姉に婚約者を寝取られた私、兄に婚約者を寝取られた貴族様と旅行中に仲良くなり、結婚することになりました。いまさら戻ってきてなんて言われても困り

さら

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第11話 兄と向き合う順番

 朝の保養宿の玄関ホールは、濡れた外気と温かい木の香りが半分ずつ混ざっていた。扉のガラス越しに細い雨が斜めへ走り、石段の縁には夜のうちに乾ききらなかった雨の色が残る。私は胸元の革紐にそっと触れ、小鳥の鍵が布の内側で微かな音を立てるのを確かめた。箱は部屋に置いたまま、それでも鍵の重さだけで心の位置は定まる。順番を守るという言葉が、喉の奥であらためて形になる。

「少し、降ってきました」

「ええ。出るなら、傘が要りますね」

「女将が、玄関脇に置いておくと言っていました」

 ベルタの声は背後から届き、籠の中の折り畳み傘を顎で指し示す。黒い布がきっちりと巻かれ、どれも同じ長さで並んでいた。アーロンが一本を手に取り、私は別の一本を選び、骨の感触を掌で確かめる。布は薄く、しかし張りがある。私の呼吸は傘布の張りと同じように、ゆっくりと均されていく。

「――ウェストレイ様でいらっしゃいますね」

 扉が開き、外気とともに濡れた制服の匂いが流れ込む。黒い外套の男が一礼し、雨粒を肩から落としながら玄関敷居で足を止めた。胸元には公爵家の紋章、脱いだ手袋は丁寧に指先から揃えられている。整いすぎた所作の奥に、急ぎの用件の硬さが隠れずに光っていた。

「長男ダミアン様の侍従でございます。急なことで恐れ入りますが、本日午前、主人がこちらへ伺っております。ご都合がよろしければ、すぐにでもお目通りを、と」

「……ここへ」

「はい。差し迫ったご用件ではございませんが、早めに、と」

 侍従の視線が一瞬だけ私を掠め、すぐに戻る。見られて困るわけではないのに、胸のどこかが反射的に固くなる。封蝋を溶かさなかった昨夜の決定が、今朝の空気で試されている。私は革紐の小鳥を親指で押さえ、息の深さを測るように数えた。

「ご厚意は承りました」

「アーロン様」

「――本日は辞退いたします。後日あらためて、私どもからご連絡いたします」

「しかしながら、主人はすでに――」

「雨の中をお運びいただき、感謝します。けれど、順番を間違えたくないのです」

「順番、でございますか」

「はい。今は私ではなく、彼女の朝のために時間を使いたい」

 侍従の眉がほんのわずかに動き、すぐに元の位置に戻った。彼は視線を下げ、胸の前で手袋を重ねて小さく一礼する。丁重だが、理解と納得は一致しない。そのずれを礼節で覆う術を、彼は職務としてよく知っている。玄関の外の雨が一段強くなり、庇を叩く音が語気の代わりに響いた。

「かしこまりました。では、本日のところはこれにて」

「お足元にお気をつけて」

「失礼いたします」

 扉が閉まると、室内の温度がわずかに上がった気がした。ベルタは何も言わず、濡れた石段に砂をひとつまみ撒いて滑りを抑え、帳場へ戻っていく。私はアーロンの横顔を見て、そこに無理のない疲れが差しているのを見つけた。決めないことを選ぶときの、身体の重さは、決めるときと同じくらいに重い。

「……ごめんなさい。私のために、って」

「違います。私の順番のためです」

「でも」

「あなたの朝を守るのは、私にとっても正しい順番です」

「ありがとうございます」

 言い切られると、胸の中の余白にようやく空気が入る。私は折り畳み傘を開きかけて、骨の節の固さを確かめ、また閉じた。開く前の準備だけで安心が少し増える。昨日までなら、この“少し”を見逃していたのだと思う。

「外へ、行きましょうか」

「はい。オズワルドのところまでなら、濡れずに行けます」

「風向きが変わりました。あなたは左へ」

「わかりました」

 扉を押し開けると、雨は細かな粒で、空からよりも風から降るように顔に触れた。私は傘を素早く開き、自分の肩を覆う角度で持ち上げる。アーロンの傘の縁が私の傘の縁と重ならないよう、半歩ぶんずらす。庇の途切れる角で風が巻き、私は柄を外へ傾けた。

「――こちら、どうぞ」

「ありがとう」

「今日は、私も差せます」

「頼もしい」

「頼ってください」

 傘の下は狭いが、息は詰まらない。二つの円が触れずに寄り添い、道を作る。その道はたぶん、私たちがこれから持つ暮らしの幅とよく似ている。完全には重ならない。けれど、並べば風を分け合える。私はそれを足裏で確かめるように、ゆっくり歩幅を合わせた。

「兄上を、すぐにでも支えたい気持ちはありませんか」

「あります」

「それでも、今は」

「今は、あなたと私の朝が先です」

「……わかりました」

「彼に会う時は、会うための身体で会いたい」

「会うための身体」

「はい。反射ではなく、選択で立てる身体で」

「素敵な言い方です」

 言葉を受け取る場所が、胸の中ではなく、肩や背中にも広がっていく。濡れた石畳の匂いが、昨日よりも浅い位置で途切れる。傘の骨が風を弾くたび、掌に小さな反動が戻り、その反動が血の循環の形を教えてくれる。人が生きるのに必要な機械の音が、今日は静かに聞こえる。

「――レティシア」

「はい」

「さっきの侍従に言った“順番”は、兄にも届くでしょう」

「届くといいですね」

「届かないなら、別の言葉を探す」

「一緒に、探します」

 角を曲がると、ティールームの窓が雨を受けてやわらかく光り、ガラス越しにカップの白が並んで見えた。扉の鈴は、外のざわめきよりもずっと穏やかな音を用意している。私は傘の柄を握り直し、アーロンの傘と一瞬だけ縁を重ねた。重なるのは一瞬でいい。次にまた並べば、それでいい。

「入る前に」

「はい?」

「あなたの結び目、今日は大丈夫か、見てもいいですか」

「お願いします」

 私は顎の下で指先を滑らせ、布の重なりを少しだけ直す。アーロンの視線がそこに触れ、うなずきが雨の音に紛れて小さく落ちる。結び目はほどけていない。私たちは傘を畳み、扉の鈴を鳴らし、温かい室内の空気へと歩を進めた。
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