姉に婚約者を寝取られた私、兄に婚約者を寝取られた貴族様と旅行中に仲良くなり、結婚することになりました。いまさら戻ってきてなんて言われても困り

さら

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第10話 後悔という誘惑

 湖の灯りがひとつ、またひとつと空へ溶けて、岸辺に残った明るさは焚き火の橙だけになった。祭を締める太鼓の余韻が土の底でまだ小さく揺れ、湿った草の匂いが裾にまとわりつく。私は先ほどの会話の温度を胸の奥で抱え直し、深く息を吸うと肺の内側がひんやりとした。指先には紙の地図、ポケットには軽いはずの何も入っていない感覚が、妙に重かった。水面は風にさざめいて、黒い皿の上で星の欠片をこぼしている。

「寒くないですか」

「少しだけ。でも、平気です」

「ここに。風を避けられる」

 アーロンが焚き火の近く、石で囲われた腰掛けに視線を落とした。炎は控えめに燃えて、灰の上で小さな枝が赤く呼吸している。私が腰を下ろすと、熱が足首から脛へ、ゆっくりと戻ってきたのがわかった。胸から喉へ上がっていた硬さが、炎の音に合わせてほどけていく。

「先ほどの言葉、きれいでした」

「練習していなかったのに、出てきました」

「練習の結果です」

「練習、でしょうか」

「はい。今日までの、全部」

「……そうだと、いいのですが」

 火の粉がひとつ、弧を描いて落ちる。私は両手を膝の上で組み、親指の爪で反対の指先をそっと押した。痛みではない、ただ確かめるための圧。心の中に残るざわめきは、静かになったはずなのに、時折ふと波が立つ。

「手紙のこと、ですが」

「はい」

「燃やしてしまえば、楽かもしれません」

「楽は、ときどき、後で重くなります」

「わかります」

「焚き火は温める場所に」

「……燃やさない、ですね」

「はい」

 言葉にすると、迷いが一段下がった。自分の声の重みが、足元の土へまっすぐ落ちる。私は焚き火の石の縁に置かれた棒で灰を少しだけ寄せ、赤い呼吸が消えないように整えた。整えることは、生きていることの片側だ。

「箱に、しまいましょう」

「箱」

「過去の置き場を作る。開けるかどうかは、いつでもあなたが決める」

「箱なら、宿の女将さんの鍵付きの引き出しが」

「持ち運べる小さな箱が良い」

「……あ」

 焚き火の向こう、小さな露店がまだひとつ残っていた。並ぶのは、木工の細工。匙、鈴、指の腹ほどの小箱。店主は毛糸の帽子を目深にかぶり、焚き火の炎を借りて最後の仕舞いをしている。アーロンが立ち上がりかけて、私の顔色を見てから合図だけで留まった。

「見に行っても」

「はい。一緒に」

 石の輪から離れると、夜気がすぐに頬を撫でた。店主は顔を上げ、私たちが近づくのを見て、掌を上向けにして小箱を二つ差し出す。ひとつは濃い木目に小枝の刻印、もうひとつは淡い木肌に金具がひとつ、鍵穴は小鳥の形をしていた。

「軽いのと、丈夫なの。旅の人に、よく出る」

「鍵は」

「これだよ」

 店主は革紐の先に小さな鍵を揺らした。鍵は指先で回すとたちまち温度を移し、小鳥の口にそっと吸い込まれるように収まる。私は淡い箱を手に取り、蓋をそっと開けて内側の香りを吸い込んだ。新しい木の匂いは、紙の匂いよりも静かだ。

「こちらにします」

「良い選び」

「ありがとうございます」

「何を入れる」

「手紙です。今は開けない手紙」

「なら、箱が泣かない」

「泣くことがあるのですか」

「時々ね」

 店主の冗談に、私は小さく笑った。アーロンは支払いを済ませると、箱を私の手に戻し、鍵を革紐ごと差し出した。紐は長すぎず、首にかければ心臓の少し上で小鳥が眠る位置に下りる。

「紐は、あなたに」

「預けるのでは」

「あなたの箱です」

「……わかりました」

 革紐を首に通すと、小鳥の鍵が胸の布地に触れて、軽く音を立てた。音は私だけに聞こえる程度に小さく、安心は耳の奥で丸くなる。箱は両手に収めるとぴたりと馴染んで、持って歩くために生まれたみたいだった。

「焚き火に戻りましょう」

「はい」

 石の輪に戻ると、炎はさっきよりも落ち着いて、灰の下で赤い呼吸を続けていた。私は箱の蓋を開けるふりをして、閉じた。開けられるけれど、今は開けない。その選択を、箱と炎と自分にゆっくり伝える。

「“過去は箱に”。言葉の形が、好きです」

「鍵は、あなたが持つ」

「はい」

「誰かに開けられそうな時は、私が箱を持ちます」

「頼りすぎてしまいませんか」

「役割の分担です」

「……その言い方、安心します」

 波がひときわ大きく岸を撫で、濡れた石が灯りを反射する。炎の縁で温まった空気が頬に触れ、結び目の位置がほんの少しだけ下へずれる。アーロンの視線がそこに触れ、私は指先で整え直した。布は言葉よりも素直に、元の位置へ戻る。

「後悔、という言葉がまとわりついてきます」

「まとわりつかせておくと、やがて飽きます」

「飽きますか」

「はい。香りの薄くなった紅茶のように」

「……それは、少し、悲しい比喩ですね」

「新しく淹れればいい」

「そうでした」

 沈黙は、今夜は重くなかった。焚き火の音が会話の間を埋め、夜気が言葉の角を丸くした。私は箱の角を親指で撫で、木目の流れをたどる。流れは途中で途切れたり、節に乗って向きを変えたりしながら、でもちゃんと先へ続いている。

「――聞きましたか」

 焚き火の向こうで、片付けをしていた若者が小声で話した。彼らは私たちに気づいていない。けれど、声は炎と一緒に空気を巡る。

「さっき、港の方で見かけたんだ。ウェストレイ公爵家の長男様を」

「ほんとに? こんな時期に」

「避暑だか、なんだか。ご一行で」

 アーロンは炎を見つめたまま、視線だけをほんの少し下へ落とした。私は彼の横顔の輪郭を追い、彼がその言葉を受け取ったことを知る。炎の中の小枝が、ひとつ音を立てて崩れた。

「……今、行きますか」

「いいえ」

「なぜ」

「順番を、守りたい」

「順番」

「あなたの箱が先です」

 胸の前で小鳥の鍵が軽く触れ合い、微かな音がした。私は頷き、炎に向かってもう一度だけ深呼吸をする。昼間よりも遠くから鈴の音がして、祭の最後の灯りが湖面から完全に消えようとしていた。

「箱を持って、帰りましょう」

「はい」

「明日の朝、女将に見せて、預け方を相談しましょう」

「お願いします」

 立ち上がると、裾の裏にたまっていた夜気がほどけて落ちた。歩き出す足取りは朝よりも静かで、でも迷いは少なかった。背後で焚き火がひとつ、息を吐くように明滅して、やがて穏やかに燃え続ける音だけになった。
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