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第1話 追放令嬢、行き倒れる
冷たい湿り気が、頬の泥に染みてゆく感覚で目を覚ました。背中には硬い根の節、指先には折れた枝のざらつき。鼻の奥を刺すのは、遠い街路では決して嗅がなかった、土の匂いと枯れ葉の腐香だった。喉は焼けつくように渇き、乾いた舌が歯の裏に貼りついて、うまく言葉がほどけない。ここがどこか、なぜ独りなのかを理解するまでに、しばしの時間が必要だった。
薄く目を開けると、木々は背の高い柱のように空へ伸び、梢の隙間から薄曇りの光が斑に落ちていた。裾は泥に重く、かつて王都の床を滑るように歩いた靴は、いまや色を忘れている。指輪の跡だけが白く細い薬指に残り、そこに存在したものの不在を語った。思い出そうとすると、胸の奥で鈍い音がして、世界がわずかに遠のく。
「……水……」
声は森に吸われ、自分にさえ届かないほど頼りなかった。身体を横向きに転がすと、視界の端で、濡れた苔に陽の光が一滴ずつ落ちているのが見えた。その緑の柔らかさに触れれば、王都の大理石よりも、心がわずかに楽になるのだと、そんなことを考える自分が妙に可笑しい。可笑しいけれど、笑う力はもう残っていない。
枝が折れる低い音が、背後でひとつ。風の音でも、獣の気配でもない、重みをともなった接近の気配が、落葉の表面を順序よく踏んでこちらへ近づいてくる。恐怖は遅れてやってきて、脈を早めるより先に視界の輪郭だけを鋭くした。私は息を殺し、泥の中に沈むように身を縮めた。
「……助け……て……」
それは祈りというより、言葉の形を借りた呼吸だった。次の瞬間、影が差し、私の頬に落ちていた光がすっと引いた。見上げると、銀灰の外套の裾と、磨かれた革の膝当てが視界を占め、ゆっくりと屈んでくる気配があった。顔を上げるほどの力はない。ただ、冷たい手袋の背が、泥を払うように私のこめかみの髪をそっと避けたのを、皮膚が覚えた。
「生きている」
低く短い声だった。驚くほど抑制されていて、感情の起伏は波紋ひとつ立てない湖面のようだ。けれど、その一言が、私にとっては救いの定義になった。生きている――つまり、まだ終わっていない。終わっていないのなら、ここからどこかへ運べる可能性がある。
「……み、ず……」
私は唇を動かし、乾いた音をいくつかこぼした。男は頷く気配だけを残し、腰の革袋の紐を解く。少しだけ傾けられた水は、滴のかたちで私の口元を濡らし、ひとしずくが舌に触れた瞬間、世界の彩度がほんの少し戻った。飲み込むたびに喉は軋み、胸の奥に小さな火が灯る。
「少しずつ」
彼はそう言って、焦りを抑えるように間を置いた。私はその間を埋めるように、胸の中で沈んでいた出来事の破片を順番に拾い上げる。王城の広間、花綱の下、元婚約者の冷たい視線、ざわめき、宣告、破片のような笑い声――そして、門の外、馬車の終点、風。そこから先は、ただ歩いた。歩いて、倒れた。
「……すみません……」
謝罪は、癖のように口をついて出る。男の影がわずかに動き、首を横に振った気配があった。彼の手が私の肩の下に差し入れられ、もう片方の腕が膝の裏をすくい上げる。身体が地面から離れる瞬間、泥が布からはがれる音が、嫌に大きく耳に残った。
「運ぶ」
短く、それだけ。私はその胸板の固さに驚きながら、頬を外套の内側の温もりに預けた。革の匂い、少し湿った布の匂い、そして微かに草を乾かしたような香り。揺れは大きくない。彼の足取りは一定で、落葉を踏む音が規則正しく刻まれる。私はそのリズムに合わせて、浅い呼吸を繰り返した。
「あなたは……どなた、ですか」
問う声は、葉擦れよりも弱かった。男は少しだけ息を吸い、答えを選ぶように間を置く。
「……通りすがりだ」
嘘ではないのだろう。あるいは、真実のすべてではないのだろう。私はそれ以上は聞かず、胸の奥の縛りが少し解けたことに甘える。森の空気は冷たく、けれど彼の腕の中の温度が、失ったものの数だけ増えてゆくような気がした。
「重く……ないですか」
「軽すぎる」
その言葉には、責める響きがなかった。ただの事実として告げられた「軽すぎる」は、私の喉奥の哀しみと触れ、音もなく溶けた。私は目を閉じ、まぶたの裏に、王都の白い柱廊を描いた。それはもう帰らない場所の形をしていて、不思議と静かだった。
風が、梢を渡った。肩に置かれた彼の指が、落ちかけた私の髪を外套の中へと押し戻す。ささやかな仕草に、痛むほどの優しさが宿っているのを知って、胸が熱くなる。私は、守られている。名前も知らない誰かに、状況の説明もないこの瞬間に、それでも確かに守られている。
「ありがとう……ございます」
礼の言葉は、意識の底に沈みかけながらも、どうしても伝えたかった。男は答えず、歩調を崩さず、ただ少しだけ腕に力を込めた。その沈黙は、言葉よりも雄弁なものとして、私の内部に静かに刻まれる。
枝がもう一本折れ、視界に薄い明るさが滲んだ。森の端が近いのだろう。私はわずかに顔を上げ、その先に広がるはずの光景を想像しようとした。けれど、瞼は重く、胸の奥から引き波のような眠気が押し寄せる。意識が薄くなってゆく縁で、私はたったひとつだけ、確かなことを掴んだ。
――この人の腕は、冷たい世界と私のあいだに、きちんと壁を作ってくれている。
△
風の向きが変わった。森の匂いに、乾いた石の粉のような感触が混じる。踏み固められた小径に出たのだと、揺れの質でわかる。私は外套の内側で浅く息をして、胸の鼓動を数えながら、薄い意識を水面に浮かべ続ける。落ちてしまえば楽だと知りながら、今ここから離れたくなかった。
「……下ろす。痛むところは」
男の声が、少しだけ近くなった。私は首を小さく振る。嘘ではない。痛みは全身に均等で、特定の場所が叫ぶことはない。ただ、寒さと空腹と喪失が、身体という容れ物の隙間すべてに入り込んでいるだけだ。
「息を吸って」
促され、私は肺の底に冷たい空気を落とした。胸がきしみ、背骨のひとつひとつが音を立てそうになる。けれど、その指示は不思議と安心を連れてくる。誰かの声に従うという行為が、こんなにも簡単に私を軽くするのだと、今さら知った。
「いい。ゆっくり」
彼は私を抱え直し、肩にかかる重心を調整する。動きはぎこちなくない。むしろ、訓練された兵が荷を扱う時のように、迷いがなく、丁寧だ。そのたびに、外套と頬のあいだで小さな摩擦が生まれ、温もりが擦れて増える。
「あなたは……騎士、さま……?」
言いながら、自分でも笑いそうになった。敬称がいつものように口をつき、状況の滑稽さに頬が熱くなる。男は短く息を吐く。肯定とも否定ともつかない、温度のない呼気だった。
「名は」
問う声に、私は少しだけ顎を上げた。名。それは、私がまだ私であるための細い糸だ。誰にも奪われてはいない。
「セリーナ……です」
木々の間を通り抜ける風が、その音をさらっていく。胸の奥で、その名がわずかに響き、戻ってきた。男はうなずいた気配を見せ、「覚えた」と、低く短く呟いた。その二語が、私の名を世界に留め置く杭になり、心がほどけていく。
「あなたは……」
「ライナルト」
その名は、彼自身のものにふさわしい音の重みを持っていた。硬く、直線的で、無駄がない。私はその響きを反芻し、舌の上でゆっくりと温める。ライナルト。私を抱え、森を抜け、小径を進んでいる男の名。名前がひとつ付与されたことで、世界が少しだけ親密になる。
「ライナルト……さま」
「呼び捨てでいい」
即答だった。私は小さく目を見開き、すぐに視線を落とす。呼び捨て――王都にいた頃には、誰に対してもほとんど許されなかった行為だ。けれど、彼の声に嫌悪はなく、ただ距離を誤解させまいとする直裁さがあった。
「……ライナルト」
「うん」
短い肯定が落ちる。私は思わず、外套の内側で微笑んだ。微笑むという動作が、これほどぎこちなく、そして甘いものだと、いつから忘れていたのだろう。肩に触れる彼の腕が、微かに緩み、また元の強さに戻る。その小さな起伏だけで、こちらの変化を受け止めてくれていることが伝わる。
「見えるか」
彼が顎をわずかに動かす。私は頬を外套の縁から少し出し、前方を見た。木々の向こうに、草地が開けている。遠くに低い石垣、そのむこうに赤茶の屋根が、いくつか並んでいるのが見えた。煙突から立つ煙が、薄い空にまっすぐ引かれてゆく。
「村……」
「近い」
ふっと胸が軽くなる。目的地が具体の形を帯びた瞬間、身体はそれを許容するように、痛みの音量を少し下げるのだ。私は外套の内側で深く息を吸い、鼻腔をすべる香りを確かめた。木の煙、藁、乾いた土、そして――
「花の、匂い……?」
失われかけた感覚のひとつが、くっきりと戻る。風に乗って、甘く淡い香りが届いていた。森の匂いとは別の、柔らかな色彩を持った香り。ライナルトは短く頷いた。
「春先から植える。まだ早い匂いが、残っている」
「花、お好き……なんですか」
「嫌いではない」
それだけを告げる声に、言葉に替えられなかった色がいくつか混じっているのを感じた。私はその色を無理に読み解こうとはせず、胸の内側でただ受け取る。私の中にも、言葉にしないで残したいものが、いくつもあるからだ。
「着く」
小径が石畳に変わり、靴底に固い反発が返る。視界の端に人影が増え、遠くの井戸端で誰かの笑い声が弾ける。私は外套の陰から世界を盗み見るように眺め、その賑やかさに心がふるえた。ここは、私がもう知らない世界だ。けれど、恐れと同じくらい、安堵があった。
「……本当に、ありがとうございます」
「礼は、あとでいい」
ライナルトは足を止めない。声も、歩幅も変わらない。ただ、その均質さが、いまの私にはいちばんの救いだった。世界が揺れたり、私を試したりしないことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
「もう少しだけ、抱えていても……いいですか」
「うん」
彼の返事は、風の音に溶けるほど短かった。けれど、その短さのなかに、拒絶の刃は一本もなかった。私は外套の縁を指先でつまみ、そこに宿る体温を確かめる。森から村へ、影から光へ。移ろいの境目を越えるこの時間が、どうか壊れずに続くようにと、祈る。
◇
石畳の上で、彼の足音がゆっくりと落ち着いた。体を支えていた腕が、ごく慎重に角度を変える。私はそれを合図に、外套の陰から顔を出し、目の前に迫る木の扉を見た。濃い色の木目に、何度も磨かれた跡が柔らかく光る。取っ手の鉄は手に馴染む形をしていて、誰かが日々ここから出入りした時間の厚みが、静かに宿っていた。
「少し、冷える」
ライナルトはそう言って、扉の前の庇の影に私を抱えたまま立ち止まる。庇を打つ風の音が変わり、耳に当たる空気の温度が数度やわらぐ。私は胸の奥で息を吐き、硬くなっていた肩の力を下ろす。近くで、誰かの足音がこちらに寄ってきた。
「ライナルトさ――あら、女の子?」
澄んだ驚きの声。私は反射的に外套の合わせを指で握り、顔を半分だけ向ける。目が合ったのは、頬にそばかすのある栗色の髪の女性だった。彼女は私とライナルトを見比べ、事情を一瞬で飲み込んだように頷いた。
「お水と、温かい布を持ってくるね」
「頼む」
ライナルトの返事は簡潔で、けれどそこに信頼があった。女性は素早く走り去り、すぐに木の床板を叩く足音が遠のく。私はその背中を見送り、彼の腕の中でわずかに位置を直した。
「ここは……あなたの、家……?」
「詰所。俺の部屋もある」
詰所。言葉の意味が胸の中でほどける。騎士団――彼はやはり、その一部なのだ。無口で、訓練された動きで、必要なものだけを言う人。私は胸の奥で小さく頷き、自分の声が震えないように確かめる。
「お世話に……なってしまって」
「気にするな」
言われても、気にするものは気になる。けれど、その「気にするな」には、突き放す冷たさがなかった。むしろ、受け止めるために空けてくれた空白のようなものがあって、私はそこにそっと身を置く。
扉の向こうから、さきほどの女性が戻ってきた。腕には陶器の碗と、湯気の立つ布。ライナルトは片腕で私を支えたまま、もう片方の手で扉を足先で押し開ける。木が軋む優しい音とともに、私たちは庇の影からさらに柔らかな空気の中へ足を踏み入れた。空気には、干した草と石鹸と、微かな花の香りが混じっている。
「座れるか」
「……やってみます」
彼は私をゆっくりと降ろし、腰を支えながら長椅子の端に座らせる。木肌は温かく、布のクッションがかすかに沈んだ。私は背筋を壁に預け、指先を膝の上で重ねる。女性がそっと近づき、濡れ布を私の額に当てた。熱が逃げ、皮膚が呼吸を覚える。
「ありがとう、ございます」
「いいのよ。私はマルタ。ここで手伝ってるの」
「セリーナです」
名前を言うと、マルタは嬉しそうに笑った。その笑いは、私の名を歓迎する音をしていて、胸があたたかくなる。ライナルトは近くの棚から白い布を取り出し、私の肩にかけた。手の動きは相変わらず無駄がなく、しかしどこか頼りになる不器用さがある。
「食べられるか」
「少しだけなら……」
マルタが小さな碗を差し出し、中には白い粥がとろりと湯気を立てている。匙を受け取り、口元へ運ぶ。ひと口目が喉を通る瞬間、身体はそれを待っていたかのように素直に受け入れ、視界の端がにじんだ。私は涙をこぼさないように、ゆっくりと二口、三口と続ける。
「ゆっくりでいい」
ライナルトの声は、相変わらず短い。けれど、その短さがいまの私にはぴったりだった。余計な言葉は、余計な痛みを呼ぶ。必要な言葉だけが、必要な場所に届けば、世界はそれで十分やさしくなる。
「少し休め。話は、それからでいい」
彼はそう言って、扉の方へ視線を落とした。外はまだ薄曇りで、庇の外側を撫でる風の音が細く続いている。私は匙を碗に戻し、深く息をする。胸の内側に、先ほど森の中で掴んだ確かな感覚が、もう一度芽吹いた。
――ここなら、呼吸していてもいい。
目を閉じると、まぶたの裏に薄い色の花弁が散った。香りの出どころを探そうとして、私はそっと鼻先を動かす。どこかで、乾いた束を指でほぐす音がした。ライナルトの手か、マルタの手か、特定はしない。それよりも、この音のする場所に、自分が座っているという事実が、いまの私には救いだった。
外套から伝わる彼の体温は、もう私の皮膚になじんでいた。私は肩の白布を握り、細く笑う。笑える、というだけで、胸が痛いほど嬉しかった。彼の気配が、半歩だけ近づいた。言葉はなかった。けれど、それで十分だった。
△
静かな室内に、薪の燃える音がひとつ、またひとつと弾けた。炎が赤く揺れて、壁にかけられた古い盾と槍の影を長く伸ばす。木の香りと灰の香りが混じって、かすかに甘い。私は長椅子の上で体を少しずらし、布の端を指でなぞった。指先の感覚が戻ってきて、ようやく自分の手が自分のもののように思えた。
ライナルトは暖炉のそばで外套を脱ぎ、無言のまま濡れた裾を絞っていた。肩の線が広く、背中の動きにためらいがない。静けさの中にある男の存在感は、不思議と騒がしくない。むしろ、その沈黙がこの空間を支えているように感じた。マルタが湯を沸かしている音が、奥の小部屋から聞こえる。私は息を整え、そっと彼を見た。
「あの……」
声を出すと、彼の動きが止まる。灰色の瞳がこちらを向いた。その視線は冷たくも厳しくもなく、ただ観察するように静かだ。
「助けていただいて、本当に……ありがとうございます」
「気にするな」
その一言はやっぱり短くて、けれど芯があった。私は口元に微笑みを浮かべ、視線を膝の上に落とした。指先を重ねると、肌の上に泥の痕がうっすら残っている。指で擦ると、泥の向こうに白い肌が現れた。王都で過ごした日々の、何もかもが遠く思える。
彼は手を拭きながら、暖炉の前にしゃがみ、鉄製のポットを持ち上げた。中で湯が静かに湧いていて、金属の口から立ちのぼる湯気が揺れる。
「温かいものを飲め。体が冷えている」
マルタがすぐに戻ってきて、小さな木のカップを差し出した。薄茶色の液体から、ほのかに花の香りが立つ。
「これは……?」
「ハーブ茶よ。乾いた野花を煮出したの。お腹にも優しいわ」
私は両手でカップを受け取り、ゆっくりと口をつけた。熱が舌を撫で、喉の奥を落ちていく。飲み下すたびに、心臓の鼓動が静かに戻ってくる。
「……おいしいです」
「そりゃよかった。顔色が少し戻ったね」
マルタの柔らかな笑みに、私も自然と頬が緩んだ。言葉を交わすことが、こんなにも心を温めるものだとは忘れていた。
「もう少し休ませてもらって……体力が戻ったら、どこか働ける場所を探します」
そう言うと、マルタはあきれたように眉を上げた。
「まだそんなこと言ってるの? まずは寝ること。働くのは元気になってからでいいの」
その叱るような優しさに、胸が締めつけられた。私は素直に頷き、カップを抱えたまま視線を落とした。ライナルトはそのやり取りを黙って見ていたが、やがて立ち上がって扉の方へ向かった。
「どこへ……」
「厩舎。馬を見てくる」
短くそう言って、彼は外套を手にした。外の風が一瞬、扉の隙間から吹き込み、炎の灯りを揺らす。その背に、わずかに光が走った。
「戻る。すぐだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。たったそれだけの約束が、今の私には大きな意味を持つ。扉が閉まると、部屋の中はまた静かになった。薪の弾ける音が再び、時を刻むように響く。
マルタが私のそばに座り、カップを指差した。
「全部飲んじゃって。飲めば少し眠くなるわ」
「ありがとうございます」
言葉を交わしていると、不意に胸の奥から込み上げてくるものがあった。喉の奥で熱が滲み、視界がわずかに歪む。マルタは気づいたように、何も言わずに肩をぽんと叩いた。
「泣いてもいいのよ」
その言葉で、堰が切れた。音もなく、涙が頬を伝って落ちる。王城の冷たい石の床で泣いたときとは違う。いま流れているのは、悲しみよりも、安堵に近いものだった。誰かがいる場所で泣けることが、これほど幸せだなんて。
「大丈夫。ここは安全よ」
マルタの声がやさしく揺れる。私はうなずきながら、涙を指で拭った。
そのとき、外の扉が音を立てて開いた。冷たい風とともに、ライナルトが戻ってくる。腕には厚手の毛布があり、それを迷いなく私の膝にかけた。
「冷える」
「ありがとうございます……」
彼はそれ以上何も言わず、暖炉の火を見つめていた。橙色の光が彼の横顔を照らし、静かな影を落とす。寡黙な男。その沈黙が不思議と心地よい。言葉を重ねずとも、空気がやさしく満ちていく。
私は毛布を胸元まで引き寄せ、指先でその柔らかさを確かめた。羊毛のぬくもりが皮膚を通して広がっていく。まぶたがゆっくりと重くなり、頭が傾く。
「……少し、眠ってもいいですか」
「構わない」
ライナルトは短く答え、暖炉の火を少しだけ調整した。火がぱちりと音を立て、部屋の明かりが柔らかくなる。私はその灯りの中で目を閉じた。胸の奥で微かな鼓動が続き、世界がゆっくりと遠ざかっていく。
眠りに落ちる直前、彼の低い声がかすかに聞こえた。
「……よく、生きてたな」
夢と現のあいだで、その言葉が心に沈み、柔らかく広がった。
◇
目を開けたとき、窓の外は淡い金色の光で満ちていた。夜が明けたのだ。私は毛布に包まれたまま、ゆっくりと身体を起こす。頭の重さは消えていて、体の中に静かな熱が宿っている。
室内には、朝の空気が流れ込んでいた。木の机の上には、小さな花瓶。中には白い小花が一輪、揺れている。昨日のあの花の香りだ。私は思わず微笑み、頬に触れた。涙の跡は乾いていた。
「起きたか」
低い声に顔を上げると、ライナルトが窓際に立っていた。光を背に受けた姿は、どこか柔らかく見える。彼は静かに手を動かし、木の皿を差し出した。そこにはパンと、薄く切られた干し肉。
「少しでも食べろ」
「ありがとうございます」
手を伸ばすと、パンはまだ温かかった。噛むと小麦の甘さが広がり、目の奥が熱くなる。あの王城の食卓では、決して味わえなかった温度だ。
「どのくらい眠っていたんでしょう」
「半日」
そう言って、彼は壁にかけられた剣の鞘を見た。朝の光に反射して、刃の線が細く光る。
「体はどうだ」
「……楽になりました」
素直にそう言うと、彼はほんのわずかに頷いた。その頷きが、何よりの報酬のように思える。
私はパンを食べ終え、手を膝の上に置いた。沈黙の中で、花瓶の花が風に揺れる。柔らかい朝の空気が流れ、遠くで鳥の鳴き声がした。
「……ここは、どこなんですか」
「辺境の村、グレイス領。王都から三日ほど」
その名を聞いた瞬間、胸の奥に現実が戻ってきた。追放。王都には、もう私の居場所はない。けれど、その現実が以前ほど痛くは感じなかった。
「しばらく、ここにいればいい」
ライナルトの言葉に、思わず彼を見上げた。
「いいんですか?」
「怪我もある。体力を戻せ」
それだけ言って、彼は窓を開けた。春の風が流れ込み、花の香りが部屋に満ちる。
「……はい」
私は小さく頷き、毛布を抱きしめた。花の香りの向こうに、まだ見ぬ日々の匂いがした。
冷たい湿り気が、頬の泥に染みてゆく感覚で目を覚ました。背中には硬い根の節、指先には折れた枝のざらつき。鼻の奥を刺すのは、遠い街路では決して嗅がなかった、土の匂いと枯れ葉の腐香だった。喉は焼けつくように渇き、乾いた舌が歯の裏に貼りついて、うまく言葉がほどけない。ここがどこか、なぜ独りなのかを理解するまでに、しばしの時間が必要だった。
薄く目を開けると、木々は背の高い柱のように空へ伸び、梢の隙間から薄曇りの光が斑に落ちていた。裾は泥に重く、かつて王都の床を滑るように歩いた靴は、いまや色を忘れている。指輪の跡だけが白く細い薬指に残り、そこに存在したものの不在を語った。思い出そうとすると、胸の奥で鈍い音がして、世界がわずかに遠のく。
「……水……」
声は森に吸われ、自分にさえ届かないほど頼りなかった。身体を横向きに転がすと、視界の端で、濡れた苔に陽の光が一滴ずつ落ちているのが見えた。その緑の柔らかさに触れれば、王都の大理石よりも、心がわずかに楽になるのだと、そんなことを考える自分が妙に可笑しい。可笑しいけれど、笑う力はもう残っていない。
枝が折れる低い音が、背後でひとつ。風の音でも、獣の気配でもない、重みをともなった接近の気配が、落葉の表面を順序よく踏んでこちらへ近づいてくる。恐怖は遅れてやってきて、脈を早めるより先に視界の輪郭だけを鋭くした。私は息を殺し、泥の中に沈むように身を縮めた。
「……助け……て……」
それは祈りというより、言葉の形を借りた呼吸だった。次の瞬間、影が差し、私の頬に落ちていた光がすっと引いた。見上げると、銀灰の外套の裾と、磨かれた革の膝当てが視界を占め、ゆっくりと屈んでくる気配があった。顔を上げるほどの力はない。ただ、冷たい手袋の背が、泥を払うように私のこめかみの髪をそっと避けたのを、皮膚が覚えた。
「生きている」
低く短い声だった。驚くほど抑制されていて、感情の起伏は波紋ひとつ立てない湖面のようだ。けれど、その一言が、私にとっては救いの定義になった。生きている――つまり、まだ終わっていない。終わっていないのなら、ここからどこかへ運べる可能性がある。
「……み、ず……」
私は唇を動かし、乾いた音をいくつかこぼした。男は頷く気配だけを残し、腰の革袋の紐を解く。少しだけ傾けられた水は、滴のかたちで私の口元を濡らし、ひとしずくが舌に触れた瞬間、世界の彩度がほんの少し戻った。飲み込むたびに喉は軋み、胸の奥に小さな火が灯る。
「少しずつ」
彼はそう言って、焦りを抑えるように間を置いた。私はその間を埋めるように、胸の中で沈んでいた出来事の破片を順番に拾い上げる。王城の広間、花綱の下、元婚約者の冷たい視線、ざわめき、宣告、破片のような笑い声――そして、門の外、馬車の終点、風。そこから先は、ただ歩いた。歩いて、倒れた。
「……すみません……」
謝罪は、癖のように口をついて出る。男の影がわずかに動き、首を横に振った気配があった。彼の手が私の肩の下に差し入れられ、もう片方の腕が膝の裏をすくい上げる。身体が地面から離れる瞬間、泥が布からはがれる音が、嫌に大きく耳に残った。
「運ぶ」
短く、それだけ。私はその胸板の固さに驚きながら、頬を外套の内側の温もりに預けた。革の匂い、少し湿った布の匂い、そして微かに草を乾かしたような香り。揺れは大きくない。彼の足取りは一定で、落葉を踏む音が規則正しく刻まれる。私はそのリズムに合わせて、浅い呼吸を繰り返した。
「あなたは……どなた、ですか」
問う声は、葉擦れよりも弱かった。男は少しだけ息を吸い、答えを選ぶように間を置く。
「……通りすがりだ」
嘘ではないのだろう。あるいは、真実のすべてではないのだろう。私はそれ以上は聞かず、胸の奥の縛りが少し解けたことに甘える。森の空気は冷たく、けれど彼の腕の中の温度が、失ったものの数だけ増えてゆくような気がした。
「重く……ないですか」
「軽すぎる」
その言葉には、責める響きがなかった。ただの事実として告げられた「軽すぎる」は、私の喉奥の哀しみと触れ、音もなく溶けた。私は目を閉じ、まぶたの裏に、王都の白い柱廊を描いた。それはもう帰らない場所の形をしていて、不思議と静かだった。
風が、梢を渡った。肩に置かれた彼の指が、落ちかけた私の髪を外套の中へと押し戻す。ささやかな仕草に、痛むほどの優しさが宿っているのを知って、胸が熱くなる。私は、守られている。名前も知らない誰かに、状況の説明もないこの瞬間に、それでも確かに守られている。
「ありがとう……ございます」
礼の言葉は、意識の底に沈みかけながらも、どうしても伝えたかった。男は答えず、歩調を崩さず、ただ少しだけ腕に力を込めた。その沈黙は、言葉よりも雄弁なものとして、私の内部に静かに刻まれる。
枝がもう一本折れ、視界に薄い明るさが滲んだ。森の端が近いのだろう。私はわずかに顔を上げ、その先に広がるはずの光景を想像しようとした。けれど、瞼は重く、胸の奥から引き波のような眠気が押し寄せる。意識が薄くなってゆく縁で、私はたったひとつだけ、確かなことを掴んだ。
――この人の腕は、冷たい世界と私のあいだに、きちんと壁を作ってくれている。
△
風の向きが変わった。森の匂いに、乾いた石の粉のような感触が混じる。踏み固められた小径に出たのだと、揺れの質でわかる。私は外套の内側で浅く息をして、胸の鼓動を数えながら、薄い意識を水面に浮かべ続ける。落ちてしまえば楽だと知りながら、今ここから離れたくなかった。
「……下ろす。痛むところは」
男の声が、少しだけ近くなった。私は首を小さく振る。嘘ではない。痛みは全身に均等で、特定の場所が叫ぶことはない。ただ、寒さと空腹と喪失が、身体という容れ物の隙間すべてに入り込んでいるだけだ。
「息を吸って」
促され、私は肺の底に冷たい空気を落とした。胸がきしみ、背骨のひとつひとつが音を立てそうになる。けれど、その指示は不思議と安心を連れてくる。誰かの声に従うという行為が、こんなにも簡単に私を軽くするのだと、今さら知った。
「いい。ゆっくり」
彼は私を抱え直し、肩にかかる重心を調整する。動きはぎこちなくない。むしろ、訓練された兵が荷を扱う時のように、迷いがなく、丁寧だ。そのたびに、外套と頬のあいだで小さな摩擦が生まれ、温もりが擦れて増える。
「あなたは……騎士、さま……?」
言いながら、自分でも笑いそうになった。敬称がいつものように口をつき、状況の滑稽さに頬が熱くなる。男は短く息を吐く。肯定とも否定ともつかない、温度のない呼気だった。
「名は」
問う声に、私は少しだけ顎を上げた。名。それは、私がまだ私であるための細い糸だ。誰にも奪われてはいない。
「セリーナ……です」
木々の間を通り抜ける風が、その音をさらっていく。胸の奥で、その名がわずかに響き、戻ってきた。男はうなずいた気配を見せ、「覚えた」と、低く短く呟いた。その二語が、私の名を世界に留め置く杭になり、心がほどけていく。
「あなたは……」
「ライナルト」
その名は、彼自身のものにふさわしい音の重みを持っていた。硬く、直線的で、無駄がない。私はその響きを反芻し、舌の上でゆっくりと温める。ライナルト。私を抱え、森を抜け、小径を進んでいる男の名。名前がひとつ付与されたことで、世界が少しだけ親密になる。
「ライナルト……さま」
「呼び捨てでいい」
即答だった。私は小さく目を見開き、すぐに視線を落とす。呼び捨て――王都にいた頃には、誰に対してもほとんど許されなかった行為だ。けれど、彼の声に嫌悪はなく、ただ距離を誤解させまいとする直裁さがあった。
「……ライナルト」
「うん」
短い肯定が落ちる。私は思わず、外套の内側で微笑んだ。微笑むという動作が、これほどぎこちなく、そして甘いものだと、いつから忘れていたのだろう。肩に触れる彼の腕が、微かに緩み、また元の強さに戻る。その小さな起伏だけで、こちらの変化を受け止めてくれていることが伝わる。
「見えるか」
彼が顎をわずかに動かす。私は頬を外套の縁から少し出し、前方を見た。木々の向こうに、草地が開けている。遠くに低い石垣、そのむこうに赤茶の屋根が、いくつか並んでいるのが見えた。煙突から立つ煙が、薄い空にまっすぐ引かれてゆく。
「村……」
「近い」
ふっと胸が軽くなる。目的地が具体の形を帯びた瞬間、身体はそれを許容するように、痛みの音量を少し下げるのだ。私は外套の内側で深く息を吸い、鼻腔をすべる香りを確かめた。木の煙、藁、乾いた土、そして――
「花の、匂い……?」
失われかけた感覚のひとつが、くっきりと戻る。風に乗って、甘く淡い香りが届いていた。森の匂いとは別の、柔らかな色彩を持った香り。ライナルトは短く頷いた。
「春先から植える。まだ早い匂いが、残っている」
「花、お好き……なんですか」
「嫌いではない」
それだけを告げる声に、言葉に替えられなかった色がいくつか混じっているのを感じた。私はその色を無理に読み解こうとはせず、胸の内側でただ受け取る。私の中にも、言葉にしないで残したいものが、いくつもあるからだ。
「着く」
小径が石畳に変わり、靴底に固い反発が返る。視界の端に人影が増え、遠くの井戸端で誰かの笑い声が弾ける。私は外套の陰から世界を盗み見るように眺め、その賑やかさに心がふるえた。ここは、私がもう知らない世界だ。けれど、恐れと同じくらい、安堵があった。
「……本当に、ありがとうございます」
「礼は、あとでいい」
ライナルトは足を止めない。声も、歩幅も変わらない。ただ、その均質さが、いまの私にはいちばんの救いだった。世界が揺れたり、私を試したりしないことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
「もう少しだけ、抱えていても……いいですか」
「うん」
彼の返事は、風の音に溶けるほど短かった。けれど、その短さのなかに、拒絶の刃は一本もなかった。私は外套の縁を指先でつまみ、そこに宿る体温を確かめる。森から村へ、影から光へ。移ろいの境目を越えるこの時間が、どうか壊れずに続くようにと、祈る。
◇
石畳の上で、彼の足音がゆっくりと落ち着いた。体を支えていた腕が、ごく慎重に角度を変える。私はそれを合図に、外套の陰から顔を出し、目の前に迫る木の扉を見た。濃い色の木目に、何度も磨かれた跡が柔らかく光る。取っ手の鉄は手に馴染む形をしていて、誰かが日々ここから出入りした時間の厚みが、静かに宿っていた。
「少し、冷える」
ライナルトはそう言って、扉の前の庇の影に私を抱えたまま立ち止まる。庇を打つ風の音が変わり、耳に当たる空気の温度が数度やわらぐ。私は胸の奥で息を吐き、硬くなっていた肩の力を下ろす。近くで、誰かの足音がこちらに寄ってきた。
「ライナルトさ――あら、女の子?」
澄んだ驚きの声。私は反射的に外套の合わせを指で握り、顔を半分だけ向ける。目が合ったのは、頬にそばかすのある栗色の髪の女性だった。彼女は私とライナルトを見比べ、事情を一瞬で飲み込んだように頷いた。
「お水と、温かい布を持ってくるね」
「頼む」
ライナルトの返事は簡潔で、けれどそこに信頼があった。女性は素早く走り去り、すぐに木の床板を叩く足音が遠のく。私はその背中を見送り、彼の腕の中でわずかに位置を直した。
「ここは……あなたの、家……?」
「詰所。俺の部屋もある」
詰所。言葉の意味が胸の中でほどける。騎士団――彼はやはり、その一部なのだ。無口で、訓練された動きで、必要なものだけを言う人。私は胸の奥で小さく頷き、自分の声が震えないように確かめる。
「お世話に……なってしまって」
「気にするな」
言われても、気にするものは気になる。けれど、その「気にするな」には、突き放す冷たさがなかった。むしろ、受け止めるために空けてくれた空白のようなものがあって、私はそこにそっと身を置く。
扉の向こうから、さきほどの女性が戻ってきた。腕には陶器の碗と、湯気の立つ布。ライナルトは片腕で私を支えたまま、もう片方の手で扉を足先で押し開ける。木が軋む優しい音とともに、私たちは庇の影からさらに柔らかな空気の中へ足を踏み入れた。空気には、干した草と石鹸と、微かな花の香りが混じっている。
「座れるか」
「……やってみます」
彼は私をゆっくりと降ろし、腰を支えながら長椅子の端に座らせる。木肌は温かく、布のクッションがかすかに沈んだ。私は背筋を壁に預け、指先を膝の上で重ねる。女性がそっと近づき、濡れ布を私の額に当てた。熱が逃げ、皮膚が呼吸を覚える。
「ありがとう、ございます」
「いいのよ。私はマルタ。ここで手伝ってるの」
「セリーナです」
名前を言うと、マルタは嬉しそうに笑った。その笑いは、私の名を歓迎する音をしていて、胸があたたかくなる。ライナルトは近くの棚から白い布を取り出し、私の肩にかけた。手の動きは相変わらず無駄がなく、しかしどこか頼りになる不器用さがある。
「食べられるか」
「少しだけなら……」
マルタが小さな碗を差し出し、中には白い粥がとろりと湯気を立てている。匙を受け取り、口元へ運ぶ。ひと口目が喉を通る瞬間、身体はそれを待っていたかのように素直に受け入れ、視界の端がにじんだ。私は涙をこぼさないように、ゆっくりと二口、三口と続ける。
「ゆっくりでいい」
ライナルトの声は、相変わらず短い。けれど、その短さがいまの私にはぴったりだった。余計な言葉は、余計な痛みを呼ぶ。必要な言葉だけが、必要な場所に届けば、世界はそれで十分やさしくなる。
「少し休め。話は、それからでいい」
彼はそう言って、扉の方へ視線を落とした。外はまだ薄曇りで、庇の外側を撫でる風の音が細く続いている。私は匙を碗に戻し、深く息をする。胸の内側に、先ほど森の中で掴んだ確かな感覚が、もう一度芽吹いた。
――ここなら、呼吸していてもいい。
目を閉じると、まぶたの裏に薄い色の花弁が散った。香りの出どころを探そうとして、私はそっと鼻先を動かす。どこかで、乾いた束を指でほぐす音がした。ライナルトの手か、マルタの手か、特定はしない。それよりも、この音のする場所に、自分が座っているという事実が、いまの私には救いだった。
外套から伝わる彼の体温は、もう私の皮膚になじんでいた。私は肩の白布を握り、細く笑う。笑える、というだけで、胸が痛いほど嬉しかった。彼の気配が、半歩だけ近づいた。言葉はなかった。けれど、それで十分だった。
△
静かな室内に、薪の燃える音がひとつ、またひとつと弾けた。炎が赤く揺れて、壁にかけられた古い盾と槍の影を長く伸ばす。木の香りと灰の香りが混じって、かすかに甘い。私は長椅子の上で体を少しずらし、布の端を指でなぞった。指先の感覚が戻ってきて、ようやく自分の手が自分のもののように思えた。
ライナルトは暖炉のそばで外套を脱ぎ、無言のまま濡れた裾を絞っていた。肩の線が広く、背中の動きにためらいがない。静けさの中にある男の存在感は、不思議と騒がしくない。むしろ、その沈黙がこの空間を支えているように感じた。マルタが湯を沸かしている音が、奥の小部屋から聞こえる。私は息を整え、そっと彼を見た。
「あの……」
声を出すと、彼の動きが止まる。灰色の瞳がこちらを向いた。その視線は冷たくも厳しくもなく、ただ観察するように静かだ。
「助けていただいて、本当に……ありがとうございます」
「気にするな」
その一言はやっぱり短くて、けれど芯があった。私は口元に微笑みを浮かべ、視線を膝の上に落とした。指先を重ねると、肌の上に泥の痕がうっすら残っている。指で擦ると、泥の向こうに白い肌が現れた。王都で過ごした日々の、何もかもが遠く思える。
彼は手を拭きながら、暖炉の前にしゃがみ、鉄製のポットを持ち上げた。中で湯が静かに湧いていて、金属の口から立ちのぼる湯気が揺れる。
「温かいものを飲め。体が冷えている」
マルタがすぐに戻ってきて、小さな木のカップを差し出した。薄茶色の液体から、ほのかに花の香りが立つ。
「これは……?」
「ハーブ茶よ。乾いた野花を煮出したの。お腹にも優しいわ」
私は両手でカップを受け取り、ゆっくりと口をつけた。熱が舌を撫で、喉の奥を落ちていく。飲み下すたびに、心臓の鼓動が静かに戻ってくる。
「……おいしいです」
「そりゃよかった。顔色が少し戻ったね」
マルタの柔らかな笑みに、私も自然と頬が緩んだ。言葉を交わすことが、こんなにも心を温めるものだとは忘れていた。
「もう少し休ませてもらって……体力が戻ったら、どこか働ける場所を探します」
そう言うと、マルタはあきれたように眉を上げた。
「まだそんなこと言ってるの? まずは寝ること。働くのは元気になってからでいいの」
その叱るような優しさに、胸が締めつけられた。私は素直に頷き、カップを抱えたまま視線を落とした。ライナルトはそのやり取りを黙って見ていたが、やがて立ち上がって扉の方へ向かった。
「どこへ……」
「厩舎。馬を見てくる」
短くそう言って、彼は外套を手にした。外の風が一瞬、扉の隙間から吹き込み、炎の灯りを揺らす。その背に、わずかに光が走った。
「戻る。すぐだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。たったそれだけの約束が、今の私には大きな意味を持つ。扉が閉まると、部屋の中はまた静かになった。薪の弾ける音が再び、時を刻むように響く。
マルタが私のそばに座り、カップを指差した。
「全部飲んじゃって。飲めば少し眠くなるわ」
「ありがとうございます」
言葉を交わしていると、不意に胸の奥から込み上げてくるものがあった。喉の奥で熱が滲み、視界がわずかに歪む。マルタは気づいたように、何も言わずに肩をぽんと叩いた。
「泣いてもいいのよ」
その言葉で、堰が切れた。音もなく、涙が頬を伝って落ちる。王城の冷たい石の床で泣いたときとは違う。いま流れているのは、悲しみよりも、安堵に近いものだった。誰かがいる場所で泣けることが、これほど幸せだなんて。
「大丈夫。ここは安全よ」
マルタの声がやさしく揺れる。私はうなずきながら、涙を指で拭った。
そのとき、外の扉が音を立てて開いた。冷たい風とともに、ライナルトが戻ってくる。腕には厚手の毛布があり、それを迷いなく私の膝にかけた。
「冷える」
「ありがとうございます……」
彼はそれ以上何も言わず、暖炉の火を見つめていた。橙色の光が彼の横顔を照らし、静かな影を落とす。寡黙な男。その沈黙が不思議と心地よい。言葉を重ねずとも、空気がやさしく満ちていく。
私は毛布を胸元まで引き寄せ、指先でその柔らかさを確かめた。羊毛のぬくもりが皮膚を通して広がっていく。まぶたがゆっくりと重くなり、頭が傾く。
「……少し、眠ってもいいですか」
「構わない」
ライナルトは短く答え、暖炉の火を少しだけ調整した。火がぱちりと音を立て、部屋の明かりが柔らかくなる。私はその灯りの中で目を閉じた。胸の奥で微かな鼓動が続き、世界がゆっくりと遠ざかっていく。
眠りに落ちる直前、彼の低い声がかすかに聞こえた。
「……よく、生きてたな」
夢と現のあいだで、その言葉が心に沈み、柔らかく広がった。
◇
目を開けたとき、窓の外は淡い金色の光で満ちていた。夜が明けたのだ。私は毛布に包まれたまま、ゆっくりと身体を起こす。頭の重さは消えていて、体の中に静かな熱が宿っている。
室内には、朝の空気が流れ込んでいた。木の机の上には、小さな花瓶。中には白い小花が一輪、揺れている。昨日のあの花の香りだ。私は思わず微笑み、頬に触れた。涙の跡は乾いていた。
「起きたか」
低い声に顔を上げると、ライナルトが窓際に立っていた。光を背に受けた姿は、どこか柔らかく見える。彼は静かに手を動かし、木の皿を差し出した。そこにはパンと、薄く切られた干し肉。
「少しでも食べろ」
「ありがとうございます」
手を伸ばすと、パンはまだ温かかった。噛むと小麦の甘さが広がり、目の奥が熱くなる。あの王城の食卓では、決して味わえなかった温度だ。
「どのくらい眠っていたんでしょう」
「半日」
そう言って、彼は壁にかけられた剣の鞘を見た。朝の光に反射して、刃の線が細く光る。
「体はどうだ」
「……楽になりました」
素直にそう言うと、彼はほんのわずかに頷いた。その頷きが、何よりの報酬のように思える。
私はパンを食べ終え、手を膝の上に置いた。沈黙の中で、花瓶の花が風に揺れる。柔らかい朝の空気が流れ、遠くで鳥の鳴き声がした。
「……ここは、どこなんですか」
「辺境の村、グレイス領。王都から三日ほど」
その名を聞いた瞬間、胸の奥に現実が戻ってきた。追放。王都には、もう私の居場所はない。けれど、その現実が以前ほど痛くは感じなかった。
「しばらく、ここにいればいい」
ライナルトの言葉に、思わず彼を見上げた。
「いいんですか?」
「怪我もある。体力を戻せ」
それだけ言って、彼は窓を開けた。春の風が流れ込み、花の香りが部屋に満ちる。
「……はい」
私は小さく頷き、毛布を抱きしめた。花の香りの向こうに、まだ見ぬ日々の匂いがした。
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