婚約者を妹に寝取られてから一か月後、無口で人付き合いが苦手な王弟殿下に「俺の妻になってくれないか」と言われ、ぎこちない溺愛生活が始まりました

さら

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第21話 初めての口論

 茶会から数日が経った。屋敷は平穏で、殿下と過ごす日々は穏やかに流れていた。けれど、安らぎの中にも小さな波は訪れる。

 ある朝、私は庭で花を摘んでいた。雨上がりの空気は澄んでいて、花々は鮮やかに咲き誇っている。髪飾りに添える花を探していると、背後から殿下の声がした。

「リリアナ、また一人で外に出ていたのか。」

 振り返ると、灰色の瞳がわずかに険しさを帯びていた。

「はい……庭ですし、少しの時間だけです。」

「侍女を連れずに出歩くのは危険だ。」

 その言葉に、胸が小さくざわめいた。

「でも、ここは殿下のお屋敷です。外の通りではありませんし……」

 私の反論に殿下の眉がわずかに寄る。

「それでも、万が一がある。俺は君を失いたくない。」

 真剣な声音に心が揺れる。けれど同時に、守られてばかりでいいのかという戸惑いも込み上げてきた。



 その日の午後。刺繍をしていると、殿下が再びやってきた。彼は少しためらうように立ち止まり、低い声で言った。

「……君が危険に晒されるのが怖い。だから口うるさく言ってしまう。」

 私は針を置き、顔を上げた。

「殿下のお気持ちは分かっています。けれど……私は殿下の隣に立つ妻です。守られるだけの存在ではいたくありません。」

 殿下の瞳が大きく揺れ、言葉を失った。

「私だって、殿下を守りたいのです。」

 その一言に、沈黙が落ちた。殿下の灰色の瞳は深い影を宿し、やがてゆっくりと口を開く。

「……俺は、不器用だな。」

 その自嘲めいた言葉に胸が痛み、思わず手を伸ばして彼の手を取った。

「殿下の不器用さが、私は好きです。だから……もっと信じてください。」

 殿下は目を伏せ、深く息を吐いた。

「……分かった。君を信じる。」

 その答えに涙が溢れ、胸が甘く震えた。

 ――初めての口論は、互いの想いをぶつけ合い、絆をさらに深めるものとなっていた。




 口論のあと、部屋の中には少しぎこちない沈黙が漂っていた。殿下は窓辺に立ち、外を眺めたまま言葉を探しているようだった。私は彼の背を見つめながら、胸の奥に残る痛みと温もりの両方を感じていた。

「……殿下。」

 勇気を振り絞って声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。灰色の瞳がわずかに揺れ、低い声で告げられる。

「君を縛るつもりはなかった。ただ……怖かったんだ。」

「怖い……?」

「君がいなくなることが。俺はそれに耐えられない。」

 その不器用な言葉に胸が熱くなり、涙が滲んだ。私は立ち上がり、彼に歩み寄る。

「殿下……私も同じです。だから、互いに縛り合うのではなく、支え合いたいのです。」

 殿下はしばし沈黙し、それから小さく頷いた。

「……支え合う、か。」



 夜になり、寝室の灯火が揺れる中、私は殿下の隣に腰を下ろしていた。口論の余韻がまだ残っているものの、互いの距離は確かに縮まっている。

 殿下はしばらく沈黙を守った後、ぽつりと呟いた。

「君とぶつかるのは初めてだな。」

「はい。でも、嫌ではありませんでした。殿下と本音を言い合えたから。」

 そう答えると、殿下は驚いたように目を瞬かせ、やがて不器用に笑った。

「……俺にはもったいない妻だ。」

「そんなことありません。殿下だからこそ、私はここまで強くなれました。」

 互いの言葉が重なり、胸が甘く震える。殿下の手が私の指を探し、絡めてくる。その温もりが、何よりの和解の証だった。



 夜が更けるにつれて、私たちは互いの腕の中で静かに寄り添った。言葉は少なくても、心は確かに通じ合っている。

「……これからも時に言い合うだろう。それでも、君を手放すことはない。」

「はい。私も殿下の隣に居続けます。」

 小さな誓いを交わし、雨上がりのように澄んだ安らぎが胸に広がった。

 ――初めての口論は、決して溝を作るものではなく、互いの絆を深める試練となったのだった。



 寄り添ったまま迎えた深夜、殿下はまだ眠らずに私の髪を撫でていた。静かな寝室には雨音もなく、ただ互いの呼吸だけが響いている。私はまどろみの中で瞼を開き、彼の灰色の瞳を見つめた。

「……殿下。」

 呼びかけると、殿下は小さく頷いた。

「眠れないのか。」

「はい……でも、殿下が隣にいてくださるから、大丈夫です。」

 そう告げると、彼は少し眉を寄せ、ためらうように唇を動かした。

「……君と初めて言い合って、怖くなった。君を傷つけたのではないかと。」

 その不器用な心情に胸が締め付けられ、私は慌てて首を振った。

「違います。殿下とだからこそ、本音をぶつけられたのです。むしろ……嬉しかったくらいです。」

 涙が滲み、殿下の胸に顔を埋めた。彼の腕がすぐに私を抱き寄せ、力強く背を撫でる。



「……リリアナ。」

 名を呼ばれ、顔を上げると唇が重なった。短く、けれど深い口づけ。互いの想いを確かめ合うように、重ねられた。

 唇が離れると、殿下の瞳が真剣に揺れる。

「俺は不器用だが……君となら、どんな困難も越えられると信じている。」

 その告白に胸が甘く震え、私は涙をこぼしながら微笑んだ。

「私もです。殿下と共になら、どんな未来も恐れません。」

 強く頷き合い、互いの手を握る。温もりが重なり、夜の静寂が祝福のように感じられた。



 やがて殿下の呼吸が穏やかになり、私の瞼も重くなっていく。眠りに落ちる直前、胸元のネックレスにそっと触れた。冷たい銀の感触が、彼と交わした誓いを刻んでいるようだった。

 ――初めての口論を経て、私たちはさらに強い絆で結ばれた。愛は不安を越え、互いを支える力へと変わっていったのだ。



第22話 ささやかな日常の幸せ

 朝の光が差し込む食堂で、私はいつものように殿下と向かい合って朝食をとっていた。銀の食器が小さく音を立て、外では小鳥の声が響いている。日々の喧騒から離れ、こうして二人きりで食卓を囲めることが、何よりの贅沢に思えた。

 殿下はパンを口に運びながら、不意に視線を上げる。

「……今日の予定は?」

「刺繍の続きをしようと思っております。それから庭に出て花を摘んで……殿下のお部屋にも飾りたいです。」

 答えると、灰色の瞳がわずかに柔らかく揺れた。

「なら……午後は俺も一緒に庭に出よう。」

 胸が甘く震え、思わず微笑みがこぼれる。

「はい。とても楽しみです。」



 昼下がり、庭は穏やかな日差しに包まれていた。花壇には色とりどりの花が咲き誇り、風に揺れる花弁が光を反射してきらめいている。私は籠を片手に花を摘み、殿下は黙ってその隣を歩いていた。

 花を一輪差し出すと、殿下は少し戸惑いながらも受け取る。

「……俺が持っていていいのか。」

「もちろんです。殿下の机の上に飾っていただければ、私も嬉しいですから。」

 殿下の耳がわずかに赤くなり、口元が緩む。

「そうか……なら、そうしよう。」

 その不器用なやり取りに胸が甘く満たされ、私は静かに笑った。



 夕暮れ、花を飾り終えた殿下の書斎は、柔らかな彩りで満ちていた。机に置かれた花が部屋の雰囲気を変え、窓から射す光と溶け合っている。

 殿下はしばらく黙って花を見つめ、それから小さな声で囁いた。

「……部屋が明るくなったな。君のおかげだ。」

 その一言に胸が熱くなり、頬が染まる。

「私も……殿下の隣にいられるからこそ、幸せでいられるのです。」

 殿下の瞳が揺れ、静かに私の手を取った。温もりが指先から広がり、胸が甘く震える。

 ――ささやかな日常の幸せ。それは豪奢な宴や贈り物よりも、心を深く満たすものだった。




 花に彩られた殿下の書斎は、まるで別の場所のように穏やかだった。いつもは重々しい空気が漂っていた机も、今は柔らかな雰囲気に包まれている。殿下は椅子に腰を下ろし、机に肘をつきながら花を見つめていた。

「……香りが心地よいな。」

 彼の低い声が響く。私は窓辺に立ちながら微笑んだ。

「ええ。殿下の疲れを少しでも和らげられるなら、それが何より嬉しいです。」

 殿下はわずかに目を細め、灰色の瞳を私に向ける。

「君は、いつも俺に安らぎをくれる。」

 その言葉に胸が甘く震え、思わず視線を落とした。指先で胸元のネックレスを撫でながら、静かに答える。

「殿下こそ、私にとっての安らぎです。」



 夕食を終え、夜の帳が下りると、殿下は私を庭へと誘った。月明かりに照らされた花々は昼とは違う表情を見せ、白や淡い色の花弁が淡く光を放っている。

「……夜の花も悪くない。」

「はい。まるで月に祝福されているようです。」

 並んで歩くうちに、殿下は足を止め、じっと私を見つめた。

「リリアナ。……俺は君と過ごす時間が一番好きだ。」

 唐突な告白に胸が甘く震え、頬が熱くなる。

「わ、私もです。殿下と過ごす日常が、何よりも幸せです。」

 殿下は小さく息を吐き、不器用に微笑んだ。

「なら……これからも、ずっと。」

 その言葉に涙が滲み、私は深く頷いた。



 夜風が頬を撫で、庭の木々がざわめいた。殿下が差し出した手を握り返すと、静かに影が重なる。

 ――ささやかな日常は、互いの心を満たし、これから続く未来への誓いを確かなものにしていった。




 月明かりに照らされた庭で、殿下と手を繋いだまま立ち尽くしていた。指先から伝わる温もりは確かな絆となり、胸の奥を甘く満たしていく。夜風に揺れる花々の香りが漂い、世界が二人だけのものに感じられた。

「……リリアナ。」

 名を呼ばれるたび、胸が震える。私は殿下の灰色の瞳を見上げ、小さな声で応えた。

「はい、殿下。」

 彼は少しためらうように唇を動かし、それから低く囁いた。

「こうして君と過ごす時間が……何よりも幸せだ。」

 不器用で真っすぐな言葉に涙が込み上げ、視界が滲む。私は笑みを浮かべながら首を振った。

「殿下。私も同じです。豪華な宴や贈り物よりも……こうして日常を共にできることが、何よりも嬉しいのです。」

 殿下の瞳が揺れ、強く私の手を握り返す。



 やがて屋敷に戻り、寝室の灯火を落とすと、殿下は静かに私を抱き寄せた。腕の中は温かく、互いの鼓動が重なり合う。

「……君が隣にいるだけで、俺は救われる。」

「私もです。殿下と一緒にいられるから、どんな明日も恐れません。」

 灰色の瞳が深い光を帯び、唇が触れる。柔らかく、長い口づけ。心臓が甘く震え、全身が熱を帯びる。

 唇が離れたあと、殿下は耳元で囁いた。

「これが俺たちの日常なら……永遠に続いてほしい。」

 その告白に涙が溢れ、私は震える声で答えた。

「ええ……殿下となら、永遠に。」



 その夜、互いの温もりを確かめ合いながら眠りについた。夢の中でも殿下の手は離れず、目覚めてもきっと同じ温もりがそこにあると信じられた。

 ――ささやかな日常の幸せ。それは決して当たり前ではなく、互いが共にあるからこそ輝きを増すものだった。



第23話 王妃陛下からの呼び出し

 翌朝、食堂での朝食を終えた頃、侍女が慌ただしく駆け込んできた。手にした封蝋付きの文を差し出され、私は胸がざわめく。開封すると、そこには王妃陛下の直筆の署名があり、私に王城へ参内するよう記されていた。

「……王妃陛下から、です。」

 声が震える。殿下は文を受け取り、黙って目を走らせた。灰色の瞳がわずかに細められ、短く息を吐く。

「……俺も同行する。」

「で、殿下……」

「君を一人で行かせるつもりはない。」

 力強い声音に胸が熱くなり、涙がにじむ。私は深く頷き、震える声で答えた。

「……はい。ご一緒させてください。」



 王城の廊下を歩くと、華やかな装飾と冷たい視線が同時に押し寄せてきた。すれ違う貴族たちが一様に私を見つめ、ひそひそと囁く声が背中を追う。

「……あれが噂の。」
「王弟殿下の妻だというが……」

 耳に入る声に胸が締め付けられそうになる。だが、殿下の手がしっかりと私の指を握っていて、勇気が湧いてきた。

 やがて案内された広間に入ると、王妃陛下が優雅に玉座に座していた。豊かな金髪を結い上げ、宝石を散りばめた衣を纏った姿は、威厳と慈愛を併せ持っている。

「よく来ましたね、リリアナ。」

 柔らかな声に胸が震える。私は深く膝を折り、声を震わせて答えた。

「王妃陛下のお呼びに応じ、参上いたしました。」



 王妃陛下はしばらく私を見つめ、それから穏やかに微笑んだ。

「あなたのことは耳にしておりました。けれど……こうして見ると、噂とは随分違うようですね。」

 その言葉の真意を測りかねて息を呑む。殿下は私の肩に手を置き、低く告げた。

「リリアナは俺の妻です。誰にどう言われようと、変わりません。」

 その強い言葉に、王妃陛下の瞳がわずかに揺れた。

「……ふふ。あなたにそう言わせるほどの方なのですね。」

 王妃陛下の微笑みが深まり、胸の奥にわずかな安堵が広がる。だが同時に、何か新たな試練の予感が静かに影を落としていた。

 ――王妃陛下からの呼び出しは、私たちの関係をさらに試す出来事の始まりとなろうとしていた。




 王妃陛下の微笑みに安堵を覚えながらも、胸の奥はざわついていた。広間に漂う空気は張りつめており、周囲に控える侍女や侍従たちの視線も痛いほどに突き刺さる。私は膝をついたまま深呼吸し、震える心を抑え込んだ。

「リリアナ。」

 王妃陛下が静かに名を呼ぶ。穏やかでありながらも、その声は広間全体に響き渡った。

「あなたが殿下の妻となった経緯について、多くの者が口をそろえて囁いています。けれど私が見たいのは噂ではなく、実際のあなたの姿。――本当に殿下を支えるに足る人物なのかどうか。」

 その問いに胸が強く締め付けられる。言葉を返そうとしたとき、殿下が一歩前に出た。

「陛下。彼女以上に俺を理解し、支えてくれる者はいません。」

 低く力強い声が響き、王妃陛下は一瞬驚いたように瞳を見開いた。だがすぐに表情を和らげ、再び私を見つめた。

「……あなた自身の口からも聞かせてちょうだい。リリアナ。あなたは、彼の隣に立つ覚悟がありますか?」



 私は深く息を吸い込み、震える膝を強く押さえた。視線を上げると、王妃陛下の眼差しは真剣そのものだった。

「はい。私は殿下の妻として……殿下の隣に生涯寄り添う覚悟でございます。」

 声は震えていたが、心に偽りはなかった。胸元のネックレスにそっと触れ、誓いを込めて告げる。

「どんな困難があろうとも、私は殿下を支え続けます。」

 広間に沈黙が落ちた。王妃陛下はしばらく私を見つめ、やがてゆっくりと微笑んだ。

「……よいでしょう。あなたの言葉、確かに聞き届けました。」

 安堵の息が漏れ、胸が熱くなる。殿下の手がそっと私の肩に触れ、その温もりが背中を支えてくれた。



 王妃陛下は立ち上がり、玉座の階段をゆっくりと降りてきた。私の前に立つと、手を差し伸べてくださる。

「立ちなさい。これからは堂々と、彼の隣に立つのですよ。」

 その手を取った瞬間、胸に込み上げるものがあり、涙が零れそうになった。

「……はい、王妃陛下。」

 声を震わせながら答えると、王妃陛下は優雅に頷いた。

 ――王妃陛下からの呼び出しは、私にとって試練であると同時に、殿下の妻としての第一歩を刻む大切な瞬間となった。




 王妃陛下の手を取って立ち上がった瞬間、広間の空気が少しだけ柔らかくなった。だが、周囲の視線が完全に和らいだわけではない。貴族たちの間にはまだざわめきが残り、私を測るような眼差しがいくつも注がれていた。

 その気配を感じ取ったのか、殿下が一歩前に出て、私の背に手を添える。灰色の瞳が冷ややかに広間を見渡し、低い声が響いた。

「彼女に対する侮りは、すなわち俺に対する侮りだ。……忘れるな。」

 その一言に場は静まり返った。誰もが息を呑み、言葉を失ったように口を閉ざす。殿下の存在感と宣言の重みが、広間全体を圧倒していた。

 私はその背に守られながら、胸の奥が熱く震えるのを感じた。――この人が隣にいてくれる限り、私は恐れることはない。



 謁見が終わり、広間を後にした私たちは、長い廊下を並んで歩いていた。高い天井に足音が反響し、背後からの視線がまだ追いかけてくる気がして肩が強張る。

 そんな私の手を、殿下は黙って握りしめた。強く、けれど優しく。

「……よくやったな。」

 その一言に胸が溢れ、私は涙を堪えながら笑った。

「殿下がいてくださったからです。もし一人だったら……きっと、声も出せませんでした。」

 殿下はしばらく黙ったまま私を見つめ、やがて小さく頷いた。

「君はもう、俺の隣に立つに足る人間だ。」

 その不器用な賛辞に胸が甘く震え、涙が頬を伝った。



 屋敷へ戻る馬車の中、私は殿下の肩にもたれて窓の外を眺めていた。夕陽が城壁を黄金色に染め、影が長く伸びていく。

「……王妃陛下にお会いして、ようやく認めていただけた気がします。」

 私の呟きに、殿下は低く応えた。

「君は最初から俺の妻として十分だった。だが今日で、それを他の誰にも否定させない。」

 その言葉に胸が熱くなり、目を閉じて頬を寄せた。殿下の肩の温もりが心を満たし、涙がまた零れそうになった。

 ――王妃陛下からの呼び出しは、試練であると同時に祝福でもあった。私たちは互いの絆を胸に刻み、より揺るぎない未来へと歩みを進めていた。


第24話 手を取り合う未来

 王妃陛下に認められたその夜、屋敷に戻った私は鏡台の前に座り、胸元のネックレスを指でそっとなぞっていた。銀の鎖の冷たさと、殿下の手の温もりが重なって思い出され、胸の奥が甘く震える。

 扉が静かに開き、殿下が入ってきた。執務を終えたばかりなのだろう、肩には疲労が滲んでいる。けれど灰色の瞳はいつもより柔らかく光っていた。

「……今日のこと、よく耐えてくれたな。」

 低い声に顔を上げ、微笑んだ。

「殿下が隣にいてくださったから、私は強くいられました。」

 その答えに殿下は視線を逸らし、耳の端を赤く染める。不器用な仕草が愛おしくて、胸が甘く満たされた。



 やがて殿下は机の引き出しから紙束を取り出し、私に差し出した。

「……これは、将来のための覚え書きだ。」

 恐る恐る手に取ると、そこには屋敷の管理や領地の運営に関する詳細が記されていた。

「こんな大切なものを、私に?」

「ああ。俺一人では不安だ。……共に考えてほしい。」

 殿下の真剣な瞳に胸が震え、涙が溢れそうになった。

「殿下……私に務まるでしょうか。」

「君だからこそ、頼める。」

 その言葉に涙が頬を伝い、私は深く頷いた。

「……はい。殿下と共に未来を歩みます。」



 夜更け、寝室で寄り添ったまま灯火を落とす。殿下は私の手を握り、低く囁いた。

「君となら、どんな未来も恐れない。」

「私もです。殿下となら……」

 互いの言葉が溶け合い、唇が重なった。長く、温かい口づけ。胸が甘く震え、涙が滲む。

 ――手を取り合う未来。それはまだ形のない道だが、二人でなら確かに歩んでいけると信じられた。




 翌朝、殿下の書斎で二人並んで座っていた。机の上には昨夜受け取った覚え書きが広げられており、羊皮紙に記された文字が淡い陽光を受けて光っている。私は指先で文字を追いながら、胸の奥にじんわりと広がる緊張を抑え込んだ。

「……領地の税収や倉庫の管理、ここまで細かく……」

 思わず呟くと、殿下は低い声で答えた。

「不備があれば指摘してほしい。俺だけでは見落とすこともある。」

「殿下が……私の意見を?」

 驚いて顔を上げると、灰色の瞳が真っすぐにこちらを捉えていた。

「君は俺の妻だ。共に未来を歩むなら、君の声も必要だ。」

 胸が甘く震え、涙が滲む。私は小さく頷き、紙に視線を戻した。



 昼下がり、庭に出ると風が心地よく頬を撫でた。殿下と並んで歩きながら、未来について語るのは不思議なほど自然で、胸を温かく満たしていった。

「殿下は……どんな未来を思い描いておられるのですか?」

 問いかけると、殿下は少し視線を宙に彷徨わせ、やがて低く答えた。

「静かな未来だ。……戦や争いとは無縁で、君と穏やかに過ごせる日々。」

 その言葉に涙が込み上げ、私は笑みを浮かべて頷いた。

「私も同じです。殿下の隣で、ただ平穏な日常を重ねたい。」

 殿下はしばらく私を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「なら、そのために俺は強くあらねばならないな。」

 灰色の瞳に決意の光が宿り、胸が熱くなる。私は殿下の手を取って強く握った。

「私も支えます。殿下となら、どんな未来も築けます。」



 夕暮れが訪れ、赤く染まる空の下で二人肩を並べた。沈みゆく太陽が私たちを照らし、影がひとつに重なる。

 殿下はふと私の名を呼び、囁いた。

「リリアナ……これからも俺の隣に。」

「ええ、ずっと。」

 胸が震え、涙が溢れる。互いの影を重ね合わせながら、未来への誓いを胸に刻んだ。

 ――手を取り合う未来はまだ形を持たない。けれど確かなのは、殿下と共に歩むと決めたこの道こそ、私にとって最も輝かしいものだということだった。




 夜。寝室に灯した蝋燭の炎が静かに揺れ、壁に映る二人の影が重なっていた。昼間に交わした未来の話が胸に残り、眠りにつくには惜しいほど心が熱を帯びていた。私は胸元のネックレスに触れながら、殿下の横顔を見つめる。

「……殿下、本当に私でよかったのですか?」

 思わず漏れた問いに、殿下はゆっくりとこちらを向いた。灰色の瞳が真っすぐに私を射抜き、低く静かな声が響く。

「リリアナ。俺にとって君以外はいない。……何度でも言おう。君は俺の妻であり、心そのものだ。」

 その言葉に胸が甘く震え、視界が滲む。私は涙を拭い、微笑みながら頷いた。

「殿下……ありがとうございます。私も、殿下と共に未来を築きたいのです。」

 唇が重なる。長く、深い口づけ。互いの想いを確かめ合い、鼓動がひとつに溶けていく。



 口づけのあと、殿下は私を強く抱きしめた。背に回された腕が熱を宿し、全身を包み込む。

「俺は不器用で、言葉も足りない。それでも……君を幸せにしたい気持ちだけは誰にも負けない。」

 耳元に落とされた声が胸に響き、涙がまた溢れる。

「殿下がいてくださるだけで、私はもう十分に幸せです。」

 互いの吐息が重なり、夜の静寂が甘く満ちていく。



 やがて灯火が消され、闇の中で互いの温もりを確かめ合った。指先が触れ合い、鼓動が重なる。言葉はなくとも、未来を共に歩む誓いが確かにそこにあった。

 ――手を取り合う未来は、まだ遠い先のことかもしれない。けれど、その夜の抱擁と口づけが、二人にとって何よりも確かな道標となった。



第25話 初めての外泊

 王妃陛下への謁見から数日後、殿下は珍しく旅支度を整えていた。控えめな外套に、必要最低限の荷を詰めた鞄。私は侍女からその準備を耳にし、胸がざわめく。

「……殿下、どこかへ行かれるのですか?」

 恐る恐る問いかけると、殿下は少し迷うように視線を揺らし、低く答えた。

「君を連れて、小さな別邸へ行こうと思う。……二人だけで過ごせる場所だ。」

 その言葉に胸が甘く震える。王城や貴族たちの視線から解き放たれ、ただ殿下と二人きりで過ごせる。想像しただけで頬が熱くなり、声が震えた。

「……本当に、私もご一緒してよろしいのですか?」

「当然だ。君なしで行く意味はない。」

 灰色の瞳が真剣に揺れ、私は涙が込み上げるのを必死に堪えた。



 馬車に揺られて半日。辿り着いたのは森に囲まれた静かな別邸だった。石造りの外壁は年月を経て落ち着いた風合いを帯び、窓辺には花が飾られている。人影は少なく、ただ鳥の声と風のざわめきが響いていた。

「ここなら誰にも邪魔されない。」

 殿下の言葉に胸が満ち、私は思わず微笑んだ。

「まるで秘密の隠れ家のようですね。」

 彼は短く頷き、外套を脱いで私の肩にかけてくれる。

「冷えるといけない。中に入ろう。」



 暖炉の火がぱちぱちと音を立てる広間に腰を下ろすと、殿下は珍しく寛いだ様子を見せていた。外套を椅子に掛け、私の隣に座ると、肩が触れ合う距離で囁く。

「……こうして誰の目もない場所で、君と過ごしたかった。」

 胸が甘く震え、頬が熱を帯びる。私は小さな声で答えた。

「私もです。殿下と二人きりで過ごせるなんて、夢のようです。」

 殿下の瞳が柔らかく揺れ、私の手を取る。暖炉の炎に照らされるその温もりは、まるで未来を照らす灯火のようだった。

 ――初めての外泊は、二人だけの静かな時間を紡ぐ、かけがえのない始まりとなった。



 別邸で迎えた初めての夜。窓の外には森の闇が広がり、遠くで梟の声が響いていた。暖炉の火が部屋をやわらかく照らし、炎の揺らめきが壁に影を踊らせている。私は厚手の毛布を膝にかけながら、隣に腰を下ろした殿下をちらりと見た。

「……こうしていると、まるで別の世界に来たようです。」

 呟くと、殿下は静かに頷いた。

「城や屋敷では、どうしても視線がつきまとう。だがここなら……俺たちだけだ。」

 その言葉に胸が震え、頬が熱くなる。二人きり、という響きが甘く心を揺らす。



 やがて殿下が立ち上がり、暖炉に薪をくべた。ぱちぱちと音を立てて火が勢いを増し、部屋の空気が温かさを増す。殿下は椅子に戻ると、少し迷うように視線を泳がせ、それから不器用に告げた。

「……君と、もっと語り合いたい。普段は言葉が足りず、思いを伝えきれないから。」

 灰色の瞳に真剣な光が宿っていた。私は胸が甘く震え、笑みを浮かべて頷く。

「私もです。殿下のお気持ちを、もっと知りたいです。」

 そう言うと、殿下はわずかに耳を赤くしながらも私を見つめ続けた。



 その夜は、取り留めもない話をした。子どもの頃の思い出や、好きな食べ物のこと。殿下が意外にも甘い菓子を好むと知って驚き、思わず笑ってしまう。殿下は少し不機嫌そうに眉を寄せながらも、私の笑い声に釣られて口元を緩めた。

「……君に笑われると、悪い気はしない。」

 不器用な言葉に胸が熱くなり、私は手を伸ばして彼の指を握った。

「殿下……私も、殿下とこうして笑い合えるのが幸せです。」

 指先の温もりが重なり、胸の奥にじんわりと広がっていく。



 外泊の初めての夜は、豪奢な宴ではなく、ただ火の前で語り合い、寄り添い合うだけの時間だった。けれど、それこそが何よりも甘く、心を満たすひとときだった。

 ――殿下と過ごす静かな夜は、私にとって永遠に忘れられない宝物となっていった。




 夜が更け、蝋燭の灯りも小さく揺れ始めたころ。殿下と私は並んでソファに腰掛けたまま、互いの手を握っていた。暖炉の炎がぱちぱちと弾け、静寂の中で鼓動だけが重なって聞こえる。

「……殿下。」

 名前を呼ぶと、灰色の瞳がこちらを見た。その視線に包まれるだけで胸が震え、言葉が喉に詰まる。けれど勇気を振り絞り、微笑みながら続けた。

「この時間が、ずっと続けばいいのにと思ってしまいます。」

 殿下は目を細め、少しの間黙っていた。やがて低く、けれど確かな声で応える。

「続けよう。……君となら、永遠に。」

 その不器用な告白に涙がこぼれそうになり、私は慌てて俯いた。けれど殿下の指が頬に触れ、そっと上を向かされる。



 唇が重なった。静かで、けれど熱を帯びた口づけ。初めて交わしたときよりも深く、確かなもの。世界が揺らぎ、胸の奥が甘く痺れる。

 唇が離れると、殿下は私の額に口づけを落とした。

「君といると……自分が変われる気がする。」

「殿下は、もう十分に優しい方です。」

 思わずそう告げると、殿下の目が驚いたように揺れ、次いで穏やかに細められた。

「……そう言ってくれるのは、君だけだな。」



 その夜、私たちは同じ寝台に身を横たえた。森に囲まれた別邸は静寂に包まれ、遠くで風が木々を揺らす音だけが響く。殿下の腕の中で目を閉じると、胸の奥に確かな安堵が広がった。

 「殿下……」

 まどろみの中で名前を呼ぶと、彼は強く抱きしめてくれる。

「俺のそばに、ずっといてくれ。」

「はい。永遠に……」

 ――初めての外泊の夜は、互いの未来を確かめ合う誓いの夜となった。眠りに落ちてもなお、温もりは決して離れなかった。



第26話 秘密の朝食

 森に囲まれた別邸で迎える初めての朝。鳥のさえずりが窓の外から聞こえ、やわらかな陽光がカーテン越しに差し込んでいた。目を覚ました私は、隣で眠る殿下の横顔をそっと見つめた。整った眉、穏やかな寝息。その姿が愛おしくて胸が温かく満たされる。

 やがて殿下がゆっくりと瞼を開いた。灰色の瞳が私を映し、低い声で囁かれる。

「……おはよう、リリアナ。」

「おはようございます、殿下。」

 朝の挨拶を交わすだけで頬が熱くなる。殿下は腕を伸ばし、まだ眠気を含んだ声で続けた。

「君の顔を最初に見られる朝は……悪くないな。」

 その言葉に胸が甘く震え、思わず笑みがこぼれた。



 身支度を整えたあと、私は台所に足を運んだ。別邸は侍女も少なく、簡素な造りになっている。そこで私は、殿下と二人だけの朝食を用意してみようと思い立った。

 籠に入っていた卵やパン、果物を並べ、不慣れな手つきで調理を始める。卵を割る音、パンを焼く香ばしい匂いが広がり、心が躍った。

「……何をしている?」

 背後から声がして振り返ると、殿下が立っていた。驚きと戸惑いが入り混じった表情で、私の手元を見つめている。

「朝食を。殿下と二人きりでいただきたくて……」

 恥ずかしさに頬が熱くなる。けれど殿下は黙って近づき、私の手からナイフを受け取った。

「俺にも手伝わせろ。」



 ぎこちないながらも、二人で協力して作った食卓は、驚くほど温かい雰囲気を纏っていた。焼き立てのパンに卵、果物を添えた簡素な朝食。

 殿下はパンを口にし、少し驚いたように目を瞬かせた。

「……悪くないな。」

 その一言に胸が甘く満たされ、思わず笑みがこぼれる。

「殿下と一緒に作ったから、美味しいのだと思います。」

 殿下の灰色の瞳がやわらかく揺れ、互いに視線を交わした。

 ――秘密の朝食は、誰に見せることもできないけれど、確かな幸せを刻むひとときとなった。




 質素なはずの朝食が、こんなにも胸を満たすものになるとは思わなかった。殿下は黙々と卵を口に運び、ときおり私の方をちらりと見る。その灰色の瞳に映る自分の姿が恥ずかしくもあり、同時に嬉しくもあった。

「……殿下のお口に合いましたか?」

 恐る恐る尋ねると、殿下は小さく頷いた。

「君が用意してくれたものだ。それだけで十分だ。」

 不器用ながらもまっすぐな言葉に、胸が甘く震える。私は微笑み、カップを手に取った。温かい香りが広がり、心まで安らぐ。



 食後、片付けをしようと立ち上がると、殿下が私の手首を取った。

「リリアナ。……無理はするな。」

「無理などしておりません。ただ……殿下に喜んでいただきたくて。」

 そう告げると、殿下は言葉を失い、しばらく私を見つめた。そして静かに吐息を漏らし、頬に触れる。

「……どうして君は、そんなにも俺を想ってくれるのだろう。」

 問いかけというより、独白に近い声音だった。私は頬を赤らめ、俯きながら答える。

「理由なんてありません。殿下だから、です。」

 その一言に、殿下の瞳が揺れた。



 台所の窓から差し込む朝日が、二人を包み込んでいた。殿下は小さく首を振り、口元にかすかな笑みを浮かべる。

「……俺には過ぎた妻だな。」

「いいえ。私は殿下の妻だからこそ、この幸せを感じられるのです。」

 言葉を重ね合ううちに、胸が甘く熱くなっていく。互いの視線が絡み合い、朝の光に照らされる中、指先が自然と触れ合った。

 ――秘密の朝食は、ただの食事ではなく、互いの心を確かめ合うひとときとなっていた。



 朝食を終え、窓から差し込む光が床に長い影を落としていた。殿下は黙って椅子を引き、私の前に立つと手を差し出した。

「……リリアナ。来てほしい場所がある。」

 差し出された手を取ると、殿下は私を中庭へと導いた。別邸の裏手には、小さな菜園と花壇が広がっていた。朝露をまとった花々がきらめき、柔らかな風が頬を撫でる。

「ここは、俺がまだ幼い頃に母上と過ごした場所だ。誰にも話したことはない。」

 殿下の声は低く、少し震えていた。私は驚きながらも、そっと彼の横顔を見つめた。

「……大切な場所を、私に見せてくださるのですか?」

「ああ。君だからだ。」

 その一言に胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。



 殿下は花壇の前に立ち止まり、そっと手を伸ばした。指先が花弁に触れると、遠い記憶を呼び覚ますように目を閉じる。

「母上は……優しい方だった。人前では強く振る舞っていたが、俺の前ではよく笑ってくれた。」

 語られる思い出に、胸が締め付けられる。私は静かに殿下の手を握った。

「殿下の想い出を、こうして聞かせていただけて……光栄です。」

 殿下は目を開き、灰色の瞳を私に向けた。

「君となら……この先の未来も分かち合える気がする。」

 その真剣な言葉に涙が溢れ、頬を伝った。



 殿下はそっと私を抱き寄せ、額を重ねた。花々の香りに包まれながら、互いの鼓動がひとつに重なる。

「……リリアナ。これからも、俺の隣に。」

「ええ。ずっと……殿下の隣におります。」

 誓いを交わした瞬間、朝の光が花壇を照らし、白い花が一層輝いて見えた。

 ――秘密の朝食から始まった一日は、大切な記憶と未来を重ね合わせる、永遠の約束の朝となった。



第27話 帰路の誓い

 別邸で過ごした数日は、まるで夢のようだった。朝は二人で支度を整え、昼は庭を散歩し、夜は暖炉の前で語り合う。誰の目もなく、ただ殿下と私だけで紡ぐ時間。胸の奥に刻まれたその温もりを、永遠に忘れたくないと思った。

 しかし、帰路につく日がやってきた。馬車の前で荷を積む従者を眺めながら、胸に小さな寂しさが広がる。殿下はそんな私の表情を見て、低い声で囁いた。

「名残惜しいか。」

「……はい。殿下と二人きりの時間が、あまりにも幸せでしたから。」

 正直な思いを伝えると、殿下の灰色の瞳がやわらかく揺れた。

「また来ればいい。君となら、何度でも。」

 その言葉に胸が甘く震え、涙が込み上げる。私は強く頷き、微笑んだ。



 馬車の中、殿下は珍しく窓の外を見つめたまま沈黙していた。森を抜け、道が開けると、空は澄み渡り、遠くに城の影が見えてきた。

 殿下は静かに口を開いた。

「リリアナ。俺は今まで、未来を語ることを避けてきた。……だが、君と過ごすうちに、考えるようになった。」

 真剣な声音に息を呑み、彼を見つめる。

「どんな未来を……お考えですか?」

 殿下は一瞬言葉を探すように視線を逸らし、やがて低く告げた。

「君と共に生きる未来だ。……城の喧騒の中でも、領地の務めの中でも、君となら歩いていける。」

 その不器用な告白に胸が甘く痺れ、頬を伝う涙を止められなかった。



 殿下は私の手を取って強く握り、静かに続けた。

「約束しよう。俺はどんなときも君を守り、君と共に歩む。」

 灰色の瞳に宿る決意が、胸を射抜くように響いた。私は震える声で応えた。

「……私も誓います。殿下となら、どんな未来も恐れません。」

 馬車はゆっくりと進み、城へと近づいていく。帰路は別れではなく、誓いの始まりだった。

 ――帰路の誓いは、私たちをさらに強く結びつけるものとなった。



 馬車の車輪が石畳を軋ませながら進むたび、窓の外の景色は少しずつ変わっていった。森の静けさから遠ざかり、城下町の喧噪が近づいてくる。活気ある人々の声や市場の賑わいが耳に届き、別邸で過ごした穏やかな日々が夢のように思えた。

 けれど、隣に殿下がいる。その事実があれば、どんな喧騒も恐ろしくはなかった。

「……人々の視線が、また君を苦しめるかもしれない。」

 殿下が低く呟いた。窓越しに見える町人たちが馬車を振り返り、ひそひそと声を交わしている。胸が締め付けられたが、私は殿下の手を強く握った。

「大丈夫です。殿下と共にいる限り、私は恐れません。」

 そう言うと、殿下の瞳が驚いたように揺れ、やがて柔らかに細められた。

「……君は強くなったな。」



 馬車が王城へと近づくにつれ、胸の奥に緊張が広がる。かつて妹に婚約者を奪われた日の痛みが一瞬よぎったが、すぐに殿下の温もりがそれを打ち消した。

「リリアナ。」

 名前を呼ばれ、顔を上げると、殿下は真剣な瞳でこちらを見つめていた。

「君を妻として迎えたことを、誰よりも誇りに思っている。」

 その不器用でまっすぐな言葉に、胸が甘く震えた。涙が頬を伝い、声が震える。

「……殿下。私も、殿下の妻であることを誇りに思っています。」

 殿下の手がそっと頬を拭い、灰色の瞳が深く揺れた。



 やがて馬車が王城の門をくぐると、兵士や侍女たちが頭を下げて出迎えた。視線は依然として好奇の色を帯びていたが、もう怯えることはなかった。殿下が隣に立ち、私の手を固く握ってくれているから。

「……帰ってきたな。」

「はい。ですが、もう以前とは違います。殿下と共に、胸を張って歩きます。」

 互いの瞳を見つめ合い、小さく頷き合った。

 ――帰路の誓いは、決して言葉だけのものではなく、王城の石畳に刻まれる確かな歩みとなっていた。




 城に戻ったその夜、私は殿下と並んで窓辺に立っていた。高い塔から眺める街は灯火で彩られ、遠くの市場まで賑わいの声が届いてくる。別邸の静寂とはまるで異なる景色だったが、不思議と胸に恐れはなかった。殿下の手が確かに私の手を包んでいるからだ。

「……ここに戻ると、いつも胸が重くなる。けれど今は違う。」

 殿下がぽつりと漏らした言葉に振り向くと、灰色の瞳が深く揺れていた。

「君がいるだけで、この城も……居場所に変わる。」

 胸が熱くなり、涙が滲む。私はそっと彼の胸に顔を埋め、小さく答えた。

「私もです。殿下と共にある限り、どんな場所も怖くありません。」



 寝室に移り、静かに灯を落とした。殿下は椅子に腰掛けたまま、しばらく何かを考えるように沈黙していた。やがて立ち上がり、私の前に歩み寄る。

「リリアナ。……帰路で交わした誓いは、言葉だけに終わらせない。」

「殿下……?」

「俺は必ず、君を守り続ける。それが俺の生きる意味だ。」

 真剣な声音に胸が甘く震え、涙が頬を伝った。私は両手で殿下の手を包み込み、震える声で答える。

「私も誓います。殿下と共に……どんな未来も歩みます。」

 唇が重なり、互いの鼓動がひとつに溶ける。



 その夜、眠りにつくまで何度も互いの名前を呼び合った。呼ぶたびに絆は強くなり、誓いは確かなものとなっていく。

 ――帰路で交わした約束は、城へ戻っても揺らぐことなく、二人の未来を導く灯火となった。



第28話 妹との再会

 王城に戻って数日後、思いがけない知らせが舞い込んだ。侍女が戸口でおずおずと告げた名に、私は一瞬息を呑んだ。

「……アメリア様が、こちらにお越しです。」

 妹の名を聞いた瞬間、胸の奥に封じ込めていた痛みが鋭く疼いた。かつての婚約者を奪い、私を陰で嘲笑った存在――。忘れようとしても、あの日の傷はまだ癒えてはいなかった。

 けれど、この屋敷に来るということは、避けては通れない。私は深く息を吸い込み、震える心を押さえつけた。

「……分かりました。お通しください。」

 扉が開き、妹が姿を現した。相変わらず華やかな衣を纏い、紅い唇をわずかに吊り上げている。けれどその瞳には、かつて見たことのない焦りが滲んでいた。

「お姉様……」

 その呼びかけに、胸がざわめく。かつては響き合っていたはずの言葉が、今は遠い他人の声のように感じられた。



 応接室に移り、向かい合って座る。殿下は黙って私の隣に腰掛け、灰色の瞳で妹を静かに見つめている。その存在が心強く、背中を支えてくれる。

 アメリアは視線を逸らし、唇を噛みしめるようにして言葉を探していた。

「……あのときのことは、私が悪かったわ。」

 意外な言葉に、胸が大きく揺れた。謝罪――それは一度も聞けるとは思わなかったものだ。

 しかし、その奥に何が隠れているのか、容易には信じられない。私は慎重に問い返した。

「今さら、どうしてそのような言葉を?」

 妹は小さく肩を震わせ、そして搾り出すように告げた。

「私……今はもう、幸せではないの。」



 その声に嘘はなかった。華やかな衣の下に、疲れ切った表情が透けて見える。あの誇らしげだった妹が、今はどこか壊れそうに見えた。

 私は返す言葉を見失い、ただ殿下の手を強く握った。灰色の瞳が私を見つめ、「大丈夫だ」と無言で告げてくれているようだった。

 ――妹との再会は、過去の傷を抉ると同時に、新たな真実を突きつけてきたのだった。




 アメリアは俯いたまま、震える指先でスカートの裾を握りしめていた。いつも自信に満ち、私を見下すように笑っていたあの妹とはまるで別人のようだった。

「……彼は、私を愛してはくれなかったの。」

 掠れた声で放たれた告白に、私は思わず息を呑んだ。奪われたときには見せつけるように幸福を語っていたはずの妹が、今は痛みに顔を歪めている。

「最初は甘い言葉をかけてくれた。でも、時間が経つにつれて……私のことをただの飾りのように扱い、やがては冷たく突き放した。」

 アメリアの瞳から涙がこぼれ落ち、テーブルに落ちる。私はその姿を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が渦巻くのを感じた。



 憎しみ、哀れみ、そしてかすかな同情――。混ざり合った感情に、心は大きく揺れ動いた。あの日の痛みを忘れたわけではない。けれど、目の前の妹は確かに苦しんでいた。

 殿下は沈黙を守ったまま、ただ私の手を包み込んでくれている。その温もりが、私の心を支えた。

「アメリア……」

 私は絞り出すように妹の名を呼んだ。

「あなたがしたことを、簡単に許すことはできないわ。けれど……今のあなたを見ていると、憎しみだけでは胸が押しつぶされてしまう。」

 アメリアは顔を上げ、濡れた瞳で私を見た。

「お姉様……私、どうすればいいの?」



 妹の問いはあまりにも弱々しく、かつての高慢さは微塵も残っていなかった。私は言葉を探し、ふと殿下の横顔に視線を向ける。

 灰色の瞳が私を見つめ、静かに頷いた。まるで「君の選ぶ言葉を、俺は受け止める」と告げているようだった。

 胸に勇気が満ち、私は静かに答えた。

「まずは、自分の過ちと向き合うこと。そこから始めるしかないと思うわ。」

 アメリアは涙を拭い、震える肩を抱きしめながら小さく頷いた。

 ――妹との再会は、過去の因縁を呼び覚ますだけでなく、彼女自身の痛みを知る時間でもあった。




 アメリアは深く息を吐き、震える手で涙を拭った。その姿は、かつて私が知る妹ではなかった。華やかで自信に満ち、私を影に追いやった少女はもういない。代わりに目の前にいるのは、過ちに傷つき、居場所を見失った一人の女性だった。

「……お姉様。あなたは強いわ。私にはなかったものを、ちゃんと持っている。」

 弱々しい笑みを浮かべる妹の言葉に、胸が締め付けられる。私は無意識に殿下の手を握り直し、温もりに勇気をもらった。

「強いなんてことはありません。ただ、殿下が隣にいてくださるから……立ち続けられるのです。」

 そう告げると、アメリアの瞳に一瞬驚きが浮かんだ。

「……本当に愛されているのね。」

 その呟きに頬が熱くなり、視線を逸らした。殿下は何も言わず、ただ私の手を優しく包み込む。



 しばしの沈黙のあと、アメリアは小さく頭を下げた。

「ありがとう……お姉様。私の話を聞いてくれて。」

 その声は震えていたが、確かに本心からのものに聞こえた。私は複雑な思いを抱えながらも、静かに頷いた。

「これからどうするかは、あなた自身が決めることよ。逃げずに、きちんと自分の道を歩んで。」

 アメリアは涙をこらえ、震える声で「分かった」と答えた。その瞳には、かすかな光が宿っていた。



 妹が去ったあと、応接室には静寂が戻った。私は深く息をつき、肩から力が抜けるのを感じた。殿下がそっと背に手を添え、低く囁く。

「……辛かったな。」

 その優しさに胸が震え、思わず殿下に身を預けた。

「はい。でも、殿下がいてくださったから……私は自分の言葉を伝えられました。」

 殿下の腕が強く私を抱き寄せ、灰色の瞳が真剣に揺れた。

「君はもう過去に縛られてはいない。俺と共に、未来だけを見ていこう。」

 その言葉に涙が溢れ、私は深く頷いた。

 ――妹との再会は痛みを伴ったが、それでも新しい一歩を踏み出すきっかけとなったのだった。



第29話 未来への歩み

 妹との再会から数日。胸に残るざわめきは完全に消えたわけではなかったが、殿下と過ごす日々がその痛みを少しずつ癒してくれていた。彼の屋敷の庭には季節の花が咲き誇り、陽光を浴びるたびに色彩を増していく。それはまるで、私たちの関係のように思えた。

 ある午後、殿下と共に庭を歩いていると、彼は足を止め、空を仰いだ。

「……君と過ごすようになってから、俺は未来を考えることが増えた。」

 その言葉に胸が震える。私は殿下の横顔を見つめ、小さく問いかけた。

「どんな未来を思い描いておられるのですか?」

 殿下は少しの間黙し、それから私に視線を戻した。

「君と共に歩む未来だ。……どこにいても、何をしていても、君となら乗り越えられる。」

 その真剣な瞳に、涙が込み上げる。私は頬を赤らめながら微笑んだ。

「私もです。殿下となら、どんな未来も恐れません。」



 夕暮れ、書斎で並んで座っていると、殿下が机の引き出しから一通の封筒を取り出した。そこには領地からの書簡が入っていた。

「領地の人々が、近く祭りを開くそうだ。……君にも来てほしいと頼まれた。」

 驚きと共に胸が温かくなる。人々が私を受け入れようとしている――そう思えたからだ。

「……私でよろしいのでしょうか。」

 殿下は強く頷き、私の手を握った。

「当然だ。君は俺の妻であり、この家の未来を共に担う存在だから。」

 灰色の瞳に宿る決意が胸を射抜き、私は涙を堪えきれずに頬を濡らした。

「殿下……ありがとうございます。」



 夜になり、寝室で寄り添いながら殿下が囁いた。

「リリアナ。……君となら、どんな困難も受け入れられる。」

「ええ。殿下と共になら。」

 互いに言葉を重ね、唇を寄せ合う。温もりが胸を満たし、涙と笑みが溶け合った。

 ――未来への歩みはまだ始まったばかり。けれど殿下と共になら、どんな道も輝きに満ちていると信じられた。




 祭りの知らせを受け取った日から、屋敷の空気はどこか華やいでいた。侍女たちが衣装の準備に取りかかり、料理長は郷土の食材を用いた献立を考えている。私は窓辺でその様子を眺めながら、胸の奥がそわそわと高鳴るのを抑えきれなかった。

「……殿下と人々の前に立つのは、初めてですね。」

 思わず口にすると、殿下は執務の手を止め、静かにこちらを見た。

「ああ。だが心配はいらない。君は堂々としていればいい。」

「堂々と、ですか……」

 私は自分の指をぎゅっと握った。過去に妹の影に隠されていた自分が、人々の前でどのように映るのか。不安は消えなかった。だが、殿下の灰色の瞳に見つめられると、不思議と背筋が伸びる気がした。



 祭りの準備が進む中、殿下は私を庭に呼び出した。夕暮れの光が花壇を照らし、花々が柔らかに揺れている。

「リリアナ。」

 名を呼ばれ、振り返ると殿下はまっすぐに立っていた。

「人前で君が不安を覚えるのは当然だ。だが――」

 彼は私の手を取り、力強く握った。

「君は俺の妻だ。それだけで十分だ。何も恐れる必要はない。」

 その言葉に胸が甘く痺れ、涙が滲む。私は強く頷き、彼の手を握り返した。

「はい。殿下と共になら、胸を張って歩けます。」



 夜、寝室で眠りにつく前、殿下が再び私に向き直った。

「君が隣にいる未来を、俺は誇りに思う。祭りも、その先も。」

 不器用な告白に胸が熱くなり、私は微笑んだ。

「私も誇りに思っています。殿下の妻であることを。」

 静かな口づけが交わされ、胸に刻まれる。

 ――未来への歩みは、もう迷いのないものとなりつつあった。殿下と共に見据える先に、どんな困難があっても輝きがあると信じられた。




 祭りの日は、快晴だった。澄み渡る空に色鮮やかな旗がはためき、広場は人々の歓声で溢れていた。屋台には果実酒や焼き菓子が並び、子どもたちの笑い声が響く。その賑わいの中、私は殿下と馬車で広場へ向かっていた。

 車窓越しに人々の顔が見える。好奇と期待、さまざまな視線が一斉に注がれ、胸が高鳴る。だが、殿下の手が私の指をしっかりと握っていて、不思議と恐れは薄れていった。

「……大丈夫だ。俺が隣にいる。」

 殿下の低い声に頷き、深呼吸をする。扉が開かれ、二人で外へ降り立った。



 群衆の中から拍手が起こり、歓声が広がった。驚きと共に、胸に温かさが満ちていく。人々が私を受け入れようとしている――その事実が涙を誘った。

 殿下は手を差し伸べ、堂々と歩き出す。私はその隣に並び、一歩一歩を大切に踏みしめた。

「殿下……皆さまが、笑ってくださっています。」

 私の声に殿下は頷き、短く答える。

「ああ。君を見て、安心しているのだろう。」

 彼の言葉に胸が甘く震え、涙がこぼれそうになる。



 その後、祭りの広場で振る舞われた果実酒を人々と共に口にした。子どもたちが花を差し出してくれ、私は胸に抱きしめる。殿下はその様子を黙って見守り、灰色の瞳に柔らかな光を宿していた。

「……これが君と歩む未来の始まりだ。」

 殿下の囁きに涙が頬を伝い、私は強く頷いた。

「はい。殿下と共に歩みます。」

 祭りの喧騒の中、互いの誓いは人々の祝福に包まれて、確かなものとなった。

 ――未来への歩みは、過去の痛みを超えて、多くの温かな光に照らされていた。



第30話 揺るぎない愛

 祭りから戻った夜、屋敷は静けさに包まれていた。外の喧騒が夢のように感じられるほど、穏やかな闇が広がっている。私は寝室の窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を見下ろしていた。胸にはまだ祭りの余韻が残っていて、人々の笑顔や差し伸べられた花の温もりが蘇る。

 背後から足音が近づき、殿下がそっと腕を回してきた。背中に伝わる体温に、心臓が甘く跳ねる。

「……人々は君を受け入れたな。」

「はい。皆さまが微笑んでくださって……とても嬉しかったです。」

 そう告げると、殿下の顎が私の肩に触れ、低い声が耳元をくすぐった。

「俺は最初から分かっていた。君なら大丈夫だと。」

 その確信に満ちた声に、胸が熱くなる。私は殿下の腕にそっと手を添え、瞳を閉じた。



 やがて殿下は私を振り返らせ、真剣な眼差しで見つめてきた。灰色の瞳が月光を受け、深い光を宿している。

「リリアナ。君と過ごしたこの日々は……俺の宝だ。」

 胸が震え、涙が溢れそうになる。私は震える声で問い返した。

「殿下……本当に、私でよかったのですか?」

 殿下は一歩近づき、私の両手を包み込むように握った。

「君以外はいない。……俺の妻は、君だけだ。」

 その言葉に涙がこぼれ、頬を伝った。



 唇が触れ合い、長く深い口づけが交わされる。互いの想いが混ざり合い、鼓動がひとつに溶けていく。離れたとき、殿下の瞳は熱を帯びながらも、どこまでも優しかった。

「これからも、不器用な俺に呆れることがあるだろう。それでも……君を愛し続ける。」

「私もです。殿下だけを、ずっと。」

 互いの言葉が重なり、再び唇が触れる。今度は涙と笑みが混ざり合い、胸に甘い痛みが広がった。

 ――揺るぎない愛。それは誓いではなく、すでに日々の中で確かな形となっていた。私たちは共に過去を乗り越え、未来へと歩む。

 そしてその夜、月明かりの下で交わした抱擁は、永遠の愛を刻むものとなった。

終わり
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みんなの感想(1件)

tonchan888
2025.09.22 tonchan888

妹に婚約者を寝取られた以外、周囲からの視線で侮られてただけで特に実害無いのではないでしょうか…
ヒロインが終始メソメソしてて、殿下が「俺がついている」のループで、驚きながら完走しました。

解除

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