婚約破棄され追放された令嬢の私、異世界の辺境で無口な騎士団長に拾われ花畑を作るうちに愛されすぎて困ってます――ざまぁは風に流してスローライフ

さら

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第1話 追放令嬢、行き倒れる

 冷たい湿り気が、頬の泥に染みてゆく感覚で目を覚ました。背中には硬い根の節、指先には折れた枝のざらつき。鼻の奥を刺すのは、遠い街路では決して嗅がなかった、土の匂いと枯れ葉の腐香だった。喉は焼けつくように渇き、乾いた舌が歯の裏に貼りついて、うまく言葉がほどけない。ここがどこか、なぜ独りなのかを理解するまでに、しばしの時間が必要だった。

 薄く目を開けると、木々は背の高い柱のように空へ伸び、梢の隙間から薄曇りの光が斑に落ちていた。裾は泥に重く、かつて王都の床を滑るように歩いた靴は、いまや色を忘れている。指輪の跡だけが白く細い薬指に残り、そこに存在したものの不在を語った。思い出そうとすると、胸の奥で鈍い音がして、世界がわずかに遠のく。

「……水……」

 声は森に吸われ、自分にさえ届かないほど頼りなかった。身体を横向きに転がすと、視界の端で、濡れた苔に陽の光が一滴ずつ落ちているのが見えた。その緑の柔らかさに触れれば、王都の大理石よりも、心がわずかに楽になるのだと、そんなことを考える自分が妙に可笑しい。可笑しいけれど、笑う力はもう残っていない。

 枝が折れる低い音が、背後でひとつ。風の音でも、獣の気配でもない、重みをともなった接近の気配が、落葉の表面を順序よく踏んでこちらへ近づいてくる。恐怖は遅れてやってきて、脈を早めるより先に視界の輪郭だけを鋭くした。私は息を殺し、泥の中に沈むように身を縮めた。

「……助け……て……」

 それは祈りというより、言葉の形を借りた呼吸だった。次の瞬間、影が差し、私の頬に落ちていた光がすっと引いた。見上げると、銀灰の外套の裾と、磨かれた革の膝当てが視界を占め、ゆっくりと屈んでくる気配があった。顔を上げるほどの力はない。ただ、冷たい手袋の背が、泥を払うように私のこめかみの髪をそっと避けたのを、皮膚が覚えた。

「生きている」

 低く短い声だった。驚くほど抑制されていて、感情の起伏は波紋ひとつ立てない湖面のようだ。けれど、その一言が、私にとっては救いの定義になった。生きている――つまり、まだ終わっていない。終わっていないのなら、ここからどこかへ運べる可能性がある。

「……み、ず……」

 私は唇を動かし、乾いた音をいくつかこぼした。男は頷く気配だけを残し、腰の革袋の紐を解く。少しだけ傾けられた水は、滴のかたちで私の口元を濡らし、ひとしずくが舌に触れた瞬間、世界の彩度がほんの少し戻った。飲み込むたびに喉は軋み、胸の奥に小さな火が灯る。

「少しずつ」

 彼はそう言って、焦りを抑えるように間を置いた。私はその間を埋めるように、胸の中で沈んでいた出来事の破片を順番に拾い上げる。王城の広間、花綱の下、元婚約者の冷たい視線、ざわめき、宣告、破片のような笑い声――そして、門の外、馬車の終点、風。そこから先は、ただ歩いた。歩いて、倒れた。

「……すみません……」

 謝罪は、癖のように口をついて出る。男の影がわずかに動き、首を横に振った気配があった。彼の手が私の肩の下に差し入れられ、もう片方の腕が膝の裏をすくい上げる。身体が地面から離れる瞬間、泥が布からはがれる音が、嫌に大きく耳に残った。

「運ぶ」

 短く、それだけ。私はその胸板の固さに驚きながら、頬を外套の内側の温もりに預けた。革の匂い、少し湿った布の匂い、そして微かに草を乾かしたような香り。揺れは大きくない。彼の足取りは一定で、落葉を踏む音が規則正しく刻まれる。私はそのリズムに合わせて、浅い呼吸を繰り返した。

「あなたは……どなた、ですか」

 問う声は、葉擦れよりも弱かった。男は少しだけ息を吸い、答えを選ぶように間を置く。

「……通りすがりだ」

 嘘ではないのだろう。あるいは、真実のすべてではないのだろう。私はそれ以上は聞かず、胸の奥の縛りが少し解けたことに甘える。森の空気は冷たく、けれど彼の腕の中の温度が、失ったものの数だけ増えてゆくような気がした。

「重く……ないですか」

「軽すぎる」

 その言葉には、責める響きがなかった。ただの事実として告げられた「軽すぎる」は、私の喉奥の哀しみと触れ、音もなく溶けた。私は目を閉じ、まぶたの裏に、王都の白い柱廊を描いた。それはもう帰らない場所の形をしていて、不思議と静かだった。

 風が、梢を渡った。肩に置かれた彼の指が、落ちかけた私の髪を外套の中へと押し戻す。ささやかな仕草に、痛むほどの優しさが宿っているのを知って、胸が熱くなる。私は、守られている。名前も知らない誰かに、状況の説明もないこの瞬間に、それでも確かに守られている。

「ありがとう……ございます」

 礼の言葉は、意識の底に沈みかけながらも、どうしても伝えたかった。男は答えず、歩調を崩さず、ただ少しだけ腕に力を込めた。その沈黙は、言葉よりも雄弁なものとして、私の内部に静かに刻まれる。

 枝がもう一本折れ、視界に薄い明るさが滲んだ。森の端が近いのだろう。私はわずかに顔を上げ、その先に広がるはずの光景を想像しようとした。けれど、瞼は重く、胸の奥から引き波のような眠気が押し寄せる。意識が薄くなってゆく縁で、私はたったひとつだけ、確かなことを掴んだ。

 ――この人の腕は、冷たい世界と私のあいだに、きちんと壁を作ってくれている。



 風の向きが変わった。森の匂いに、乾いた石の粉のような感触が混じる。踏み固められた小径に出たのだと、揺れの質でわかる。私は外套の内側で浅く息をして、胸の鼓動を数えながら、薄い意識を水面に浮かべ続ける。落ちてしまえば楽だと知りながら、今ここから離れたくなかった。

「……下ろす。痛むところは」

 男の声が、少しだけ近くなった。私は首を小さく振る。嘘ではない。痛みは全身に均等で、特定の場所が叫ぶことはない。ただ、寒さと空腹と喪失が、身体という容れ物の隙間すべてに入り込んでいるだけだ。

「息を吸って」

 促され、私は肺の底に冷たい空気を落とした。胸がきしみ、背骨のひとつひとつが音を立てそうになる。けれど、その指示は不思議と安心を連れてくる。誰かの声に従うという行為が、こんなにも簡単に私を軽くするのだと、今さら知った。

「いい。ゆっくり」

 彼は私を抱え直し、肩にかかる重心を調整する。動きはぎこちなくない。むしろ、訓練された兵が荷を扱う時のように、迷いがなく、丁寧だ。そのたびに、外套と頬のあいだで小さな摩擦が生まれ、温もりが擦れて増える。

「あなたは……騎士、さま……?」

 言いながら、自分でも笑いそうになった。敬称がいつものように口をつき、状況の滑稽さに頬が熱くなる。男は短く息を吐く。肯定とも否定ともつかない、温度のない呼気だった。

「名は」

 問う声に、私は少しだけ顎を上げた。名。それは、私がまだ私であるための細い糸だ。誰にも奪われてはいない。

「セリーナ……です」

 木々の間を通り抜ける風が、その音をさらっていく。胸の奥で、その名がわずかに響き、戻ってきた。男はうなずいた気配を見せ、「覚えた」と、低く短く呟いた。その二語が、私の名を世界に留め置く杭になり、心がほどけていく。

「あなたは……」

「ライナルト」

 その名は、彼自身のものにふさわしい音の重みを持っていた。硬く、直線的で、無駄がない。私はその響きを反芻し、舌の上でゆっくりと温める。ライナルト。私を抱え、森を抜け、小径を進んでいる男の名。名前がひとつ付与されたことで、世界が少しだけ親密になる。

「ライナルト……さま」

「呼び捨てでいい」

 即答だった。私は小さく目を見開き、すぐに視線を落とす。呼び捨て――王都にいた頃には、誰に対してもほとんど許されなかった行為だ。けれど、彼の声に嫌悪はなく、ただ距離を誤解させまいとする直裁さがあった。

「……ライナルト」

「うん」

 短い肯定が落ちる。私は思わず、外套の内側で微笑んだ。微笑むという動作が、これほどぎこちなく、そして甘いものだと、いつから忘れていたのだろう。肩に触れる彼の腕が、微かに緩み、また元の強さに戻る。その小さな起伏だけで、こちらの変化を受け止めてくれていることが伝わる。

「見えるか」

 彼が顎をわずかに動かす。私は頬を外套の縁から少し出し、前方を見た。木々の向こうに、草地が開けている。遠くに低い石垣、そのむこうに赤茶の屋根が、いくつか並んでいるのが見えた。煙突から立つ煙が、薄い空にまっすぐ引かれてゆく。

「村……」

「近い」

 ふっと胸が軽くなる。目的地が具体の形を帯びた瞬間、身体はそれを許容するように、痛みの音量を少し下げるのだ。私は外套の内側で深く息を吸い、鼻腔をすべる香りを確かめた。木の煙、藁、乾いた土、そして――

「花の、匂い……?」

 失われかけた感覚のひとつが、くっきりと戻る。風に乗って、甘く淡い香りが届いていた。森の匂いとは別の、柔らかな色彩を持った香り。ライナルトは短く頷いた。

「春先から植える。まだ早い匂いが、残っている」

「花、お好き……なんですか」

「嫌いではない」

 それだけを告げる声に、言葉に替えられなかった色がいくつか混じっているのを感じた。私はその色を無理に読み解こうとはせず、胸の内側でただ受け取る。私の中にも、言葉にしないで残したいものが、いくつもあるからだ。

「着く」

 小径が石畳に変わり、靴底に固い反発が返る。視界の端に人影が増え、遠くの井戸端で誰かの笑い声が弾ける。私は外套の陰から世界を盗み見るように眺め、その賑やかさに心がふるえた。ここは、私がもう知らない世界だ。けれど、恐れと同じくらい、安堵があった。

「……本当に、ありがとうございます」

「礼は、あとでいい」

 ライナルトは足を止めない。声も、歩幅も変わらない。ただ、その均質さが、いまの私にはいちばんの救いだった。世界が揺れたり、私を試したりしないことが、こんなにも楽だとは思わなかった。

「もう少しだけ、抱えていても……いいですか」

「うん」

 彼の返事は、風の音に溶けるほど短かった。けれど、その短さのなかに、拒絶の刃は一本もなかった。私は外套の縁を指先でつまみ、そこに宿る体温を確かめる。森から村へ、影から光へ。移ろいの境目を越えるこの時間が、どうか壊れずに続くようにと、祈る。



 石畳の上で、彼の足音がゆっくりと落ち着いた。体を支えていた腕が、ごく慎重に角度を変える。私はそれを合図に、外套の陰から顔を出し、目の前に迫る木の扉を見た。濃い色の木目に、何度も磨かれた跡が柔らかく光る。取っ手の鉄は手に馴染む形をしていて、誰かが日々ここから出入りした時間の厚みが、静かに宿っていた。

「少し、冷える」

 ライナルトはそう言って、扉の前の庇の影に私を抱えたまま立ち止まる。庇を打つ風の音が変わり、耳に当たる空気の温度が数度やわらぐ。私は胸の奥で息を吐き、硬くなっていた肩の力を下ろす。近くで、誰かの足音がこちらに寄ってきた。

「ライナルトさ――あら、女の子?」

 澄んだ驚きの声。私は反射的に外套の合わせを指で握り、顔を半分だけ向ける。目が合ったのは、頬にそばかすのある栗色の髪の女性だった。彼女は私とライナルトを見比べ、事情を一瞬で飲み込んだように頷いた。

「お水と、温かい布を持ってくるね」

「頼む」

 ライナルトの返事は簡潔で、けれどそこに信頼があった。女性は素早く走り去り、すぐに木の床板を叩く足音が遠のく。私はその背中を見送り、彼の腕の中でわずかに位置を直した。

「ここは……あなたの、家……?」

「詰所。俺の部屋もある」

 詰所。言葉の意味が胸の中でほどける。騎士団――彼はやはり、その一部なのだ。無口で、訓練された動きで、必要なものだけを言う人。私は胸の奥で小さく頷き、自分の声が震えないように確かめる。

「お世話に……なってしまって」

「気にするな」

 言われても、気にするものは気になる。けれど、その「気にするな」には、突き放す冷たさがなかった。むしろ、受け止めるために空けてくれた空白のようなものがあって、私はそこにそっと身を置く。

 扉の向こうから、さきほどの女性が戻ってきた。腕には陶器の碗と、湯気の立つ布。ライナルトは片腕で私を支えたまま、もう片方の手で扉を足先で押し開ける。木が軋む優しい音とともに、私たちは庇の影からさらに柔らかな空気の中へ足を踏み入れた。空気には、干した草と石鹸と、微かな花の香りが混じっている。

「座れるか」

「……やってみます」

 彼は私をゆっくりと降ろし、腰を支えながら長椅子の端に座らせる。木肌は温かく、布のクッションがかすかに沈んだ。私は背筋を壁に預け、指先を膝の上で重ねる。女性がそっと近づき、濡れ布を私の額に当てた。熱が逃げ、皮膚が呼吸を覚える。

「ありがとう、ございます」

「いいのよ。私はマルタ。ここで手伝ってるの」

「セリーナです」

 名前を言うと、マルタは嬉しそうに笑った。その笑いは、私の名を歓迎する音をしていて、胸があたたかくなる。ライナルトは近くの棚から白い布を取り出し、私の肩にかけた。手の動きは相変わらず無駄がなく、しかしどこか頼りになる不器用さがある。

「食べられるか」

「少しだけなら……」

 マルタが小さな碗を差し出し、中には白い粥がとろりと湯気を立てている。匙を受け取り、口元へ運ぶ。ひと口目が喉を通る瞬間、身体はそれを待っていたかのように素直に受け入れ、視界の端がにじんだ。私は涙をこぼさないように、ゆっくりと二口、三口と続ける。

「ゆっくりでいい」

 ライナルトの声は、相変わらず短い。けれど、その短さがいまの私にはぴったりだった。余計な言葉は、余計な痛みを呼ぶ。必要な言葉だけが、必要な場所に届けば、世界はそれで十分やさしくなる。

「少し休め。話は、それからでいい」

 彼はそう言って、扉の方へ視線を落とした。外はまだ薄曇りで、庇の外側を撫でる風の音が細く続いている。私は匙を碗に戻し、深く息をする。胸の内側に、先ほど森の中で掴んだ確かな感覚が、もう一度芽吹いた。

 ――ここなら、呼吸していてもいい。

 目を閉じると、まぶたの裏に薄い色の花弁が散った。香りの出どころを探そうとして、私はそっと鼻先を動かす。どこかで、乾いた束を指でほぐす音がした。ライナルトの手か、マルタの手か、特定はしない。それよりも、この音のする場所に、自分が座っているという事実が、いまの私には救いだった。

 外套から伝わる彼の体温は、もう私の皮膚になじんでいた。私は肩の白布を握り、細く笑う。笑える、というだけで、胸が痛いほど嬉しかった。彼の気配が、半歩だけ近づいた。言葉はなかった。けれど、それで十分だった。




 静かな室内に、薪の燃える音がひとつ、またひとつと弾けた。炎が赤く揺れて、壁にかけられた古い盾と槍の影を長く伸ばす。木の香りと灰の香りが混じって、かすかに甘い。私は長椅子の上で体を少しずらし、布の端を指でなぞった。指先の感覚が戻ってきて、ようやく自分の手が自分のもののように思えた。

 ライナルトは暖炉のそばで外套を脱ぎ、無言のまま濡れた裾を絞っていた。肩の線が広く、背中の動きにためらいがない。静けさの中にある男の存在感は、不思議と騒がしくない。むしろ、その沈黙がこの空間を支えているように感じた。マルタが湯を沸かしている音が、奥の小部屋から聞こえる。私は息を整え、そっと彼を見た。

「あの……」

 声を出すと、彼の動きが止まる。灰色の瞳がこちらを向いた。その視線は冷たくも厳しくもなく、ただ観察するように静かだ。
「助けていただいて、本当に……ありがとうございます」

「気にするな」

 その一言はやっぱり短くて、けれど芯があった。私は口元に微笑みを浮かべ、視線を膝の上に落とした。指先を重ねると、肌の上に泥の痕がうっすら残っている。指で擦ると、泥の向こうに白い肌が現れた。王都で過ごした日々の、何もかもが遠く思える。

 彼は手を拭きながら、暖炉の前にしゃがみ、鉄製のポットを持ち上げた。中で湯が静かに湧いていて、金属の口から立ちのぼる湯気が揺れる。
「温かいものを飲め。体が冷えている」

 マルタがすぐに戻ってきて、小さな木のカップを差し出した。薄茶色の液体から、ほのかに花の香りが立つ。
「これは……?」

「ハーブ茶よ。乾いた野花を煮出したの。お腹にも優しいわ」

 私は両手でカップを受け取り、ゆっくりと口をつけた。熱が舌を撫で、喉の奥を落ちていく。飲み下すたびに、心臓の鼓動が静かに戻ってくる。
「……おいしいです」
「そりゃよかった。顔色が少し戻ったね」

 マルタの柔らかな笑みに、私も自然と頬が緩んだ。言葉を交わすことが、こんなにも心を温めるものだとは忘れていた。
「もう少し休ませてもらって……体力が戻ったら、どこか働ける場所を探します」
 そう言うと、マルタはあきれたように眉を上げた。
「まだそんなこと言ってるの? まずは寝ること。働くのは元気になってからでいいの」

 その叱るような優しさに、胸が締めつけられた。私は素直に頷き、カップを抱えたまま視線を落とした。ライナルトはそのやり取りを黙って見ていたが、やがて立ち上がって扉の方へ向かった。

「どこへ……」

「厩舎。馬を見てくる」

 短くそう言って、彼は外套を手にした。外の風が一瞬、扉の隙間から吹き込み、炎の灯りを揺らす。その背に、わずかに光が走った。
「戻る。すぐだ」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。たったそれだけの約束が、今の私には大きな意味を持つ。扉が閉まると、部屋の中はまた静かになった。薪の弾ける音が再び、時を刻むように響く。

 マルタが私のそばに座り、カップを指差した。
「全部飲んじゃって。飲めば少し眠くなるわ」
「ありがとうございます」

 言葉を交わしていると、不意に胸の奥から込み上げてくるものがあった。喉の奥で熱が滲み、視界がわずかに歪む。マルタは気づいたように、何も言わずに肩をぽんと叩いた。
「泣いてもいいのよ」

 その言葉で、堰が切れた。音もなく、涙が頬を伝って落ちる。王城の冷たい石の床で泣いたときとは違う。いま流れているのは、悲しみよりも、安堵に近いものだった。誰かがいる場所で泣けることが、これほど幸せだなんて。

「大丈夫。ここは安全よ」
 マルタの声がやさしく揺れる。私はうなずきながら、涙を指で拭った。

 そのとき、外の扉が音を立てて開いた。冷たい風とともに、ライナルトが戻ってくる。腕には厚手の毛布があり、それを迷いなく私の膝にかけた。

「冷える」
「ありがとうございます……」

 彼はそれ以上何も言わず、暖炉の火を見つめていた。橙色の光が彼の横顔を照らし、静かな影を落とす。寡黙な男。その沈黙が不思議と心地よい。言葉を重ねずとも、空気がやさしく満ちていく。

 私は毛布を胸元まで引き寄せ、指先でその柔らかさを確かめた。羊毛のぬくもりが皮膚を通して広がっていく。まぶたがゆっくりと重くなり、頭が傾く。

「……少し、眠ってもいいですか」

「構わない」

 ライナルトは短く答え、暖炉の火を少しだけ調整した。火がぱちりと音を立て、部屋の明かりが柔らかくなる。私はその灯りの中で目を閉じた。胸の奥で微かな鼓動が続き、世界がゆっくりと遠ざかっていく。

 眠りに落ちる直前、彼の低い声がかすかに聞こえた。

「……よく、生きてたな」

 夢と現のあいだで、その言葉が心に沈み、柔らかく広がった。



 目を開けたとき、窓の外は淡い金色の光で満ちていた。夜が明けたのだ。私は毛布に包まれたまま、ゆっくりと身体を起こす。頭の重さは消えていて、体の中に静かな熱が宿っている。

 室内には、朝の空気が流れ込んでいた。木の机の上には、小さな花瓶。中には白い小花が一輪、揺れている。昨日のあの花の香りだ。私は思わず微笑み、頬に触れた。涙の跡は乾いていた。

「起きたか」

 低い声に顔を上げると、ライナルトが窓際に立っていた。光を背に受けた姿は、どこか柔らかく見える。彼は静かに手を動かし、木の皿を差し出した。そこにはパンと、薄く切られた干し肉。

「少しでも食べろ」

「ありがとうございます」

 手を伸ばすと、パンはまだ温かかった。噛むと小麦の甘さが広がり、目の奥が熱くなる。あの王城の食卓では、決して味わえなかった温度だ。

「どのくらい眠っていたんでしょう」
「半日」

 そう言って、彼は壁にかけられた剣の鞘を見た。朝の光に反射して、刃の線が細く光る。

「体はどうだ」
「……楽になりました」

 素直にそう言うと、彼はほんのわずかに頷いた。その頷きが、何よりの報酬のように思える。

 私はパンを食べ終え、手を膝の上に置いた。沈黙の中で、花瓶の花が風に揺れる。柔らかい朝の空気が流れ、遠くで鳥の鳴き声がした。

「……ここは、どこなんですか」

「辺境の村、グレイス領。王都から三日ほど」

 その名を聞いた瞬間、胸の奥に現実が戻ってきた。追放。王都には、もう私の居場所はない。けれど、その現実が以前ほど痛くは感じなかった。

「しばらく、ここにいればいい」
 ライナルトの言葉に、思わず彼を見上げた。
「いいんですか?」
「怪我もある。体力を戻せ」

 それだけ言って、彼は窓を開けた。春の風が流れ込み、花の香りが部屋に満ちる。

「……はい」

 私は小さく頷き、毛布を抱きしめた。花の香りの向こうに、まだ見ぬ日々の匂いがした。
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