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第5話 迫る異変
夜明け前、目を覚ますと、家の中が妙に張り詰めていた。静かではあるが、昨日までの穏やかな静けさとは違う。空気が薄く引き伸ばされたような感覚が、肌にまとわりつく。俺は身を起こし、耳を澄ました。風の音はある。だが、その奥に、規則的ではない揺らぎが混じっている。
「……動いてるな」
呟きながら立ち上がり、外套を羽織る。扉を開けると、まだ薄暗い村の中で、家畜が落ち着きなく動いているのが見えた。牛が鼻を鳴らし、鶏が早すぎる時間に羽音を立てている。動物は、人より先に異変を感じ取る。冒険者時代に、何度も見てきた光景だ。
井戸の方から足音がして、誰かが駆け寄ってくる。
「ガルド!」
バルトだった。息が上がり、顔色が悪い。
「森の方で、変なんだ。見回りの若いのが戻らねえ」
俺は頷き、すぐに状況を整理する。夜明け前、森、戻らない見回り。嫌な条件が揃っている。
「人数は」
「二人だ。無茶はするなと言ったんだが……」
「案内してくれ」
俺は短く言った。剣を抜く気はなかった。ただ、腰に手を当てると、体が自然に動く準備を始める。
村外れから森へ向かう道は、朝靄に包まれていた。木々の間に、黒い影がいくつも重なって見える。足を踏み入れた瞬間、はっきりとした違和感が走った。獣の匂いが、濃すぎる。
「……群れだな」
俺の言葉に、バルトが唾を飲み込む音が聞こえた。
「鹿じゃねえのか?」
「違う。これは……」
言葉を切った。説明するまでもなく、森の奥から低い唸り声が響いた。狼だ。それも一頭や二頭じゃない。
「魔狼か……」
バルトが呻く。
「この辺りには、出ねえはずだ」
「環境が変わったんだろう」
原因は分からないが、結果は目の前にある。俺は足を止め、周囲の地形を頭に叩き込んだ。木の配置、下草の高さ、風向き。視界の端で、黒い影が動く。
「バルト、ここから先は来るな」
「だが——」
「村を頼む」
俺はそう言って、一歩前に出た。拒否される前に動いた方がいい。
唸り声が近づく。魔狼が姿を現した。灰色の毛並みに、赤く濁った目。飢えと興奮が混じった視線が、こちらを捉える。数は……七、いや八。
「多いな」
剣を抜かず、腰を落とす。逃げ道は、作らない。逃がさないためじゃない。追わせないためだ。
最初の一頭が飛びかかってきた。俺は一歩踏み込み、地面を蹴る。踏み込みの瞬間、周囲の空気が、わずかに歪んだ気がした。
「……?」
考える暇はない。拳を突き出すと、魔狼の顎に綺麗に入った。骨が砕ける感触が、掌に返る。魔狼は悲鳴も上げず、地面に転がった。
残りが、一斉に動きを止めた。
「……来ない?」
俺は呼吸を整え、足元の土を踏みしめる。地面が、やけにしっかりしている。滑らない。視界も、妙に澄んでいる。
魔狼たちは、距離を保ったまま、円を描くように動き始めた。だが、どこか落ち着かない。威嚇はするが、踏み込んでこない。
「……そうか」
理由は分からないが、俺の周囲が、安全域として認識されているらしい。昔、魔物の巣を制圧したときにも、似た感覚があった。
「戻れ」
低く言う。命令するつもりはなかった。ただ、そう口に出た。
魔狼の一頭が、びくりと身を震わせた。次の瞬間、森の奥へと駆け出す。残りも、それに続いた。
森に静けさが戻る。あまりにも、あっさりだ。
「……終わったな」
俺は息を吐き、倒れた魔狼を一瞥した。息はない。
遅れて、茂みの奥から人影が現れた。見回りの若者二人だ。顔色は悪いが、怪我は軽そうだ。
「お、おっさん……?」
「帰るぞ」
それだけ言って、踵を返す。
村に戻ると、すでに人が集まり始めていた。不安と期待が入り混じった視線が、俺に向けられる。
「魔狼は?」
誰かが聞いた。
「しばらくは来ない」
それだけ答える。嘘じゃない。根拠はないが、確信があった。
人々はざわめき、やがて安堵の息が広がる。バルトが俺の肩を掴んだ。
「……助かった」
「偶然だ」
そう言って、肩から手を外させる。持ち上げられるのは、慣れていない。
その日の昼、村は妙な落ち着きに包まれていた。危機が去った直後の、張り詰めた静けさだ。俺は家に戻り、焚き火を起こす。
火を眺めながら、朝の感覚を思い返す。拳の感触、空気の歪み、魔狼の反応。
「……年の功、か」
そう結論づける。深く考える気はなかった。
外では、村人たちがいつもより小さな声で話している。視線が、時折こちらに向けられるのを感じながら、俺は鍋をかき混ぜた。
何かが、少しずつ動き始めている。そんな予感だけが、胸の奥に静かに残っていた。
夜明け前、目を覚ますと、家の中が妙に張り詰めていた。静かではあるが、昨日までの穏やかな静けさとは違う。空気が薄く引き伸ばされたような感覚が、肌にまとわりつく。俺は身を起こし、耳を澄ました。風の音はある。だが、その奥に、規則的ではない揺らぎが混じっている。
「……動いてるな」
呟きながら立ち上がり、外套を羽織る。扉を開けると、まだ薄暗い村の中で、家畜が落ち着きなく動いているのが見えた。牛が鼻を鳴らし、鶏が早すぎる時間に羽音を立てている。動物は、人より先に異変を感じ取る。冒険者時代に、何度も見てきた光景だ。
井戸の方から足音がして、誰かが駆け寄ってくる。
「ガルド!」
バルトだった。息が上がり、顔色が悪い。
「森の方で、変なんだ。見回りの若いのが戻らねえ」
俺は頷き、すぐに状況を整理する。夜明け前、森、戻らない見回り。嫌な条件が揃っている。
「人数は」
「二人だ。無茶はするなと言ったんだが……」
「案内してくれ」
俺は短く言った。剣を抜く気はなかった。ただ、腰に手を当てると、体が自然に動く準備を始める。
村外れから森へ向かう道は、朝靄に包まれていた。木々の間に、黒い影がいくつも重なって見える。足を踏み入れた瞬間、はっきりとした違和感が走った。獣の匂いが、濃すぎる。
「……群れだな」
俺の言葉に、バルトが唾を飲み込む音が聞こえた。
「鹿じゃねえのか?」
「違う。これは……」
言葉を切った。説明するまでもなく、森の奥から低い唸り声が響いた。狼だ。それも一頭や二頭じゃない。
「魔狼か……」
バルトが呻く。
「この辺りには、出ねえはずだ」
「環境が変わったんだろう」
原因は分からないが、結果は目の前にある。俺は足を止め、周囲の地形を頭に叩き込んだ。木の配置、下草の高さ、風向き。視界の端で、黒い影が動く。
「バルト、ここから先は来るな」
「だが——」
「村を頼む」
俺はそう言って、一歩前に出た。拒否される前に動いた方がいい。
唸り声が近づく。魔狼が姿を現した。灰色の毛並みに、赤く濁った目。飢えと興奮が混じった視線が、こちらを捉える。数は……七、いや八。
「多いな」
剣を抜かず、腰を落とす。逃げ道は、作らない。逃がさないためじゃない。追わせないためだ。
最初の一頭が飛びかかってきた。俺は一歩踏み込み、地面を蹴る。踏み込みの瞬間、周囲の空気が、わずかに歪んだ気がした。
「……?」
考える暇はない。拳を突き出すと、魔狼の顎に綺麗に入った。骨が砕ける感触が、掌に返る。魔狼は悲鳴も上げず、地面に転がった。
残りが、一斉に動きを止めた。
「……来ない?」
俺は呼吸を整え、足元の土を踏みしめる。地面が、やけにしっかりしている。滑らない。視界も、妙に澄んでいる。
魔狼たちは、距離を保ったまま、円を描くように動き始めた。だが、どこか落ち着かない。威嚇はするが、踏み込んでこない。
「……そうか」
理由は分からないが、俺の周囲が、安全域として認識されているらしい。昔、魔物の巣を制圧したときにも、似た感覚があった。
「戻れ」
低く言う。命令するつもりはなかった。ただ、そう口に出た。
魔狼の一頭が、びくりと身を震わせた。次の瞬間、森の奥へと駆け出す。残りも、それに続いた。
森に静けさが戻る。あまりにも、あっさりだ。
「……終わったな」
俺は息を吐き、倒れた魔狼を一瞥した。息はない。
遅れて、茂みの奥から人影が現れた。見回りの若者二人だ。顔色は悪いが、怪我は軽そうだ。
「お、おっさん……?」
「帰るぞ」
それだけ言って、踵を返す。
村に戻ると、すでに人が集まり始めていた。不安と期待が入り混じった視線が、俺に向けられる。
「魔狼は?」
誰かが聞いた。
「しばらくは来ない」
それだけ答える。嘘じゃない。根拠はないが、確信があった。
人々はざわめき、やがて安堵の息が広がる。バルトが俺の肩を掴んだ。
「……助かった」
「偶然だ」
そう言って、肩から手を外させる。持ち上げられるのは、慣れていない。
その日の昼、村は妙な落ち着きに包まれていた。危機が去った直後の、張り詰めた静けさだ。俺は家に戻り、焚き火を起こす。
火を眺めながら、朝の感覚を思い返す。拳の感触、空気の歪み、魔狼の反応。
「……年の功、か」
そう結論づける。深く考える気はなかった。
外では、村人たちがいつもより小さな声で話している。視線が、時折こちらに向けられるのを感じながら、俺は鍋をかき混ぜた。
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