美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた魔王様と一緒に田舎でのんびりスローライフ

さら

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 井戸のまわりがいったんわぁっとにぎやかになって、「じゃあこれ“なおす”な!」「それ“すてる”だって言ってんだろバカ!」「バカって言うな!」「バカはバカって言われてもバカってわかんないからバカなんだよ!」「お前いま何回バカって言った!?」みたいな、平和なケンカと笑い声が入り混じっていく。その声が、安心の音に聞こえるのが不思議だ。なんで平和なケンカってこんなに安心するんだろう。きっとこれは「誰も本気で誰も傷つけない」って、みんなわかってるからだ。言葉の強さがあっても、ぜんぜん怖くない。むしろあったかい。これが、暮らしの音なんだって、胸の奥ですとんって落ちる。ああ、なんか、いいなあ。ほんとにいいなあ。

 私は泣いたあとで鼻をすすりながら、油コーティングした“みずがたいへんです”の紙の端をちょいちょい整える。風で角がぺろんってめくれそうになってるから、ひもで軽く押さえたほうがいいかな、って考えてると、後ろから「動くな」と小声が落ちた。え? と思って振り返る前に、ルゼルの手が、私の肩にぽんって置かれる。さっきより、ほんの少しだけ強い力がかかる。押しとどめる、っていうより、“ここにいろ”って静かに止める感じ。

「……ルゼルさん?」

「うん。ちょっとだけ、ここで待ってて」

 その声は、さっきまでの“うん”と少し違った。穏やかさは同じなんだけど、目の奥がすっと冷える音が混ざる。あ、これ、昼にも一瞬だけ感じたやつだ。村の人たちと話してるときのルゼルは、基本的にあったかいのに、危ない匂いがすると一瞬で“戦う準備ができてる男の人の顔”になる。目の色が、ほんのちょっと暗くなる。光を集める色から、光をはねかえす色になる、みたいな。あの顔、正直いうと、ちょっと怖い。でも“怖いからいや”じゃなくて、“あ、守ってくれてるんだ”っていう種類の怖さ。知らない安全靴の硬さに気づくときの、あの感覚に似てる。安心に混ざった怖さ。私はその感覚が、まだちょっと慣れない。

 ルゼルは、私の肩から手を離すと、そのままゆっくり井戸の縁から一歩前へ出た。まるで何も変わらないみたいな歩き方で、それでいて立つ位置だけは、いつでも自分の身体で私とミラちゃんを隠せるところを選んで止まる。体の向きはゆるいのに、足の間隔は安定してて、手はいつでも動ける位置にある。なんだそれ。え、あなたほんとに“田舎でのんびり”してる人? それとも“田舎でのんびりしようとしてるけど過去にいろいろあったからつい身体が出ちゃう人”? どっち? どっちでもいいけど、心臓が忙しいので前もって言っといてほしい。

 空気が、すこし変わった。

 さっきまでの、井戸まわりのほわっとしたあたたかい空気じゃない。別の温度がすっと入りこんでくる。乾いた鉄と革の匂い。砂ぼこりの匂いに混ざって、金具がすれる音がする。耳の奥にカチカチって小さな金属音がぶつかる。あ、うん、これはわかる。これは会社にはなかった。でも、ゲームとか映画では見た。これは、兵士とか、騎士とか、そういう人たちの匂いと音だ。

「……あれ、兵士だ」

「なんで兵士がここに?」

「伝令か?」

「いや、鎧着てるし槍もってるぞ」

「村になんかあったか?」

 村の人たちの声が、ささっと低くなっていく。笑い声は引っこんで、でも“怖がってパニック”にはなっていない。ただ、注意の音に変わった。すごい。すごいなこの村。状況の切り替えがうまい。みんな、自然に半歩ずつ下がって、子どもを自分のところに寄せたり、逆に子どもを私のほうに押したりしてくる。押された子どもたちが、わらわらって私の近くに集まる。え、なにこれ、私なにこの役? 一瞬で“こどもたちの避難所”にされてるんだけど? いや、でも、これ、多分正しいんだ。大人たちは前に出る。子どもたちは後ろに集める。そういう形を、もう慣れたみたいにとってる。こういうことが、今までにもあったってことなんだろうか。ゾワって背中が粟立つ。

 兵士が三人、井戸のほうへ歩いてくる。歩幅が大きい。鎧は泥とほこりで汚れてて、ところどころに小さな傷がある。胸元には金属の板。そこに刻まれてる模様は、私にはあまりピンとこないけど……丸い盾と、三本の槍、交差する形。あれ、なんか見覚えある。そうだ、昨日の夜、城の兵士がつけてたやつ。あの、私を“役立たず”って言った人たちが胸に付けてたマーク。あれだ。うん、あれだ。間違いない。つまり、これは王城の兵士。あの城の兵士。私を“無能”って言ってくれた人たちと同じ制服。胃が、きゅうってなった。喉の奥が一瞬だけ乾いた。でも、足は動かなかった。というか、動けなかった。ミラちゃんが私の服のすそをぎゅうってつかんでるから。動こうとしたら、ミラちゃんの指が滑って転びそうになる。あ、だめ。動けない。いや、動かない。いい。ここにいる。

「よぉ」

 いちばん前を歩いてきた兵士が、笑ってる口でそう言った。笑ってる口なんだけど、目は笑ってない。あー、これ、わかる。いたわこういう人。会社にもいた。口元だけやたらフレンドリーに動いて、「いやいやぁ~」って言うんだけど、目が“確認しにきました”ってやつ。私それ苦手だった。でも、苦手って言ってる場合じゃない。

「水をもらいに来たわけじゃないんで安心してくれ。おれらだって、腹こわすのはごめんだ」

 その冗談に、村の人たちは誰も笑わなかった。空気はぴりっと張ったまま。兵士は一瞬だけ「ちっ」と舌打ちみたいに短く息を吐いて、それからわざとらしく肩をすくめた。

「まぁ、ちょっと話をな。そんなに怖い顔すんなよ。誰もいきなり火をつけに来たりはしねぇから」

 そんなこと言う時点で、逆に怖いんだけど??? ねぇ??? いきなり火の話しないで??? 心臓に悪いから???

 兵士は視線をゆっくりと村の人たちの列に走らせて、そのまま、ぴたりと私のところで止まった。あっ。やめろ。やめろやめろやめろそっち見ないでほしい。いや見られるよねそりゃ。目立ってるもんね私今めっちゃ真ん中で泣いて炭で汚れて“井戸の人”とか呼ばれて拍手までされてたんだもんね! 今日いちばん目立ってる人間なんだもんね! そりゃ見るよね! うわー! うわー! 胃がー! 胃がー!

「おまえだな」

 兵士の声は、乾いてた。砂を噛んだみたいな、ちょっとざらざらした声。低すぎず、高すぎず、でも響く声。訓練された声なんだろうなって思う。仕事用の声って感じ。

「召喚された“もうひとり”」

 “もうひとり”という言葉が、ぴしゃりと私の胸に当たった。ああ、そうだ。そういう呼び方をされてた。“美しい聖女様”が主役で、私は“おまけ”。“もうひとり”。“いっしょに来ただけのやつ”。“名前覚える価値ないほう”。あの王城の石の床の冷たさが、一瞬で脳にフラッシュバックした。あ、まずい。足の裏が冷える。視界が少し狭まる。呼吸が浅くなる。これ、ダメなやつ。フラッシュバック。メンタルやられるやつ。落ちるやつ。

 でも、その瞬間、横から別の声がすっと入った。

「彼女は由香だ」

 ルゼルだった。声は低くて静か。だけど、今まで聞いたどんな“うん”よりも強い声だった。空気を切り取るみたいに、すっと。

「“由香”。名前はある」

 その言い方があまりにもまっすぐで、私は一瞬なにが起きたのかわからなかった。けど、兵士の肩がほんの少しだけぴくっと動いたのを見て、あ、いまルゼル、刺したんだ、ってわかった。言葉で。静かに。正面から。すごい。“彼女は由香だ”。この一文で、私の体の中にまとわりついてきた“もうひとり”っていう冷たいタグが、べりってはがされた感覚がした。べりって、皮膚からはがれて、地面に落ちる感じ。震えた膝に、ちょっとだけ力が戻る。

 兵士は、その一瞬のぴくってしたのをごまかすみたいに鼻で笑った。

「へぇ。口が立つな、あんた」

「そうでもない」

「そうか? ずいぶんと。まぁいい」

 兵士は私を見た。今度は、さっきよりほんの少しだけ真面目な目つきになってる。なんだろう、上から下まで値踏みする目じゃなくて、ちゃんと“確認”する目。うん、それでも全然好きじゃないけど。じろじろ見ないでほしいけど。

「おま──」

 兵士は、そこまで言って、わざとらしく「おっと」と口をつぐんだ。ふん。わざとらしいな。こいつ、わざとだな。いやわざとでもいいよ。ちゃんと“わざと直した”ってこと自体は、私の中ではめちゃくちゃ大きいから。だってこの人いま、“もうひとり”って呼ぼうとして、“あ、まずい”って自己修正したんだよね。自己修正できるってことは、今この場ではその言い方が許されないって理解したってこと。つまりいま、私の名前は“由香”だって、場のルールとして共有された。これ、すごいことなんだけど? ねぇ? この村、すごいな? ルール形成速度が光速なの?

「……由香、だったな」

 兵士が、ちゃんと私の名前を呼んだ。ぎこちないけど、それでも呼んだ。その音が、私の耳に入って、私の胸に落ちて、じゅうって溶ける。ああ、やばい。これ、涙でそう。いや、これはちょっと泣きそう。なにこの世界。今日泣かせすぎだよほんと。涙腺の耐久度もうゼロだからね? チェックしてる? 保証期間切れてるよ??

「おまえ……いや、“由香”は、城から逃げた、で合ってるか?」

 場の空気が、すこし動いた。ざわ、じゃない。ぴり、だ。いままで“注意”だった空気が、一段階「守り」のほうに傾いた音がした。村の人たちの肩がちょっと上がる。位置を詰める人もいる。エナさんは、いつのまにかミラちゃんと他の子どもを後ろにさげて、私の背中側に回ってる。エナさん、すごい。パン屋さんってそういう訓練も受けるんですか?? パン屋すごいな?? 職業パン屋=サブ職護衛???

 私は、喉の奥がきゅうってなったけど、うん、そうだよね、ここで黙るとダメだよね、って思った。だって、いまは私が黙ると“図星だから何も言えねぇんだな”って感じで兵士の空気が強くなる。逆に、ここで私が話せば、“この村での私の言葉は、私のものとして扱われる”っていう流れを守れる。怖いけど、話さなきゃ。怖いけど。怖いけど。怖い。こわい。……大丈夫。私は“井戸の人”って呼ばれたんだ。井戸の人は、今ここでしゃべれる。しゃべっていい。しゃべっていいはず。

「……逃げました」

 声は震えてた。でも、意外とちゃんと出た。自分で驚くくらい、ちゃんと出た。私は、一呼吸おいて、もう一歩だけ前に出る。ルゼルの横、半歩ぶん。肩が触れないくらい、でもほとんど並んでるくらいの位置。

「逃げました。はい。あの場所、いやだったので」

 兵士の眉がぴくっと動いた。村の人たちの目が、ちょっと見開かれた。空気が「え?」って揺れる。あ、そうか。“王城から逃げた”っていう言葉って、この世界だとたぶんけっこう大ごとなんだ。あの“偉い人の場所”から逃げるなんて、普通の人は考えないのかもしれない。たぶんそれは“逆らう”と同じ意味だ。つまり、やばいやつの烙印。でも、私は。私はあそこが本当に嫌だった。もう二度と戻りたくない。だから、それは、事実だし、私はそれを今ここで曲げたくなかった。

「理由を言え」

 兵士の声が少し低くなる。低くなるけど、怒鳴り声にはならない。ちゃんと抑えてる。あ、意外。もっと「なんだとぉ!?」って怒鳴られるの想像してた。ちょっと待って、これ、思ってたより話せる空気……? いける……? いけるなら、言う。全部は言えないかもしれないけど、言える範囲で、言う。

「よ、呼ばれたとき、“おまえは役立たずだな”って言われたので」

 村の人たちのざわめきが、はっきり変わった。うすい怒りが混ざった音になる。おー……? なんだこの空気。なんだこれ。あ、これ、もしかして、私の味方の空気じゃない? ねぇ、これ私の味方の空気じゃない? ほんとに? 本当に??? やだもう泣く。泣かないけど泣く。気持ちは泣く。

「“無能だな”って言われて、“あっちの女の子だけいれば十分だから、おまえはどうでもいい。適当にどっかに置いとけ”って言われました。あと、“喋るな”“口を開くと空気が悪くなるから黙ってろ”って言われました」

 言いながら、自分の胸の奥がちょっと震える。あの時の声を思い出すだけで、内臓がぎゅうってつかまれる感じがする。でも、いまは、その記憶が私を丸ごと支配してはいない。なぜなら、私の横にはルゼルがいて、後ろにはミラちゃんがいて、すこし斜め後ろにはアイラさんがいて、そしていま目の前には、私の話をちゃんと聞いてる村の人たちがいる。私の声を“聞いてもいい声”として扱ってくれる人が、こんなにいる。ああ、これ、救いってこういうことなんだって、喉の奥が熱くなった。

「それ、どの口が言いやがった」

 イェルさんが、ぽつっと言った。声は低いけど、火がついた石みたいな重さがある。「どの口が言いやがった」っていう言葉がこんなに頼もしく聞こえる日が来るなんて、思わなかった。ありがとうイェルさん。すごいよイェルさん。あなた、いま私のヒーローランキング爆上がりだよ。

「それで、“いる意味ないだろ”って。で、“いる意味ないなら、いらないな”って言われたので」

 私は、自分でも驚くくらい冷静に、淡々と続けた。声が震えてるのはわかったけど、言葉は止まらない。止まりたくない。止まりたくない。

「“いたら目ざわりだから、ここから出ろ”って言われたので。出ました。以上です」

 静かになった。兵士が、ほんの一瞬だけ口を閉じた。村の人たちも、息を止めたみたいに沈黙した。その沈黙が、冷たくない。これは、私にとって初めての種類の沈黙だ。冷たい沈黙は“あーはいはい、おまえが悪いんだろ”っていうやつだ。でも、今の沈黙は違う。“今聞いたことをちゃんと飲みこんでる最中の沈黙”だ。私の言葉が、ちゃんと重さを持って受け止められてる。ああ、こんな沈黙ってあるんだ。あるんだ……。胸がじんわって熱くなる。目の奥が、また熱くなる。ほんと今日泣きすぎだよ私。

「……はぁー」

 兵士は、わざとらしく大きく息を吐いた。肩をわざと落として、めんどくさそうに首を回した。ちょっとイラついてるみたいに、つま先で土を軽く蹴った。そのしぐさは、私というより、王城の誰かに対してイラついてるっぽい。え? そこ意外なんだけど? なんであなたそこにイラつくの? ちょっと想定外すぎる。

「まぁ、そう言うだろうなとは思った」

「は?」

 いやあの、“は?”って口から出ました。ごめん。でも出ました。びっくりしたんだもん。

「いや、お前らの城の偉いのな、ほんっと使えねぇからさ」

「ちょっとあなた、それ村の前で言っていいセリフなの?」

 エナさんが普通にツッコんだ。兵士は肩をすくめる。「別に聞かれて困るもんでもねぇし」みたいな顔をする。なんだこの会話。なんで兵士と村のパン屋さんが日常のノリで政治disしてんの。空気がすごい。なんだろう。緊張と笑いが同時に存在してる。今まで経験したことない温度の空気。

「で?」

 ルゼルが、静かに言った。声の調子は低いけど、決して荒くはない。むしろ、ものすごく静かで、でも“用件を言え”ってことだけをまっすぐ示してる。兵士はそれに気づいたのか、軽い態度をほんの少しだけ引っこめて、顔を引き締めた。

「用件な」

「うん」

「“もうひとり”……じゃなかった、“由香”のことで、お達しが来てる」

 “お達し”って単語で、アイラさんの眉がすっと動いた。エナさんは「ほらきた」って小声で言った。イェルさんは「ちっ」と舌打ちした。村の人たちがざわっとする。子どもたちは、その空気にびくって肩をすくめて、私の服をぎゅってつかむ。ミラちゃんの手が、私のすそにしがみつく力を少し強くする。あ。ああ。いま、私の背中に、ちっちゃい心臓の鼓動がいっぱい当たってる。これ、私、守られてるんじゃなくて、守る側に数えられてない? いや、私に守る力ある? ないよ? ないんだけど? けどそれでも子どもたちは、私のところに集まってる。だって、“井戸の人”だから。やばい。責任の重さで膝が笑いそう。

「“魔王に関わった可能性があるため、連れ戻せ”とのことだ」

 その言葉が落ちた瞬間、空気がぴき、って音を立てた。いやほんとに聞こえた気がした。空気が固まる音。村のまわりの視線が、一瞬で、ルゼルに向かう。

 そうだよね。そうなるよね。だって、私を“拾った”のはルゼルだし、みんなもわりと「また拾ってきたの?」って言ってたし、朝から「魔王さま」って呼んでる人いたし。ていうかそもそも、はい、そうなんです。目の前にいるこの優しくてズルい男の人が魔王なんですよこの世界。はい。ここは大事なポイントですテストに出ます。……って、いや、今そういうテンションの話じゃない。ないんだけど。頭のどこかが変な方向に逃げようとするくらい、今の空気は一気に重くなった。

「魔王、って言ったな」

 ルゼルの声は、相変わらず低くて静かだった。ただ、その静けさの中に、さっきまでの“やわらかい”とか“あったかい”とかいう成分はほぼ残っていない。冷たい。澄んでる。刃物みたいに研がれた静けさ。でも、それは怒鳴るよりずっと怖い種類の音だと思った。兵士も、それに気づいたみたいで、一瞬だけ視線をそらした。

「ああ。おれはお達しの言葉をそのまま言ってるだけだ。だから怒鳴るなよ。おれに怒鳴っても意味ねぇから」

「怒鳴ってない」

「それが逆にこえぇんだよ」

 兵士の首すじに、じっとり汗が浮いてるのがここからでも見えた。うんわかる。私もいまちょっと汗かいてる。ルゼルの“静かに怒ってる声”、私も正直めちゃくちゃ怖い。でも、不思議と、怖いんだけど、こっちに向いてないってわかるから、逃げたいほどじゃない。むしろ、“あ、いま私、守られてる側だ”ってわかる。守られるって、こんなに体温が上がるんだ。知らなかった。あたたかい。安心って、背中からくるんだな。背中があったかいって、こういう意味なんだな。

「で、“連れ戻せ”っていうのは、つまり、“王城まで連れてこい”ってこと?」

 私が口をはさんだ。兵士の視線がまたこっちに向く。あ、こわ。こわいけど、でももう、私はしゃべるって決めたから。逃げない。ここで縮こまったら、多分この村の人たちが余計にやきもきする。だったら、私が自分で聞いたほうがいい。そうすれば、“勝手に連れてかれた”じゃなくて、“話した”って記録が残るから。

「ああ」

 兵士は私をじっと見て、小さくうなずいた。

「“聖女様の安全のために危険分子を排除する”ってさ。おれらに言わせりゃ、“自分らが扱いきれなかったやつを他所のせいにしてぇだけだろ”って感じだけどな。ま、上の言葉ってのはそういうもんだ。おれの口からはそういうもんだとしか言えねぇ」

 え? え? いまこの人、普通に城の上層部の悪口言った? ここで? 村の真ん中で? すご。ある意味、正直者なんだけど。ある意味すごいんだけど。なんかちょっと好きになりそうになったけどまだ好きにはならないからな。信用はしないけどな。

「それで?」

 ルゼルが短く促す。兵士は肩をすくめた。

「だから、連れて帰る。以上だ」

 空気が、カチッ、と変わった。さっきまで“確認しに来た”くらいの温度だったのが、その一言で一気に“持っていくぞ”になった。村の人たちの視線が鋭くなる。ざわっていう音じゃない。水面の下で一斉に魚が方向転換したときみたいな、目に見えないうねり。あ、これ。危ない。私、ここで黙ってると、村と兵士がぶつかる流れになる。ぶつかったら、絶対によくない。だって、兵士は槍を持ってる。村の人たちは畑の鍬はあるけど、傷つけたくないはず。なにより、子どもがここにいる。こんな場所でケガ人なんて、いやだ。

 だから、私は、喉がきゅってなってても、足が震えてても、言った。

「いやです」

 兵士の眉が、ほんの少し跳ねた。村の人たちが一斉に息を吸う音がした。ルゼルが、横でほんのすこしだけ、肩の力を抜いたのがわかった。あ、いまの“いやです”正解だった? 正解だったならよかったです……! 胃がひっくり返りそうだけどよかったです……!

「いやです。行きたくないです」

「おい、そういう話じゃ──」

「行きたくないです。いやです。ほんとうにいやなんです」

 言葉を重ねるたびに、喉の奥が熱くなっていく。涙がまた目の奥にたまる。なんでこの世界はこんなに毎回泣きそうになる展開を用意してくるの。なに? 異世界ってそういうジャンル? 涙腺トレーニングRPG? 聞いてないよ説明書にそんなの載ってなかったよ。

「だって、あそこ、私のこと、“いらない”って言ったから。いらないって言ったのに、なんで今さら“戻せ”なんですか? 意味わかんないです。勝手じゃないですか。勝手すぎます。こっちは、“ただいま”って言える場所もらったんです」

 兵士の目が、少しだけ丸くなった。あ、いまの“ただいま”効いた? 効いた? いい。もっと言う。

「“ただいま”って言って、“おかえり”って言ってもらえたんです。ここで、“いまの仕事は?”ってきかれて、“いどの ひと です”って言って、““なおすひと”と“みるひと”を決めました。看板もつくりました。みんなで、“おみず だいじにしようね”って約束しました」

 言いながら、自分の胸の真ん中が燃えるみたいにあつくなる。その熱を逃がしたくなくて、私は胸の上に両手を当てた。体の中からあふれる熱を、手のひらで押さえて、こぼれないように。

「私、いま、ここの仕事してるんです。いま、ここで、いていいんです」

 声が震える。涙がこぼれる。いい。セーフ。セーフ制度、ありがとう。この村の議会が決めた“うれし泣きはセーフ”、マジで命綱。いまそれなかったら多分私ぜんぶ飲みこんで心壊してた。ありがとう村。ありがとう民主主義。ありがとうセーフ。

「だから、“連れて帰る”って言われても、いやです。行きたくないです。いきません」

 兵士は、しばらく口を閉じたまま私を見ていた。私は泣きながら、でも視線だけはそらさないようにがんばった。こわい。こわい。でも、ここで目をそらしたら、きっと“従わせられる側”に戻っちゃうから。それだけは、いやだ。ぜったいにいやだ。私、もう“無能”とか“いらないから静かにしてろ”とか言われて、うつむいて、冷たい床の上で震えてるだけの存在には戻りたくない。嫌だ。いやだ。いやって言える今の自分を、壊されたくない。

「……はぁ~~~……」

 兵士は、ものすごくでかい、ものすごくめんどうそうなため息をついた。こめかみを指で押して、空を仰いで、ぼそっと言う。

「だから嫌なんだよ、こういう仕事」

「なら帰れ」

 ルゼルの声が、ナチュラルに刃だった。兵士は「帰れ、ねぇ……」と苦笑いした。なんだろう、この二人のやり取り。ちょっとだけ“昔から顔見知り”みたいな空気を感じる。なにそれ。気になる。それめちゃくちゃ気になる。けど今は聞いてる場合じゃない。

「いいか」

 兵士は、急に声のトーンを低くした。それは、さっきまでのちょいおどけた感じとか、めんどうそうな感じが全部消えた“仕事モード”の声だった。村の空気がまたぴっと張る。子どもたちが私の腰のあたりにぎゅって集まる。ミラちゃんの額が私の背中に当たって、あったかい。

「おれは今、三人で来てる」

「見りゃわかる」

 エナさんがぼそっと言った。

「三人“だけ”で来てる」

 その言い方に、場の空気がほんのすこしだけざわっと揺れた。兵士は、ゆっくりと周りを見渡し、また私に視線を戻す。

「普通ならな、こういう“連れ戻せ”の話は、十人とか二十人とか、どかっと連れてくる。で、村の真ん中で大声出して、“これは王命である”みたいなことを言って、“逆らったら燃やすぞ”ってやるのが、いつものやり方だ」

 背中がぞくっとした。村の人たちの何人かが、歯を食いしばる小さな音を立てた。アイラさんは静かに腕を組んだまま、目だけがすごく冷たくなっている。ルゼルは、なにも言わない。ただ、殺すみたいな目をしてる。いや、ほんとに殺すつもりの目だこれ。こわ。でもちょっと安心する。なんでだろう。魔王ってこういうことなの? 魔王の安心感ってなに? 新しい概念すぎて処理が追いつかない。

「でもおれは、それ、したくねぇんだよ」

 兵士は、口の端をひきつらせるように笑った。ああ、この顔は、ちょっとだけわかる。彼は、自分の言葉に誇りを持ってるわけじゃない。疲れてる。現実にぐったりしてる。そして、たぶんこの人は、この村を本気で焼きに来たわけじゃない。少なくとも、今日の今日でそんなことするつもりは、なさそうに見える。……いや、見えるだけかもしれないけど。でも私は、そこに賭けるしかない。だって、いま私が信じるものって、目の前の空気の温度くらいだもん。

「“連れ戻せ”って言われたから、形だけ聞きに来た。だからいま聞いた。“来るか?”って。で、“行かない”って言ったよな?」

「はい。行きません。いやです」

「うん。聞いた。じゃあ、おれは“嫌だと言っていた”って報告する」

 え?

 私の頭が、一瞬真っ白になった。なんて? いまなんて? “嫌だと言っていたって報告する”? それってつまり、“連れてこれませんでしたすみません”って言うってこと? いやいやいやそんな簡単に──

「ただし」

 あ、はい出た。ただし。世の中“ただし”から後ろが本番なんだよな。知ってる。会社で学んだ。はい、ただし来た。心臓準備しろ。

「おれがそう報告して終わるかどうかは、もうおれの手ぇ離れる。上の判断だ。たぶん、“だったら増援連れて取りに行け”になる。そういうもんだ」

 ……そりゃそうだよね。だよね。だよね。私も、そこまで甘くはないってわかってる。王城が「あっそうなんだ~そっか~君が嫌って言うならしょうがないよね~」なんて言うわけない。あの人たちがそんな優しいわけない。むしろ、「なんでおまえはただ一人の役立たずすら連れてこれないんだ」ってこの兵士が怒られるだろうし、それで「じゃあ十人で行け」になるんだろう。うん。わかる。想像つく。胃がぎゅってなる。

「だから、こうする」

 兵士は、ひと呼吸おいて、こっちをじっと見た。真面目に、まっすぐに、こっちだけを見る。村の人たちじゃなくて、ルゼルでもなくて、私だけを見る。そのことが、怖いのに、同時に少しだけ安心する。彼はいま、私と話してる。私を飛ばして誰かと話して、“勝手に決めたぞ”ってしない。ちゃんと私を見てる。それ、すごく大きい。たぶん、この世界ではものすごく大きい。

「“三日以内にもう一度来る”。それが限界だ」

 空気が、ぎゅっと縛られた。村のあちこちから、小さく息を飲む音がした。三日。今日が一日目。じゃあ、あと三回、太陽が沈むまでの間に何か決めろってことだ。え、三日って、三日って。短くない? 異世界の交渉期限ってそんな短いの? ブラック企業の納期なの? ねえ??

「三日だ」

 兵士はくり返した。声が、さっきよりもはっきりしている。

「三日後、おれがまた来る。そのとき、“帰る気になった”って言うなら、おとなしく連れて帰る。馬車も持ってくる。怪我はさせない。ちゃんと連れていく。飯も持つ」

 いや優しい言い方しないで? それやだな? 優しく言ってほしくないとこで優しくしないで? 揺れるから?

「で、“帰らねぇ”ってお前が言うなら──」

 兵士は、そこでいちど言葉を切って、空気をなめすように見渡してから、ぐっと声を落とした。

「“この村は、魔王の庇護下にある。手を出すな”って、書類で出せ」

 ……え?

 場が凍った。今度はほんとうに、音が止まった。風の音すら、耳に入ってこない。みんな呼吸を止めてる。私も止めた。なんで? なんでここで“魔王”って単語が、こんな形で出てくるの? なんでいま“書類”って言葉が出たの? 書類ってなに? 何の書類? この世界にも書類文化あるの? あるか。あるよね。だってさっきの兵士、「お達し」とか言ってたもん。命令文。つまり紙。紙大事。紙、世界を動かす。あ、そうか。紙、世界を動かすんだ。やば。私の得意分野。紙。紙きた。紙は私の武器。私、紙なら書ける。

「書類?」

 口が勝手に動いてた。私の声は、さっきまでの涙声じゃなくなってて、代わりにちょっとだけ“仕事モード”の声になってる。自分で気づいてびっくりした。スイッチ入るんだ、私、まだ。すご。人生の反射ってこわい。

「そうだ。書いてサインしろ」

 兵士は、ぽん、と腰の袋を軽く叩いた。

「“この村は魔王の保護下にある。この村にいる者は魔王の庇護下にある。手を出すなら、宣戦とみなす”。それだけ。そう書いてサインして、おれに渡せ。そしたらおれはそれを持ち帰る。“魔王の庇護下にある村に、王国の兵が手を出した”って記録が残る」

 “宣戦”という言葉。意味はわかる。ゲームでも聞いたことある。戦争宣言ってことだ。つまりそれは、“うかつに手を出したら大ごとになるから、やめとこうね?”っていう、ストッパー。兵士は、今それを私たちに提案してる。なんで? 兵士なのに? 逆じゃないの? 普通逆じゃない? 普通なら「そんなもんは認めねぇ! おとなしく来い!」ってやる場面じゃないの? この人、なんなの? なんなのこの人。

「それで、おれは“連れてこれませんでした。手は出せません。魔王の護りに入ったんで”って報告する。そしたら、多分──いや、たぶんじゃねぇな。ほぼ確実に、上は“なら次はいい。いま忙しいから後回しだ”ってなる。あいつら、面倒ごと大嫌いだからな」

 兵士の口元が歪んだ。心底うんざりって顔。うんざりしながらも、それを逆手にとってこっちに道を渡そうとしてる。なんだろう。なんなんだろう。私の胸の中に、知らない形の感情がじわじわ広がっていく。これは、信じていいの? どこまで信じていいの? この人は、私の味方? さすがにそれは言いすぎだ。彼は兵士だし、王城からの命令を持ってきてる。味方なわけない。たぶんない。だけど、たぶん彼は“めんどくさいことはしたくない”。そのめんどくさいことのラインを、私たちに教えてくれてる。そこに乗れば、お互いラクになる。そういう提案だ。……交渉だ。うわ。交渉きた。ほんとにきた。異世界で交渉してる。やばい。胃が痛い。いや、でも、なんか、できそうな気もしてる。怖いけど、できそうな気もしてる。

「待って」

 アイラさんの声が、静かに場に落ちた。さっきまで腕を組んでいた彼女が、すっと一歩前に出る。兵士のほうに向き直る。目が、笑っていない。けど、笑っていないからって冷たいってわけじゃない。これは、“わが子の安全の話をしてる母親の目”だ。こわい。私、この目は知ってる。駅前とかで、明らかに酔っ払いがちょっかい出したときに“やめてくれます?”って言うお母さんの目だ。この目は強い。世界共通で強い。

「その“書類”って、誰が書いてもいいの?」

「いや……」

 兵士が一瞬だけ口ごもった。目がルゼルのほうへ流れる。あ、そうか。“魔王の庇護下にある”っていう宣言だから、魔王本人のサインがいる。つまり──ルゼル。

 場の空気が、もう一段階変わった。村の人たちが、一斉にルゼルのほうを見た。尊敬と、頼もしさと、ちょっとの不安と、そして強い信頼がいっしょくたになった視線。まるで“ねぇ、いい?”って聞くみたいな視線。私も、その視線の中にいる。私も、ルゼルの顔を見る。ルゼルは、一瞬だけ目を閉じた。深く息を吸って、吐いた。

「それ、渡したらどうなる?」

「“この村は魔王側”って記録が残る。王国の文書に」

「……ふむ」

「それで、どうせこのへんにゃあ、もう他の国の目なんてほとんど入ってきてねぇからよ。“魔王の縄張り”って一回書かれたところは、基本触らねぇ。めんどくせぇからな。戦も金かかるし。こっちも、人は足りねぇし。……だから、だいたいはそれで終わりだ」

「“だいたい”?」

「たまぁに、頭が悪い貴族が出る」

 兵士は、吐き捨てるように言った。

「“俺の領地に勝手に魔王の縄張りなんか書くな”とか、“魔王ごときがなにを調子づいてる”とか言って、兵を動かすやつがな。そうなると、まぁ、血は流れる」

 ぞわっと背中が総毛立った。血。血が流れる。戦い。そういう言葉が、すごく生々しく聞こえる。昼間みたいに、バケツを分けようっていう話じゃない。怪我じゃすまない。死ぬ、のほうの匂いがする。怖い。怖い。胸がきゅうってなる。胃がぎゅっとなる。手が冷たくなる。泣きそうになる。いや、これは“うれしい”じゃないからセーフじゃない気がする。セーフ制度適用外の涙。どうしよう。こぼしちゃいそう。

「でもよ」

 兵士は、そこでほんの少しだけ、口の端をあげた。笑ったというより、“現実を見せる笑い”。

「この村に、そんな頭の悪い貴族は、いねぇよ。そういうバカは、もっと目立つところにしかいねぇ。ここのことなんざ、誰も見ちゃいねぇ」

 言葉が、一瞬遅れて胸に落ちてくる。ああ。そういうことか。うちみたいな田舎の村なんて、“地図の端っこ”でしかなくて、戦う価値も奪う価値もないって、都のえらい人たちは思ってる。だからこそ、逆に守りやすい。逆に、線を引けば、その線の内側は“面倒くさいからほっとこう”の範囲にできる。なんか、ものすごく乱暴で、ものすごく雑で、ものすごく悲しい理屈なんだけど、同時に、それがこの村の安全につながるなら、それは、ありがたいとも思ってしまう。矛盾する気持ちが一気に押し寄せてきて、胸の内側がぐしゃぐしゃになる。

「つまり、こう言いてぇわけだ」

 兵士は、私じゃなくてルゼルを見て、肩をゆっくりすくめた。

「“俺は、ここが魔王の村ですって紙もらえりゃ、それ見せて帰れる。そしたら、たぶん次は十人も二十人も来ねぇ。村も燃えねぇ。ガキも泣かねぇ。そういうことでいいよな?”」

 村の人たちの視線が、一斉にルゼルに向かう。ルゼルは、少しの間、だまって立っていた。横顔が、夕日の光に照らされて、いつものやさしい顔つきから、もう少し歳上の男の人みたいな輪郭に見える。静かで、強くて、ちょっと疲れてる顔。なんだろう。いまのルゼルを見て、私は思った。“魔王”って、こういう顔なんだ、って。世界を焼き払うみたいな恐ろしいやつじゃなくて、守るために刃を持って立つ人なんだって、思った。勝手に、そう思ってしまった。

「……はぁ」

 ルゼルは、小さく息を吐いた。肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。

「そうだな」

 静かに言った。その声は、柔らかくはない。でも、怖くもない。ただ、決める声だった。

「それなら、いい」

 その一言で、村の空気が、ふっと揺れた。押し込めてた息が一気に吐き出される音が、あちこちから聞こえる。肩の力が抜けた音まで聞こえそうだ。みんなの緊張が、少しだけ溶けた。私の肩からも、同じようにぐっと重さが抜けた。膝の震えも少しだけ止まる。ああ……よかった……。いや、なんも解決してないのに“よかった”って思っちゃうの、よくないかもしれないけど。けど、今はこれでよかったんだと思いたい。思わせて。お願い。

「ただ」

 ルゼルが、そこで言葉をつづけた。兵士の目がわずかに細まる。

「条件がある」

「おい、条件って──」

「“三日”のあいだ、この村のまわりに兵士をいれないこと」

 兵士が、ぴたりと口を閉じた。ルゼルの横顔は、夕日でオレンジに縁取られているのに、目だけは氷みたいに冷たい。静かで、揺らがない。それは、脅しじゃなくて、確認の声。こわい。でも、私には、そのこわさが全部“こっち側に向いてる武器”に見えた。守ってくれる刃。私、この刃に守られてるんだ。って実感したら、あたたかさと怖さが同時に胸にきて、息がうまく入らなくなった。過呼吸になりそう。やばい。落ち着け。落ち着け私。

「三日のあいだ、村を囲んだり、道をふさいだりしないこと。水場にも近づかないこと。子どもに話しかけないこと。家に勝手に入らないこと。いいな」

「……」

「三日。三日守れ。守れないなら、いまここで血が流れる」

 場の温度が一瞬で下がったのがわかった。空気がきゅって締まって、音がぜんぶ消えた。兵士の仲間の二人が、わずかに足を踏みかえた。槍がきゅって鳴る。緊張の音。私の喉がひゅっと鳴る。怖い。正直、怖い。怖いんだけど、それでも逃げたくない。だっていま、逃げたら、ルゼルをひとりにすることになるから。いやだ。それはいやだ。

「……おいおいおいおい」

 兵士は、額を押さえた。ちょっとだけ情けない声を出した。肩を落として、空を見上げて、すごくわかりやすく「めんどくせぇ……」って顔をした。なんか、その顔見たら、ちょっとだけ緊張が抜けた。ごめん。ちょっと笑いそうになっちゃった。いや笑っちゃダメな場面なんだけど。でもさ。だってさ。この兵士、ぜんぶ「めんどくせぇ」って基準で動いてるよね??? 「戦い=めんどくさい」「村燃やす=めんどくさい」「報告書=めんどくさい」。なんかもう、清々しいまでにめんどくさい基準で生きてるの逆に信用できてきたわ。めんどくさがりは信頼できる説ある。

「……あー、わかったわかった。わかった! おれに言うな。わかったから。三日、だな? 三日、ここを囲まねぇ。手ぇ出さねぇ。勝手に家ん中入らねぇ。子どもにさわらねぇ。はいはい、わかった。約束する。これでいいか?」

「うん」

「“うん”!? あんたなぁ……!」

 兵士が頭をがしがし掻いた。なんだろう。なんだろうこの空気。さっきまで剣呑で、今も剣呑なんだけど、それでもどこかでギリギリ踏みとどまってる。村と兵士が、いま、綱引きしてる。引き合いの真ん中に、ルゼルと兵士の言葉が通ってって、どっちも死なないラインを探してる。すごい。これ、すごい。こんなの、なにそれ。私、呼吸が浅くなるのも忘れて見ちゃってる。世界、今ここで決まってくんだ……っていう感じが目の前で生で起きてる。これが“交渉”。これが“魔王と王国の境界線”。こんなに泥臭くて、こんなに人間くさいんだ。

「で、三日後、ここにもう一回来る。そのときまでに、“魔王の庇護下”って紙を用意しとけ。サインもしとけ。いいな」

「うん」

「おい、ちょっと待て」

 兵士が眉をひそめた。

「今“うん”って言ったけどよ。サインって、お前がするんだよな?」

「うん」

「おい。おい。マジでか? ほんとにマジでやるのか?」

「うん」

「おまっ……」

 兵士は、額を押さえたまま、ゆっくりと私のほうを見た。その目は、さっきまでの“値踏みする目”とは違ってた。なにかを確かめるみたいな、ちょっとだけ申し訳なさそうな、でも真面目な目。

「由香」

「はい」

「お前、本当に、ここでいいのか?」

 その質問は、さっきの「帰るか?」よりもずっと静かで、ずっとまっすぐで、ずっと重かった。なんというか、“逃げ道、今ならまだあるぞ”っていう感じの問いだった。おかしいよね。この人、王城の兵士なんだよ? 本来なら「さっさと来い」で終わりなはずだよ? なのにいま、ちゃんと“ここに残りたいなら残れ。ただし、その意味わかってるか?”って聞いてくれてる。なんだろう。なんだろうこれ。世界って、思ってたよりやさしい瞬間があるんだなって、喉の奥が熱くなった。

「今なら、まだ“おれが無理やり連れて行った”ってことにできる。そういう言い方もできる。“あいつは泣き喚きながら連れてこられました”“村の連中は止めようとしましたが、力で押さえつけました”って、そういうふうにも書ける」

 兵士の声は、冗談じゃなかった。ほんとうに真面目な声だった。彼は、私に逃げ道の形を提示してる。見せてくれてる。その逃げ道は、私にとっては“嫌なほう”だけど、村にとっては“安全なほう”かもしれない道だ。私がいなくなれば、この村は王国に目をつけられずに済む。そういう可能性を、彼はいま見せてくれてるんだ。うわ。うわ。ずるい。ずるいっていうか、これ、ほんとに重い質問だ。残るっていうのは、私だけの話じゃなくなる。村ごと、ルゼルごと、“こっち側”って宣言することになる。それでいいのか、って。

 胸が、ぎゅうって締めつけられた。息が苦しい。喉が痛い。目が熱い。頭の奥が、ぐらぐらする。ぐらぐらするのに、同時に、すごい静かな場所に立ってる感じもする。この問いに、私はどう答えるんだろう。私、どうしたいんだろう。

 ほんの一瞬、頭の中に、城の冷たい石の床がよぎった。あの床は、硬くて冷たくて、湿ってて、ひんやりしてて、どこにも温度がなかった。誰も見てくれなかった。声を出すなって言われた。存在ごと透明にされてた。そこに戻る未来。その先にあるのは、きっとずっと“いらない扱い”だ。存在しないように扱われて、いつか本当に“いなかったこと”にされる。私の名前も、“由香”じゃなくて、“もうひとり”に戻される。やだ。いやだ。絶対にいやだ。

 次に浮かんだのは、さっきの夕方の光景。井戸のまわりで、みんなが「いいぞ!」って言ってくれて、イェルさんが“なおすひと”って書かれて、エナさんが“みるひと”って書かれて、ミラちゃんが「セーフ!」って言って、みんなで笑って、拍手してくれた場面。あのときの音。あのあったかさ。あれは、たぶん私の人生でいちばん幸せな場面だった。あんなにあったかい場所、私、知らない。だって私は、今まで“ただいま”って言っても“誰?”って返される側だったから。今日、初めて“おかえり”って言ってもらえたんだもん。

 胸が熱くなって、口が動いた。もう、考えるより前に、言葉が外に出た。

「ここがいいです」

 兵士が目を細める。私は、両手をぎゅっと胸の前で握った。

「ここが、いいです。ここに、いたいです」

 喉が震える。声も震える。でも、ちゃんと出る。

「“ただいま”って言って、“おかえり”って言ってもらえたの、初めてなんです。だから、ここが、いいです」

 兵士はしばらく私の顔を見ていて、それから大きく「はぁぁぁぁぁ……」ってため息を吐いて、両手を頭のうしろにやって空を仰いだ。

「……だよなぁ~~~~~~……」

「うん」

 ルゼルが、横で小さくうなずいた。なんであなたもそこで“うん”を挟んでくるの。心臓がじわじわあったかくなるからやめて。泣くからやめて。いや泣いてもセーフだけどいまは視界がぼやけると困るからやめて。

「わかった。聞いた。聞いてねぇってことにはできねぇくらい、はっきり聞いた」

 兵士はそう言って、ゆっくりとうなずいた。その顔は、さっきよりもずっと真面目だった。からかいも、めんどくせぇも、ちょっと引っ込んでる。目が、まっすぐだった。

「いいか。三日だ。三日だけだぞ? 三日後、おれはこれをもってくる」

 そう言って、兵士は腰の袋から、くしゃっと折られた紙を取り出した。紙。羊皮紙みたいな、少し厚みとざらつきのある紙。端っこが折れてて、角がつぶれてる。何度もポケットに入れては出して、を繰り返した紙だってわかる。彼がこのやり取りを何度も頭の中でリハーサルしたんだろうって伝わってくる。うわ。そういうの、ちょっと刺さるんだよな……。

「ここに、“この村は魔王の庇護下にある”って書く欄がある。そこに、あんた──」

 兵士は、ルゼルを見た。

「“魔王”のサインを書け」

「うん」

「おまえ、マジで魔王ってサインすんのか……」

「めんどくさい?」

「めんどくせぇに決まってんだろ。紙ひとつで戦の火種増やすなよ、胃が死ぬだろうが、おれの胃っておれの命なんだぞ?」

「じゃあ、胃薬あげようか」

「あるのか?」

 兵士が素で食いついた。その瞬間、エナさんが「あるわよ!」って言って腰の袋からなにか取り出そうとして、村の何人かが「エナそれ昨日の残りのハーブ酒だろ!」「それ薬じゃなくて酒だろ!」って小声で突っ込んで、場の空気がちょっとだけふわっとゆるんだ。笑いが小さく散る。あ、すごい。いまの笑いで、張りつめてた空気がほんのちょっと溶けた。こういうときの笑いって、めちゃくちゃ大事なんだ。なんか、胸の奥で“あ、助かった”って声がした。

「三日だ」

 兵士は、もう一度だけくり返した。今度は、それを村全体に向けて言った。あちこちでうなずく音がする。誰も声を荒げない。誰も「ふざけるな!」って怒鳴らない。みんなただ、真剣な顔でうなずく。それは、降伏じゃない。受け入れでもない。“わかったから、その条件で動く”っていう合意の顔だ。強い。村って、こんなに強いんだ。

「それまでは、ここには入らねぇ。水場にも近づかねぇ。子どもにもさわらねぇ。家ん中にも入らねぇ。約束する」

 兵士は、ルゼルを見て、目だけで「これでいいか?」って問いかけた。ルゼルは、静かにうなずいた。その瞬間、村の空気がほんの少しやわらいだ。“契約成立”っていう感じ。ふしぎだ。こんなふうに、言葉だけで線が引かれて、そこに“守る”っていう重さが生まれるところを、生で見たことなんてなかった。紙にする前に、もう約束はここにできあがった。すごい。震える。

「由香」

「は、はいっ」

「三日間、おまえ、ぜってぇ外に出るな」

「っ」

 兵士の声は、さっきよりも強くて、荒くて、でもどこか優しかった。優しいっていうと変なんだけど、“注意”っていうより“お願い”に近い響き。

「水場も、遠くのほうには行くな。森ん中も行くな。夜はぜってぇ出るな。いいな? 三日、“ここ”から動くな。動くと面倒なことになる。めんどくせぇのはいやだ。わかったな?」

「……わかりました」

「よし。それならいい」

 兵士は、ふぅ、と息を吐いた。肩の力を抜いて、仲間の二人に「行くぞ」と顎で合図した。二人もわずかにうなずき、槍を持ち直し、三人そろってゆっくりと村の道を引き返していく。背中は、ぴんと伸びている。振り返らない。あぁ、行っちゃうんだ。いや、行ってくれてよかったんだけど。正直めちゃくちゃよかったんだけど。胃がまだバクバクしてるんですけど。膝がいまにも笑いそうなんですけど。

 兵士は、数歩歩いたところで、ふっと立ち止まった。そして、振り返らずに、声だけ投げた。

「三日後、また来るからな! 逃げんなよ! 逃げたら倍めんどくせぇからな!」

「逃げません!」

 私の声が、思ったより大きく飛んだ。兵士の肩が、遠くでちょっとだけ揺れた。たぶん笑ったんだと思う。笑いながら、兵士たちは村の外れに向かって歩いていった。夕日のオレンジに、金属のかけらがちょっと光った。やがて、角を曲がって、見えなくなった。

 ……しん……と、村の真ん中に静けさが落ちた。

 誰もが、しばらく言葉を失ってた。風の音が、やっと戻ってくる。どこかで鳥が鳴く。水のしずくが井戸の縁からぽちゃんって落ちる音が、やけに大きく聞こえる。

 私の心臓は、まだドクドクしてる。膝はちょっと震えてる。吐く息が少しずつゆっくりになってきたところで、私はようやく「あっ」と気づいた。手。手が、ずっとぎゅっと握られてる。視線を下げると、ミラちゃんが、両手で私の服のすそをつかんで、顔を押しつけてた。鼻をぶーってすりつけて、目をぎゅってつぶって、必死に黙ってた。ミラちゃん、ずっと、泣き声ひとつあげなかった。すごい。すごいよ。あんな怖い空気の中で、泣かなかった。叫ばなかった。えらすぎる。天才。えらこ。えらこすぎる。

「ミラちゃん……」

 声をかけようとしたら、肩の上にぽん、と手が置かれた。あ、もうわかる。この重さ。このあったかさ。この“ここにいるから大丈夫だよ”っていう手の置き方。ルゼルだ。

「こわかった」

 彼が、小さくつぶやいた。

「……え?」

「こわかった。よくがんばったね」

 ああ。だめだ。だめ。そんなこと言われたら、もう。もう。だめ。

「う゛っ……う゛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……っっ」

 もう完全に崩れた。涙が、ぼろぼろっていうより、だばだば出た。顔ぐしゃぐしゃになるのもどうでもよくなって、私はその場にへなって腰を落とした。足がもう支えてくれない。ミラちゃんが「おねえちゃん~~~!!」って叫んで飛びついてくる。アイラさんがすぐに膝をついて、私の頭を自分の胸にぐいって引き寄せる。あったかい。やわらかい。ああ、これ、安心っていうやつ。これ、ほんとに安心っていうやつ。肩を包まれて、背中をさすられて、髪をなでられて、「だいじょうぶよ、だいじょうぶよ」って、耳元でくり返してもらう。そんなの、泣くに決まってるじゃん。泣かないほうがむりじゃん。

「セーフ、セーフ、セーフだからね~」

 耳元で、ミラちゃんが必死に言う。「ゆかおねえちゃん、セーフだよ~、セーフだもんね~」って、何回も何回も。ああ、うん。そうだね。そう。セーフだよね。セーフ。これ、ぜったいセーフ。セーフ以外の判定、ない。村の総意でセーフ。村議会満場一致。全会一致。満票可決。

「……はぁ…………っ、はぁ…………っ、……っ、……ふ、ぁ……」

 呼吸がちょっと落ち着いてきたころ、私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま顔をあげた。視界がまだぼんやりしてて、夕日のオレンジがにじんで、村のみんなの顔がオレンジと金色の混ざったかたまりみたいに見える。みんな、こっちを見てる。心配そうな顔。なにか言いたそうな顔。でも、“大丈夫?”ってつめよってくるんじゃなくて、“終わったらでいいから話聞くからね”っていう距離感で見てくれてる。やさしい。やさしいなぁこの村。なんなのほんと。なんでそんなにやさしいの。私これ一生分のやさしさもらってない? 大丈夫? あとで払う? 払える? いや、払えるようになりたい。そうなりたい。

「……わ、たし……」

 声がまだガラガラしてる。涙で喉が塩辛い。でも、言わなきゃいけない言葉があった。胸の中から、どうしても外に出したい言葉。出さないと、胸の中で暴れて苦しくなっちゃうから。

「……すみません、まきこんで……っ」

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「なに言ってんの?」

「え……」

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「い、いまので、村が……危ないかも、ってなって……その……」

「それ、なに? どこ情報?」

「……」

「あなた、いま“井戸の人”でしょう?」

 アイラさんの声は、やさしいけど、甘くはなかった。なんというか、“大事なことを教えるときの親の声”だ。

「“村の水”のこと、話してくれたでしょう?」

「は、はい……っ」

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「……っ、はい……っ」

「“なおすひと”を決めて、“みるひと”を決めて、“おみず だいじにしようね”って、みんなで約束してくれたの、誰?」

「……わ、たし……です……」

「それを“まきこんでごめん”って言うの?」

 私は、口をぱくぱくさせるしかなかった。だって、言葉が出てこない。頭の中で、私のいつもの変な声が「あっあっあっあっやばいやばいやばい」ってあわててる。でも、うまく整理できない。

「ねぇ由香」

「は、はい……っ」

「あなた、もう“村の子”よ」

「っ」

「村の子が、村のことで泣いて、なにが悪いの?」

「……っ……っ……」

「“まきこんでごめん”なんて言葉、もういらないわよ」

 胸の奥で、なにかがぱきんって音を立てて割れた。さっきも一度割れた何かと似てる。でも、今のはもっと深い。もっと根っこにある、固くて冷たい塊。そこにヒビが入ったんじゃなくて、粉々に砕けた音がした。砕けて、そのかけらが、あったかい涙になって、目からぽろぽろこぼれていく。

「“村の子”が泣いたら、村がなでるの。当たり前でしょう?」

「……っ、ぁ……っ……っ……はい……っ、はい……っ……!」

「いい子ね」

「それは反則だって言ってるじゃないですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 私はもう一回わぁって泣いて、アイラさんにしがみついた。ミラちゃんも一緒にしがみついてきて、私とミラちゃんをまとめてアイラさんが包んでくれる。上からルゼルがそっと手を置いてくれる。イェルさんが「よしよし」って遠くから声をかけてくる。エナさんが「よし、じゃあ今日はパン余らせねぇよ!」って宣言して、みんながちょっと笑う。それが、もう、胸の奥にじんわりじんわり染みこんでいく。あったかい。苦しい。苦しいのに、しあわせすぎて心臓が忙しい。忙しすぎる。今日だけで心臓がフルマラソン三回分くらい働いてる。

「……ゆかおねえちゃん」

 ミラちゃんが、ぐずぐずの鼻声で言った。顔は涙でテカテカ、鼻は真っ赤。私もたぶん同じ顔だと思う。ふたりしてぐしゃぐしゃ。

「なぁに……っ」

「おなか、すいた~」

「わかる~~~」

 その瞬間、周りの大人たちから、どっと笑いが起きた。緊張のあとにふっと抜けるあの笑い。大げさじゃなくて、命を救う種類の笑い。私も、鼻をずるずるしながら笑った。笑えてる。泣きながらだけど、ちゃんと笑えてる。……生きてるなぁ、私。いま、ちゃんと“ここで生きてる”って感じがする。すごい。すごい。ほんとにすごい。

「はい解散!」

 エナさんが、パン屋さんの声でぱん! って手を叩いた。さすがパン屋さん、手を叩く音がいい音。

「“なおす”と“すてる”の山は、あんたらあとでちゃんとやっときなさいよー! 子ども触らせるなよー! あたしはパン焼き直しに戻るからねー! ミラ、あとでちゃんとごはん食べるのよー!」

「はーい!」

 村の人たちが、ちょっとずつ動きだす。まだ完全に緊張が溶けたわけじゃない。でも、みんな日常のほうに戻っていく。“夕飯どうする?”とか“明日の畑どうする?”とか、そういう声が少しずつ戻ってくる。ああ、日常って、こうやって戻すんだ。誰かが“解散”って言って、“ごはん”って言って、“明日”って言って、そうやって、日常ってもう一回立ち上がるんだ。すごい。ほんとにすごい。

「……由香」

「……っ、ひっ、はい……」

 涙と鼻水で鼻声のまま顔をあげると、ルゼルが真面目な顔で私を見てた。さっきの冷たい目じゃない。いつもの、あったかいほうの目。でも、そこに、さっきまではなかった“決めた人の目”がある。静かな決意が入ってる。

「三日間、外に出ないって、言える?」

「……っ」

 胸が、ぎゅってなった。三日。三日って、長い? 短い? 私にはまだこの世界の“時間の肌ざわり”がわからない。でも、“外に出ない”って言われて、私の頭に浮かんだのは、さっきの兵士の顔と、槍のきしむ音と、“焼く”って言葉だった。焼くのは、いやだ。子どもが泣くのも、いやだ。ミラちゃんが泣くのも、いやだ。ミラちゃんのおなかが「いたい~」ってなるのも、いやだ。村の人たちがケガするのも、いやだ。そう考えたら、答えは、ひとつだった。

「……出ません……」

 私は、小さく、でもはっきり言った。

「外、出ません。三日。ちゃんと、まもります」

「うん」

 ルゼルは、すぐにうなずいた。いつもの“うん”だった。あったかい“うん”。

「いい子」

「だからそれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!」

 私は顔を真っ赤にして叫んだ。ルゼルはちょっとだけ笑った。アイラさんも笑った。ミラちゃんも「いいこ~!」って真似してきた。私は「それはいい!! それはいいよミラちゃん!!!」って言いながら、またちょっと泣き笑いした。はぁ……忙しい。涙と笑いで今日だけで一年ぶんくらい情緒使った気がする。

「じゃあ」

 アイラさんが、私の髪についた炭を指でつまんでとりながら、すごく日常の声で言った。

「今日から三日間は、ずーっと家の中と井戸のまわりね。いいわね、“村の子”?」

「……はい、“村の子”です……っ」

「よろしい」

「よろしい~!」

 ミラちゃんもなぜか偉そうに復唱した。かわいい。ほんとかわいい。もううちの妹でいい? いやもう妹だよねこれ。妹って名乗っていい? ダメかな? あとで聞こ。あとでちゃんと許可とろ。

「で、由香」

「は、はい……」

「三日間、なにする?」

 え? って私はきょとんとした。なにする、っていわれて、頭の中が一瞬真っ白になったんだけど、そのすぐあと、胸の中に、昼間の板がぽんって浮かんだ。“みずがたいへんです”の紙。みんなで見た“なおす/つかう/すてる”の表。あれを書いて、貼って、説明して、ちゃんと伝わったときの、あの胸の熱さ。あの、私の言葉がちゃんと誰かの役に立ったっていう、体の芯があったかくなる感じ。あれ。あれ、もう一回やりたい。もっとやりたい。もっとちゃんと、わかりやすく、いろんな場所に、そういうのを置きたい。水だけじゃない。他にも、きっとある。きっといっぱいある。

「……かんばん、つくります」

「看板?」

「はい……っ」

 鼻をすすりながら、私は言った。頭の奥が、ちょっとずつクリアになっていく。涙のあとの頭って、なんかすごく静かになる。そこに、するべきことがふっと浮かんでくる。これ、けっこう好きかもしれない。

「“ここは のんでいい よ”の看板、もう一枚つくります。子どもにもわかるやつ。夜でも見えるように、ひもを二本にして、さがりすぎないようにして。あと、“のんじゃ だめ”の板も、もっと大きいやつをつくります。遠くからでも見えるやつ」

「うん」

 ルゼルが静かにうなずいた。

「あと、“みずをむだにしない”っていう紙、子ども向けのやつを家の中用につくりたいです。“みずで あそばない ルール”っていうの。絵も入れて、かわいいやつ。ミラちゃんたちに読んでもらって、変なところあったら直してもらって」

「うん」

「それから、“おなかいたいの やだよね”っていう紙も、村の入口に貼りたいです。“このむらでは おなかいたいのを ふやさないために みずを わけて つかっています”っていうの……それ、ほかの村の人が見ても、わかるように」

 私は、言いながら自分でびっくりしてた。でも、口が止まらない。浮かんでくる。できることが、浮かんでくる。これ、私、できる。これなら、私、できる。

「それから……その……」

「うん」

「“魔王さまの いえ ここです”っていう、かんばんも……」

「ぶっ」

 アイラさんが吹いた。ミラちゃんも「まおーさまのおうちここです!」って元気よく復唱した。村の人たちの何人かが、「あー、それはあぶねぇやろ!」「やめろや!」「兵士が見たら笑うわ!」って一斉にツッコミを入れて、さっきまでの緊張が、がらがらっとほぐれた。笑い声が、夕日の下でひろがっていく。その笑い声の中で、私の胸の奥のこわばりが、すとんってほどけた。

「それは……まぁ……三日後のあとで考えましょうか」

「はい……」

「でも、“水の看板”は、いいわね」

「いいわね」

「いいね」

「うん」

 ルゼルまで「うん」って言うから、私はまた変な声が出た。「だからその“うん”!」って言いながら、泣き笑いのまま、私は立ち上がった。膝はまだちょっとふらふらするけど、立てる。ちゃんと立てる。立てるってことに、ちょっと感動した。私、まだちゃんと立てる。ちゃんと、いる。

「……じゃあ、かきます」

 私は涙をぬぐって、鼻をぐしぐしして、深呼吸した。炭の感触を思い出す。板のざらっとした手ざわりを思い出す。紙を押さえる指先の震えを思い出す。あの感じを、もう一度やる。もう一度、やれる。私は、それが嬉しくて、胸があったかくなって、自然と笑ってた。

「“みず だいじに しようね”って」

「うん。書こう」

 ルゼルの声は、やさしかった。いつものやさしさに、さっき決めた強さが少しだけ混ざってる声。ああ、ずるい。やっぱりずるい。いや、もはや“ずるい”って言ったら、ルゼルの正式な肩書きみたいなものだからいいか。“魔王(ずるい)”。肩書きとして機能してる。

「三日のあいだに、“紙”ぜんぶ整えよう」

「はい……!」

「それが終わったら、三日後の紙にもサインしよう」

「はい……っ!」

「そうしたら、“この村はだいじょうぶ”って、言える」

 ああ、だめ。もうだめ。胸が、いっぱいになって、息があつくなって、目がまたじわってなる。だめ。でも、セーフ。これはセーフ。これはぜったいセーフ。セーフどころか、むしろ義務。泣く義務。泣かないとむしろ失礼。そういうやつ。

「……はい……っ」

「うん。いい子」

「それぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!」

 今度は、村のあちこちから笑いが起きた。「それぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」って、みんなが真似してくる。子どもも大人も、エナさんもイェルさんも、揃って「それぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」って言うから、もう村全員でコール&レスポンスみたいになった。やばい。笑いすぎてお腹痛い。お腹痛いけど、これは“いやな痛み”じゃない。ちゃんと“しあわせすぎてお腹ぎゅうってなる”ほうの痛み。いい。これはいい。これはセーフ。セーフ文化ほんと便利。すばらしい文化。輸出したい。

 笑い声と、まだ残ってる涙と、夕日のオレンジの光と、炭の匂いと、木の手ざわりと。ぜんぶが混ざった空気の中で、私はそっと、自分の胸に手を当てた。手のひらの下で、心臓がどくどくしてる。はやい。まだちょっとはやい。でも、そのどくどくは、さっきみたいな“こわい”だけのどくどくじゃない。ちゃんと“ここにいる”っていうどくどくだ。

 私は、胸の中で小さくつぶやいた。誰にも聞こえない声で。自分だけに聞こえる声で。

 ──ここが、私の場所だよ。

 ──私はここにいるよ。

 ──だから、だいじょうぶだよ。

 そのとき私はまだ知らなかった。三日っていうのが、ただの期限じゃなくて、この村にとって“名前を持つ時間”になるってことを。三日のあいだに、村は“村”じゃなくて、“魔王の村”っていう名前を持つことになるってことを。それが、この世界のどこかに、とんでもなく大きな波紋を広げるってことを。私はまだ知らなかった。けど、胸の奥のどくどくは、その未来をもう小さく予告してるみたいに、あたたかく強く鳴り続けていた。
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