美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた魔王様と一緒に田舎でのんびりスローライフ

さら

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「“みずがたいへんです”のひと、はじめての全体ミーティング」

 夕方になった。太陽は村の屋根の向こうに少し傾いて、光がやわらかいオレンジ色になっている。昼間は明るすぎて白かった道も、いまは土のひび割れ一つ一つに影ができて、立体的に見える。遠くで鳥の声がして、畑のほうからはまだ誰かが鍬を打つ音がして、でも村の真ん中に近いこの井戸のあたりは、少しずつにぎやかになっていた。人が集まってくる音って、独特のざわざわがあるんだなって、私は初めてちゃんと知った。足音の重さとか、鼻をならす音とか、衣服がこすれる音とか、誰かが小声で「あの子か?」って言う音とか、そういうのがぜんぶ混ざってて、空気そのものがちょっと温度を上げるみたいににぎやかになる。

 私たちは井戸の横に立っている。ここは“北の井戸”じゃなくて“村の真ん中の井戸”――つまり「においがするから飲んじゃだめ」って言われてるほう。実際、井戸からふわっと上がってくる匂いは、やっぱりちょっと生ぬるい泥水みたいな、うっかり飲んだらお腹がぐるぐる言いそうな匂いだ。鼻の奥が「やだ」って言ってる。私はさっき作った看板の“×”と“飲んじゃだめ”の板を、この井戸の縁に結んでぶらさげた。少しだけ風に揺れるその板には、へにゃって顔をしてお腹を押さえてる絵が描いてあって、小さい子が見ても「お腹痛いの? やだね」ってわかる。うん、これで少しは飲む子が減るはず。減ってほしい。ほんと減ってほしい。

 そして、井戸の横の壁――もともと水汲み用の桶を引っかけてあった木の柱の一部――には、今日の昼にみんなで作った“おしらせ板”が立てかけてある。大きめの板の上に、私が炭で書いてイラストも描いた『みずがたいへんです』の紙が貼られてて、その上からアイラさんがちょっと薄めた油を塗ってくれた。油のおかげで、紙が少ししっとりして固まって、簡単には風で飛ばないし、少しくらい水がかかっても文字がにじみにくい。まだところどころ油が光ってて、夕日のオレンジに反射するから、逆に目を引く。よし、目立つ。よし、いい。目立つのは正義。見てくれないと意味ないから、まず見てもらわないと。

 その下には、さらにもう一枚、小さめの紙が貼ってある。それは“なおす/つかう/すてる”表だ。三つに線で分けた紙の、それぞれのところに「こわれてるバケツ」「あなあきロープ」「まだつかえるやつ」って、簡単な絵と文字を書きこんである。横に小さな空欄を残して、そこに名前を書けるようにした。「なおすひと」とか「みるひと」とか。これは夕方、みんなに説明して、“やります”って言ってくれた人の名前をその場で書くつもりだ。つまり、今日は、私がプレゼンするだけじゃなくて、村の人ひとりひとりに「これ、やってくれる?」ってお願いする時間でもある。つまり……つまり?

 はい。めちゃくちゃ緊張してます。

 いや、わかってたんだけど。わかってたんだけどさ。実際にこの場に立って、目の前に人が集まってくる現実を見ると、足の裏がじんわり汗ばんで、膝がわずかにふわふわして、胃のあたりが「こんにちは、私いまここにいますよ~」って自己主張してくる。これ会社の朝礼とか発表会の前と同じやつだ。うん、同じやつなんだけど、ちょっと違うのは──逃げたくないってちゃんと思ってること。会社の朝礼は逃げたかった。できれば風邪ってことにして家にいたかった。いや実際に一回「のど痛いんで」って言ってサボったことありますすみません社長すみませんほんとすみません。でもいまは、逃げたくない。怖いけど、逃げたくない。これって、すごいことだよね。これって、多分、私の中ですごい革命が起きてる。

 私のすぐ横にはルゼルがいて、その横にミラちゃんがいて、アイラさんが少し後ろで腕組みして全体を見てくれてる。なんだろう、この配置。護衛? いや護衛っていうより、サポートチームって感じ。すごく心強い。RPGでいうところのタンク・ヒーラー・バッファーが私の横にずらっと並んでる感じ。私はなに? いまの私は何の役? サポート? いや、今だけは私が前衛かもしれない。やば。前衛経験ゼロなんだけど。盾も剣もないんだけど。手元にあるのは炭と紙と看板だけなんだけど。紙と看板で前に立つとか、平和な村すぎる。そういう意味ではありがたい。

 人が増えてくる。おじいちゃんっぽい人。腕ががっしりした女の人。腰に小さな子を抱えてる男の人。畑帰りでまだ袖に土のついてる人。洗濯物を肩にかけたままの人。何人くらいだろう、って数えようとしてすぐにやめた。数えようとすると余計に緊張が数字になるからやめよう。10とか15とか、そういう現実的な数字になった瞬間に「15人も見てる!?」ってなるからやめよう。いま私は“みんな”っていうふんわりとした単語だけで生きる。よし。ふんわり戦法でいこう。

「ねぇ、あの子?」

「うん。朝ルゼルが連れてきた」

「“連れてきた”って、また?」

「まただな」

 はい、聞こえてます。でも、怒ってる感じじゃない。村の人たちは、ちょっと笑ってる。いじってる感じ。悪口っていうより“恒例行事だな”っていうノリ。朝もあった。「また拾ってきたのか?」っていうあのいじりの延長線だ。あれはいやじゃなかった。だから今も、そこまで怖くない。むしろ“恒例行事”って言われるってことは、前例があるってことで、つまり私は特別な異物じゃないってことで、つまりこれは安心材料。安心材料は正義。正義は勝つ。よし、よし、呼吸。

「ひとの前でしゃべるの、はじめてじゃないでしょ?」

 アイラさんが、ちいさな声で聞いてくれた。声のトーンが“怖い?”って聞くときの優しさじゃなくて、“どんなふうにサポートすればいい?”って確認するプロの声だ。この人ほんと強い。たぶんこの村の真のボスはこの人だと思う。肩書は“村のお母さん”なんだけど、実質“村の最高執行責任者”だよこれ。

「会社で、朝礼とかありました……」

「朝礼?」

「はい。みんなの前で、“本日の予定ありますか?”って言われて、“特にありません”って言うやつです」

「なにその会」

「あったんです」

「あるの?」

「あるんです」

「ふーん……この村でやったら確実に全員寝るわねそれ」

「寝ますね」

「寝るな」

 ルゼルがまじめにうなずいた。うん、寝るよね。私も寝る。正直私も寝てた。

「じゃあ、だいじょうぶね」

「だいじょうばないです」

「だいじょうばないの?」

「ちょうしんどいです」

「かわいい」

「かわいいって言われると逆にがんばるしかない感じになるから心臓の負担がまた増えるんですけど!?」

「うん」

「うんって言わないでくださいルゼルさん!? “わかってるよ見てるよ聞いてるよ支えてるよ”っていう“うん”の圧が重いのにやさしいからこっちが泣く準備はじめちゃうんですけど!?!?」

「うん」

「だからその“うん”!!!!!」

 私が小声でわちゃわちゃ言ってると、ミラちゃんは私の服のすそをぎゅっとつかんだ。小さい手。あったかい。ぎゅってつかんで、こっちを見上げる。目がきらっとしてる。なんか、期待されてる。全力で信頼されてる。これは……これは逃げられないやつ。ていうか逃げたくないって、また思った。そうだね。逃げたくないや。こうしてぎゅってつないできてくれる子がいるのに、逃げるのはいやだ。逃げたくない。

「ゆか、おねえちゃん、しゃべる?」

「しゃべるよ」

「すごい!」

「すごいの?」

「すごいの!」

「すごいらしいのでがんばります」

「がんばれ~!」

 はぁ……。なんなんだろうこれ。応援が直撃で心臓にくる。胃がきゅうってなるのに、同時に胸の奥がぽっとあたたかくなる。これが「緊張してるけど愛されてる状態」ってやつ? 初めてで処理しきれないんだけど。マニュアルないんだけど。誰かマニュアル。いや私が今から作る側なんだけど。くぅー……。

「静かにー!」

 アイラさんが、手をぱんって叩いた。その音がちゃんと通るのが地味にすごい。場がすっと落ち着いた。ざわざわしてた声がいったん止まって、空気の向きがこっちに向く。はい、こっち見られてます。たぶん今この村の視線の60%くらい私にきてます。残りの30%はルゼル。残りの10%はミラちゃん。0%がアイラさんっていうのは嘘で、5%はアイラさんの「静かにー!」の声に“はい”ってなってる。こういうの、データにしたい。スプレッドシートに入れてグラフにしたい。現実逃避したくなってきた。

「集まってくれてありがとね。今日はちょっと大事な話があるの」

 アイラさんが、みんなを見渡して言う。私じゃなくて、まずアイラさんが口火を切ってくれた。そのことが、すごくありがたい。いきなり“はい新入りが話します!”ってやるより、ずっと入りやすい。ちゃんとステップがある。この村、会議の導入までやさしいの? なにそれ、ホワイト村?? ホワイト企業ならぬホワイト村??? なんなの、ここブラック要素が今のところ「拾ってきたって言われる」くらいしかないんだけど。

「みんな、もう知ってるでしょうけど、うちにはいま“井戸の人”がいませんでした」

 ごくん、と誰かが喉を鳴らす音がした。

 “井戸の人”。

 その単語に、周りの空気がちょっとだけ変わったのがわかった。さっきまで「なんだなんだ~?」みたいに明るかった空気に、すこしだけ真面目さが足された。重くはない。でも、まじめ。ちゃんと聞こう、っていう方向に空気が動いた。あ、この村の人たちにとって“井戸の人”ってそういう存在なんだ。大事なんだ。名前だけで空気が変わるくらいには、ちゃんと意味のある役割なんだ。私の胸の奥で、あったかさと責任感が同時にむくっと起きあがる。やばい。なんか、やばい。心拍数が上がる。

「でも、今日からは違います」

 アイラさんは、私の背中を軽く押した。前に出ろ、って合図。それは“前に押し出された”っていう感じじゃなくて、“ほら、あなたの番よ”っていうやさしい合図。私は足を一歩前に出した。井戸のすぐ横、看板と紙と表が私のすぐ横にある位置。深呼吸。吸って、吐いて。あ、手が震えてる。大丈夫、震えててもいい。震えてるままで、いい。

「紹介するわ。今日からこの村の“井戸の人”。由香」

「っ」

 紹介された。正式に。村のみんなの前で。肩書きつきで。名前といっしょに。“井戸の人”として。あ、だめですこれ、泣くやつ。これは泣くやつ。いやでも今泣いたら開幕号泣プレゼンになっちゃうからそれは避けたい。涙腺、ちょっとそこで待ってて。夕方までがまんして。あとでいくらでもセーフ出すから。今はがまん。がまん、由香。

「え、あの子?」

「“井戸の人”?」

「ちっちゃいな」

「ちっちゃいけど、声はでかそうだぞ」

「見た目はちっちゃいのに話す量が多いタイプっぽいな」

「なんで初対面で私の性格プロファイルができあがってるんですか!?!?」

 つい口が勝手に動いた。人前なのに。いや、でも、笑いが起きた。井戸のまわりがふっとゆるんだ。あ、これ、いい。これ、ちょっと助かる。いきなりガチガチだと私の胃が死ぬから、いまの笑いでだいぶ息がしやすくなった。

「はじめまして!」

 私は、胸の前でぎゅっと拳を握って、声を出した。うん、出た。震えてるけど、ちゃんと出た。聞こえるくらいの声が出た。ミラちゃんが「がんばれー!」って小声で言うのが背中に刺さって、逆に安心する。

「わ、わたし、由香といいます! “井戸の人”を、やります!」

 言えた。言い切った。主語と動詞でちゃんとつなげて言い切った。すごい。私、すごい。自分で自分を褒めたい。あとでやる。今は続ける。

「えっと……その、今日の話は、“水がたいへんです”っていう話です!」

 私は、後ろ手でぺたんと掲示板をたたいた。自分で貼った紙。炭で書いた字。“みずがたいへんです”。夕日の色で、炭の黒が少し茶色っぽく見える。その紙を、みんなに見えるように、ちょっと横にずれる。私が立ってると紙が隠れるから。そう、紙を主役にする。私はその横に立つだけでいい。そう思ったら、ちょっとだけ肩の力が抜けた。

「みんな、もうなんとなく知ってると思うんですけど、いま、この村のお水って、“ちょっとたいへん”なんですよね」

 うなずきが、ばらばらって起きた。ああ、そうだよね、っていう、同意のうなずき。あ、ちゃんと伝わってるんだ。よかった。

「“たいへん”って、どういうことかっていうと……いま、この“北の井戸”から水を汲んで、畑まで運んでる人たちがいます。毎日いっぱい。今日聞いたら、“六回とか七回とか往復するときもある”って言ってました」

 私は、イェルさんをちらっと見た。イェルさんは腕を組んで、にっと笑って、あごで「おうおう、言え言え」って合図してくれた。その顔が頼もしすぎて、私はちょっとだけ胸をはった。

「でも、それって、“ギリギリ なんとかなってる”状態なんです」

 私は、紙に描いたバケツの絵を指さした。バケツを両手に持った棒人間。横に“ぎりぎり”って書いてある。自分の字、ちょっとかわいく描こうとしたのが今見ると恥ずかしい。でも、もう出したからいいや。はい。公開しました。今さら取り返せません。

「ギリギリなんとかなる、っていうのは、“いまは”ということです。“いまは、ケガしてないし、熱もないし、元気だから、のめりこみながらでも運べる”っていう意味です」

 口に出しながら、私は昼にイェルさんが土の上で言ったことを思い出す。“片足が崖っぷちに出てる感じだ”って。あの言葉が、私の中でずっと鳴ってる。

「でも、もし、運んでる人が熱を出したら? もし、足をくじいたら? もし、“今日はどうしても動けない”って日があったら?」

 私は、少しだけ間を置いた。静かになった。誰かが小さく息を吸う音がした。その静けさの中で、私の心臓の音だけが自分に聞こえる。どくん、どくん。あ、これ、たぶん今の“間”うまくいってる。会社の朝礼ではこんな間つくれなかった。だってあれは「早く終わらせろ」って空気が強すぎたから。でも今は違う。みんな聞いてくれてる。ちゃんと“それで?”って顔をしてる。すごい。これ、すごい。私、ちゃんと話せてる。

「畑に水がいかなくなります。畑の葉っぱが、しおしおになります。食べものが、つくれなくなります。そうすると、村のみんなが、こまります」

 “こまります”って言った瞬間、子どもの声が「やだ~」ってぴょんって飛んだ。ミラちゃんかと思ったら、ちがう、小さい男の子だった。男の子は、お母さんらしき人の服をぎゅってつかんで、「やだ~」って顔をしてる。その声が、私の背中を押した。うん、そう。そう。そうなんだよ。こまるの、やだよね。やだ、でいいんだよ。大事なことって、たぶんそれでよくて、難しい言葉なんていらないんだよ。

「それから、もうひとつ。こっちの井戸」

 私は、今いるこの井戸の縁を手の甲でとんとんって叩いた。井戸の上には、私たちが作った“×”の板がぶらさがってる。“のんじゃ だめ”。へにゃってした顔と、お腹を押さえる手。子どもでもわかるやつ。

「この井戸は、“においがする”から、飲んじゃだめです」

 その言い方だけで、数人が「うわっ」って顔をした。鼻にしわを寄せる顔。そう、あの顔。私もさっきこの井戸でその顔になった。鼻の奥が「やだ」って言う匂い。あれ、身体が勝手に拒否する感じするよね。あの顔はきっと共通言語だ。

「でも、ここの水、ぜんぶ“すてる”わけにはいきません。なぜかっていうと──」

 私は、板の上の紙の下段を指差した。『どうする?』って書いてある欄。“のんじゃ だめ” “きたの いどの みずを だいじに つかう” “ばけつは わけて つかう”。

「“のんじゃだめ”っていうのは、“口にいれちゃだめ”ってことです。“のむな”ってこと。でも、“つかっちゃだめ”とは言ってません」

 少しざわってした。私、そこ怖いかなって思ってた。だって「飲めない=ぜんぶ汚い=ぜんぶすてる」ってイメージしてる人もいるかもしれない。でも、それをやると、水が足りなくなるスピードが一気に上がる。北の井戸の負担がさらに上がる。それはまずい。それは避けたい。だから、“使い道を分ける”っていう話を、今ちゃんとしなきゃいけない。

「“つかう”っていうのは、“洗う”とか“流す”とか、そういうことです。たとえば、“畑で使った道具を洗う”とか、“足だけさっと洗う”とか、そういうのなら、この井戸の水を使っても、だいじょうぶです」

 私は、紙の上に描いた絵を指先で叩いた。バケツの絵の横に“×口”って書いてあって、その下に“○ あし”って書いてある。私の汚い字が、今すごく愛おしい。これ、ちゃんと伝えるために描いたんだもん。愛おしくないわけがない。

「でも、“口に入れる”“のむ”“ごはんをつくる”っていうときは、この井戸の水は、つかっちゃだめです。これを、ぜったいにまもってほしいです」

 私は、両手を胸の前でぎゅっと握った。拳じゃなくて、祈るみたいな形。このほうが“おねがいです”って伝わる気がしたから。

「おなかいたいの、やだよね?」

「やだ~!」

 さっきの男の子が、また元気よく叫んだ。会場からちょっと笑いが起きる。その笑いは、バカにする笑いじゃなくて、“そうそう”っていう同意の笑いだ。あ、いい。いまの“やだ~”すごいいい。ありがとう少年。あなた天才。あとでキャンディかなんかあげたいところだけどこの世界にキャンディあるかな? あとで聞こう。

「だから、この“×”の板。これ、“のんじゃだめ”の目印です。もし、ちっちゃい子がここで飲もうとしてたら、“のんじゃだめ”って教えてあげてください。“おなかいたいのやだよね”って、一緒に言ってあげてください」

 うんうん、ってうなずきが起きる。その中には、子どもを抱いてるお父さんお母さんもいるし、腕のがっしりした畑の人もいるし、おじいちゃんもいる。あ、おじいちゃんがうなずいてる。なんか、じーんとくる。世代をまたいで同じルールを共有できるって、こんなに心強いんだ。これ、すごいことだよ。

「で、もうひとつ」

 私は、左手で持ってた“〇”の板を持ち上げた。昼に作った、角を丸めてやすりがけした板。ちょっといびつだけど、かわいくできた自信作。ひもの先を片手で持って、胸の前に掲げる。板には、にこにこ顔の絵と、“ここは のんでいい よ”って書いてある。炭で描いたから、文字が太い。

「こっちは、“のんでいい”っていう目印です。北の井戸には、これをつけます」

「おお」

 小さく、感心みたいな声があがった。おじいちゃんの声かな? ちがう、端っこのほうで腕組んでるお兄さんが「おお」って言ったんだ。こういう素直なリアクション、ありがたい。いまの「おお」は私のMPを回復しました。ありがとうお兄さん。MP大事。

「“のんじゃだめ”だけだと、こどもは“じゃあどこでのめばいいの?”ってなります。だから、“のんでいいほう”も、ちゃんと見せたいんです」

 私は、“〇”の板をもう一回みんなに見せてから、そっと下ろした。手がちょっと震えてる。でも、声はまだ出る。ちゃんと言葉が出る。すごい。私、がんばってる。えらい。えらいぞ私。

「“バツだけじゃなくてマルも見せる”っていうの、すっごく大事です。子どもだけじゃなくて、大人も、つかれてるときは頭がまわらないから、“これだけはオッケーなんだな”ってわかる場所があると、助かります。だから、これを、北の井戸にさげます」

「ふむ」

「なるほど」

「それはいいな」

 低い声でそう言ったのは、イェルさんだった。イェルさん、腕を組んだまま、満足そうにうなずいてる。その横で、イェルさんの奥さん……かなって思う女性が、「それならミラもわかるわね」って小さく言って、ミラちゃんが「わかるー!」って両手をあげた。かわいい。会場、今、かわいいの波がどっと押し寄せました。みんなちょっと顔がやわらかい。これも多分、とてもいい。

「それから、“なおす/つかう/すてる”の話をします」

 私は下の紙を手で示して、そこに描いた三つの枠をぽんぽんって叩いた。呼吸を整える。ここからが、本番の本番だ。お願いをする。役割を渡す。これはたぶん、いちばん大事。これがちゃんと伝わらないと、さっき話したことも全部薄くなっちゃう。だから、ここはしっかり言わなきゃ。

「いま、井戸のところには、“こわれてるバケツ”とか、“あなあきロープ”とか、“もう使えないやつ”とか、“まだ使えるけどちょっとこわい”やつとか、いろいろ混ざって置かれてます」

 あー、って声が何人かから出た。うん、わかる。みんな“あるある”って顔してる。そこに「あるある」があるの、いい。共通の実感って、大事。

「それを、“なおす/つかう/すてる”に分けます。まず分けます。ぜんぶ一緒にしないで、わけます」

 私は、紙の左の枠を手で叩いた。“なおす”の枠。その横には、ヒビの入ったバケツの絵と、“なおすひと”っていう欄がある。

「“なおす”のところは、“まだつかえるようになるやつ”です。たとえば、“ちょっとヒビが入ってるけど、板をあてればまだ使える”とか、“縄をつぎなおせばまだ使える”とか、そういうやつです」

「ふむ」

「それ、いままで、誰がやってました?」

 私は、会場に向けて聞いた。できるだけ目を合わせる。こわいけど、目を合わせる。すると、何人かが一瞬顔を見合わせてから、ちらってアイラさんを見て、ちらってルゼルを見て、最後にイェルさんを見た。あ。なるほど。つまり、いまは「なんとなく気づいた人がなんとなくやる」っていう状態なんだ。つまり、決まってない。つまり、疲れる。つまり、誰も責められないけど、誰も完全には守られてない状態。これ、しんどいやつだ。しんどいの、わかる。それ、しんどいんだよ。

「これからは、“なおすひと”を、決めます」

 私は、“なおすひと”って書いてある空欄を指でとんとん叩いた。炭が指につく。私の指、もうだいぶ黒い。大丈夫。黒い手、かっこいい。働いてる感あっていい。よし、いけ。

「“なおすひと”っていうのは、“なんでもぜんぶひとりで直してください”って意味じゃないです。“こっちにまとめといて”って言う人のことです。“この山はなおすやつだよー”ってみんなに言ってくれる人のことです。それだけでいいです。それだけでも、ぜんぜんちがいます」

 私は、“つかう”の枠も叩いた。そこには、ふつうのバケツの絵と、“つかえる”って書いてある。

「“つかう”のところは、“もうすぐ使えるやつ”です。これは、井戸のそばに置きます。“つかっていいやつだよ”ってすぐわかるようにします」

 “すてる”の枠も叩く。そこには、穴があいて底が抜けてるバケツの絵と、“すてる”って書いてある。シンプルな×も描いてある。

「ここは、“ほんとうに つかえないやつ”です。“なおすひと”が見て、“これはもうむり”ってなったやつです。そういうのは、ここに入れます。で、ここに入ったやつは……」

 私は、息を吸った。ここ、ちょっとだけ怖い。怖いけど、言う。

「すてます」

 沈黙。会場に、ふっと少し重い空気が落ちたのがわかった。誰かが小さく息を飲んだ音も聞こえた。“すてる”。この村では、きっとそれは、とても重い言葉なんだと思う。だって、物って簡単に手に入らないはずだ。バケツだって、木だって、縄だって。直せるものはぜんぶ直してきたはずだ。捨てないで、なんとかしてきたはずだ。だから“すてる”っていうのは、たぶん、ここではちょっと勇気がいる言葉だ。

 でも、それでも、私は言う。言わなきゃいけない。言わないと、危ないものが放置される。それで子どもがケガしたら、もっといやだ。

「“すてる”のところにあるものは、“あぶないもの”です。そこに、穴のあいたバケツとか、切れそうな縄とか、“つかったら こわれて だれかが けがするやつ”が入ります。それは、“つかっちゃだめ”です」

 私は、できるだけゆっくり、はっきり言った。なるべく難しい言葉を使わないで、ストレートに。子どもにもわかるように。大人のプライドを無駄に刺激しないように。これは、会社で学んだ“地雷のない言い方”の応用だ。私の地味な社会人スキル、異世界でがんばれ。

「“すてる”っていうのは、“あぶないのを そのままにしない”っていう意味です。“あぶないやつは ちゃんと あぶないところに入れて、みんなが それを見たら さわらないでおこうって わかるようにする”っていう意味です」

 私は、空欄の横に描いておいた小さなドクロマーク(かわいいやつ、あんまりこわくないやつ)を指でとんとん叩いた。会場から、ふっと笑いが漏れた。よかった。ドクロマークウケた。ドクロマークありがとう。あなた今日の立役者。

「だから、“すてる”は、わるいことじゃないです。“みんなをまもること”です。“あぶないものを あぶないまま 放っとかないで ちゃんと ここに入れる”ってことだから。なので、“すてる”の山を、ちゃんと見る人も、必要です」

 私は、“すてる”の枠の横に描いておいた、“みるひと”っていう欄を指さした。そこは、昼のときには書いてなかった欄だ。昼ごはんの後にアイラさんと「これも要るわね」って追加したやつだ。

「“みるひと”っていうのは、“すてる”の山に“あぶないもの”がちゃんと入ってるか確認する人です。こどもが さわらないように 気をつける人です。もし こどもが さわろうとしたら、“それダメだよ”って言ってくれる人です」

 私は、会場を見渡した。いろんな目がこっちを見てる。まっすぐな目、ちょっと困ったような目、でもちゃんと“わかろう”としてる目。怒ってる目はいない。疑ってる目も、そんなにいない。これは、もしかしてだけど、かなり、うまくいってるのでは? いや、うまくいっててくださいお願いしますマジでここでつまずくと私メンタル死ぬのでお願いします。

「なので──」

 私は、炭の先を、空欄に軽く当てた。書く準備の、合図。

「“なおすひと”と、“みるひと”を、きめたいです」

 そこで、ちいさなさざ波みたいに「おお」という声が広がった。ざわ、っていうより、おお、っていう、納得の空気。あ、よかった。“誰がやるか”を決めるって話、ちゃんと受け入れてもらえてる。これ、ほんとに大きい。これが通るか通らないかで、今日の会は成功か失敗かが決まるくらい大事だったから。ああ、よかった。よかった……。泣きそう。いやまだ泣かない。まだ。まだだよ由香。がんばれ由香。

「“なおすひと”は……」

 私は、一瞬だけ迷って、でも逃げずにイェルさんを見た。イェルさんと目が合った。イェルさん、にやっと笑った。うん。その笑い、“任せろ”って顔だ。よし。いけ。

「イェルさん、お願いできますか?」

「おう!」

 イェルさん、即答。拳をどんって自分の胸に当てた。その音が妙に頼もしい。会場から、安心したような笑いが起きた。「だろうな」っていう笑い。あ、そうか。イェルさんって、そういう人なんだ。畑を守ってる人で、みんなから“任せときゃいい”って思われてる人なんだ。だから、いまそれを“正式にお願いする”っていう形にすれば、みんなすっと納得するんだ。うん、これ、すごい。たぶん今、村のなかでひとつの線が引かれたよ。“なんとなくやってくれる人”→“ちゃんとこの人に聞こうねって決まってる人”。これ、でっかい。

「イェルさん、すみません、“なおすひと”って書いていいですか?」

「書け書け!」

「ありがとうございます!」

 私は、炭で“イェル”って書いた。その字が板の上に乗る瞬間、胸の奥でぱちんって音がした気がした。決まった。今この村の中に、ひとつの役職が正式に生まれた。かっこいい。“なおすひと:イェル”。肩書きって、こうやって生まれるんだ。すごい。生まれる瞬間を見た。鳥肌が立つ。異世界、リアルタイム組織づくりRPGか?

「じゃあ、“みるひと”を──」

「それ、わたしやるわ」

 すぐに声が上がった。ためらいのない高めの声。私はびくっとして声の主を見た。腕まくりしてて、腰に手ぬぐいをさしてて、目がきりっとしてる女の人。あ、この人、朝、パンの匂いがしてた家の前で見かけた! パン屋さん? たぶんパン屋さん。髪は後ろでぎゅっとまとめてて、腕には粉のあとがついてる。なるほど、強い。ゼロ距離で生活を回してる人って感じがする。

「エナ」

 アイラさんが、ちょっと笑って名前を呼んだ。

「エナ、お願いできる?」

「いいわよ。どうせ朝も昼も井戸のそば通るし」

 エナさん(パン屋さん)は、肩をくいっと回して、「子どもが変なもんさわろうとしてたら、怒鳴ればいいんでしょ?」って気楽そうに言った。会場から「あー、エナなら言うわ」「エナなら言うな」って笑い声が上がる。うん、みんな納得の人選だ。わかる。エナさん、声が通るタイプだ。あと、怖がらずにちゃんと“それやっちゃダメ!”って言えそうな声をしてる。やさしくていいお母さんタイプのアイラさんと、自然に人を安心させるルゼルと、物理で畑を守るイェルと、そこに“ガツンと止める係”のエナさん。役割分担が、すごいきれいに並んでいくのがわかる。この村、チーム構成が自然にできるの、ほんとすごいな。

「じゃあ、“みるひと”はエナさん、って書きますね」

「あいよ」

「ありがとうございます!」

 私は炭で“エナ”って書きこんだ。書き終えた瞬間、エナさんは「まかせなさい!」って腰に手を当てて胸を張った。会場から小さな歓声と笑いがあがる。明るい笑い。ああ、いい。すごくいい。なんか、空気が、いい。夕方のオレンジの光も、板の上の油の光も、人の顔のあかるさも、ぜんぶが私の胸にすっと入ってきて、心臓のどくどくと同じリズムで揺れてる。

「それじゃあ──」

 私は、もういちど深呼吸した。最後の一押し。これは、村のみんなへ、“この場で約束しましょう”っていうお願いだ。これ、ちゃんと言えたら、今日の私、ほんとがんばったって言っていい。ちゃんと自分を褒めていい。だから、言う。

「いま、決めました。“なおすひと”はイェルさん。“みるひと”はエナさん。で、これからは、“こわれたやつ”“あぶないやつ”は、その場に放りっぱなしにしないで、ぜったいにこの表のどこかに入れてください」

 私は、板の三つの枠を、順番に、手のひらでぽん、ぽん、ぽん、と叩いた。音が小さく響く。

「“なおす”なら“なおす”に。“つかう”なら“つかう”に。“すてる”なら“すてる”に。これを、今日から、みんなでやりませんか?」

 静かになった。風の音だけが、すこし耳に入ってくる。オレンジ色の光が板の油に反射して、ちょっときらきらする。その光が、みんなの顔にも反射して、目のところだけ一瞬ひかって見える。誰かが小さく息を吐いた音がして、それから、ぽん、と手を打つ音が一つ、聞こえた。

「いいぞ!」

 イェルさんだった。大きな手のひらで一回、空気を叩くようにして、力強く。

「いいな、それ!」

 エナさんが続いて手を叩いた。パンをこねる腕の力がそのまま入ったような、ぱんっていう気持ちのいい音。

「おおーっ」

「それならわかりやすい!」

「子どもにも言いやすいな!」

「“おなかいたいのやだよね”って言えばいいんだろ?」

「それは言える!」

「だったらオレも“なおすほう”に持ってくわ!」

「すてるところ、子ども近づいたらエナに言えばいいんだな!」

「エナうるさいからな!」

「うるさいってなによアンタあとでパン買わせないわよ!」

 わっと笑いが起きた。その笑いは、緊張をほどいて、場をあっためて、でもちゃんと“やろうな”っていう方向でまとまってる笑いだった。私はその真ん中で、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じてた。足の裏から熱が上がってきて、膝を通って、お腹を通って、胸の真ん中に集まって、そこに小さな火が灯ったみたいになる。すごい。いま、私、ちゃんとここにいる。ちゃんと、“この村の人”としてここに立ってる。

「ありがと」

 ルゼルが、小さな声で言った。その声は、私にだけ聞こえるくらいの大きさだった。

「よくやったね」

 その一言だけで、胸の奥の火が一気にぱちぱち音を立てて大きくなった。やばい。やばい。なにそれ。なにそれ。ああもう、だめ……。涙が、目の奥からじわってきた。だめ。だめ。炭がにじむ。炭にじんだら文字が読めなくなる。だめ。目をこする。ぐしぐし。セーフ。セーフですこれはセーフ。“うれし泣きはセーフ”は議会で可決されてるからセーフ。よし、セーフ理論で押し切る。

「じゃあさいごに、ひとつだけ」

 私は、涙で声がちょっとだけかすんだまま、でもちゃんと前を向いて言った。これが、今日いちばん大事なお願いかもしれない。水を守るための、すごくシンプルな、でもいちばんやさしい約束。

「“おみず だいじに しようね”って、こどもに言ってください」

 静かになった。ほんの一瞬だけ。でも、その静けさは、“なんだそれ?”っていう静けさじゃなくて、“ああ、そうだな”っていう静けさだった。

「むずかしいこと言わなくていいです。“おみず だいじに しようね”でいいです。“のんじゃだめだよ。おみず だいじに しようね”って。大人も、こどもに、そう言ってあげてください」

 私は、胸に両手を当てて、少しだけ頭を下げた。深くじゃない。丁寧に、じゃない。ここで深々と頭を下げたら、なんか“お願いです許してください私なんかがすみません”って空気になるから、それはいやだ。そうじゃなくて、これは“いっしょにやろう”っていう提案だから。頭は、ほんの少しだけ傾ける。ありがとうの角度で。

「それが、いちばん たすかります」

 ゆっくり、顔を上げた。夕日の光が、みんなの顔をオレンジ色にしてる。いろんな表情があった。うんうんって強くうなずいてる人。ちょっと照れくさそうに笑ってる人。口をぎゅっと結んでる人。目をこすってる人。子どもをぎゅっと抱き寄せてる人。……泣いてる人も、いた。あ、あの、あの細い腕のお母さん、泣いてる。肩が小さく震えてる。やばい。やばい。それ見たら私も泣きそう。だめ。だめ。いや、セーフだけど、だめ。看板に鼻水つけちゃうからだめ。がまん。がまん由香。あとちょっと。あとちょっとだけ。

「──以上です! ありがとうございました!」

 言った。言い切った。私の声が、ちゃんと最後まで空気を震わせて、みんなの耳に届いた。その直後、どこからともなく、ぱん、って手を叩く音がして、それがもう一回、もう一回、って続いて、やがてぱらぱらって拍手になった。

 拍手。されてる。今、私、拍手されてる。やだ、なにこれ、泣く。泣く。あああああああああああああああああああああああああ(内心崩壊の音)。

「すごい~!! ゆかおねえちゃん、すごい~!!」

 ミラちゃんが、私の腰に抱きついてきた。全力でぎゅーって。かわいい。かわいい。かわいいの暴力。膝がゆるむ。心臓が溶ける。ああもうほんとに無理。幸せって暴力。本日何回目? この世界、やさしさの手数が多すぎる。ガードできない。完全にノーガード戦法で殴られ続けてる。嬉しい。死ぬほど嬉しい。ああ、だめ。涙がこぼれる。こぼれた。あ、こぼれちゃった。いいや。セーフ。セーフだからいいや。

「セーフ!」

 私が勝手に涙をぬぐいながらつぶやいたら、ミラちゃんがすかさず「セーフー!」って叫んで、まわりの大人たちもそれ聞いて笑った。笑いながら、「セーフだな」「セーフだな」って口々に言ってる。ああ、やばい。いま、“セーフ”って言葉が、この村の共通語になってる。やば。文化が生まれた瞬間をまた見てしまった。今日なんなの? 文化誕生デー? 世界がどんどん形になっていく日? すごすぎない? 私いまこの場にいていいの? いていいんだよね? いいって言われたんだもんね? そうだよね?

「……由香」

 ルゼルが、そっと近づいて、小さい声で言った。聞こえるのはほぼ私だけ。耳のすぐ近く。距離、近い。心拍数、はい上昇した。心臓、がんばって。あとちょっとだけがんばって。

「ありがとう」

「っ」

「ほんとに、ありがとう」

 その声は、静かだった。静かで、まっすぐで、嘘がひとかけらも入ってない声だった。その瞬間、私の胸の奥の火は、ぱぁって音を立ててさらに大きくなって、あったかさで胸の中がいっぱいになった。いっぱいになって、溢れて、目からこぼれた。もう、だめ。だめなんだけど、それでもちゃんと立っていられるのは、ミラちゃんがぎゅって抱きついてくれてるのと、ルゼルがそっと私の肩に手を置いてくれてるから。肩に置かれた手はあったかいし、重さはやさしくて、ちゃんと“ここだよ”って教えてくれる重さだった。

「……っ、……わたしのほうこそ、ありがとうございます……っ」

「うん」

「ここにいさせてくれて、ありがとうございます……っ」

「うん」

「“ただいま”って言わせてくれて、ありがとうございます……っ」

「うん」

「“かえってきたよ”って、ほんとうに言える場所、ありがとうございます……っ」

「うん」

「……“いい子”って言ったらぶん殴りますからね」

「……うん」

「“うん”はいいんだ……」

 泣き笑いながら、私は腕で目をこすった。炭がついて、目の横がちょっと黒くなった。ミラちゃんが「くろい~」って笑って、アイラさんが「あとでふけばいいわよ」って笑って、村の人たちもまだ井戸のまわりでわいわい話してる。イェルさんはすでに井戸の横で、バケツをどんどん三つの場所に分け始めてて、エナさんは「それダメ! それこっち!」って仕切ってる。はい、もう動きが始まってる。今日の話、ちゃんと動き始めてる。うわ。うわぁ。すごい。すごいねこれ。ほんとにすごい。

 でも、そのすごさの向こう側で、私はまだ気づいてなかった。

 井戸の外れ。村の道の少し先。そこに、土ぼこりをつけた鎧の人影が、二人、三人、そっとこちらを見ていたことに。

 胸に王国の紋章をつけた兵士たちが、“村の子”の様子を、じっと観察していたことに。

 私はまだ、その視線に気づいていなかった。
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