婚約者を妹に寝取られてから一か月後、無口で人付き合いが苦手な王弟殿下に「俺の妻になってくれないか」と言われ、ぎこちない溺愛生活が始まりました

さら

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第10話 触れ合う距離

 約束を交わした夜から、殿下との距離は目に見えて近づいていた。言葉は少なくても、ふとした仕草に宿る温もりが以前よりも鮮やかで、胸の奥を甘く震わせる。

 その朝、私は食堂で殿下と並んで朝食を取っていた。窓から差し込む光が白いテーブルクロスを照らし、焼き立てのパンの香りが広がる。殿下は無言でパンをちぎり、私の皿に一切れ置いた。

「……殿下?」

「君が好きだろうと思った。」

 唐突な言葉に胸が跳ね、頬が赤くなる。殿下は相変わらず無表情に見えるのに、耳の先が赤く染まっていた。私は小さな声で礼を言い、パンを口に運んだ。いつもよりも甘く感じられるのは、きっと殿下の不器用な優しさのせいだ。

 ◇

 昼下がり、私は庭で刺繍をしていた。白布の上に糸を通し、花の模様を少しずつ形にしていく。そこへ殿下が姿を現し、無言のまま隣に腰を下ろした。

「……何をしている。」

「刺繍です。慣れてはいませんが、少しずつ形になってきました。」

 殿下は布に目を落とし、じっと針先の動きを追っている。その視線に落ち着かず、私は手元を震わせてしまった。

「……すまない。緊張させた。」

「いえ。殿下に見ていただけるのは嬉しいですから。」

 思わず本音が漏れ、顔が熱くなる。殿下は目を瞬き、わずかに唇を引き結んだ。

「なら……完成したら、見せてくれ。」

 短い言葉に胸が温かく満ちる。私は強く頷き、また針を進めた。

 ◇

 夕暮れ、廊下の窓辺で二人並んで立つ。西日が赤く射し込み、屋敷全体が橙色に染まっていた。殿下は少し迷うように手を伸ばし、私の髪に触れる。

「……光に当たると、柔らかく見える。」

 低い声が耳に届き、胸が大きく跳ねた。私は驚いて殿下を見上げる。灰色の瞳が夕日を映し、ほんのわずかに揺れていた。

「殿下……」

「すまない。言葉にするつもりはなかった。」

「いえ……嬉しいです。」

 その一言を返すだけで、胸が甘く締め付けられる。殿下の指先はすぐに離れたけれど、髪に残る感覚はしばらく消えなかった。

 ――触れ合う距離は、確かに縮まっている。お互いの不器用な心が、少しずつ重なり始めていた。




 夜、寝室に戻ると窓の外には大きな月が浮かんでいた。青白い光が部屋を満たし、昼間の出来事が胸の奥で再び蘇る。殿下の指先が触れた髪の感覚が残っていて、どうしても鼓動が落ち着かなかった。

 ベッドに腰掛け、首飾りの青い宝石を指で弄ぶ。月明かりを受けてきらめくそれは、殿下の灰色の瞳と重なって見えた。思わず胸に抱きしめ、頬を染める。

 そのとき、扉が静かに開いた。驚いて振り返ると、殿下が立っていた。彼は少し迷ったように目を伏せ、やがて口を開いた。

「……眠れないのか。」

「はい。少し……考え事をしていて。」

 殿下は部屋に入り、私の正面に腰を下ろした。しばし沈黙が流れ、月光が二人の影を長く伸ばす。私は勇気を出し、胸の内を打ち明けた。

「殿下と過ごす時間が、毎日とても幸せなんです。だからこそ……夢なのではないかと、不安になるときがあります。」

 殿下の瞳が驚きに揺れ、すぐに強い色を宿した。

「夢ではない。君はここにいる。……俺の隣に。」

 短い言葉でも、心の奥に深く響いた。涙がにじみそうになり、私は視線を逸らした。けれど殿下の手が伸び、頬に触れる。硬さの残る指先なのに、不思議と優しさに満ちていた。

「……殿下。」

「不安にさせてすまない。俺は言葉が足りない。だが……君を手放す気はない。」

 真剣な瞳に見つめられ、胸が甘く締め付けられる。私は震える声で応えた。

「私も……殿下を離しません。」

 その瞬間、殿下の指先が私の涙を拭い、額にそっと触れた。温もりが伝わり、全身が熱を帯びる。

「……こうして触れていれば、信じられるか。」

「はい……とても。」

 頬を伝う涙が微笑みに変わり、殿下の灰色の瞳が柔らかく揺れた。

 ――触れ合う距離はさらに近づき、言葉よりも確かな約束となった。月明かりに照らされたその瞬間、私の胸は甘く満ちていった。




 翌朝、目覚めたとき、昨夜の余韻がまだ胸に残っていた。殿下の手が頬に触れた感覚、額を寄せ合った温もり――思い出すだけで、心臓が早鐘のように鳴り出す。私は枕を抱きしめて身悶えしながらも、笑みを抑えることができなかった。

 支度を整え食堂へ向かうと、すでに殿下が席についていた。灰色の瞳がちらりと私を見やり、すぐに手元のスープへ戻る。その仕草が昨夜のことを思い出させ、頬が赤くなる。

「……おはようございます、殿下。」

「おはよう。」

 短い挨拶。それだけなのに胸が甘く満たされる。私は席につき、パンを割ってスープに浸す。殿下は何気なく自分の皿の果物を取り、私の皿に置いた。

「殿下……?」

「甘いものが好きだろう。」

 その言葉に顔が熱くなり、俯いて礼を言う。些細な仕草なのに、心に深く刻まれてしまう。

 ◇

 昼下がり、庭で刺繍をしていると殿下がやってきた。昨日と同じように隣に腰を下ろし、じっと私の手元を見つめる。視線に気づいて緊張し、針が少し震えた。

「……まだ慣れないか。」

「はい、でも……殿下に見ていただけるのが嬉しくて。」

 思わず本音を漏らすと、殿下の耳がわずかに赤く染まった。

「……完成したら、俺にくれないか。」

 胸が甘く締め付けられ、思わず針を止めた。

「よろしいのですか?」

「ああ。君が作ったものなら、何でも欲しい。」

 不器用な言葉なのに、涙が出そうなほど嬉しい。私は強く頷き、再び針を動かした。

 ◇

 夕暮れ、廊下の窓辺に立つと、橙色の光が屋敷を包んでいた。殿下が隣に現れ、しばし沈黙が流れる。やがて彼は小さく囁いた。

「昨日のこと……君は後悔していないか。」

 胸が跳ね、視線を向ける。殿下の灰色の瞳が真剣に揺れていた。

「後悔なんてしていません。むしろ……幸せでした。」

 答えると、殿下の表情が僅かに緩み、口元が柔らかくほころんだ。

「……なら、よかった。」

 その笑みに胸が熱くなり、私はそっと殿下の袖を掴んだ。彼は驚きながらも拒まず、指先がぎこちなく私の手に重なった。

 ――触れ合う距離は、確かに近づいている。言葉少なくても、その沈黙の中に互いの心が確かに響き合っていた。
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