婚約破棄され追放された令嬢の私、異世界の辺境で無口な騎士団長に拾われ花畑を作るうちに愛されすぎて困ってます――ざまぁは風に流してスローライフ

さら

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第2話 無口な騎士団長と辺境の小屋

 春の風が、まだ冷たい。朝日が低く差し込み、窓辺の花瓶に射し込む光が、水面をきらめかせた。私はベッドの上で身を起こし、昨夜の出来事をひとつずつ確かめるように指先で触れた。粗末な木の壁、手縫いの毛布、焼きたてのパンの香り――すべてが王都とはまるで違う。けれど、それが不思議と心地よかった。

 扉の外からは、遠くで鍬の音が聞こえる。規則正しく土を打つ音が、朝の静けさを刻むように続いていた。ライナルトが、もう外で働いているのだろう。あの大きな背中が、土を耕している姿を思い浮かべると、胸の奥がくすぐったくなる。私は毛布を整え、小さく深呼吸をした。

 身を起こして足を床につけると、木の床は少しひんやりしていた。足元の感触が現実を伝え、私はようやく「生きている」と実感する。マルタが用意してくれた服が、椅子の上にたたまれていた。厚手の麻布のワンピースに、柔らかな布のエプロン。手に取ると、洗いたての草の香りがする。

「似合うと思うわよ、それ」

 振り向くと、マルタがドアの隙間から顔を覗かせていた。栗色の髪を後ろでまとめ、明るい笑みを浮かべている。

「おはようございます」
「おはよう、セリーナ。よく眠れた?」
「ええ……とても」

 そう答えると、マルタは満足げにうなずき、手に持った木の盆を掲げた。

「朝食を持ってきたの。スープとパン、それから蜂蜜」
「蜂蜜……!」

 思わず声が弾んだ。王都でも高価なものだった。マルタはいたずらっぽく笑い、パンの上に金色の蜜を垂らした。光がそれを透かし、淡い琥珀のように輝く。

「村の養蜂場で採れるの。辺境って言っても、けっこう恵まれてるのよ」
「すごく……きれい」

 私は小さく呟き、ひと口かじった。ふわりと広がる甘さが、喉の奥を溶かしていく。まるで冬の間に閉ざされていた心まで解けていくようだった。マルタはそんな私を見て、少し目を細める。

「ねえ、セリーナ。王都で何があったの?」

 その問いに、スプーンを持つ手が止まる。空気がほんの少しだけ、重くなった。けれど、マルタの声には詮索の棘がなかった。むしろ、ただ寄り添いたいという温度があった。私は少しだけ息を吸い、静かに答える。

「婚約を……破棄されました」
「……そう」
「もう、王城にも……居場所がなくて。国外追放という形に」

 マルタは驚きもせず、ただ黙って聞いていた。湯気の向こうで、彼女の目がやさしく揺れる。
「ひどいことをするわね。でも、あなたがこうしてここに来られたのも、何かの導きかもよ」
「導き……」
「そう。だって、うちの隊長に拾われるなんて、なかなかないことだもの」

 私はスプーンを止めて顔を上げる。
「……隊長?」
「ライナルトのこと。グレイス辺境騎士団の団長なのよ」

 その言葉に、胸がどくんと鳴った。確かに、彼の立ち居振る舞いにはただ者でない静けさがあった。マルタは肩をすくめるように笑う。

「みんなあの人のこと、無口な鉄の隊長って呼んでるわ。怖い人だと思ってる子も多いけど、本当は誰よりも優しいのよ」
「……そんな気がします」

 昨夜の光景が脳裏に蘇る。外套の温もり、言葉の少ない優しさ。私は胸の奥をそっと押さえた。マルタは私の様子を見て、ふっと笑う。

「気になるのね?」
「ち、違います。ただ……助けてもらっただけで」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」

 マルタがからかうように言って、立ち上がる。
「元気になったら、庭の方を見てごらんなさい。隊長、いつも朝は畑を見に行くから」
「……畑?」
「そう、花畑。あの人、ああ見えて花を育てるのが好きなのよ」

 思わず息を呑む。あの無骨な男が、花を――?
 マルタは私の表情を見て満足そうにうなずき、扉を開けて出ていった。

 残された私は、胸の鼓動を確かめるように手を当て、ゆっくりと立ち上がる。窓から見える外は、まだ朝の光が柔らかい。遠くで鳥が鳴き、空気が清らかに澄んでいる。

 扉を開けて外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。小屋の前には細い道が延び、その先に小さな畑が広がっている。ライナルトの姿はすぐに見つかった。背の高い体を少し屈め、土を掘り返している。

 手にした鍬が日差しを受けて光り、動きに無駄がない。無口で寡黙なその姿は、戦場よりも、むしろこの静かな土地に似合っていた。私は足を進め、彼の背中に近づいた。

「あの……おはようございます」

 声をかけると、彼はゆっくりと動きを止め、振り返った。朝の光がその顔にかかる。灰色の瞳が一瞬だけ細められ、視線が私を確かめるように動いた。

「起きたか」
「はい。マルタさんが朝食を持ってきてくださって……おいしかったです」
「そうか」

 それだけ言って、また土を掘り返す。会話はそれで終わり――そう思ったが、彼は続けた。

「体の具合は」
「もう平気です。……あの、本当にありがとうございます」
「礼はいらない」

 またその言葉。私は苦笑し、土の上に咲きかけた小さな白い花を見た。
「この花……何という名前なんですか?」
「風花草。冬を越えて最初に咲く」
「強い花なんですね」
「そうだ」

 短く答えたあと、彼は鍬を置いて立ち上がる。陽光の中で、鎧の金具がわずかに光った。
「この辺りは寒い。だが、春になれば花畑が見事になる」
「花畑……」
「手が足りない。マルタや村の者も手伝うが、広い」

 少しの沈黙のあと、私は意を決して口を開いた。
「もし、私でよければ……手伝わせてください」

 ライナルトの瞳が、わずかに動いた。
「できるのか」
「ええ。王都では花を飾ることはあっても、育てることはありませんでした。でも……やってみたいんです」

 言葉に、自分でも驚くほどの力がこもっていた。彼はしばし無言で私を見つめ、やがて小さく頷いた。

「なら、明日から」
「はい」

 短いやり取り。それでも、心の中に小さな灯りがともった気がした。風が吹き、白い風花草の花びらがひとつ、私の足元に舞い落ちる。

 私はそれを拾い上げ、胸に当てた。

 ――この場所で、もう一度、咲けるかもしれない。





 翌朝は霧が深かった。夜明けとともに、小屋の窓の外は白い靄で包まれていた。空気はひんやりとして、吐く息が淡く白くなる。私は麻のワンピースを羽織り、髪を後ろでまとめた。鏡などないから、指先の感覚で編み込みを整え、深呼吸をする。今日から花畑づくりを手伝うのだ。胸の奥が少しだけ高鳴っていた。

 扉を開けると、湿った空気が肌を包む。空はまだ曇っているが、東の端がわずかに光り始めている。足元の小道を進むと、畑のほうから金属の音が響いた。鍬が石を打つ乾いた音――ライナルトのものだ。私は泥の上を慎重に歩きながら近づき、声をかける。

「おはようございます」

 彼は振り向かずに小さく頷き、鍬を止めた。霧の中でも背筋がまっすぐで、肩の線がはっきりと見える。外套の袖をまくり、腕には土の筋がついていた。その手が、意外にも繊細に動いているのを見て、少しだけ胸が熱くなる。

「霧が濃いですね」
「すぐ晴れる」

 短く答えた声は低く落ち着いていて、霧の中でもはっきり届いた。私は小さく頷き、用意してもらった小さな鍬を持つ。

「どこを掘ればいいですか?」
「そこ。石を避けて、柔らかくしておく」

 彼が指し示した場所は、まだ荒れている区画だった。踏み固められた土をほぐすのはなかなか大変だ。けれど、体を動かすうちに指先が温まり、冷えた体が次第に軽くなっていく。

 霧の中で二人の鍬の音だけが響いた。鳥の声も遠くでぼんやりしている。私は土を掘り返しながら、時折ライナルトの動きを盗み見た。無駄のない所作。力任せではなく、呼吸のように自然だ。

「……慣れてるんですね」

 思わず漏らした声に、彼は手を止めずに答える。
「昔からだ」
「花畑を作るのも?」
「剣より長く続けている」

 剣よりも――その言葉に意外さと温かさが混ざる。彼の灰色の瞳の奥には、静かな情熱が宿っているように見えた。

「花が、好きなんですね」
「戦が終われば、土が残る。土を耕せば、花が咲く」

 まるで詩のようなその言葉に、胸の奥がふわりと揺れた。王城では聞いたことのない種類の言葉だった。

「素敵です……」

 小さく呟くと、ライナルトの肩がわずかに動く。照れているのだろうか。けれど、彼は何も言わずに鍬を振り続けた。

 しばらくして霧が晴れ始める。空の色が淡い青に変わり、木々の葉が光を受けてきらめく。空気が少し温かくなり、鼻先に花の香りが届いた。

「……あれ」

 視線の先、畑の隅に黄色い花がひとつ咲いていた。小さく、けれど鮮やかに。私は駆け寄り、膝をついて覗き込む。

「きれい……」
「冬を越えた強い花だ。踏まれても、起き上がる」

 ライナルトの声が、背後から静かに落ちる。私は振り向き、その言葉を胸の中で繰り返した。踏まれても起き上がる――まるで自分のことのようだった。

「私も……そうなれるでしょうか」
「なれる」

 即答だった。彼の瞳に迷いはない。その短い一言が、どんな長い励ましよりも力強かった。

 そのとき、遠くでマルタの呼ぶ声がした。
「セリーナー! お昼のスープ、できたわよー!」

 私は顔を上げて手を振る。ライナルトも鍬を置き、軽く息を整えた。額に汗が光る。

「休憩にしましょうか」
「ああ」

 二人並んで小屋へ戻る。歩幅が違うから、私は少し急ぎ足になるが、彼はさりげなく歩調を合わせてくれた。そのことに気づいた瞬間、胸がまた熱くなる。

 小屋の前では、マルタが木のテーブルにスープを並べていた。湯気が風に流れ、スープの香りが漂う。野菜とハーブの優しい匂い。

「さ、食べて。今日は人参がよく煮えたわよ」
「ありがとうございます」

 椅子に腰を下ろし、スプーンを手に取る。口に含むと、甘みが広がり、冷えた体に染みわたる。隣でライナルトも静かにスプーンを運んでいる。黙っていても、不思議と居心地がよかった。

「セリーナ、王都の料理はもっと華やかだったでしょう?」
「ええ……でも、私はこっちのほうが好きです」
「本当に?」
「はい。温かくて、優しい味がします」

 そう言うと、マルタは満足そうに笑い、ライナルトは少しだけ視線を上げた。その灰色の瞳が一瞬だけ柔らかくなり、すぐにスープに戻る。私はその変化に気づかないふりをした。

 昼食を終えると、マルタが鍋を片づけに戻り、畑にはまた二人だけになった。空は晴れ渡り、風が軽く吹き抜けていく。私は鍬を手に取り、再び土を掘る。ライナルトは少し離れた場所で花の種を選っていた。

「それは、どんな花の種なんですか?」
「リリア。春の終わりに咲く」
「リリア……聞いたことがあります。白い花ですよね」
「そうだ。陽の光で香りが変わる」

 そう言って、彼は小さな袋から種をひと粒取り出し、掌の上で見せた。指の間で転がすその手の動きが、不思議なほど丁寧だった。まるで命を扱うように。

「セリーナも、植えてみるか」
「いいんですか?」
「好きな場所を選べ」

 私は少し考えてから、畑の中央の空いた場所を選んだ。膝をついて、指先で小さな穴を掘り、種を置く。その上に土をそっとかぶせる。

「……こんな感じで?」
「悪くない」

 短い評価に思わず笑ってしまう。ライナルトもわずかに口元をゆるめたように見えた。

「咲くといいですね」
「ああ。咲く」

 彼の声には確信があった。その確信が、まるで魔法のように聞こえる。私は胸の中でその言葉を大事にしまい込んだ。

 空には白い雲が流れ、風が花畑を撫でていく。遠くの山々が霞んで見えた。世界がゆっくりと動いている。

「……ねえ、ライナルト」
「なんだ」
「あなたの夢は、何ですか?」

 彼は鍬を止め、少しだけ考えるように視線を落とした。
「夢、か」
「はい」
「昔は、戦を終わらせることだった」
「今は?」
「今は……花を咲かせることだ」

 それはあまりにも静かで、あまりにも美しい答えだった。私は息を呑み、胸の奥がじんと温かくなる。

「……素敵です」

 彼は返事をせず、ただ遠くを見つめていた。その横顔を見ながら、私はそっとリリアの芽吹く土を撫でた。

 いつかこの花が咲くとき、私の心もまた新しい色で満たされる気がした。



 午後の陽が傾きはじめると、土の色がゆっくりと金色に変わった。掘り返した畑の列が夕光を反射し、空気にはほのかな草と土の匂いが漂っている。鳥の鳴き声が山の方からこだまのように返ってきて、村全体が柔らかく息をしているようだった。私はスカートの裾をつまみ上げ、土で汚れた手を膝の上で拭った。

「ここまでで、今日は終わりだ」

 ライナルトの低い声が風の中に混じる。肩で息をして振り返ると、彼は鍬を背に立っていた。額には汗が光り、袖をまくった腕に筋が浮いている。夕日を背に受けると、灰色の瞳がわずかに琥珀のように染まって見えた。

「ずいぶん広がりましたね」
「お前の手が早い」
「……そんな、たいしたことしてません」

 そう言いながら、私は足元のリリアの種を埋めた列を見た。まだ何の芽も出ていないけれど、この土の下には確かに命が眠っている。それを思うと、胸の奥が温かくなった。

「最初の芽が出るまで、一週間ほどだ」
「そうなんですね。……待ち遠しいです」

 風が吹き抜け、彼の外套の裾を揺らす。髪が頬にかかり、私は慌てて押さえた。その仕草を見て、彼はほんの少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。けれど、何も言わずに視線を空に向けた。

「この季節は風が強い。苗が折れないよう、柵を立てておく」
「わたしも手伝います」
「明日でいい」

 彼はそう言いながら、土の上に落ちた木の杭を拾い上げた。手の甲には古い傷跡が一本走っている。戦いの名残なのだろう。けれど、その手が今は花を守るために動いていることに、不思議な安堵を覚える。

 沈黙の中で、遠くの鐘が三度鳴った。村の夕刻を告げる音だ。ライナルトが肩の鍬を下ろし、小屋の方を振り返る。
「戻るぞ」
「はい」

 二人で並んで歩く道は、ほんのわずかに下り坂になっていた。小さな石を蹴るたびに、乾いた音がする。村の家々の煙突からは、細い煙が立ち上っていた。あの中に、確かな生活の匂いがある。

「セリーナ」

 名前を呼ばれ、私は顔を上げた。彼は前を向いたまま、少しだけ口を開く。
「無理はするな」
「はい」
「……あの花畑は、誰かが笑う場所であってほしい」

 思わず立ち止まった。彼の言葉は、柔らかいのに深く胸に残る。
「誰か、ですか」
「お前でも、子どもでも、旅人でもいい。花を見て笑えるなら、それで十分だ」

 その静かな願いに、胸の奥がじんわりと熱くなる。彼の横顔は夕日に染まり、影が長く伸びていた。私は小さく微笑み、言葉を返した。

「じゃあ、私もその『誰か』になりますね」

 彼は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、やがて頷いた。
「……そうしてくれるといい」

 それだけで十分だった。私の中で、何かが確かにほどけていく。追放された令嬢ではなく、ひとりの人間としてここにいるという実感。王都では決して得られなかった、静かな幸福の形。

 小屋に戻ると、マルタが暖炉の火を整えていた。
「おかえり。夕飯、もう少しでできるわよ」
「ただいま戻りました」
「まぁ、泥だらけ。洗ってらっしゃい」

 私は笑いながらうなずき、桶に汲まれた水で手を洗う。冷たい水が指先を撫で、泥が流れていく。その感触が、まるで過去の痛みまで洗い流してくれるように思えた。

 マルタが差し出したタオルで手を拭くと、ふと窓の外に目がいく。西の空が朱に染まり、畑の方が金色に輝いていた。

「きれい……」

 思わずこぼれた声に、ライナルトが窓辺へ視線を向ける。夕陽を受けて、彼の髪が淡く光った。

「明日も晴れる」
「ええ」

 私は頷き、心の中で静かに祈る。――どうか、この日々が長く続きますように。

 暖炉の火がパチパチと鳴り、夜の始まりを告げるように影が揺れた。マルタの作るスープの香りが部屋を満たし、私の胸の奥に小さな幸福が灯る。追放も、失意も、もう遠い過去の出来事のようだった。

 ライナルトが無言で木の椅子を差し出す。
「座れ」
「ありがとうございます」

 私は腰を下ろし、火の明かりに包まれながら手を温めた。炎のゆらぎが、彼の瞳に反射して淡く揺れる。沈黙の中でも、心は穏やかだった。

「……ライナルト」
「ん」
「この村に来て、本当によかったです」
「そう思えるなら、それでいい」

 短いやり取りなのに、胸の奥が満たされていく。彼の言葉には、余計な飾りがないからこそ、まっすぐに届く。

 その夜、私は初めて安らかに眠った。夢の中で、風花草が咲き誇る花畑の光景を見た。陽光の中、笑っている自分の姿を見つけた気がする。

 目を覚ますころ、夜明けの空は薄い桃色に染まり始めていた。鳥が一斉に鳴き、窓辺の花瓶に差したリリアの蕾が、ほんのわずかに開いていた。

 私はそっと息をのむ。胸の中で小さくつぶやいた。

「――おはよう、春」

 その声は誰に聞かれるでもなく、けれど確かにこの世界に溶けていった。

 そして、今日もまた、花畑を作る日が始まる。
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