美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた魔王様と一緒に田舎でのんびりスローライフ

さら

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 ルゼルの家に戻る道を、私たちは三人で歩く。さっき来た道をそのまま引き返しているだけなのに、ぜんぜん違う場所みたいに見えるのは、たぶん私の胸の中がさっきよりちょっとだけ、はっきり形になってるからなんだと思う。朝の光は少し高くなって、道に落ちる影は短くなってて、家々の煙突からの白い煙はさっきより細い。洗濯物はまだ揺れていて、村の人たちはそれぞれの仕事に散っていったみたいで、道はさっきよりちょっと静かだ。静かだけど、怖い静けさじゃなくて、“みんな今ちゃんとやってるんだな”っていう安心の静けさ。音でいうと、遠くからトンカチの音がたん、たん、と一定のリズムで響いてて、あ、誰かが木を切ってるんだ、ってわかる。たぶん私もこれからトンカチを持つことになるんだろうけど、想像したらちょっと手のひらが汗ばんだ。うん。小学校の工作以来だよトンカチ。っていうか私ハンマー握って看板作るの? なにそれ急にDIY系女子主人公っぽい。大丈夫? 指叩かない? 私、指、たいせつ。

 私の左手には、さっきイェルさんの畑で書きまくったメモ紙が抱えられている。炭でぐりぐり描いたから、もう手はけっこう黒い。あとで洗わなきゃ。でもこれは絶対に離したくない。これ、もうすでに“村の大事な紙”って感じがしてる。これ失くしたらほんと泣く。ノー泣きデーとか言ってる場合じゃなくてガチ泣きする。ので、しっかり胸に押しつけて持つ。ぎゅって。ぎゅってしたら、胸の奥がじんわってなる。さっき言われた“ようこそ、井戸の人”。あの声もまだ残ってる。思い出すと、喉の奥と胸の真ん中が同時にあたたかくなるような、変な感覚。あれ、たぶん私、ちゃんと“役に立てる場所”をもらったんだよね。あれがどれくらいすごいことなのか、昨日までの私ならわからなかったけど、今はわかる。あれはたぶん、人生でいちばん嬉しい種類の言葉だ。

 右手には、ミラちゃんの手。ミラちゃんは私の腕をぶんぶん上下に揺らしながら、ずっとごきげんで鼻歌をうたってる。いや、鼻歌というよりは……さっきの「ひろってきた~」の歌のアレンジを無限に歌い続けてる。怖い。拡散力がこわい。すでに洗脳ソング化してるのこわい。「ゆかは~ ひろわれた~」「ひろわれ~ いどのひと~」「むらのこ~ おねえちゃん~」って、あの、やめて? その歌いながら家々の前を通過するのやめて?? 窓からおばあちゃんとか顔出してるから今、絶対聞こえてるから今、“ひろわれたおねえちゃん”っていうフレーズがリアルタイムで村に拡散されてるから今。肩書きが勝手に生まれていくのを、私は生まれて初めてリアルタイム観測している。すごい、こうやって伝承って生まれるんだね。怖い。完全に民話が生まれる瞬間なんだけど私まだこの村に来て半日も経ってないよ?

 ルゼルは、私たちの少し右前を歩いている。道の石とか段差をそれとなく見て、ミラちゃんが転びそうなときは手をのばして、私がよろっとしたらさっと体をずらしてカバーに入れる、みたいなことを、べつになんてことないみたいな顔でやってる。ずるい。これが素なのずるい。いや、もう“ずるい”って言葉は封印するって決めたのにぜんぜん封印できない。もうこれ今後は“ルゼル”っていう単語の中に“ずるい”って意味も含めることにしよう。はい辞書登録。「ルゼル(名詞):さりげない気遣いと即答と安心感と甘やかしとちょっとした照れと耳が赤いのが全部まとめて襲いかかってくる現象。主に心臓に負担をかける」。はい。これでいける。

 私は歩きながら、今からやることを頭の中で並べていく。並べるのは得意。並べると落ち着く。頭の中のホワイトボードにペンで書いていくイメージで、順番をつけていく。

 ――1.板を用意する。サイズは大きすぎないやつ。人が近づいて読めるくらいのやつ。角を丸くする。木のささくれでミラちゃんの指がちくってならないように、ぜったい丸くする。

 ――2.“なおす/つかう/すてる”の表を描く。これは見やすいように三つに分けて、線を引いて、それぞれの下にバケツとか縄とか置けるスペースを作るっていう予定。イラストも描く。絵はちょっと苦手だけど、バケツの丸くらいは描ける。たぶん。

 ――3.「においがする井戸=のんじゃダメ」「北の井戸=のんでいい」両方の看板をつくる。バツとマル。赤と青……赤と青はない。いや、絵の具ない。色の概念でごまかそうとしてはいけない。色のインフラがない世界で「赤い×を書いて」っていうのはだめ。だから、形でわかるようにしなきゃいけない。バツは大きい×の形の板にするとか。マルはまるい板にするとか。――あ、それかわいい。木を丸く切るの難しいかな。でも角を落としてなんとなくまるくすればいけるか。やろう。

 ――4.“水たいへん”の紙を清書する。大人にも子どもにもわかる言葉にする。むずかしい単語は使わない。長い文章にしない。箇条書き。あと、絵。なるべく絵。字が読めない人も見てわかるように。

 ――5.この紙と看板と表を、夕方の集まりで、みんなの前で説明する。説明する。説明する。……説明するってことは、私がしゃべる、ってことだ。私が。村の人たちの前で。初対面の人たちに向かって。「こんにちは、井戸の人の由香です」って。うわぁ。うわぁ。心臓がまた忙しい。これはもうノー泣きデーどころじゃない、ノーミスデーでもある。しっかりしなきゃ。ちゃんと話さなきゃ。ちゃんと伝えなきゃ。

「……はー……」

 思わず息が漏れた。プレゼンの前のあの感じに似てる。あの、胃の奥がきゅってする感じ。でも、そのきゅってするのに、なぜかいやな冷たさがない。怖いけど、同時に“早くやりたい”って気持ちもある。これはたぶん、会社で怒られるプレゼンと違って、今回は誰かを救うかもしれないからだ。すごい。これすごい。こんな気持ち、私、初めてだ。

「ゆか」

「ん?」

「こわい?」

 不意に、ルゼルがこっちを見て言った。歩く速度は落とさない。顔だけちょっと振り向く。横顔。横顔かっこよ。鼻筋きれい。横顔ずるい。いや、ルゼルは“ずるい”って名詞だからもういいのか。……落ち着け私。

「えっと……」

 私は少し考えてから、正直に言った。

「こわい、です。でも、やりたいです」

「うん」

「やらないほうが、こわいかも」

「うん」

「“夕方までに作ります”って言ったの、取り消したくないです」

「うん」

「というか、取り消されたくないです。なんか、せっかくお仕事もらえたから」

「うん」

「……“うん”しか言わない……」

「“うん”でいい?」

「ずるい……」

「うん」

「“うん”の使い方がずるい……」

「うん」

「それ以上はずるい以上の語彙がないんでもうなんか、はい……」

 私が肩から力を抜くと、ルゼルが口の端をちょっとだけ上げた。それだけで、胸の奥の緊張がほんの少しやわらぐ。ほんと、なんなのこのひと。なんで“それだけ”で安心させる才能とか持ってるの。危険物。心臓にとっての危険物。村の看板に書いときたい。「この男、安心させてくるので注意」って。いやそれ貼ったら村中の女性陣から「知ってる」って言われそう。やめよ。

「ゆか」

「はい」

「さっき、“家に戻る”って言った」

「……」

 その言葉を聞いた瞬間、胸がぐっとつまる。つまって、また熱くなる。あー、これ、だめだ。涙線にクリティカル入るやつだ。

「うん、言いました……」

「うん」

「なんか、勝手に口から出てました」

「うん」

「……いやでした? その、勝手に、すみません、図々しかったら――」

「いやじゃないよ」

 また、即答だった。私の言葉の上から、迷いも呼吸の間もなく、すとんって落ちてきた。

「むしろ、よかった」

「……っ」

「“戻る”って言ってくれて、よかった」

「……」

 あー。だめ。もうだめ。これ、だめなやつ。そこをそんなにやさしく押してくるのずるい。ほんとにずるい。心臓が忙しい。心臓が残業代請求してくる。

「じゃあ、あれ、あの、その……」

「うん?」

「“家”って言って、いいですか?」

「うん」

「“ルゼルさんの家”とかじゃなくて、“家”って、言っていいですか?」

「うん」

「“私の家”って、言って、いいですか?」

 聞いた瞬間、自分の声がちょっとだけ震えてたのがわかった。質問の形なのに、ほとんど懇願に近い。自分でもわかる。だって、欲しかったんだもん、ずっと。ずっと欲しかったんだもん。“私の家”って言える場所。昨日の夜、石の床のうえで丸くなってたときにずっと頭のなかでぐちゃぐちゃ言ってたやつ。「どこにも帰れない」「帰っていいところなんてない」「そもそも私ってどこにも所属してない」って。あれがいちばんしんどかった。だから今、“言っていいですか?”って聞くのは、半分はこわいけど、半分は「お願いだからそうだって言って」っていう祈りみたいなものだ。

 ルゼルは、答える前に一度だけ足を止めた。私とミラちゃんも、しゃくっと立ち止まる。少し風が吹いて、草の匂いがふっと頬をなでる。ルゼルは私のほうをまっすぐ見た。目がやわらかい。やわらかいけど、まっすぐ。ふざけてない。からかってもいない。ちゃんと、言葉を渡そうとしてくれてる目。

「……それ、聞く?」

「き、聞きます……」

「なんで?」

「……言ってほしいから、です」

「うん」

 ルゼルの口の端が、ほんの少しだけ上がった。照れてる、っていうより、“大事なことを、ちゃんと渡す前の顔”って感じ。

「じゃあ、言うよ」

「っ」

「由香の家、だよ」

 胸の奥で、なにかがぱんって弾けた。瞬間的に、喉の奥が熱くなって、目に涙がばって集まってきて、視界が一瞬だけゆらって揺れた。あ、やばい、これ、だめだ。これ、完全にだめだ。これ、セーフ? セーフでいい? これはセーフでいいよね? ねえ、いいよね? “ノー泣きデー”の規約、さっき“うれし泣きはセーフ”って改訂されたもんね? 改訂されたよね?? 成立したよね??? 可決されたよね???? 議事録あるよね?????

「あっ、あっ、あっ、やだ……っ、やだもう……っ、ちょっと……っ、すみませんっ、あの、今の、反則です……っ」

「うん」

「“由香の家、だよ”ってそれ、もう、だめです……っ」

「うん。ごめんね」

「ごめんねって言わないでください余計に泣きます……っ」

「うん。いい子」

「だからそれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 泣きながらのツッコミになった。涙がぼろって落ちた。鼻の奥がつんってした。両手がふるえて、胸に抱えてた紙がぐしゃってなりそうになったから、あわてて持ち直す。こぼれた涙が紙に落ちないように、ちょっと顔を上に向ける。空が、きれいな青。高い。雲がちょっとだけ流れてる。ここ、私の家に向かう道なんだ。私の家。ああもう、だめ。ほんとだめ。幸せって暴力だよ。優しさって暴力だよ。異世界ってなんなの。やさしさの物量作戦なの。私のHPが常にオーバーフローしてるんだけど。

「おねえちゃん、ないてる~?」

 ミラちゃんが、心配そうにのぞきこんできた。小さな指が私の頬にふれて、涙のあとをぺたぺた触る。指があったかい。指ちいさい。指かわいい。

「う、うん、ちょっとだけ……」

「いたいの?」

「いたくないの……」

「かなしいの?」

「かなしくないの……」

「じゃあ?」

「……すっっごく、うれしいの……っ」

「うれしいないき?」

「そう。うれしい泣きです……」

「うれしいないきは、セーフ!」

「セーフ!!」

 ミラちゃんが満面の笑顔で言い切った。力強かった。宣言だった。村の法がいまここに成立した。はい、“うれしい泣きはセーフ”。法案可決。満場一致。異世界の議会はスピード感がすごい。

「セーフなら、よかった」

 ルゼルが、ほんの少し息を吐いた。安堵の息。あ、なんか、ほっとしてる。私が泣いたから困ってるんじゃなくて、“泣いてもセーフ”ってなったから安心した、みたいな息。なんだそれ。なんでそんな息の出しかたできるの。やさしすぎない? やっぱりあなた危険物だよ。村の看板に書いとこう。「この男:やさしさが強いので取り扱い注意。過度に浴びると涙腺が破壊されます」。うん。貼ろう。貼ってもたぶん“知ってる”って言われるやつだけど。

「……よし」

 私はごしごし目をこすって、もう一回大きく息を吸った。鼻をすする音が自分でもちょっと情けなかったけど、いい。情けなくてもいい。いまはなんでもいい。だって私はいま“私の家”に帰るところなんだから。堂々と情けなくなっていい権利くらいある。

「じゃあ、“私の家”に戻って、仕事します」

「うん」

「トンカチ借ります」

「うん。あるよ」

「“あるよ”っていう即答、じわるんですよね……ほんと……」

「紙も、板も、道具も、ぜんぶあるよ」

「うっ」

「あと、昼に食べるものもあるよ」

「う゛っっっ」

 はい死亡。はいまた死亡。今の“昼に食べるものもあるよ”は完全にとどめ。なんでそんな一言で私をノックアウトできるの。そうだよね、ごはんって、“いっしょに食べる人がいて、いっしょに座る場所がある”っていうことなんだよね。あの城では、私は壁みたいなところに押しつけられて、パンみたいなものを無言で渡されて、見張りの人に「クズは静かに食え」って言われてた。それは“ただエネルギーを入れられてるだけ”だった。ごはんじゃなかった。いまは、“昼に食べるものもあるよ”って言われた。これは、あきらかに“いっしょに食べる”って意味だ。うわぁ。うわぁ。やばい。泣く。泣く。セーフ。これはセーフ案件。セーフ連発。セーフポイントがどんどんたまる。いつかセーフカードとして使える。たぶん。

「よし、いこう」

「はい……」

「いこー!」

 再び歩き出す。土の道を、家に向かって。胸の中の不安と、胸の中の火が、ちゃんと並んでいっしょに歩いてる感じがする。怖いけど、逃げたいわけじゃない。むしろ、早くやりたい。早く、看板を作りたい。早く、紙をまとめたい。早く、“みんなに見せる紙”を壁に貼りたい。早く、夕方になって、みんなの前で私の声で説明したいって、思ってる。これってすごいことだ。だって昨日までの私だったら、“誰かの前で話す”って聞いたら即「すみません代わりにお願いします」って言ってたから。会社の朝礼とかマジでいやだったから。順番回ってくるたびにトイレに避難してたから。そんな私が今、「話したい」って思ってる。私が。自分の言葉で。自分の考えで。やば。私どうしたの。異世界、私をバージョンアップさせてきてる。アップデート走ってる。すごい。いいぞもっとやれ。

 やがて、ルゼルの家が見えてきた。丸太と土壁の、低くてあったかい形の家。屋根には干してある草がのってて、入口の横には水をためてる大きな樽がある。ドアの前の地面は踏み固められてて、ほこりが少ない。昨日の夜は暗くてちゃんと見えてなかったけど、いま見ると、ほんとに“ちゃんと住んでる家”だってわかる。生活してる匂いがある。木と草と、ちょっとスープっぽい匂いと、温かい空気の層。ああ、帰ってきた、って思う。帰ってきた、って、自然に思った。やばい。

「ただいまー!」

 ミラちゃんが、元気よくドアに向かって叫んだ。ドア、まだ開けてないのに「ただいまー!」って言った。かわいい。かわいい文化。これ、すごい文化。めちゃくちゃいい文化。……私も、言いたい。言いたい。でも、これ言っていいのかな。新入りなのにいきなり「ただいま」って言ったら図々しいって思われるかな。でも、言いたい。めっちゃ言いたい。喉の奥まで「ただいま」が上がってきてる。どうしよう。どうしよう。どうし――

「由香」

「は、はいっ」

「“ただいま”は、言っていいやつだよ」

「っ」

「言って」

「……っ、……た、ただいま……っ」

 言えた。小さい声だったけど、ちゃんと出た。自分の耳でちゃんと聞こえた。今の「ただいま」、ちゃんとこの家に届いた。やばい。めっちゃ手が震える。膝も震える。心臓はもうよくわからない。なんなのこれ。すごい。なんか、胸の中にずっと入ってた冷たい石みたいなものが、ぱきんって音立てて割れて、砕けて、砂になって、溶けていくみたいな感覚。これ、私、ずっと欲しかったやつだ。ずっと、ずーっと、欲しかったやつだ。

「おかえりー」

 家の中から、あっさりとした声が返ってきた。女の人の声。あ、これ、アイラさんだ。朝に私をぎゅって包んでくれた、あの人の声だ。声だけで安心剤。すごい。ナチュラル鎮静効果。

「おかえり、ミラ。おかえり、ルゼル。……それから」

 ドアが開いた。中から、アイラさんが顔を出す。栗色の長い髪を後ろでざっくり結んで、腕まくりしてて、腰には布でつくったエプロン。目元がやさしい。寝不足っぽいクマがあるけど、それが逆に「ちゃんと生きてる大人」って感じで安心する。あったかいひと。間違いなく“村のお母さん”って顔をしている。

「おかえり、由香」

 おかえり、って言われた瞬間、もう、だめだった。私の目から、今度こそもう止めようがないくらいに涙がぶわってあふれて、声がぐしゃぐしゃになった。

「っ、……た、ただいま……っ」

「うん。よしよし。いい子ね」

「だからそれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!」

 もはやツッコミは反射だった。泣きながら全力で叫んだ。アイラさんは「ふふっ」って笑いながら、でもちゃんと片手で私の背中をさすってくれる。大きな円を描くみたいに、ゆっくり、落ち着け落ち着けっていうリズムで。肩に置かれた手の感触が、あったかい。あったかくて、やわらかくて、ほどよく重くて、“ここにいて大丈夫だよ”っていう重さをしてる。触れられてるところから、じわじわ安心が染みこんでくる。すごい。これ、魔法じゃない? この世界の魔法って、こういうやつじゃない? もうこれでよくない? 回復魔法ってこういうのでよくない??

「はい、泣くのはセーフよ」

「セーフ……っ」

「うん。うれし泣きはセーフだって、ミラが言ってたでしょ?」

「ミラが法案可決しました……っ」

「じゃあセーフね」

「セーフです……っ」

「はいセーフ。じゃあ仕事しましょうか」

「仕事……っ」

 私は涙をぬぐって、ぐっと顔を上げた。そうだ。仕事。やること。看板。紙。表。夕方の説明。泣いてる場合じゃない。泣いてるのはセーフだけど、仕事もしないと。それが“ここにいる”ってことだ。

「はいっ。お願いします! 板と、道具、借りたいです!」

「もう用意してあるわよ」

「はやっ!?!?」

「ははっ」

 アイラさんがちょっと誇らしげに笑った。え、ちょっと待って、もう用意してあるって何? 早いっていうか、もう準備済みって何? 未来読んでたんですか? あなた予知能力者ですか? 魔法、本気で魔法??

「ほら。テーブルの上。ちょうど古い板が何枚か出てきたから。角はまだそのままだから、丸くするならやすり使ってね。やすりはこれ。あと、穴を開けるならこのきり。ひもは……そうね、これ使って。いちばん丈夫そうなの残しておいたわ」

「っ」

 テーブルの上には、ほんとに、ちょうどいいサイズの板が何枚か積んであった。厚さは手のひらの半分くらい。片手で持てる。角はとがってるけど、これなら削れる。きりもある。やすりもある。ひもはしっかりしてて、ちょっと硬めだけど切れにくそう。もう、完全に“看板を作る準備セット”って感じ。すごい。準備っていうより、これはもう“私が必要とする未来を先回りして段ボールでまとめて持ってきてくれたお母さん”っていうやつだよ。あの、遠足のときにいつの間にかウエットティッシュと絆創膏と予備のおやつ入れてくれてるやつ。いやもう、なんなのこの人。魔王の家っていうより“魔王のお母さんの家”って感じがしてきた。強い。世界最強の安心感。

「あとね」

 アイラさんは、テーブルの横に立てかけられてる大きめの板を指さした。私の胸くらいの高さがある板。表面はわりと平ら。ちょっと傷はあるけど、書けそう。

「これ、昔使ってたお知らせ板」

「おしらせ板……!」

「なつかしー!」

 ミラちゃんがぴょんぴょん跳ねる。目がきらきらしてる。あ、これ“みんなが集まる場所に立てかけて、なんか書くやつ”だ。日本で言うところの回覧板+掲示板みたいなものを、たぶん物理でやってたんだ。このサイズなら、夕方に井戸のところに立てかけられる。みんなで見られる。めっちゃちょうどいい。すごい。

「これ、もう使ってないから、由香、使っていいわよ」

「っっっ……!?」

 すぐには声が出なかった。喉がぎゅっとつまった。なんでこんなに、次から次へと“いる?”って差し出してくれるの。これ、ほんとに私がもらっていいの? だって私、昨日までこの家にいなかったのに。昨日までこの村にいなかったのに。なんなら昨日までこの世界にいなかったのに。

「い、いいんですか……?」

「いいわよ」

「これ、村の……大事な板なんですよね?」

「うん」

「そんな大事なもの、私が勝手に使っても……」

「勝手じゃないわよ」

 アイラさんは、さらっと言い切った。言い切り方が強いんじゃなくて、当たり前ってかんじで、やわらかくて、でも揺らがない。

「今それをいちばん必要としてるのは、うちの“井戸の人”でしょ?」

「……」

「だったら、その人が使うのが、いちばんいい使い方よ」

「……っ」

「道具はね、“いちばん困ってるところ”に置くのがいちばん役に立つの。昔からそうなの」

「……はい……」

「だから、由香の前に今置くのが正解。はい、決まり。はい次」

「決まり、早い……っ」

 ああもう。やっぱりこの村の議会スピード感おかしい。決定の仕方が爆速。なんなら私の気持ちが追いつく前に「はい決まり」。すごい。圧倒的な合意形成力。好き。

「じゃあ由香」

「は、はい!」

「説明の紙、書ける?」

「書きます! 今から書きます!」

 私は即答した。紙をテーブルの上に広げる。炭を握る。深呼吸する。脳が、カチッて音を立てて“本番モード”に入る感じがした。ここからは泣かない。ここからは仕事。ここからは、“井戸の人”としての時間。

「ルゼルさん、“水たいへん”の紙って、どこに貼りますか?」

「井戸の横の壁」

「壁に貼るってことは、雨で濡れる可能性がありますよね」

「うん」

「紙、濡れたら読めなくなりますよね」

「うん」

「木の板に紙を貼って、その上から透明の……透明の……あ、透明の何か、っていうのはないか。ガラスとか、薄い油を塗るとか、そういうのってできます?」

「油ならあるぞ」

 アイラさんが、戸棚の奥から小さな瓶を取り出してきた。中にとろっとした黄色いものが入ってる。匂いはちょっと草っぽい。たぶん食べれる系。オリーブオイルみたいなやつなのかな。異世界版オイル。

「これ、塗ると水はじく?」

「あるていどは、はじくわね」

「じゃあ、仕上げにこれを薄く塗れば、ちょっとは長持ちしますね」

「うん」

「よし、決まりです!」

 決まった。工程表が頭の中で増える。6.紙を書いて板に貼る。7.オイルでコーティング。8.夕方前に乾いてるか確認。……オイルってどのくらいで乾くんだろ。乾くっていうか染みこむっていうか。まあ、そこはもう回してみて考える。やってみなきゃわからないことはいっぱいある。でも、いま私は“やってみる”っていう選択肢を持ってる。これがもう、すでにすごいことなんだ。

「じゃ、まず“水たいへん”の紙からいきますね」

「うん」

「言葉、どうします? “水がたいへんです”でいいですか?」

「そうだな」

 ルゼルは少し考える顔をした。眉のあいだにちょっとだけしわが寄って、目が真面目になる顔。あ、これ好き。好きというか、この顔のときの彼はすごく“村のことを考えてる人”の顔になるから、信頼できる顔なんだよね。いや、信頼できる顔って何。語彙がまた変なことになってる。落ち着け私。

「“水がたりません”だと、ちょっと違うんだよね」

「違う?」

「うん。いまは“まだある”から」

「うん」

「“水がなくなります”だと、こわがらせすぎる」

「あー、なるほど」

「“水がたいへんです”は、ちょうどいい気がする」

「“たいへん”は、子どももわかりますしね」

「うん。ミラ、わかる?」

「わかる! たいへんはたいへんでしょ!」

「そうそうそうそうそう!」

 私は大きくうなずきながら、炭で一文字ずつ、ゆっくり書いていく。字は決してきれいじゃない。でも、読める。ちゃんと読めるように、ひとつひとつ区切りながら書く。手がちょっと震えるけど、震えもいっしょに紙に刻む。これは私の字だ。私の声だ。私の仕事だ。

 『みずがたいへんです』

 書き終わった瞬間、胸がどきんって鳴った。あ、やばい。もうこれだけで泣きそう。これはさすがに泣かない。泣いたら炭がにじむ。炭にじんだら台無し。だめ。耐えろ私。

「次。“なにがおきてる?”って書きます」

「うん」

「その下に、絵を入れます」

「うん」

「“いまは きたのいどから みずを はこぶ”」

「うん」

「“まいにち ななかい いったりきたり するひ もある”」

「うん」

「“まんなかのいどは においがするので のんじゃだめ”」

「“のんじゃだめ”はいいな」

「ですよね。ストレートがいちばん伝わりますからね」

「うん」

「“はたけの ちかくの みずが すくなくなってきた”」

「うん」

「“このまま つづくと みずが とおくて たいへん”」

「うん」

「“みずを はこぶひとが けがをしたら みんな こまる”」

「うん」

 “うん”が続く。私はその“うん”を背中で受けながら、炭を走らせる。字の横に、簡単な絵も描いていく。バケツのマークと、矢印と、畑と、しおしおの葉っぱと、“×”マークの井戸と、“〇”マークの井戸。私の絵は子どもみたいだけど、むしろそれがいい。大人が見ても子どもが見ても同じように「これはダメ」「これはいい」ってわかるのがいちばんいい。

「次。“どうする?”です」

「うん」

「“においのするいどの みずは のまない”」

「“のまない”でいい?」

「はい。禁止のときは短い言葉がいちばん強いです」

「なるほど」

「“のまない”って紙を、バツの看板に書きます」

「うん」

「“きたのいどの みずを だいじに つかう”」

「うん」

「“バケツは わけて つかう”」

「うん」

「“われてるバケツは なおすほうに いれる”」

「うん」

「“なおすひとを きめる”」

「うん」

 “なおすひとをきめる”。そこまで書いたところで、ルゼルが小さく「ふっ」と笑った。

「どうしました?」

「いや。“なおすひとをきめる”って、いいなって思って」

「いいですか?」

「うん。“だれかが なおす”じゃなくて、“なおすひとを きめる”。いい」

「ありがとうございます……」

 そこ、褒められると思ってなかったから、変なとこで胸があったかくなった。そうなんだよ。“誰か”って言うと誰もやらないんだよ。“だれ?”って決めると、やってくれるんだよ。これは、会社で学んだことだ。というか会社で何百回も痛い目見たことだ。「それは誰がやるんですか?」って言わないと、何も進まない。異世界でもたぶん同じ。異世界だろうと現実だろうと、人間の脳はそこだけは一緒。これは、私が持ってこれた武器だ。あの世界から持ってこれた、唯一のちゃんとした武器かもしれない。なんか、ちょっと誇らしい。

「“すてるものは すてる”も書いてください」

 アイラさんが言った。

「“すてるものは すてる”」

 私はそのまま書いた。その言葉は、びっくりするくらいすっと紙に入った。すてるものは すてる。わかりやすい。迷いがない。ああ、この村の人たちの言葉、好きだなぁって思った。変にごまかさない。ふわっとしない。ちゃんと“これ捨てよ”って言える。それ、けっこう勇気いるのに。だって捨てるって、罪悪感があるし、もったいないって声が心の中から出るから。でも、その声に負けないで「すてるものは すてる」って言えるの、かっこいい。

「よし」

 私は炭を置いて、深く息を吐いた。紙の上には、私の字と、私の絵と、村の現実と、今日決めたルールが並んでる。これを夕方、みんなに見せるんだ。これを“みんなで見るもの”にするんだ。胸の奥が、ぎゅうってなる。いい意味でぎゅうってなる。はぁ。なんだろうこの感じ。すごい。すごいなこれ。

「由香」

「はい」

「いいね」

 ルゼルが、ぽつんと言った。すごく静かに。すごくふつうに。でも、その一言に、ものすごく大きなものを乗せて渡すみたいに。

「……ありがとう、ございます……」

 声が、ちょっとだけ震えた。泣きそうになった。また泣きそうになった。いや、セーフだよね? セーフだけど、炭にじむから我慢する。深呼吸。すー……はー……。うん。よし。いける。

「じゃ、次は看板ね」

 アイラさんが、トンカチと、きりと、やすりをテーブルに並べた。こうして並んでるのを見ると、ほんとに“作業場”って感じがして、胸が高鳴る。なんか模造紙とマジックを渡されたときの前職の私みたいなテンション。よし、やるぞ、っていうスイッチが入る。

「バツの板は、角をそのまま残して、でかい×描く感じにしようと思います」

「うん」

「“のんじゃだめ”って文字、大きく書く」

「うん」

「“まる”の方は、角を丸めます」

「うん」

「刃物、借りますね」

「あるよ」

 ルゼルはすっと、腰にさしてた小型の刃物を抜いた。刃こぼれはあるけど、ちゃんと研がれてて、光るところはちゃんと光ってる。あ、こわい。ちょっとこわい。でも、こわいのは刃であって、ルゼルじゃない。ルゼルは平気な顔で柄の部分をこっちに向けて渡してくる。「はい」っていう感じで。受け取りやすい。こわくないように渡す、っていうのもちゃんと考えてるんだろうなって思った。やっぱりこの人、危険物。心臓が忙しい。

「ありがとう、ございます……」

「うん。気をつけてね」

「はい……気をつけます。指、たいせつなので」

「指たいせつ、そうだね」

「指たいせつ~」

 ミラちゃんが真顔で復唱した。うん、そう。指たいせつ。村のスローガンにしよう。「すてるものはすてる・指はたいせつ」。いい。すごくいい。村の理念、完璧に仕上がってきた。

 私は板を押さえて、角を少しずつそいでいく。手が震える。でも、ちょっとずつ木が丸くなっていくのが、目に見えてわかるから、楽しい。すごい。楽しい。ほんとに楽しい。これ、すごくない? だって私、今までこんなことしたことないのに、今やってるよ? 異世界に来た昨日まで、私って“役立たず”って言われてたのに、いま、“村の入口に掲げる大事な看板”作ってるよ? すごい。これ、なんかもう、人生のジャンル変わってない? 転職っていうか、転生っていうか、なんだろう。いいなぁ、これ。

「よし、角、だいたい丸くなりました!」

「うん。きれい」

「え、きれい? ほんとに? なんかガタガタしてないですか?」

「だいじょうぶだよ」

「だいじょうぶ~」

「だいじょうぶって言われると私すぐ信じちゃうんだよなぁ……ちょろいなぁ私……」

 やすりで表面をこすって、手でさわって、トゲがないか確認する。うん。これならミラちゃんがさわっても、たぶん痛くない。マル看板の形、なんかちょっといびつな楕円になったけど、まあそれはそれで味がある。手作り感あって可愛い。いい。かわいいは正義。正義は勝つ。

「じゃ、“のんでいいよ”描きますね」

「うん」

「えっと……“ここは のんでいい よ”」

 炭で大きく書く。横に、笑ってる顔の絵を描く。笑顔の横に、井戸とカップみたいな絵。うん、なんとなく伝わるはず。読み書きできない小さい子でも、笑ってるマーク=いい、泣いてるマーク=だめ、っていう認識はわりと通じる。これはファミレスのキッズメニューと同じ理屈だ。人間、世界が違ってもそこはたぶん変わらない。

「“のんじゃだめ”のほうもいきます」

「うん」

「“のんじゃ だめ”」

 今度は大きい×を板いっぱいに描いて、その真ん中に、へにゃってなってる顔を描く。お腹押さえてる感じの絵も添える。わりとそれっぽい。ていうかこういうシンプルなビジュアルサイン、異世界ほんと必要だな。識字率どのくらいなんだろ。今度聞こう。村の中だとどのくらい字が読める人いるんだろ。読めない人向けにどうやって情報を広げてるんだろ。そういうのもヒアリングしないと。ヒアリング。うん。ヒアリング大事。

「よし。じゃあひもを通す穴、あけますね」

「指たいせつね」

「はい指たいせつ!」

 きりで、板の上のほうに穴をあける。ぎゅっぎゅっと手首に力を入れながら押し回す。思ったよりちゃんと開く。木が少し軋む音がする。木の匂いがふわっと立つ。鼻に入ってくるこの匂い、なんか懐かしい。小学校の図工室の匂いに似てる。ああ、懐かしい。懐かしいっていう感覚が今ここにあるのも、なんか嬉しい。異世界でも“懐かしい”はあるんだ。そうなんだ。ちゃんとあるんだ。

「よし、穴あいた。ひも通します」

「うん」

「かたむかないように、両はしに二つ穴開けました」

「なるほど」

「こうすると、ぶらさげたとき安定するので。片方だけだとぶらんぶらんしちゃうから」

「なるほど」

「“なるほど”って言われると調子に乗るんでどんどん言ってください」

「なるほど」

「ありがとうございます調子に乗ります!!」

 ひもを通して、結んで、完成。マル看板とバツ看板が、テーブルの上に並んだ。うん。ちゃんと“マル”と“バツ”に見える。見えるよね? 見えると思う。よし。よし! これを井戸のところにかければ、子どもたちも迷わない。ミラちゃんも迷わない。お腹こわす子が減る。これでもう、誰かが泣かずにすむ。これ、すごいじゃん。ちょっと泣きそう。いや泣かない。炭がにじむ。がまん。

「すごい」

 アイラさんが言った。柔らかい声で、でもちゃんと力がこもってる声で。

「朝来て、もうこんなに進んだのね」

「……」

「“井戸の人”、やっぱり必要だわ」

「……っ」

 心臓にストレートで入ってきた。“必要だわ”。その一言で、胸の奥がじゅわぁってあったかくなる。ああ、だめだ。涙がまたこぼれそうになる。やばい。涙腺が今日ずっと開きっぱなし。業務に支障が出るレベル。いや、でも、この涙は、いままでの涙と違う。あの城でこぼした涙は、冷たくて、しょっぱくて、苦くて、飲みこむしかなかった。いまのは、あったかい。甘い。ちゃんと見てもらえてる涙だ。見ないふりされない涙だ。大事にされてる涙だ。……セーフ。これはセーフ。セーフでいこ。村の法に基づきセーフ。

「はい、じゃあ昼までに一回手を止めましょう」

 アイラさんが、さすが“お母さん”って声で言った。決定権がある声。安心する声。

「おなか、すいたでしょ?」

「すきました……っ」

「すいた~!」

「俺も」

「じゃあ食べましょう」

「はい……!」

 アイラさんが鍋のふたを開けると、ふわっと、やさしい匂いが部屋いっぱいに広がった。野菜を煮こんだ甘い匂いと、ちょっとした塩気と、ハーブみたいな青い香り。私のお腹が、ぐぅって鳴った。すごい音が出た。恥ずかしい。恥ずかしいけど、なんか恥ずかしくない。恥ずかしくないっていうのが新鮮すぎて、逆に胸がじんとする。こんなの、久しぶりすぎる。

「いただきますの前に、ひとつだけ」

 ルゼルが、椅子に腰をおろしながら言った。真面目な声だった。私とミラちゃんも、自然とその声にひっぱられて椅子に座る。テーブルの上には、さっきの紙と看板と道具が並んだまま。それらを真ん中に置いたまま、私たちは向かい合って座る。なんか、すごく……家族の食卓っぽい。やばい。やばい。心臓が。

「夕方の話」

「……はいっ」

「井戸のところに、村の人、だいたい集める」

「はい」

「そこで、由香が、今日書いた紙を読んで、“こうします”って言ってほしい」

「……っ」

 喉の奥が、きゅっとなった。やっぱり、そうなるんだ。わかってたけど、あらためて言われると、どくんって心臓が大きく打つ。怖い。でも、逃げたくない。逃げたくない感じの怖さだ。

「できる?」

 ルゼルは、まっすぐに聞いた。甘やかすでもおどすでもなく、ただ確認するっていう聞き方だった。“やるよね?”じゃなくて、“やる?”って。私に選ばせてくれる聞き方。ずるい。あ、また“ずるい”って言っちゃった。いやこれはもう“ルゼル”。ルゼルです。

 私は、ぎゅっと両手を握りしめて、胸の前で一回だけ息を整えてから、うなずいた。

「やります」

「うん」

「やります。私が、言います」

「うん」

「“みずがたいへんです”も、“のんじゃだめ”も、“なおすひとをきめる”も、ぜんぶ、私の口で言います」

「うん」

「ちゃんと、言いたいです。ちゃんと、伝えたいです」

「うん」

 “うん”が三回、静かに重なった。その“うん”は、なんかお守りみたいに私の胸の中に積もっていく。三枚重ねのお守り。夕方まで落とさないように、ぎゅって抱えようって思う。

「よし。じゃあ、食べようか」

「はい!」

「たべるー!」

「いただこう」

「い、いただきます……!」

 私は手を合わせた。自分でもびっくりするくらい、自然に出た。手を合わせる動きは、私の世界の癖。でも、これ、ここでもやっていいのかな? 大丈夫かな? って一瞬だけ不安になって顔を上げると、アイラさんとミラちゃんも、なんとなく真似して手を合わせて「いただきます」って言ってくれた。ルゼルはちょっと不思議そうにしながらも、ほんの少し口の端を上げて私のほうを見て、静かにうなずいた。ああ、これ、共有された。文化、いま、共有された。私の世界の「いただきます」がこのテーブルに置かれた。すごい。今、すっごいこと起きた。なんか、胸の奥がバチッて音を立てて、火花が散ったみたいにあたたかい。

 スプーンを持つ。スープをすくう。唇に近づける。湯気が頬にあたる。飲む。

 その瞬間、舌の上にやさしい味が広がって、私は思わず目を閉じた。野菜の甘さがちゃんとしてて、でも薄すぎなくて、しょっぱすぎなくて、口の中でほっとする味。ああ、これ。これだ。これが“ごはん”だ。これが“家で食べるあったかいもの”だ。これ、私、ずっと欲しかった。ずっと欲しかったのに、ずっとなかったやつだ。胸の奥がじゅわってゆるんで、肩から力がぬけて、体の中のきついところが全部とろけていく。溶ける。ああ、やばい。おいしい。おいしい。おいしい。

「……おいしいです……っ」

「そう? よかった」

 アイラさんが、ほんとうに嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私の胸の奥にまたひとつ、ぽんって灯りが増える。

「おいしい~!」

 ミラちゃんが口のまわりをスープでてかてかにしながら叫ぶ。かわいい。かわいいすぎる。かわいいの暴力。尊い。

「由香」

「はい……っ」

「夕方、がんばろうね」

「はい」

「でも、夕方までは、“ごはん食べてる時間”だから、今はがんばらなくていいよ」

「……っ」

 ルゼルのその言葉が、胸に落ちた瞬間、目の奥がまた熱くなった。やっぱりこの人は心臓に危ない。永久危険物指定。井戸の横に“この人の言葉は心臓に作用します”って看板立てたい。副作用:涙。重大な副作用:泣きながら笑う。

「……はい」

「うん」

「じゃあ今は、がんばらないで、食べます」

「うん。いい子」

「だからそれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 私は泣き笑いしながら、スプーンをもう一度口に運んだ。あたたかい味が、ちゃんと喉を通って、ちゃんとお腹に落ちていく。すごく、すごく、安心する。

 このあと私は、夕方、村のみんなの前でしゃべるんだ。私の声で、私の言葉で、“みずがたいへんです”って言うんだ。でもそれはきっと、“もうだいじょうぶです”っていう宣言にもなるはずだ。だって、もう、私はひとりじゃないから。ひとりで「どうしよう」って泣くだけじゃないから。いま、こうして“ただいま”って言える場所があるから。

 スプーンを握りしめながら、私は心の中で小さく誓った。夕方、ちゃんと伝える。ちゃんとやる。ちゃんとここにいる。

 ……そしてそのとき、気づいてなかった。私が“夕方みんなの前で話す”っていうことが、村にとってだけじゃなくて、王城にとっても、ちょっとした分岐点になるってことに。

 まだ誰も、それを知らない。
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