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第7話 視界に入る過去
ティールームの扉を押すと、鈴が控えめに鳴り、湯気をまとった茶と焼き菓子の香りが胸の高さでほどけた。窓際は明るく、人々の談笑がガラス越しに波の光と混じる。私は入口から見てすぐ右手の席へ目をやり、次の瞬間、背筋のどこかが小さく緊張した。淡金の髪が、カップの白と同じ高さで揺れている。視界の端で誰かが笑い、笑いは思い出と似た輪郭で胸の内側に触れた。
「こちらへ」
アーロンは窓辺とは逆の、棚の影になる隅の席を指し示した。
「見ない自由を、選べます」
「……ありがとうございます」
私たちは棚の影に腰をおろし、視界に入る窓の光をあえて遮った。席の前には木目の濃い小さな卓、卓上には砂時計と白磁のポット。壁際の黒板に温度と時間が書かれ、そこに“オズワルドの今日の気分”と兎の落書きが添えられている。黒板の字はきっぱりとして、私の心に余計な線を引かない。
「アールグレイを八十八度、三分」
「では、二人分」
「はいよ」
カウンターの奥からオズワルドが返事をし、やがて砂時計を二つ持ってきた。目が合うと、彼は私の顔色を一度で測り、温度計の先を示す。
「温度は合ってる。甘さは、気分で。蜂蜜も置く」
「ありがとうございます」
「窓は眺めなくていい時もある」
「……そうですね」
砂が落ちはじめ、音のない時間が卓の上で動き出す。アーロンはポケットから小さな鉛筆とメモ帳を出し、紙を半分に折った。折り目は海の水平線のようにまっすぐで、端に小さく印がつく。
「地図を描きましょう」
「地図?」
「二人だけの。今日、この席から見える範囲で足場になるものを、記号で置いていく」
「足場」
「はい。蜂蜜の瓶は◎、結び直した結び目は×、海の匂いは∽」
「面白いです」
私は笑って、鉛筆を受け取った。紙の左上に◎を置く。今朝の蜂蜜。右下には×――スカーフの結び目。中央に∽と描けば、ティールームの窓越しに届く潮の気配が見える気がした。記号は幼いのに、胸の内側の焦点が少し合っていく。
「窓の外で会いたくない人影は」
「……枠の外に、点で」
「点なら、こちらに干渉しない」
「はい」
点を紙の右端に小さく打つ。点は遠く、線にはならない。砂の落ちる音が終わり、オズワルドがポットを傾けた。湯が葉の上に落ちるときの柔らかな音は、波打ち際で跪く音に似ている。カップの縁に湯気が溜まり、香りが一段上がる。
「香りが立ったら、三口で」
「三口」
「一口目は温度、二口目は香り、三口目は余韻」
「わかりました」
私はカップを両手で包み、湯気に一瞬だけ目を細めた。一口目は舌の先で温度の境界を探す。二口目でベルガモットの明るさが広がり、三口目で、喉の奥がゆっくりと解ける。味が喉から胸へ背骨伝いに降りていく。その道筋を、地図の紙の上に点線で描いた。
「どうですか」
「ずっと冷えていた廊下に、灯りが点きました」
「なら、良かった」
アーロンは自分のカップの縁に指を添え、砂時計を横に置いた。彼の目は窓に向かず、私の描いた記号に向く。私たちは言葉の数を減らし、紙の上に小さな目印を増やした。欠けたカップは◇、ひざ掛けは〼、ベルタの鍵は⊂⊃。記号の配列に、今の私の暮らしの形が見えてくる。
「湖の印を」
「湖?」
「ノルドレイク。今夜、ランタンの祭がある」
「ご存じだったのですね」
「オズワルドが黒板に書いていた」
「ええ……行ってみたいです」
「◎と×と∽を、その湖に持っていける」
「持っていけますか」
「紙があれば」
「紙なら、あります」
見ない自由は、視線を逸らすだけではなく、見るものを選び直す自由でもある。私は紙の白に、新しい印を置いた。丸い湖の輪郭を一つ、青いペンがないから黒で描く。黒い線は青ほど爽やかではないが、夜の湖には似合うはずだ。カップの底に残る琥珀色が光り、私は余熱が指先にまだ宿っているのを確かめた。
「蜂蜜、少し」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
スプーンの先から落ちるしずくは細く、揺れながらカップの内側に糸を引いた。甘さは自分で決められる。私は一匙だけ落とし、スプーンを静かに受け皿へ戻した。窓の外の光は変わらず明るい。けれど、ここにいる私には、もう眩しすぎない。
「暗くなる前に、湖へ」
「はい」
地図を畳むと、紙は手の中で小さな体温を持った。枠の外に打った点はそのままで、指先はそこに触れない。オズワルドが会計を受け取りながら、片目だけ細めて言う。
「ランタンは願い事を一つだけ。欲張ると風に落とされる」
「一つ、ですね」
「一つで、充分だ」
「はい」
扉の鈴がもう一度鳴る。外の光は海の面でやわらぎ、私たちはそのやわらぎの方へ歩き出した。見ない自由を選んだ目には、行き先のほうがよく見える。
第8話 湖畔のランタン
ノルドレイクの湖は、夕暮れの光を浅い皿に広げたように平らで、対岸の森が墨で引いた線のように際立っていた。岸辺には紙灯籠が並び、油の染みた糸が風に揺れるたび小さく光を震わせる。人々は声を抑え、子どもの笑いもいつもより丸い。私は配られた小さなランタンの枠に指を触れ、紙の薄さと骨の軽さを確かめた。
「願い事は一つだけ、でしたね」
「はい。一つ」
「決めておられますか」
「まだ」
「私も、まだです」
ミーナと名乗る髪に鈴を結んだ少女が、私たちのところへ駆けてきた。手には火のついた棒、目は湖面の光を映して丸い。彼女は息を弾ませながら、慣れた手つきで油皿に火を分けた。
「風があるから、ゆっくりね。願いは心で言って、口に出さないと叶う、っておばあちゃんが」
「では、心で」
「二人分、しっかり飛ばしてあげる」
「お願いします」
火は静かに灯り、ランタンの紙の内側があたたかい色に満ちる。手のひらに小さな太陽を乗せたようで、腕の内側がふわりと緩む。私は胸の中で言葉を探し、いくつかの候補を撫でては戻した。幸福、安寧、勇気――どれも少し大きすぎて、私の器に余る気がする。
「……“自分を嫌いでいる時間が、少しずつ短くなりますように”」
「今、言葉がきれいでした」
「聞こえましたか」
「声に出してはいないのに」
「顔に出ていたのかもしれません」
「良い願いです」
「アーロン様は」
「“あなたが自分で決めたことを、世界が邪魔しませんように”」
「それは、あなたの願いでは」
「あなたが世界だから」
「……ずるいです」
「ずるいですね」
笑いが喉の奥で夜風に混じり、ランタンの熱が掌の中で育っていく。十分に空気が温まると、ランタンは自分で浮かびたがる。私は指先を紙から一枚ずつ剥がし、アーロンの視線と合図を合わせて、そっと手を放した。布の結び目がほどけるときのように、軽い反発が指先を離れる。
「――いってらっしゃい」
ランタンはゆっくりと上昇し、他の灯りと混じって小さな群れになった。湖面にはそれを映す別の群れが現れ、上下の光が互いに相手の代わりを引き受ける。対岸の森は黒いままで、空だけが薄い橙から群青へ、一段ずつ色を変えた。
「きれいですね」
「はい」
「泣きそうです」
「泣いてもいい」
「泣きません」
「わかりました」
私は袖で目尻を押さえ、押さえる必要がなかったことに安堵し、少し恥ずかしくなる。風鈴の音がどこからかして、ミーナが別の人のランタンに火を分けながらこちらを振り返り、にっと笑った。笑顔は少しだけ、私に似ていない。
「明日の天気はどうでしょう」
「晴れるでしょう」
「なぜわかるのですか」
「あなたの結び目が、ほどけていないから」
「……根拠があるようで、ないですね」
「根拠は、だいたい後から」
「そうでした」
湖の真上に最初の星が現れ、ランタンの群れとしばらく見分けがつかない。私はポケットから紙の地図を取り出し、今日の印に◎を一つ増やす。ランタンの絵は描けないから、小さな○を重ね、内側に薄い線を足した。手の中の紙は湿気を含み、でも破れない。
「――レティシア様」
祭の終わりを告げる太鼓の合図の直後、背後から控えめな声がした。振り向かずとも、誰の声かはわかった。声はかつての家の廊下の香りを連れてくる。私はアーロンを見る。彼は頷きもせず、否もせず、ただそこにいた。
「行きます」
「一緒に」
「……いえ。ここで、待っていてください」
「承知しました」
私は足元を確かめ、光に背を向けた。声の方へ一歩、二歩。湖の光は私の背中を明るくし、影だけが前へ伸びる。影の先に、金の髪があった。
第9話 姉の影、私の声
セリーヌは湖畔の道の真ん中に立ち、手袋を片手だけ外していた。顔は柔らかく、目元は少し疲れて見える。背後の光は彼女の髪を縁取って輪のようにし、かつて私が羨ましいと思ったすべての要素が、今はただの輪郭に戻っている。私は歩を止め、距離を測る。匂いはほとんど風に薄まり、言葉だけがここに残る。
「レティ」
「姉様」
「突然ごめんなさい。偶然聞いたの、あなたがここにいるって」
「偶然、とはよく働きますね」
「ええ……そうね」
沈黙が一つ、湖面に丸い波紋を落とす。セリーヌは手袋をもう片方も外した。指は白く、爪は完璧に整えられている。私は自分の手を見ないようにして、視線を彼女の肩の高さに置いた。
「いろいろ、あったの。あなたに言わなきゃならないことがたくさん」
「聞くべきことと、聞かなくていいことが、あります」
「もちろん。だから、その……あなたが嫌じゃなければ」
「はい」
「戻ってきて、くれないかしら」
風が一度、私と彼女の間を通り抜ける。言葉は軽かった。けれど、その軽さは重みを測らない軽さだった。私は肺に空気を満たし、言葉を選ぶ。ここでだけは、用意していない言葉で答えたかった。
「困ります」
「……困る、の?」
「はい。いまさら戻ってきて、なんて言われても。私は今、ここで生き直している最中です」
「生き直す、って」
「私の時間を、私の手に戻しています。姉様の願いを否定はしません。ただ、私の選択は私のためにあります」
「レティ……」
「手紙を預けました。読みませんでした。読まないことで、あなたや誰かを責めているわけではありません。ただ、今日の私を守るために、そうしました」
「私は、間違ったのよ」
「はい」
「謝るわ。何度だって」
「ありがとうございます」
「それで、戻って――」
「困ります」
セリーヌの睫毛が一度だけ揺れ、口元の形が少し変わった。私の声は震えなかった。震えないことに驚き、驚いたことに少し胸が熱くなる。遠くで鈴の音が鳴り、祭の終わりを告げる声が拾い上げた。
「そちらの方は」
「友人です」
「そう」
「彼の前で、私は自分で決める練習をしています」
「私のせいで、あなたはそんな練習を」
「いいえ。私のために」
「……強くなったのね」
「強く、というより、静かになりました」
「静かに?」
「はい。騒いでいたものを、外に出しました」
「わたしは、どうすればいいの」
「姉様の時間は、姉様の手に。私の時間は、私の手に」
「レティ」
「姉様」
「幸せに、なれる?」
「なります」
セリーヌは唇を結び、短く頷いた。彼女の視線が私の肩の向こうに流れ、そこに誰かの影を探している気配がした。探し当てても、当てなくても、ここでの私の言葉は変わらない。私は一歩下がり、会釈をした。
「失礼します」
「ええ」
「おやすみなさい」
「おやすみ、レティ」
背を向けると、湖の光がもう一度、私の輪郭を作り直した。歩き出すと、足音が石に返って小さな音を連れてくる。アーロンは少し離れた場所で立ち、ただ立っていた。私が近づくと、彼は何も言わず、結び目の位置を目だけで確かめた。
「――戻りました」
「おかえりなさい」
「言えました」
「聞いていました」
「聞こえてしまいましたか」
「湖は音を運ぶ」
「そうでした」
私は笑い、笑いが夜に吸い込まれるのを見送った。風は冷たくなったが、結び目はほどけない。紙の地図に、私は□を一つ増やし、それを“自分の声”の印にした。鈴の音が最後にもう一度鳴り、ランタンの群れが遠くでかすかに揺れていた。
ティールームの扉を押すと、鈴が控えめに鳴り、湯気をまとった茶と焼き菓子の香りが胸の高さでほどけた。窓際は明るく、人々の談笑がガラス越しに波の光と混じる。私は入口から見てすぐ右手の席へ目をやり、次の瞬間、背筋のどこかが小さく緊張した。淡金の髪が、カップの白と同じ高さで揺れている。視界の端で誰かが笑い、笑いは思い出と似た輪郭で胸の内側に触れた。
「こちらへ」
アーロンは窓辺とは逆の、棚の影になる隅の席を指し示した。
「見ない自由を、選べます」
「……ありがとうございます」
私たちは棚の影に腰をおろし、視界に入る窓の光をあえて遮った。席の前には木目の濃い小さな卓、卓上には砂時計と白磁のポット。壁際の黒板に温度と時間が書かれ、そこに“オズワルドの今日の気分”と兎の落書きが添えられている。黒板の字はきっぱりとして、私の心に余計な線を引かない。
「アールグレイを八十八度、三分」
「では、二人分」
「はいよ」
カウンターの奥からオズワルドが返事をし、やがて砂時計を二つ持ってきた。目が合うと、彼は私の顔色を一度で測り、温度計の先を示す。
「温度は合ってる。甘さは、気分で。蜂蜜も置く」
「ありがとうございます」
「窓は眺めなくていい時もある」
「……そうですね」
砂が落ちはじめ、音のない時間が卓の上で動き出す。アーロンはポケットから小さな鉛筆とメモ帳を出し、紙を半分に折った。折り目は海の水平線のようにまっすぐで、端に小さく印がつく。
「地図を描きましょう」
「地図?」
「二人だけの。今日、この席から見える範囲で足場になるものを、記号で置いていく」
「足場」
「はい。蜂蜜の瓶は◎、結び直した結び目は×、海の匂いは∽」
「面白いです」
私は笑って、鉛筆を受け取った。紙の左上に◎を置く。今朝の蜂蜜。右下には×――スカーフの結び目。中央に∽と描けば、ティールームの窓越しに届く潮の気配が見える気がした。記号は幼いのに、胸の内側の焦点が少し合っていく。
「窓の外で会いたくない人影は」
「……枠の外に、点で」
「点なら、こちらに干渉しない」
「はい」
点を紙の右端に小さく打つ。点は遠く、線にはならない。砂の落ちる音が終わり、オズワルドがポットを傾けた。湯が葉の上に落ちるときの柔らかな音は、波打ち際で跪く音に似ている。カップの縁に湯気が溜まり、香りが一段上がる。
「香りが立ったら、三口で」
「三口」
「一口目は温度、二口目は香り、三口目は余韻」
「わかりました」
私はカップを両手で包み、湯気に一瞬だけ目を細めた。一口目は舌の先で温度の境界を探す。二口目でベルガモットの明るさが広がり、三口目で、喉の奥がゆっくりと解ける。味が喉から胸へ背骨伝いに降りていく。その道筋を、地図の紙の上に点線で描いた。
「どうですか」
「ずっと冷えていた廊下に、灯りが点きました」
「なら、良かった」
アーロンは自分のカップの縁に指を添え、砂時計を横に置いた。彼の目は窓に向かず、私の描いた記号に向く。私たちは言葉の数を減らし、紙の上に小さな目印を増やした。欠けたカップは◇、ひざ掛けは〼、ベルタの鍵は⊂⊃。記号の配列に、今の私の暮らしの形が見えてくる。
「湖の印を」
「湖?」
「ノルドレイク。今夜、ランタンの祭がある」
「ご存じだったのですね」
「オズワルドが黒板に書いていた」
「ええ……行ってみたいです」
「◎と×と∽を、その湖に持っていける」
「持っていけますか」
「紙があれば」
「紙なら、あります」
見ない自由は、視線を逸らすだけではなく、見るものを選び直す自由でもある。私は紙の白に、新しい印を置いた。丸い湖の輪郭を一つ、青いペンがないから黒で描く。黒い線は青ほど爽やかではないが、夜の湖には似合うはずだ。カップの底に残る琥珀色が光り、私は余熱が指先にまだ宿っているのを確かめた。
「蜂蜜、少し」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
スプーンの先から落ちるしずくは細く、揺れながらカップの内側に糸を引いた。甘さは自分で決められる。私は一匙だけ落とし、スプーンを静かに受け皿へ戻した。窓の外の光は変わらず明るい。けれど、ここにいる私には、もう眩しすぎない。
「暗くなる前に、湖へ」
「はい」
地図を畳むと、紙は手の中で小さな体温を持った。枠の外に打った点はそのままで、指先はそこに触れない。オズワルドが会計を受け取りながら、片目だけ細めて言う。
「ランタンは願い事を一つだけ。欲張ると風に落とされる」
「一つ、ですね」
「一つで、充分だ」
「はい」
扉の鈴がもう一度鳴る。外の光は海の面でやわらぎ、私たちはそのやわらぎの方へ歩き出した。見ない自由を選んだ目には、行き先のほうがよく見える。
第8話 湖畔のランタン
ノルドレイクの湖は、夕暮れの光を浅い皿に広げたように平らで、対岸の森が墨で引いた線のように際立っていた。岸辺には紙灯籠が並び、油の染みた糸が風に揺れるたび小さく光を震わせる。人々は声を抑え、子どもの笑いもいつもより丸い。私は配られた小さなランタンの枠に指を触れ、紙の薄さと骨の軽さを確かめた。
「願い事は一つだけ、でしたね」
「はい。一つ」
「決めておられますか」
「まだ」
「私も、まだです」
ミーナと名乗る髪に鈴を結んだ少女が、私たちのところへ駆けてきた。手には火のついた棒、目は湖面の光を映して丸い。彼女は息を弾ませながら、慣れた手つきで油皿に火を分けた。
「風があるから、ゆっくりね。願いは心で言って、口に出さないと叶う、っておばあちゃんが」
「では、心で」
「二人分、しっかり飛ばしてあげる」
「お願いします」
火は静かに灯り、ランタンの紙の内側があたたかい色に満ちる。手のひらに小さな太陽を乗せたようで、腕の内側がふわりと緩む。私は胸の中で言葉を探し、いくつかの候補を撫でては戻した。幸福、安寧、勇気――どれも少し大きすぎて、私の器に余る気がする。
「……“自分を嫌いでいる時間が、少しずつ短くなりますように”」
「今、言葉がきれいでした」
「聞こえましたか」
「声に出してはいないのに」
「顔に出ていたのかもしれません」
「良い願いです」
「アーロン様は」
「“あなたが自分で決めたことを、世界が邪魔しませんように”」
「それは、あなたの願いでは」
「あなたが世界だから」
「……ずるいです」
「ずるいですね」
笑いが喉の奥で夜風に混じり、ランタンの熱が掌の中で育っていく。十分に空気が温まると、ランタンは自分で浮かびたがる。私は指先を紙から一枚ずつ剥がし、アーロンの視線と合図を合わせて、そっと手を放した。布の結び目がほどけるときのように、軽い反発が指先を離れる。
「――いってらっしゃい」
ランタンはゆっくりと上昇し、他の灯りと混じって小さな群れになった。湖面にはそれを映す別の群れが現れ、上下の光が互いに相手の代わりを引き受ける。対岸の森は黒いままで、空だけが薄い橙から群青へ、一段ずつ色を変えた。
「きれいですね」
「はい」
「泣きそうです」
「泣いてもいい」
「泣きません」
「わかりました」
私は袖で目尻を押さえ、押さえる必要がなかったことに安堵し、少し恥ずかしくなる。風鈴の音がどこからかして、ミーナが別の人のランタンに火を分けながらこちらを振り返り、にっと笑った。笑顔は少しだけ、私に似ていない。
「明日の天気はどうでしょう」
「晴れるでしょう」
「なぜわかるのですか」
「あなたの結び目が、ほどけていないから」
「……根拠があるようで、ないですね」
「根拠は、だいたい後から」
「そうでした」
湖の真上に最初の星が現れ、ランタンの群れとしばらく見分けがつかない。私はポケットから紙の地図を取り出し、今日の印に◎を一つ増やす。ランタンの絵は描けないから、小さな○を重ね、内側に薄い線を足した。手の中の紙は湿気を含み、でも破れない。
「――レティシア様」
祭の終わりを告げる太鼓の合図の直後、背後から控えめな声がした。振り向かずとも、誰の声かはわかった。声はかつての家の廊下の香りを連れてくる。私はアーロンを見る。彼は頷きもせず、否もせず、ただそこにいた。
「行きます」
「一緒に」
「……いえ。ここで、待っていてください」
「承知しました」
私は足元を確かめ、光に背を向けた。声の方へ一歩、二歩。湖の光は私の背中を明るくし、影だけが前へ伸びる。影の先に、金の髪があった。
第9話 姉の影、私の声
セリーヌは湖畔の道の真ん中に立ち、手袋を片手だけ外していた。顔は柔らかく、目元は少し疲れて見える。背後の光は彼女の髪を縁取って輪のようにし、かつて私が羨ましいと思ったすべての要素が、今はただの輪郭に戻っている。私は歩を止め、距離を測る。匂いはほとんど風に薄まり、言葉だけがここに残る。
「レティ」
「姉様」
「突然ごめんなさい。偶然聞いたの、あなたがここにいるって」
「偶然、とはよく働きますね」
「ええ……そうね」
沈黙が一つ、湖面に丸い波紋を落とす。セリーヌは手袋をもう片方も外した。指は白く、爪は完璧に整えられている。私は自分の手を見ないようにして、視線を彼女の肩の高さに置いた。
「いろいろ、あったの。あなたに言わなきゃならないことがたくさん」
「聞くべきことと、聞かなくていいことが、あります」
「もちろん。だから、その……あなたが嫌じゃなければ」
「はい」
「戻ってきて、くれないかしら」
風が一度、私と彼女の間を通り抜ける。言葉は軽かった。けれど、その軽さは重みを測らない軽さだった。私は肺に空気を満たし、言葉を選ぶ。ここでだけは、用意していない言葉で答えたかった。
「困ります」
「……困る、の?」
「はい。いまさら戻ってきて、なんて言われても。私は今、ここで生き直している最中です」
「生き直す、って」
「私の時間を、私の手に戻しています。姉様の願いを否定はしません。ただ、私の選択は私のためにあります」
「レティ……」
「手紙を預けました。読みませんでした。読まないことで、あなたや誰かを責めているわけではありません。ただ、今日の私を守るために、そうしました」
「私は、間違ったのよ」
「はい」
「謝るわ。何度だって」
「ありがとうございます」
「それで、戻って――」
「困ります」
セリーヌの睫毛が一度だけ揺れ、口元の形が少し変わった。私の声は震えなかった。震えないことに驚き、驚いたことに少し胸が熱くなる。遠くで鈴の音が鳴り、祭の終わりを告げる声が拾い上げた。
「そちらの方は」
「友人です」
「そう」
「彼の前で、私は自分で決める練習をしています」
「私のせいで、あなたはそんな練習を」
「いいえ。私のために」
「……強くなったのね」
「強く、というより、静かになりました」
「静かに?」
「はい。騒いでいたものを、外に出しました」
「わたしは、どうすればいいの」
「姉様の時間は、姉様の手に。私の時間は、私の手に」
「レティ」
「姉様」
「幸せに、なれる?」
「なります」
セリーヌは唇を結び、短く頷いた。彼女の視線が私の肩の向こうに流れ、そこに誰かの影を探している気配がした。探し当てても、当てなくても、ここでの私の言葉は変わらない。私は一歩下がり、会釈をした。
「失礼します」
「ええ」
「おやすみなさい」
「おやすみ、レティ」
背を向けると、湖の光がもう一度、私の輪郭を作り直した。歩き出すと、足音が石に返って小さな音を連れてくる。アーロンは少し離れた場所で立ち、ただ立っていた。私が近づくと、彼は何も言わず、結び目の位置を目だけで確かめた。
「――戻りました」
「おかえりなさい」
「言えました」
「聞いていました」
「聞こえてしまいましたか」
「湖は音を運ぶ」
「そうでした」
私は笑い、笑いが夜に吸い込まれるのを見送った。風は冷たくなったが、結び目はほどけない。紙の地図に、私は□を一つ増やし、それを“自分の声”の印にした。鈴の音が最後にもう一度鳴り、ランタンの群れが遠くでかすかに揺れていた。
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