を撫で、温もりが深く沁み渡る。外の雨は止む気配を見せなかったが、胸の奥の冷たい影はすっかり消えていた。

 ――雨の日の抱擁。それは何よりも強い誓いとなり、私の心に甘く温かい灯をともしたのだった。




 殿下の胸に抱かれたまま、私はしばらく雨音を聞いていた。強くも優しい鼓動が耳に届き、その一拍ごとに不安が少しずつ溶けていく。殿下の腕は決して緩むことなく、むしろ私の震えを確かめるように力を込めていた。

「……殿下。」

 顔を上げると、灰色の瞳が真っ直ぐに私を映していた。そこには迷いもためらいもなく、ただ私だけを見つめる確かな光があった。

「君が涙を流すたび、俺は無力を思い知る。けれど……こうして抱きしめることならできる。」

 その不器用な言葉に胸が熱くなり、涙が再び頬を伝う。私は慌てて拭おうとしたが、殿下の指先が先に触れ、そっと涙をぬぐった。

「泣くな。……君は笑っていてほしい。」

 低い声に胸が震え、どうしても笑みがこぼれてしまう。私は頷き、彼の胸元に再び身を寄せた。



 午後、雨脚は少し弱まり、屋敷の中に静かな時間が流れていた。私は暖炉の前で刺繍を広げ、殿下はその隣で本を読んでいた。火の揺らめきが部屋を温かく照らし、雨音は心地よい子守歌のように響く。

 沈黙の中でも、互いの存在が確かに感じられる。私は針を動かしながら、ふと声を上げた。

「……殿下。もし私がまた不安になったら、そのときも抱きしめてくださいますか?」

 殿下は驚いたように目を瞬かせ、本から顔を上げた。しばしの沈黙の後、低く真剣な声が返る。

「抱きしめるだけでは足りないと思うなら……何度でも言葉にする。君は俺の妻で、かけがえのない人だと。」

 その答えに胸が甘く締めつけられ、思わず刺繍の手を止めて彼を見つめた。灰色の瞳が炎の光を映し、揺るぎなく輝いている。

「……殿下。」

 名前を呼ぶだけで涙が滲み、笑みが零れる。殿下は照れたように視線を逸らし、本を閉じた。そして不器用に私の頭へ手を伸ばし、撫でる。

「不安にならなくてもいいように……これからも、隣にいる。」

 その言葉に心が満ち、私はそっと彼の肩に寄りかかった。火の温もりと殿下の鼓動に包まれながら、外の雨は静かに降り続けていた。

 ――雨の日は、二人の絆をより深く刻む日となった。



 夜になっても雨は止まず、窓ガラスを打つ水音が絶え間なく続いていた。暖炉の炎はすでに落ち着き、橙色の光が部屋を柔らかく照らしている。私は殿下と並んでソファに座り、静かにその灯りを見つめていた。

「……こうしていると、雨の音も心地よく思えますね。」

 私が口にすると、殿下はほんのわずかに口元を緩めた。

「君が隣にいるからだろう。」

 不器用な言葉なのに、胸が甘く震える。頬が熱くなり、視線を逸らすと、殿下はためらいもなく私の肩を抱き寄せた。

「雨の日も晴れの日も、俺は変わらない。」

 耳元で囁かれる声に、胸がじんわりと熱を帯びる。私はその腕の中で小さく頷き、震える声を返した。

「……はい。私も殿下と共に……」

 言葉は最後まで続かず、涙がこぼれた。殿下は何も言わず、ただ私を抱きしめ続ける。強く、けれど優しいその抱擁が、心の奥の不安を完全に溶かしていった。

 ◇

 やがて寝室に移り、雨音を子守歌に横たわった。殿下は私の手を離さず、静かに目を閉じる。その横顔を見つめながら、私は心の奥で改めて誓った。

「――私はもう逃げない。殿下の隣で、殿下の妻として生きていく。」

 声には出さず、胸の中で強く刻み込む。外の雨はまだ止みそうにない。けれどその音さえ、殿下の温もりと共にある限り、安らぎの旋律に変わっていた。

 ――雨の日の抱擁は、私たちの心をさらに近づけた。外の空はどれほど曇っていても、私の胸の中には揺るぎない光がともっていた。



第14話 初めての口づけ

 翌朝、雨はようやく止み、庭には水滴をまとった花々が輝いていた。澄んだ空気の中で、小鳥のさえずりが響く。私は窓辺に立ち、昨夜の殿下の抱擁を思い出しながら胸に手を当てた。――もう不安はない。そう思えるほど、心は確かに満たされていた。

 食堂での朝食の席。殿下はいつものように黙々とパンを口にしていたが、ふと視線を上げ、私に囁いた。

「……庭を歩かないか。」

「はい、喜んで。」

 短い誘いの言葉に胸が跳ね、私は思わず頬を染めた。

 ◇

 濡れた石畳をゆっくりと歩く。殿下は黙ったままだったが、その隣に並ぶだけで心が穏やかになる。花弁の水滴が光を反射し、まるで宝石のように輝いていた。私は思わず足を止め、花に手を伸ばした。

「綺麗ですね。」

 囁くと、殿下も立ち止まり、同じ花を見つめる。

「……君の方が綺麗だ。」

 不意に落ちた言葉に息を呑む。灰色の瞳が真剣に私を見つめ、頬が一気に熱を帯びた。

「で、殿下……」

「本当のことだ。」

 殿下は迷いなくそう告げ、私の手を取った。大きな掌に包まれ、胸が甘く締め付けられる。心臓の鼓動が速くなり、声が震える。

「……私、殿下と出会えて……幸せです。」

 涙がにじみ、視界が揺れる。殿下は驚いたように目を瞬かせ、それから静かに私を抱き寄せた。

「俺もだ。」

 低く響く声と共に、唇が額に触れる。柔らかな感触が一瞬だけ落ち、全身が熱く染まった。

「っ……殿下……」

「初めてだから……これが限界だ。」

 殿下の不器用な言葉に、胸が震えて涙が零れた。私は笑いながら泣き、震える声で答えた。

「……十分です。これ以上ないくらいに……」

 殿下の胸に抱かれながら、私は強くそう思った。

 ――雨上がりの朝に交わされた、初めての口づけ。それは私たちの関係を新たに彩り、揺るぎない絆をさらに強く結び直すものとなった。


 額に触れた殿下の唇の温もりは、翌日になっても消えなかった。頬に残る熱を思い出すたび、胸が甘く締め付けられ、気づけば顔が赤らんでしまう。

 その日の午後、私は刺繍の続きをしていた。殿下が静かに隣に腰を下ろし、本を開く。沈黙の中でも、昨夜の記憶が頭を離れず、針先が震えた。

「……集中できていないな。」

 低い声に顔を上げると、殿下の灰色の瞳が私を射抜く。耳まで赤く染まり、視線を逸らして答えた。

「す、すみません。……昨日のことを思い出してしまって。」

 その言葉に殿下はわずかに目を見開き、次いで視線を逸らした。

「……俺もだ。」

 短い返答なのに、胸が大きく震えた。

 ◇

 夕刻、廊下を歩いていると、窓の外の空が朱に染まり始めていた。足を止めて見惚れていると、殿下が背後から現れる。

「夕焼けが好きなのか。」

「はい。美しくて……胸が締め付けられるような気持ちになります。」

 殿下はしばらく黙って同じ景色を眺め、やがて小さく囁いた。

「……君も同じだ。見ていると、胸が締め付けられる。」

 その不器用な言葉に鼓動が早まり、頬が熱くなる。私は震える声で答えた。

「殿下……」

 視線が絡み、時間が止まったかのように感じた。殿下がそっと手を伸ばし、私の頬に触れる。柔らかな指先に導かれるように、私は瞳を閉じた。

 次の瞬間、唇に温かな感触が触れる。ほんの一瞬、触れただけの口づけ。それでも全身に電流のような熱が走り、涙が溢れそうになった。

 殿下はすぐに唇を離し、少し赤らんだ顔で低く呟いた。

「……これが、俺の限界だ。」

 私は笑いながら首を振り、震える声で答えた。

「いいえ……殿下がくださったもので、胸がいっぱいです。」

 夕焼けに照らされながら、二人の影が重なった。

 ――初めての口づけは、不器用でも確かに愛を刻む証となり、私たちの心をさらに深く結び合わせたのだった。



 その夜。寝室に戻っても胸の鼓動は収まらなかった。唇に残る余韻を指でそっとなぞり、思い出すたびに頬が熱くなる。枕に顔を埋めて転がる私を、月明かりが柔らかく照らしていた。

 扉が静かに開き、殿下が入ってくる。彼は一瞬私の様子に目を留め、わずかに眉を動かした。

「……眠れないのか。」

 低い声に、私は跳ね起きて頷く。

「はい……その……殿下のことを考えていたら。」

 途端に灰色の瞳が揺れ、殿下は言葉を失ったように沈黙する。頬に赤みが差し、視線を逸らす姿に胸が甘く締めつけられた。

「俺も……同じだ。」

 その一言に心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。私は勇気を出して彼の手に触れた。硬いのに温かい掌が、すぐに指を絡め返してくる。

 ◇

 ベッドの端に並んで腰を下ろす。雨上がりの空気がまだ残っていて、窓から吹き込む風がひんやりと頬を撫でる。殿下はしばらく黙ったまま、手を離さずにいた。

「……俺は、君に多くを与えられない。言葉も足りず、振る舞いも不器用だ。」

 殿下の声は低く、けれど真剣で。私は首を振って彼を見つめた。

「そんなことありません。殿下の隣にいるだけで、私は十分幸せです。」

 涙がにじみ、声が震える。殿下の表情がわずかに揺らぎ、やがて決意を宿した光に変わった。

「……なら、もう一度だけ。」

 灰色の瞳が私を見据え、そっと顔が近づく。心臓が爆発しそうなほど高鳴り、私は瞳を閉じた。

 今度の口づけは、先ほどよりも少しだけ長く、確かだった。柔らかさと温もりが重なり合い、世界の音がすべて遠のいていく。

 唇が離れたとき、殿下は息を整えながら囁いた。

「……君は、俺のすべてだ。」

 胸が甘く震え、涙が頬を伝う。私は笑みを浮かべ、震える声で答えた。

「殿下……私も同じです。」

 互いの影が月明かりに重なり、二人だけの世界が静かに広がっていた。

 ――初めての口づけは、不安を溶かし、愛を確かなものへと変えた。夜の静寂は、私たちの誓いをやさしく包み込んでいた。



第15話 秘密の呼び名

 翌朝、窓から差し込む柔らかな光で目を覚ました。昨夜の口づけの余韻はまだ胸の奥に残り、思い出すだけで頬が熱くなる。枕に顔を埋め、布団をぎゅっと握りしめた。

 食堂に降りると、殿下がすでに席についていた。いつものように静かにパンを口にしている姿を見ただけで胸が跳ねる。昨日までと同じはずなのに、何もかもが違って見えるのは、きっと唇を重ねたからだ。

「……おはようございます、殿下。」

「ああ。おはよう。」

 灰色の瞳が一瞬だけ私を見て、すぐに逸らされた。耳の端が赤く染まっているのを見つけ、胸がくすぐったくなる。

 ◇

 朝食を終え、庭を歩いていたとき。私は思い切って殿下に尋ねた。

「殿下……私のこと、名前で呼んでいただけませんか?」

 彼の足が止まり、瞳がわずかに揺れた。

「名前で……?」

「はい。殿下から呼ばれるとき、もっと近くに感じたいんです。」

 しばしの沈黙。やがて殿下は深く息を吐き、低く呟いた。

「……リリアナ。」

 不器用に呼ばれた自分の名に胸が震え、目頭が熱くなる。私は笑みを浮かべ、声を震わせて答えた。

「ありがとうございます……殿下。」

 殿下は顔を逸らしながらも、耳の赤みを隠せていなかった。

 ◇

 午後、刺繍の糸を整えていると、殿下が部屋に入ってきた。彼は黙って椅子を引き、私の隣に座る。そして小さく囁いた。

「……リリアナ。」

 突然の呼びかけに針を落とし、胸が大きく震える。視線を向けると、殿下は真剣な眼差しでこちらを見つめていた。

「……君の名を呼ぶと、不思議と安心する。」

 涙が込み上げ、私は震える声で答えた。

「私もです。殿下に呼ばれると……心が甘く満たされます。」

 殿下の瞳が柔らかく揺れ、指先が私の手に触れた。静かに絡まる指先。名を呼ばれるたびに、絆がさらに深まっていくのを感じた。

 ――秘密の呼び名。それはただの言葉以上に、私たちの心を結ぶ特別な証となっていった。




 夕暮れ、窓辺に並んで座っていた。西の空が橙に染まり、雲が金色に輝いている。沈みゆく光を浴びながら、私は胸の奥に芽生えた甘い緊張を抑えきれず、殿下に視線を向けた。

「……もう一度、名前で呼んでいただけませんか。」

 殿下はわずかに驚いたように目を瞬かせ、次いで小さく頷いた。

「……リリアナ。」

 その響きは胸の奥に深く染み込み、心臓が跳ねる。頬が熱くなり、思わず顔を覆った。殿下は不器用に眉を寄せ、低い声で続けた。

「そんなに……変か?」

「い、いえ……嬉しすぎて、胸がいっぱいなんです。」

 私が慌てて答えると、殿下の唇がわずかに緩む。微笑と呼ぶにはぎこちない、けれど確かな温もりを帯びた表情だった。

 ◇

 夜、寝室に戻ると殿下は窓辺に立っていた。月明かりに照らされた背中は大きく、頼もしく映る。私が近づくと、彼は振り返り、少し迷うように唇を動かした。

「……また呼んでいいか。」

 その問いに胸が甘く震え、私は笑みを浮かべて頷いた。

「もちろんです。何度でも……」

「……リリアナ。」

 月明かりの下で囁かれる自分の名は、どんな宝石よりも尊い響きだった。涙が滲み、視界が揺れる。殿下は一歩近づき、私の頬にそっと手を添えた。

「……名を呼ぶたびに、君が俺のものだと確かめられる。」

「……私もです。殿下に呼ばれると……殿下だけの私になれる気がします。」

 互いの視線が絡み、唇が触れそうなほどに近づいた。鼓動が激しく鳴り響き、言葉は消えた。ただ名前の余韻だけが、夜の静けさに甘く溶けていった。

 ――秘密の呼び名は、互いの心を結ぶ合図となり、深まる絆を確かに刻んでいった。



 月明かりに照らされた寝室で、殿下と向かい合ったまま言葉を失っていた。互いの吐息が重なり、近すぎる距離に心臓が暴れるように鳴り響く。頬に添えられた掌の温もりが心地よくて、逃げ出すどころか、もっと触れてほしいと願ってしまう。

「……リリアナ。」

 再び名を呼ばれる。低い声が胸の奥に響き、涙がにじむ。私は震える声で応えた。

「殿下……」

 それ以上の言葉は出てこなかった。けれど名前を呼び合うだけで、すべてが通じ合っている気がした。殿下はためらうように目を伏せ、そしてゆっくりと顔を近づけてきた。

 唇が重なる。先日の口づけよりも、深く、確かに。柔らかくて温かい感触に全身が包まれ、頭が真っ白になる。涙が頬を伝い、殿下はそれを唇でそっと拭った。

「……君の名を呼ぶと、どうしようもなく抱きしめたくなる。」

 熱を帯びた囁きに胸が甘く震え、私は腕を伸ばして彼の背に回した。

「……呼んでください。ずっと……殿下の声で。」

 殿下の灰色の瞳が揺れ、強く抱きしめられる。互いの鼓動が重なり合い、世界は二人だけのものになった。

 ◇

 やがて灯りが落とされ、静かな夜が訪れる。殿下の腕の中で目を閉じながら、私は心の中で強く誓った。――この呼び名と、この温もりを決して手放さない、と。

 外では風が木々を揺らしていたが、胸の奥には静かな安らぎが満ちていた。

 ――秘密の呼び名は、ただの音ではなく、愛そのものとなった。名前を呼び合うたび、絆はさらに深く絡み合い、二人を離れられないものにしていったのだった。



第16話 お忍びの散歩

 数日後の朝。空は晴れ渡り、雲ひとつない青色が広がっていた。窓から差し込む陽光に目を細めながら、私は胸の奥で密かな期待を抱いていた。――殿下と過ごす静かな一日が、今日も訪れるのではないかと。

 食堂で朝食を取っていると、殿下が唐突に言った。

「……今日は城下に行こう。」

 その言葉に手が止まり、思わず顔を上げる。

「えっ……城下、ですか?」

「ああ。人目を避けて、お忍びで。君に見せたいものがある。」

 殿下の声はいつもより低く、けれどどこか楽しげだった。胸が高鳴り、思わず頬が熱くなる。

「……はい。殿下と一緒に行けるなら。」

 彼の瞳がわずかに柔らかく揺れ、頷いた。

 ◇

 屋敷を抜け出し、殿下と二人で城下町を歩く。人混みの中では目立たぬように簡素な外套を羽織り、帽子を深くかぶった。殿下の姿を知る者はいないようで、人々は皆、にぎやかに行き交っていた。

 市場の通りでは香ばしい焼き菓子の匂いが漂い、子どもたちが笑いながら駆けていく。私はその光景に目を輝かせた。

「こんなに賑やかなのですね……!」

 殿下は私の驚きを見て、わずかに口元を緩める。

「普段は城に籠もっているからな。君に見せたかった。」

 その言葉に胸が温かくなり、私は笑顔で頷いた。

 ◇

 通りの端に、小さな露店が並んでいた。殿下は一つの店で立ち止まり、職人に声をかける。そこには細やかな銀細工の指輪や飾りが並んでいた。

「……これを。」

 殿下が選んだのは、小さな銀の髪飾り。花の形をしていて、中心には青い石が埋め込まれていた。私の瞳の色に似ていると、殿下は言った。

 胸が甘く震え、言葉が出なかった。職人から受け取った飾りを殿下は不器用に差し出し、私の髪にそっと留めてくれる。

「……似合っている。」

 その一言に涙が滲み、思わず殿下の袖を握った。

「ありがとうございます……大切にします。」

 賑やかな市場のざわめきが遠のき、ただ二人の世界だけが広がっていた。

 ――お忍びの散歩は、殿下の優しさを改めて感じる旅路となり、胸の奥に新たな宝物を刻んでいったのだった。




 市場を離れると、石畳の小道に入った。通りの喧騒が遠ざかり、並木道から木漏れ日が落ちている。殿下と並んで歩くだけで胸が高鳴り、頬が熱くなる。

「……殿下は、よくこうして城下を歩かれるのですか?」

 私が問いかけると、殿下は首を横に振った。

「いや。今日が初めてだ。」

「えっ……!」

 思わず立ち止まり、彼を見上げる。殿下は表情を崩さぬまま、しかし耳の端が赤い。

「君とだから、来てみようと思った。」

 その一言に胸が甘く締めつけられ、涙がにじむ。私は慌てて笑みを作り、声を震わせながら応えた。

「……とても嬉しいです。殿下と一緒に歩けて。」

 殿下の瞳が揺れ、しばし沈黙が流れる。そして不器用に差し伸べられた手が、私の指を探し当てた。自然に絡まる指先に、心臓が跳ねる。



 昼時、路地裏の小さな食堂に入った。木の扉を開けると、香ばしいスープの匂いが広がる。庶民の家族連れが楽しそうに談笑しており、誰も私たちに特別な視線を向けなかった。

 木の卓に腰を下ろすと、殿下はぎこちなくメニューを手に取った。

「こういう場所は……慣れていない。」

 珍しく弱気な言葉に、私は微笑んで頷いた。

「大丈夫です。私も同じですから。……一緒なら、平気です。」

 殿下の瞳がわずかに揺れ、唇が小さく緩む。その表情を見られただけで、胸が熱く満たされた。

 運ばれてきたスープを口に含むと、素朴な味が広がった。殿下も静かに匙を動かし、ふと私を見つめる。

「……美味いな。」

「はい。とても……」

 たったそれだけのやり取りなのに、心に深く刻まれていく。城では決して得られない時間。殿下と過ごすこの昼食は、私にとって何よりも贅沢だった。



 食堂を出ると、雨上がりのように澄んだ風が吹いていた。殿下は黙って外套の裾を整え、私の肩にかけ直す。

「冷えるといけない。」

 その仕草に胸が温かく満たされ、私は小さな声で囁いた。

「……殿下がいてくだされば、どこでも暖かいです。」

 彼は目を瞬かせ、わずかに頬を染めながらも力強く頷いた。

 ――お忍びの散歩は、互いの距離をさらに近づける旅となっていた。




 夕暮れが近づき、城下の通りは再び賑わいを増していた。橙色に染まった石畳を踏みしめながら、殿下と私は人混みを抜け、川沿いの小道へと足を向けた。川面は西日に照らされて金色に輝き、流れる音が穏やかに耳をくすぐる。

 殿下は無言のまま歩いていたが、やがて足を止めて私を見つめた。灰色の瞳が夕焼けを映し、その奥に柔らかな光を宿している。

「……君と過ごす時間は、城にいるより落ち着く。」

 その言葉に胸が甘く震え、思わず視線を逸らした。

「私もです。殿下と一緒だから……こうして歩けることが幸せで仕方ありません。」

 風が頬を撫で、殿下の外套の裾が揺れる。彼は少し迷うように手を伸ばし、私の指を握った。温もりが伝わり、心臓が跳ねる。

「……離れるな。人混みで見失いたくない。」

 口調は素っ気ないのに、握る手は優しくて。胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになった。



 日が沈み、町に灯りがともる頃。私たちは帰り道の馬車に揺られていた。窓の外には灯火に照らされた通りが流れていき、子どもたちの笑い声が遠く響く。

 殿下は無言で外を眺めていたが、ふいにこちらに視線を移した。

「……今日のことは、誰にも話さないでほしい。」

「もちろんです。私だけの宝物にします。」

 そう答えると、殿下の瞳が柔らかく揺れた。

「君とだから行けた。君とだから……楽しめた。」

 その告白に胸が熱くなり、視界が滲む。私は震える声で囁いた。

「殿下……私もです。殿下とだから、すべてが輝いて見えました。」

 互いの視線が絡み、手が自然と重なる。温もりが指先から広がり、心臓が甘く震える。



 屋敷に戻ると夜風が吹き抜け、庭の木々がざわめいた。殿下は私を見下ろし、低く囁いた。

「……また行こう。君となら。」

 その言葉に涙が溢れ、私は強く頷いた。

「はい。何度でも……殿下と一緒に。」

 月明かりに照らされた二人の影が重なり、静かな夜に溶けていく。

 ――お忍びの散歩は、ただの一日ではなく、二人の未来を確かに照らす灯火となっていた。



第17話 贈り物の意味

 お忍びの散歩から数日が経った。市場で殿下に贈られた小さな髪飾りは、今も私の部屋の鏡台の上で青い光を放っている。朝の支度を整えるとき、指先でそれをそっと撫でるたびに胸が甘く震え、頬が熱くなるのを抑えられなかった。

 その日、私は思い切って髪飾りを身につけて食堂に向かった。銀の花に埋め込まれた青い石は、陽光を受けてきらめき、まるで心臓の鼓動に合わせて光っているかのように見えた。

 食堂の扉を開けると、殿下が席についていた。私に視線を向けた瞬間、灰色の瞳がわずかに揺れた。

「……それを。」

 彼の言葉に頬が熱くなる。私は小さな声で答えた。

「はい。殿下が選んでくださった髪飾り……とても大切にしています。」

 殿下は黙ったまましばらく見つめ、それから低く呟いた。

「似合っている。……俺が贈ったものだと、誰にでも分かるように。」

 その言葉に胸が甘く締め付けられ、涙が滲む。私は慌てて笑みを浮かべ、声を震わせながら答えた。

「……はい。殿下のものだと、分かっていただければ嬉しいです。」

 殿下の瞳が強く揺れ、テーブルの下で私の手を探し当てる。温もりが伝わり、心臓が跳ねた。

 ◇

 午後、殿下は書斎に私を呼んだ。机の上には包みが置かれている。

「……これを受け取ってほしい。」

 差し出されたのは、小さな箱。恐る恐る開けると、中には細い鎖に繊細な銀細工の指輪が通されたネックレスが入っていた。

「殿下……!」

 声が震え、視界が滲む。殿下は少し視線を逸らし、低い声で続けた。

「指にはめるのはまだ早い。だから……首に下げてほしい。」

 その不器用な言葉に胸が溢れそうになり、涙が頬を伝う。私は強く頷き、声を震わせた。

「ありがとうございます……一生、大切にします。」

 殿下は私の首にネックレスをかけ、鎖を留めてくれた。指先が首筋に触れた瞬間、全身が熱を帯び、心臓が激しく跳ねる。

「……似合っている。」

 灰色の瞳が真剣に揺れ、私の胸は甘い痛みに包まれた。

 ――贈り物の意味。それはただの装飾ではなく、互いの心を結ぶ確かな証となっていった。




 首元で小さく光る銀の指輪。殿下が手ずからかけてくれたその温もりは、肌を通して胸の奥にまで届いていた。私は指先でそっと触れ、涙ぐみながら微笑む。

「殿下……本当に、よろしいのですか。こんなに大切なものを……」

 灰色の瞳が強く揺れ、殿下は短く答えた。

「大切だからこそ、君に渡した。……俺の想いを形にしたものだ。」

 その言葉に胸が甘く締め付けられ、頬を伝う涙を止められなかった。私は慌てて笑みを作り、声を震わせながら答える。

「ありがとうございます……殿下。私も……殿下だけのものです。」

 殿下の瞳がわずかに見開かれ、やがて深い光を宿した。次の瞬間、彼の腕が私を強く抱き寄せる。肩に額を預けられ、低い声が耳元に響いた。

「……その言葉を、ずっと信じていいのか。」

「はい……永遠に。」

 互いの鼓動が重なり合い、涙と笑みが同時に零れる。



 その日の夕刻、鏡台の前で髪を整えていると、首元のネックレスがきらめいた。夕陽の光を反射し、まるで殿下の灰色の瞳の奥の誠実さを映しているようだった。

 扉が開き、殿下が入ってくる。彼は私を見つめ、しばらく黙ったまま立ち尽くした。

「……似合っている。」

 短い言葉なのに、胸が甘く震える。私は笑みを浮かべ、指でネックレスを撫でた。

「殿下のおかげです。……これは、私の宝物です。」

 殿下はわずかに頷き、ゆっくりと近づいた。そして不器用に私の髪を撫で、低く呟く。

「君が笑っていると……俺も安心する。」

 その告白に胸が熱くなり、涙が溢れそうになった。私は震える声で答えた。

「殿下……私を笑顔にしてくださるのは、いつも殿下です。」

 互いの視線が絡み、静かな沈黙が甘く満ちていく。



 夜。寝室で灯火を落とし、殿下の腕の中で目を閉じる。首元のネックレスが胸に触れるたび、彼の想いが確かにそこにあることを感じられた。

 ――贈り物の意味。それはただの飾りではなく、永遠を誓う心そのもの。これからどんな未来が待っていても、この証が私を導いてくれると信じられた。




 夜が更け、寝室の窓から差し込む月明かりが白く床を照らしていた。殿下の腕に抱かれたまま目を閉じていても、胸元のネックレスがひんやりとした感触を伝え、彼の想いを繰り返し思い出させてくれる。眠りに落ちるどころか、胸の鼓動はますます速くなっていった。

 ふと殿下が身じろぎし、低い声が静寂を破る。

「……眠れていないな。」

「っ……はい。殿下のことを考えていたら……」

 正直に告げると、彼の瞳がわずかに揺れた。灰色の奥に潜む光が月明かりを受けて輝き、息が詰まる。

「……俺もだ。君のことを考えると、眠れなくなる。」

 その告白に胸が震え、思わず涙が滲む。私は笑いながら首を横に振り、震える声で答えた。

「……なら、同じですね。」

 殿下は短く息を吐き、私の頬に手を添えた。不器用に指先が震えながらも、確かに温もりを伝えてくる。

「君は俺の妻だ。もう、誰にも奪わせない。」

 その言葉に胸の奥が甘く締めつけられ、涙が溢れ落ちた。私は殿下の手を握り返し、強く頷く。

「はい。私は殿下だけのものです。」



 夜の静けさに包まれながら、殿下は私を抱き寄せ、額に唇を落とした。軽やかな口づけなのに、心臓が跳ねて全身が熱を帯びる。

「……君に贈ったものは、形だけじゃない。俺のすべてを預けている。」

 その言葉に涙がまた零れ、声にならない嗚咽が喉を塞ぐ。けれど幸せで仕方なくて、笑みが浮かんだ。

「……殿下。私も同じです。この首飾りと共に……心も、すべて殿下に。」

 彼は深く頷き、さらに強く抱きしめた。互いの鼓動が重なり、世界が二人だけのものになる。



 やがて瞼が重くなり、意識が遠のく。胸元のネックレスが微かに光を放ち、眠りに落ちる最後の瞬間まで温もりを伝え続けていた。

 ――贈り物の意味。それは永遠の誓いの証。目を閉じても、胸に触れる冷たい鎖が確かに愛を繋ぎ止めていた。



第18話 寄り添う夜更け

 それからの日々、私は首元のネックレスを外すことなく過ごした。光に触れるたび、殿下の言葉と温もりがよみがえり、胸の奥が甘く震える。鏡に映る自分の姿を見つめながら、以前よりも少しだけ自信を持てるようになった気がした。

 ある晩、雨が静かに降り続く夜。殿下は執務を終えるとそのまま寝室に戻ってきた。肩に疲れが滲んでいるのが分かり、私は慌てて駆け寄る。

「殿下……お疲れでしょう。温かいお茶をお淹れしますね。」

 けれど殿下は首を振り、私の手をそっと取った。

「いい。君と並んで座る方が……休まる。」

 その言葉に胸が熱くなり、私は殿下をソファへと導いた。蝋燭の炎が揺れ、雨音が静かに窓を打つ。



 殿下は背を預けるように深く座り、目を閉じた。私は隣に腰を下ろし、彼の肩にそっと寄り添う。体温が伝わり、互いの呼吸が重なる。

「……こうしていると、不思議と安心しますね。」

 私が囁くと、殿下は目を開け、灰色の瞳でじっと私を見つめた。

「俺もだ。君が隣にいるだけで、何も恐れなくて済む。」

 その言葉に胸が甘く震え、涙が滲む。私は慌てて笑みを浮かべ、首元のネックレスを指でなぞった。

「……殿下にいただいたこれがあるから、私はいつでも強くいられます。」

 殿下の瞳が柔らかく揺れ、唇がわずかに緩んだ。

「なら、俺も君に支えられているのだろうな。」

 不器用な告白に胸が満ち、私は殿下の肩に頭を預けた。外の雨音が遠くに霞み、世界は二人だけのものになっていった。



 夜更け、寝室に移っても互いに眠る気配はなかった。殿下は私の手を離さず、静かに囁く。

「……もう少し、このままでいたい。」

 その低い声に頬が熱くなり、私は笑みを浮かべて頷いた。

「はい。殿下が望まれるなら、ずっと。」

 互いの体温が重なり、鼓動がひとつのリズムを刻んでいく。

 ――寄り添う夜更けは、言葉以上の誓いを刻む時間となった。眠りよりも深く、確かな安らぎがそこにあった。




 夜は更け、窓の外では雨がまだ静かに降り続いていた。寝室の蝋燭はとっくに灯心を短くし、柔らかな光を揺らめかせている。私は殿下の隣に腰掛けたまま、胸の奥に満ちる熱を抑えきれずにいた。

 殿下は長い沈黙のあと、ゆっくりと私を見た。灰色の瞳は炎を映し、深い色を湛えている。

「……君が隣にいるだけで、俺は変わってしまった。」

 低く告げられた言葉に、胸が甘く震えた。私は息をのんで問い返す。

「変わった……とは?」

「孤独を望んでいたはずなのに、今は……君がいないことの方が恐ろしい。」

 その告白に涙がこみ上げ、声が震えた。

「……殿下。私も同じです。殿下が隣にいてくださらなければ、もう生きていけません。」

 気づけば私の手を強く握り、殿下の胸に顔を埋めていた。硬い胸板に耳を当てると、力強い鼓動が響く。その音が、私にとって世界で一番の安らぎだった。



 やがて殿下の腕が背を回り、私を包み込んだ。雨音と鼓動が重なり合い、言葉は要らなくなっていく。ただ温もりと呼吸だけで、互いの存在を確かめ合える。

「リリアナ……」

 名前を囁かれるだけで涙が零れ、私は彼の胸にしがみついた。

「殿下……どうか、ずっと呼んでください。何度でも……」

「呼ぶ。君の名前は……俺にとって祈りのようなものだから。」

 その言葉に心が甘く震え、視界が滲む。



 蝋燭の炎が小さくなり、部屋は闇に包まれていく。殿下は私を抱いたまま横になり、髪を撫でながら囁いた。

「……眠れなくてもいい。今夜はずっと、こうしていよう。」

「はい……殿下。」

 互いの吐息が重なり、まどろみの中で夢と現の境が曖昧になっていく。

 ――寄り添う夜更けは、孤独を溶かし、二人の心をひとつに結ぶ時となった。雨の夜は決して冷たくなく、むしろ永遠を誓う温もりに満ちていた。




 翌朝、窓を打っていた雨はすっかり上がり、澄んだ青空が広がっていた。濡れた庭の草花は陽光を浴びてきらきらと輝き、昨夜の寄り添い合った時間が夢ではないことを改めて感じさせた。私は胸元のネックレスを指でなぞりながら、鏡に映る自分を見つめる。頬は赤みを帯び、目元は涙の痕を隠せていない。けれど、その表情は不思議なほど晴れやかだった。

 食堂に入ると、殿下がすでに席についていた。彼もまた少し目元に疲れを残しているが、その灰色の瞳は以前より柔らかい。視線が絡んだ瞬間、昨日までの距離感が完全に消えていることを実感した。

「……おはようございます、殿下。」

「ああ。おはよう、リリアナ。」

 自分の名前が自然に呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。私は小さく微笑み、そっと椅子に腰を下ろした。



 朝食のあと、殿下は珍しく庭に出ようと誘ってくれた。空気は雨上がりの匂いを残し、葉から滴る雫が陽光に虹色を映している。並んで歩くと、彼はふと足を止め、花壇の前で立ち尽くした。

「……君に、もっと与えたい。」

 唐突な言葉に胸が震える。

「与えたい……とは?」

「安心を。未来を。……俺と共に歩む確かな証を。」

 その真剣な眼差しに息を呑み、涙が滲んだ。私は首を振り、殿下の手を取る。

「殿下からいただいたものは、すでに胸いっぱいです。髪飾りも、このネックレスも……何より殿下のお言葉が。」

 灰色の瞳がわずかに揺れ、殿下は手を強く握り返した。

「……それでも、もっと君を守りたい。」

 低い声が胸に響き、涙が頬を伝う。私は微笑みながら首を振った。

「殿下はもう十分に、私を守ってくださっています。」



 日差しを浴びて輝く庭で、私たちは長い沈黙の中、ただ互いの手を握り続けた。風が頬を撫で、木々がざわめく。そのすべてが祝福のように感じられた。

 ――寄り添った夜を経て、私たちの絆は確かな未来へと歩みを進め始めていた。


第19話 不器用な告白

 庭での会話から数日が過ぎた。殿下は相変わらず無口で、必要以上の言葉を口にしない。けれどその灰色の瞳に宿る光は以前より柔らかく、私に向けられる眼差しの奥には、隠しようのない想いが見えていた。

 その日、私は久しぶりに城下から届けられた書簡を整理していた。机に積まれた封筒の中には、旧知の令嬢たちからの便りも混じっている。そのひとつを開くと、そこには婚約破棄の後を案じる優しい言葉が綴られていた。

「……私はもう大丈夫なのに。」

 小さく呟いた声が震えた。あの日の痛みは消え去らない。だが今、殿下の隣にいることで心は確かに満たされている。

 そんなとき、背後から気配を感じた。振り向けば、殿下が扉口に立っている。

「……泣いているのか。」

 低い声に驚き、慌てて笑みを作る。

「いいえ。少し、昔のことを思い出しただけです。」

 殿下の瞳が揺れ、やがてゆっくりと歩み寄ってきた。



 机の上に散らばった手紙を殿下は無言で見下ろした。指先で一枚を摘み上げ、文面を追う。その灰色の瞳がわずかに陰り、短く息を吐いた。

「……君を傷つけた者を、俺は決して許さない。」

 力強い言葉に胸が震える。私は慌てて首を振り、殿下の腕を取った。

「もういいのです。あの出来事があったからこそ、殿下に出会えたのですから。」

 その言葉に殿下の目が大きく見開かれ、やがて深い光が宿る。

「……リリアナ。俺は、不器用で言葉も足りない。だが……君を手放したくない。」

 不意の告白に心臓が跳ね、息が止まりそうになる。

「殿下……」

 胸が熱くなり、涙が溢れそうになった。殿下は視線を逸らし、低い声で続ける。

「君は俺の妻だ。だがそれだけではない。……俺の心そのものだ。」

 不器用で、けれど誠実な告白。その一言一言が胸に染み入り、涙が頬を伝う。

「……私もです。殿下こそ、私のすべてです。」

 互いの言葉が夜の静寂に溶け、心を深く結び合わせていった。

 ――不器用な告白は、何よりも真実を帯びていた。




 殿下の言葉を胸に刻みながら、私は涙を拭った。けれど頬に残る雫はすぐには消えない。殿下は少し迷うように視線を泳がせ、やがてそっと私の頬に手を添えた。指先が温かくて、また新しい涙が込み上げてくる。

「……泣かせるつもりはなかった。」

「違うのです。これは……嬉し涙です。」

 そう答えると、殿下は驚いたように瞬きをし、それから息を吐くように小さく微笑んだ。不器用で、けれど確かに笑みだった。その一瞬を見られただけで胸が震える。



 夜、寝室に戻っても胸の鼓動は落ち着かなかった。殿下は静かに灯りを落とし、ベッドに腰を下ろすと、しばし沈黙したまま視線を伏せていた。私も隣に座り、手を膝の上で組む。

「……言葉にするのは苦手だ。」

 唐突に殿下が口を開いた。低い声が夜の空気を震わせる。

「でも、君にだけは伝えたい。……俺は、君を心から愛している。」

 その一言に胸が甘く締め付けられ、目頭が熱くなる。声にならない嗚咽がこぼれ、私は思わず殿下に抱きついた。

「殿下……! 私も、同じです。殿下だけを愛しています。」

 殿下の腕が私を包み、背を撫でてくれる。力強さと優しさが混じり合い、心は甘い安堵に包まれた。



 やがて殿下は私を抱いたまま、髪に口づけを落とした。柔らかな感触に全身が熱く染まる。

「……不器用でも、君にだけは正直でいたい。」

「そのままの殿下で……私は幸せです。」

 互いの声が重なり、夜の静寂に溶けていく。

 ――不器用な告白は、飾らない真実となって私たちを結びつけ、これまで以上に強い絆を生み出していた。



 抱きしめ合ったまま、時が止まったように静かな夜が流れていった。殿下の胸に耳を預けると、規則正しい鼓動が響いてくる。その音が心地よく、まるで「安心していい」と囁かれているかのようだった。

「……リリアナ。」

 名を呼ばれるたびに胸が甘く震え、涙が込み上げる。私は顔を上げ、灰色の瞳を見つめ返した。

「はい、殿下。」

 短い返事をすると、殿下は言葉を探すように唇を動かし、やがて低く告げた。

「……もし、あの日に君が俺の前に現れていなかったら。俺はずっと空虚の中で生きていただろう。」

 胸が締め付けられ、私は思わず殿下の手を強く握った。

「そんなこと……言わないでください。私が殿下の隣にいるのは、運命だからです。」

 涙が零れ、殿下は驚いたように目を瞬かせた。だがすぐに私を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「……運命、か。ならば俺は、この先も君と歩む。」



 静寂に包まれた寝室で、再び唇が触れ合った。先日の不器用な口づけよりも少し長く、深いものだった。熱を帯びた吐息が交わり、身体の奥まで温もりが満ちていく。

 唇が離れたあと、殿下はわずかに息を荒げながら呟いた。

「言葉では足りない。だが、こうして触れていれば……少しは伝わるか。」

「はい……十分に伝わっています。」

 胸が熱でいっぱいになり、涙が滲んだ。殿下の灰色の瞳に映る自分の姿が、確かに愛されていると告げてくれていた。



 やがて灯火が完全に落ち、夜の闇が二人を包み込む。殿下の腕の中で目を閉じながら、私は胸元のネックレスにそっと触れた。冷たい銀の鎖の感触は、殿下の不器用な告白を永遠に刻む証のようだった。

 ――不器用な告白は、言葉以上に深く、心と心を結びつける絆となった。もう孤独も不安もなく、ただ彼と共にある未来だけが私を照らしていた。



第20話 嫉妬という名の試練

 その日、王城からの使者が屋敷に訪れた。王妃陛下の茶会への招待状が届けられ、私の胸は不安でいっぱいになった。久しく顔を合わせていない貴族たちの視線に耐えられるだろうか――そう考えるだけで指先が震えた。

 招待状を手にしていると、殿下が背後から声をかけてきた。

「……行きたくないのか。」

 灰色の瞳が私を映し、わずかに陰を帯びていた。私は慌てて微笑む。

「不安はありますが、殿下の妻として胸を張って出席いたします。」

 その言葉に殿下の瞳が揺れ、しばらく沈黙が続く。やがて低く囁かれた。

「……なら、俺も同行する。」

 心強い一言に胸が温かくなり、私は深く頭を下げた。



 茶会の日。王城の広間は華やかな装飾で彩られ、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが笑顔で談笑していた。私は緊張で胸が締め付けられるのを感じながら、殿下の隣に立つ。

 すると、人々の視線が一斉に集まった。殿下が無口で人付き合いを避けてきたことを皆知っているのだろう。その隣に立つ私を、好奇と侮蔑とが入り混じった眼差しで見つめていた。

 中でも、数人の若い令嬢がひそひそと囁き合う声が耳に届く。

「どうしてあんな娘が殿下の隣に……」
「元婚約者を妹に奪われた女でしょう?」

 胸が痛み、視線を落とした瞬間、殿下の手がそっと私の指を絡めた。

「……気にするな。」

 低い声に励まされ、顔を上げる。殿下の横顔は凛として、灰色の瞳には迷いがなかった。



 しかし茶会の最中、ひとりの若き伯爵令嬢が殿下に話しかけてきた。栗色の髪を揺らし、艶やかな笑みを浮かべながら。

「殿下、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりですわ。」

 殿下は短く頷くだけだったが、令嬢は構わず言葉を続ける。

「またぜひ、お二人で狩猟の席などご一緒できればと……」

 そのやり取りを聞くだけで胸がざわめき、指先が震えた。殿下を慕う視線が、私の存在を否定するようで苦しかった。

 不安を隠せずにいると、殿下は唐突に私の手を強く握り、堂々と告げた。

「――あいにく、妻以外と出かけるつもりはない。」

 広間に静寂が落ちる。令嬢の笑みが凍りつき、周囲の人々がざわめいた。

 私は殿下を見上げ、胸の奥が熱く震える。

 ――嫉妬という名の試練は、殿下の揺るぎない言葉によって、思いがけない誓いへと変わろうとしていた。



 殿下の言葉が響いた瞬間、広間の空気が張り詰めた。周囲の視線が一斉に私たちに注がれ、令嬢たちの囁き声がざわめきに変わる。私は頬が熱くなり、胸の奥がじんわりと温かく満ちていくのを感じた。――殿下は確かに、私を妻として誇りをもっている。

 伯爵令嬢は一瞬驚いたように瞬きをし、やがて無理に笑みを浮かべて言った。

「……まあ、殿下は本当に奥方を大切にされていらっしゃるのですね。」

 その声には少し棘が混じっていたが、殿下は揺らぐことなく、灰色の瞳を真っすぐに向けて答えた。

「当然だ。彼女は、かけがえのない妻だからな。」

 その力強い宣言に、広間の空気がざわめきから静寂へと変わった。貴族たちの目に驚きと戸惑いが宿り、私は胸が熱くなって視界が滲んだ。



 茶会が終わり、私たちは廊下を並んで歩いていた。周囲の視線がまだ尾を引くように感じられる中、殿下は一度も手を離さなかった。

 私が小さな声で尋ねる。

「……殿下、本当にあんなふうにおっしゃってよかったのですか?」

 殿下は足を止め、真剣な眼差しで私を見下ろした。

「よかったに決まっている。俺は真実を言っただけだ。」

 その不器用な断言に胸が震え、私は思わず笑みを浮かべた。

「ありがとうございます……殿下の言葉で、私……とても救われました。」

 殿下は視線を逸らし、耳の端を赤くしながら低く呟く。

「……俺の方こそ、君を失うのが一番怖い。」

 その告白に涙が込み上げ、私は彼の腕にしがみついた。



 屋敷に戻る馬車の中、外は夕暮れに染まっていた。窓越しに差し込む光が殿下の横顔を照らし、私はしばらくその姿を見つめていた。

 やがて殿下が気づき、わずかに眉を動かす。

「……そんなに見つめて、どうした。」

「殿下が、あの場で私を守ってくださったこと……忘れられなくて。」

 胸が熱くなり、涙が溢れる。殿下は驚いたように私を見て、それから静かに手を取った。

「忘れるな。……君は俺の妻だ。誰に何を言われても揺るがない。」

 その一言が胸に深く刻まれ、私は涙をこぼしながら笑った。

 ――嫉妬という名の試練は、むしろ私たちを一層強く結びつける糧となっていた。



 馬車はゆっくりと屋敷へ戻っていった。夕陽が傾き、街並みが橙色に染まる。殿下の手を握ったまま、私は胸の奥に広がる温もりを確かめていた。あの茶会で向けられた冷たい視線も、囁かれた言葉も、もう痛みではなく、殿下がくれた誇りの証として心に刻まれている。

「……殿下。」

 思わず名前を呼ぶと、殿下は小さく眉を動かし、灰色の瞳をこちらに向けた。

「なんだ。」

「ありがとうございます。私を守ってくださって……あんなに強く言ってくださって。」

 震える声で告げると、殿下の視線が揺れ、わずかに息を呑んだ。

「礼を言うのは俺の方だ。……君がいてくれるから、俺は強くなれる。」

 その不器用な告白に胸が震え、涙が溢れる。私は唇を噛み、必死に声を整えた。

「私も……殿下がいるから生きていけます。どうか、これからもずっと……」

 言葉の続きを殿下の指が塞いだ。そっと口元に触れられ、灰色の瞳が真っすぐに見つめてくる。

「ずっとだ。永遠に。」

 低い声が胸の奥に響き、私は涙を流しながら笑った。



 屋敷に戻り、夜の帳が降りたころ。寝室で二人きりになった私たちは、互いの存在を確かめるように寄り添った。

「……リリアナ。」

 名を呼ばれるだけで心臓が跳ねる。殿下の瞳は熱を帯びていて、私の名前を祈りのように繰り返す。

「君が妻であることを、誰よりも誇りに思う。」

 その言葉に、私は涙と共に微笑みを浮かべた。

「私も……殿下の妻でいられることが、何よりも幸せです。」

 次の瞬間、唇が重なり、世界が甘く溶けた。長く、深い口づけ。鼓動が重なり合い、呼吸さえひとつになる。



 その夜、私たちは嫉妬の痛みを超えて、確かな絆を刻んだ。互いを信じ、守り合う誓いを胸に抱きながら、寄り添ったまま眠りについた。

 ――嫉妬という名の試練を乗り越えた今、二人の愛は誰にも揺るがせないものへと育っていった。
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