婚約者を妹に寝取られ王都を追放された私絶望の果てで出会った無口な王弟殿下に「俺だけの妻に」と誓われ一途で過保護な寵愛に包まれながら第二の人生

さくら

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第5話 名前を呼んで



 朝の光が、霧の名残を抱いた森を金色に染めていた。鳥の声が重なり、樹々の間を小さな風が走る。窓から差し込む光が、私の頬を撫でるように柔らかい。目を開けると、暖炉の火はもう消えていて、代わりに香ばしい匂いが部屋の中に漂っていた。

 ルシアンの姿が見えない。けれど、扉の外から小さく薪の割れる音がした。昨日と同じ朝。けれど胸の中では、何かが少しずつ変わっている気がした。
 私は毛布を畳み、洗い場で顔を洗う。冷たい水が頬を打ち、意識がはっきりしていく。鏡の代わりに水面を覗くと、そこに映る自分の顔が少しだけ柔らかく見えた。

 扉を開けると、ルシアンが振り向いた。朝の光を背に受け、髪が金色の縁を帯びている。白い息が淡く溶け、腕の筋が動くたびに光の粒が舞った。

「おはようございます」

「ああ。よく眠れたか」

「はい。昨日よりもずっと」

 そう言うと、彼は短く頷き、手に持っていた薪を置いた。焚き火の灰が足元でふわりと舞い上がり、朝の光の中で銀色にきらめく。

「朝食を作った。簡単なものだが」

「ルシアンさんが?」

「お前が寝ている間に。腹が減ると動けなくなる」

 私は思わず笑ってしまった。

「あなたがそんなことを言うなんて、少し意外です」

「食わなければ死ぬ。それだけのことだ」

 淡々と答える声に、また小さな笑みが漏れる。彼はわずかに首を傾けたが、何も言わなかった。
 小屋に戻ると、テーブルの上には温かいスープと焼いたパン、そして森の果実が並べられていた。素朴なのに、どこか優しさがあった。私はパンを手に取り、ひと口かじる。香ばしさが口の中に広がり、胸の奥がふわりと温まった。

「……おいしいです」

 そう告げると、ルシアンは少しだけ顔を逸らした。頬のあたりが、火の光に照らされて赤く見える。

「塩を入れすぎたかと思ったが、まあいい」

「完璧です」

「……そうか」

 彼の小さな呟きに、言葉を返さず笑った。穏やかな朝。窓の外には森の緑が広がり、露に濡れた葉が光を反射している。外の世界がこんなにも静かで、美しかったことを、私は知らなかった。

 朝食を終えると、ルシアンは小屋の脇にある棚から布袋を取り出した。

「今日は村まで行く」

「村、ですか?」

「ああ。干し肉と塩、それに油がもう少ない。食料を補充する」

「私も……行っていいですか?」

 彼の手が止まり、わずかに目が動く。

「まだ体が慣れていないだろう」

「でも、ここにいるだけでは何もできません。私も手伝いたいんです」

 言葉を重ねるうちに、自分でも不思議なほど熱がこもった。
 王都では、誰かに“許される”のを待つことが当たり前だった。けれど今は違う。自分の意志で何かをしたい。そう思えたのは、彼のおかげだった。

 ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。

「……いいだろう。ただし、俺から離れるな」

「はい」

 それだけの言葉なのに、心臓が跳ねる。胸の奥に、熱がふっと広がった。
 彼は布袋を肩にかけ、私を促すように手を動かした。

「道はぬかるんでいる。足元に気をつけろ」

「はい、気をつけます」

 小屋を出ると、森の匂いが一層濃くなっていた。雨の名残が葉の先で光り、足元の土がやわらかく沈む。私はスカートの裾を少し持ち上げ、ルシアンの後ろについて歩いた。

 鳥のさえずりが木々の上から降ってくる。森は生きていた。歩くたびに、小さな音がいくつも重なり、私たちの歩調に溶けていく。
 しばらく進むと、視界が開けた。大きな木の根を越えると、谷間に小さな村が見える。煙突から白い煙が立ち上り、家々の屋根が朝日に照らされていた。

「わあ……」

 思わず息をのむ。王都とはまるで違う。整いすぎた石畳も、飾り立てた建物もない。けれど、そこには人の息づかいがあった。木造の家々の間を、子どもたちが走り、笑い声が響く。遠くで犬の鳴き声がして、どこかでパンを焼く匂いが漂ってきた。

「静かなところですね」

「ここはカーヴェルの村。王都の地図にもほとんど載らない」

「それほど、辺境なんですね」

「その分、他人の噂も届かない」

 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。私のことも、誰も知らない。誰も“公爵令嬢”としての私を知らない。
 この場所なら、名前を隠して生きられるかもしれない。

 村に入ると、人々がルシアンを見て軽く会釈した。親しげではあるが、どこか敬意を含んでいる。子どもが駆け寄って「ルシアンさま!」と声を上げた。私は思わず目を瞬く。

「……今、ルシアン“さま”と」

 彼は無表情のまま、子どもの頭を軽く撫でた。

「ただの癖だ。昔そう呼ばれていた」

 その言葉に、言葉を失った。昔そう呼ばれていた——つまり、彼はただの森の男ではない。けれど、追及する気にはなれなかった。彼が語らないのなら、理由があるのだろう。

 パン屋の前で、彼が立ち止まる。
 店主の女性が笑顔で出てきて、焼き立てのパンを包んでくれた。

「久しぶりね、ルシアン。今日は誰?」

「……道で倒れていた人だ」

「まあ、それは災難だったねぇ。あんた、運がいいよ。この人に拾われるなんて」

 その言葉に、私は照れくさく笑う。

「本当に、助けていただきました」

 女性は目を細めて私を見つめる。

「……優しい目をしてるね。ここにいるといい。みんなあんたを歓迎するよ」

 胸の奥がじんわりと温かくなった。人の優しさというものが、こんなに直接的に届くのは久しぶりだった。
 その帰り道、ルシアンがぽつりと言った。

「村の連中は口が軽い。あまり過去のことは話さないほうがいい」

「わかっています。もう、“昔の私”はいませんから」

 そう言うと、彼は短くこちらを見た。

「なら、今のお前は誰だ」

「え……?」

「王都の名前じゃない、今の名前を」

 私は立ち止まった。木々の間から光がこぼれ、足元の草を照らす。風が髪を揺らし、静寂が満ちる。

「……ただの、エリシアです」

 そう言うと、ルシアンは頷いた。

「それでいい」

 その瞬間、彼の口元が微かに緩んだ。

「……エリシア」

 私の名を、初めて自然な声で呼んだ。その響きが胸に広がり、心臓が一度だけ強く打つ。
 森の風の中で、その名前が優しく溶けていった。




 村での買い物を終えたころ、太陽は高く昇り、空気が少し暖かくなっていた。風に干し草の香りが混ざり、人々の笑い声が遠くまで響く。村の中央を抜ける道を、ルシアンと並んで歩く。彼の歩幅は大きいが、私に合わせて少しだけゆるやかにしてくれていた。

「みんな、あなたのことを慕っているようでしたね」

 そう言うと、ルシアンはわずかに目を細める。

「……慕われるような人間じゃない」

「それでも、“ルシアンさま”と呼ばれていました」

「昔の名残だ」

 それ以上語るつもりはないらしい。けれど、彼の表情に浮かぶ影がほんの一瞬、痛みに似て見えた。私はそれを見て、言葉を飲み込む。きっと、彼の過去にも何かがあるのだ。私と同じように。

 村を出ると、森の入り口に続く道が見えた。木々の間を抜ける風が、葉を揺らしてさざめく。荷物を分け合いながら歩くと、遠くから鳥の鳴く声が重なり、穏やかな午後の音が続いていく。

 やがて、彼が静かに口を開いた。

「ここに来てから、まだ一週間も経っていない」

「ええ」

「けれど、前より顔色がいい。森の水が合っているのかもしれない」

 その言葉に、思わず笑ってしまう。

「あなたはいつも、そうやって私を気にかけてくださいますね」

「倒れられたら困るだけだ」

「ふふ……そうですね」

 少し意地悪な言い方なのに、不思議と優しさが混じっていた。
 小屋が見えてきたころ、私は小さく息を吸った。

「ルシアンさん」

「なんだ」

「今日、名前を呼んでくださって……嬉しかったです」

 足を止め、彼が振り向く。光の粒が彼の肩を照らし、灰色の瞳が淡く輝く。

「名前を呼ぶくらい、誰にでもできる」

「それでも、嬉しかったんです」

 私の声は、風の音に溶けそうなほど小さかった。それでも、彼には届いたらしい。しばらく沈黙のあと、低く穏やかな声が返ってくる。

「……エリシア」

 再び名前を呼ばれる。心臓が跳ね、胸の奥が温かく広がる。あの日、王都で呼ばれた名前は、嘲りの響きしか持たなかった。けれど今、その音は優しい。世界でいちばん美しい音のように思えた。

「呼ばれるのが、久しぶりなんです。あの人に名前を呼ばれても、もう何も感じなくて……」

「“あの人”?」

 ルシアンの声がわずかに硬くなる。私はうつむき、握りしめた荷物を見つめた。

「……婚約者、でした。妹と……結ばれた」

 その瞬間、風の音が止んだように感じた。ルシアンは何も言わなかった。長い沈黙が続き、鳥の声すら遠くに霞む。やがて、彼が静かに言った。

「裏切りは、いつか自分に返る」

「え?」

「人は奪ったものの分だけ、何かを失う。お前が失った分、いつか違う形で返ってくる」

 彼の声は低く、けれどどこか祈るようでもあった。私はゆっくりと頷き、微笑んだ。

「そうだといいですね」

 ふと、視界の端に白い花が揺れた。昨日見た、毒を持つ花だ。雨上がりの光に濡れ、まるで泣いているように見える。
 その花を見つめながら、私は小さく呟いた。

「でも、綺麗ですね。毒があっても」

「毒があるから、誰にも踏まれずに済む」

 ルシアンの言葉に、胸が締めつけられた。自分と重なってしまったのだ。守るために、傷つける力を持つ。美しいものほど、壊れやすく、危うい。

「……あなたも、そう思って生きてきたんですか?」

 問いかけると、彼は一瞬だけ目を伏せた。

「昔、誰かにそう言われた。だから、俺は森に来た」

「その人は……?」

「もういない」

 その言葉の奥に、長い時間と喪失の匂いがあった。私は何も言えなかった。ただ、彼の手に触れたくなる衝動を、そっと押し殺した。

 そのまま歩き出す。小屋が近づくにつれ、風がやわらぎ、日差しが穏やかに差し込んできた。森の奥では、小川の流れる音がかすかに聞こえる。

「エリシア」

 また呼ばれた。名前が、空気の中で優しく震える。

「はい」

「これからのことを、ゆっくり考えるといい」

「これからの……」

「王都に戻るのも、お前の自由だ。ここに残るのも」

 その言葉に、心が揺れた。
 自由。王都にいたとき、最も遠い場所にあった言葉。今、その自由が私の手の中にある。

「……しばらくは、ここにいたいです」

 その答えに、ルシアンは何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに微笑んだように見えた。

 森の風がふたりの間をすり抜ける。暖かく、柔らかく、どこか切ない。

 私は胸の奥でそっと呟く。
 ——あの日失ったものは、きっと、ここで少しずつ形を変えていく。




 その夜、月は雲ひとつない空に昇っていた。銀の光が森全体を覆い、木々の影が地面に細い模様を描く。小屋の外では虫の声が静かに重なり、火を落とした暖炉の灰の中では、まだ赤い灯がほのかに残っていた。私は寝台に横になりながら、眠りにつけずにいた。昼間のルシアンの言葉が、頭の奥で何度も反響していた。

 ——「王都に戻るのも、お前の自由だ」

 その一言が、どうしてか痛かった。自由であることが、こんなにも心を揺らすとは思わなかった。
 かつて、私は“公爵令嬢”という名の檻の中にいた。服も、言葉も、笑顔さえも、誰かに決められていた。
 でも今は違う。私はただの“エリシア”としてここにいる。
 それでも、どうしてだろう。ルシアンの「自由」という言葉が、まるで“遠くへ行け”という別れの響きを持っているように聞こえたのだ。

 私はそっと寝台を抜け出し、外へ出た。夜風が頬を撫で、木々の間を抜けていく。空気は冷たく、でも清らかだった。見上げれば、星が数えきれないほど散らばっている。
 その下で、ルシアンの姿があった。昼と同じように、焚き火のそばに腰を下ろしている。月光を受けた横顔は、どこか遠くを見ているようだった。

「眠れないのか」

 声をかけるより先に、彼が言った。背中を向けたまま、けれどその声は驚くほど穏やかだった。

「……少し、考えごとをしていました」

「自由の話か?」

 核心を突かれて、思わず息を飲む。
 彼は焚き火に薪を足し、炎がふっと立ち上がった。火の粉が舞い、月の光と溶け合う。

「自由って……怖いですね」

 私は小さく笑いながら、彼の隣に腰を下ろした。
 炎の向こうで彼の瞳が光り、じっとこちらを見つめている。

「怖いか」

「ええ。だって、何を選んでも自分の責任でしょう? 誰かのせいにできない。間違えたら、自分で背負うしかない」

「それが、本当の生き方だ」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。
 火がはぜる音が、静寂の中に響いた。

「……ルシアンさんは、怖くないんですか?」

「何が」

「孤独とか、失うこととか」

 しばしの沈黙。夜風が二人の間を通り抜け、火の灯を揺らす。
 やがて、彼が低く呟いた。

「怖かったこともあった。けど、恐れよりも静けさを選んだ」

「静けさを、ですか」

「人の声が遠くなると、傷の痛みも薄れる。……それだけだ」

 その言葉が、どこか悲しかった。
 私は焚き火に手を伸ばし、手のひらを温める。指先がじんわりと赤く染まり、心臓の鼓動と同じように脈打っていた。

「私、もう少しここにいたいです」

 不意に出た言葉だった。自分でも驚くほど素直な声。
 ルシアンがわずかに眉を動かす。

「理由は?」

「……ここにいると、自分を嫌いにならずに済むから」

 その一言に、彼の視線がやわらかく揺れた。火の光が瞳に映り、灰色が金に変わる。
 彼はしばらく何も言わなかったが、やがて短く息を吐いた。

「好きにするといい」

 それはまるで、夜の風と同じくらい自然な声だった。
 けれどその言葉に、胸の奥がほどけていく。心が静かに温かく満たされていくのを感じた。

「ありがとう、ございます」

「礼はいい。……眠れ」

 焚き火の向こうで、彼がわずかに笑った気がした。
 その笑みは夜の闇よりも柔らかく、月光よりも淡かった。

 私は膝を抱え、彼の隣で空を見上げた。
 星々の光が揺らめき、夜の森が深く息をしている。

 ——この世界で初めて、何も恐れずに夜を迎えられた。
 それだけで、涙が出そうになる。

「……おやすみなさい、ルシアンさん」

「ああ」

 それだけのやり取りが、まるで祈りのように優しかった。
 私はそっと目を閉じ、焚き火の音と風の歌を聴きながら、静かに夢の底へ沈んでいった。




 翌朝、森は静かな陽の光で満ちていた。夜の冷たさを残した空気が、まだほんのり白く霞んでいる。鳥の声が木々の間を飛び交い、朝露が草の上できらめいていた。私は寝台の上で目を開けると、天井に射し込む光がゆっくりと動いているのを眺めた。どこか現実ではないような穏やかさ——それでも、確かに生きていることを感じる朝だった。

 ルシアンの姿が見えない。けれど、小屋の外からは一定のリズムで何かを削る音がする。私は毛布を整え、軽く髪を結い、扉を開けた。

 外には、早朝の光を受けて輝く森があった。葉の間を縫うように射す光が斑に揺れ、霧の残滓がその中で漂っている。ルシアンは斧を持ち、薪を割っていた。肩にかかる黒髪が風に揺れ、陽に透けて青みを帯びる。その姿は、まるで森の一部のようだった。

「おはようございます」

 私の声に、彼が斧を止める。

「起きたか。よく眠れたか?」

「はい。久しぶりに、何も夢を見ませんでした」

「それは、いいことだ」

 短い言葉。でも、その響きがやさしい。
 私は火を起こそうと、薪を集め始めた。けれど、手を伸ばしたところでルシアンが言う。

「手を出すな。まだ傷が完全には治っていない」

「もう痛みませんよ」

「痛まなくても、治ってはいない」

 その声音があまりにも真剣で、思わず動きを止めた。
 彼は手を伸ばして、私の手首を掴む。指先が触れた瞬間、心臓が跳ねた。

「……」

 私の脈を確かめるように、彼の指が脈拍に合わせて小さく動く。
 息を呑むほど近い距離だった。風が止まり、森の音が遠のく。

「冷えている。もう少し温めた方がいい」

 彼の声が低く響く。私は顔を伏せ、かすかに頷いた。

「……ありがとうございます」

 その手が離れた瞬間、触れた場所が熱を帯びていた。
 彼は何事もなかったように斧を手に取り、再び薪を割り始める。けれど、私はしばらくその背中を見つめていた。

 無口で、冷静で、近寄りがたい。けれど、根の奥にあるのは確かな優しさ。
 それを知ってしまった今、私は彼の言葉ひとつ、仕草ひとつに心が揺れる。

「……どうしてそんなに人に優しくできるんですか?」

 無意識に声が出ていた。彼の手が止まり、振り返る。

「優しい?」

「はい。私のような、何も持たない人にも」

「俺は、ただ放っておけなかっただけだ」

「それが優しさですよ」

 少しの沈黙。彼はわずかに視線を外し、薪を一つ積み上げた。

「……昔、誰かに助けられた。だから、見捨てるのが嫌なんだ」

「その人は……?」

「もういない」

 短く、それ以上を拒むように。
 私はそれ以上踏み込むことができなかった。けれど、その“いない”という言葉に、深い喪失の重さを感じた。

 空を見上げると、木々の隙間から光がこぼれ、葉の裏に水滴が揺れている。世界は美しいのに、人はどうしてこんなにも失ってしまうのだろう。

「……私、もう誰も信じられないと思っていました」

 自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれた。
 ルシアンは作業の手を止め、こちらを見る。

「でも、あなたに会ってから、少しだけ変わったんです」

「変わった?」

「人を信じるのは、怖いことばかりだと思っていたけれど……あなたのそばにいると、怖くなくなる」

 彼は何も言わなかった。
 けれど、灰色の瞳の奥が一瞬だけ揺れたのを私は見た。
 その沈黙が、答えのように感じられた。

 しばらくして、彼が静かに言った。

「この森は、孤独な者を受け入れる。お前がいても、拒まない」

「森が……私を?」

「人間よりよほど寛大だ」

 そう言って微かに笑う。
 その笑みが胸に残り、私は息を呑んだ。

「……あなたも、この森に受け入れられたんですか?」

「さあな。もしかすると、まだ試されている最中かもしれない」

 彼の声が、風に溶けて消える。
 私は微笑みながら、手を胸の前で握った。

「なら、私も一緒に試されてみます」

「なぜ」

「だって、あなたと同じ場所にいたいから」

 ルシアンの目が見開かれた。ほんのわずかの間、時間が止まる。
 森の中で鳥が飛び立ち、風が二人のあいだを抜けていく。

「……エリシア」

 彼が私の名を呼ぶ。その響きはいつもより低く、熱を帯びていた。
 胸が締めつけられ、息を吸うのも忘れる。

 彼はゆっくりと目を逸らし、薪を拾い上げる。

「試される覚悟があるなら、好きにしろ」

 その声の裏に、ほんの少しの優しさが隠れていた。
 私は微笑み、頷いた。

「はい」

 風が吹き抜け、木々の葉が音を立てる。朝の光が再び差し込み、世界が新しく息をする。

 その瞬間、私は確かに感じていた。
 ——この場所で、生きていく。
 彼とともに、少しずつ。




 昼過ぎには、森の空気が少し柔らかくなっていた。陽光が木々の隙間からこぼれ、地面に淡い金の模様を描く。風は穏やかで、昨日までの雨の湿り気をほんのりと残している。
 私は小屋の外に腰を下ろし、乾かした洗濯物を膝の上でたたんでいた。手の中の布は粗く、それでも不思議と温かい。王都にいたころ、手を動かすことなどほとんどなかった。今は、こうして自分の手で何かを整えるたびに、小さな安堵が胸に灯る。

 扉の向こうから、足音がした。振り返ると、ルシアンが狩りから戻ってきたところだった。肩には革の袋、腰には短剣。いつもの無表情な顔のまま、彼は木の上着を脱いで壁に掛ける。

「……おかえりなさい」

「ああ」

 短い返事。けれどその一言が、妙に心を落ち着かせる。
 彼は持ってきた袋を机の上に置き、淡々と中身を取り出し始めた。獣の毛皮、薬草、そして乾いた枝。私は自然と立ち上がって近づく。

「手伝います」

「怪我をしないように」

「わかっています」

 彼が無造作に置いた草を受け取り、丁寧に仕分ける。薄紫色の葉を指先で広げると、甘く涼しい香りが漂った。

「この草、香りが好きです」

「エリナ草だ。乾かして枕に詰めると、眠りが深くなる」

「なるほど……それで、あなたの枕からこの匂いが」

 思わず言いかけて、言葉を止める。頬が少し熱くなる。
 ルシアンがわずかに眉を動かしたが、何も言わず作業を続けた。
 沈黙が落ちる。だがそれは重たくなく、まるで森の静寂と同じだった。

 窓の外では、リスが木の幹を駆けていた。遠くで鳥が鳴き、枝葉の影が地面に揺れる。こんな穏やかな時間を、私はいつから忘れていたのだろう。王都では、時間すら息を潜めていた。笑うことも、泣くことも、すべて周囲の目の中で形を変えてしまっていた。

「……ルシアンさん」

「なんだ」

「あなたは、どうして人里を離れて暮らしているんですか?」

 問いを口にした瞬間、空気がわずかに張り詰めた。けれど彼は怒らなかった。しばらく黙ったまま、指の動きを止め、外の光を見つめる。

「……戦が終わって、居場所を失った」

 低く、遠い声だった。
 私は息を呑む。彼の指先が、乾いた薬草の上で止まっている。

「仲間を失い、家もなくなった。王族の庇護も、信用も。すべてを置いて森へ来た。それだけだ」

「戦……王国の内乱、ですか?」

「ああ」

 彼の声が短くなる。私はそれ以上は尋ねなかった。けれど、胸の奥がじんわりと痛んだ。
 戦を遠くから眺めることしかできなかった自分。貴族たちは“義務”という名の下に贅沢を守り、誰も戦場の泥に足を踏み入れようとしなかった。
 ルシアンのように、すべてを失ってなお生きている人がいる——そのことが、私の心に重くのしかかった。

「……ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「あなたのことを知らないのに、軽く尋ねてしまいました」

「気にするな。言葉は重くない」

 そう言って、彼はゆっくり立ち上がる。窓の外の光が背中を照らし、その影が床に長く伸びた。

「生きているだけで十分だ。過去は、必要になったときに話せばいい」

 その言葉に、胸の奥が震えた。
 私は小さく頷き、仕分けた草を束ねる。

「じゃあ、私もそうします」

「そうする?」

「過去を話すのは、必要になったときだけに」

 ルシアンの目が、かすかに動く。

「それがいい」

 彼の声が、やわらかく笑っているように聞こえた。

 夕方になり、空が茜色に染まるころ、私は川辺に水を汲みに出た。森の中を流れる小さな川は透明で、底に白い石がいくつも並んでいる。手を伸ばして水をすくうと、冷たさが指先を包んだ。

「エリシア」

 振り返ると、ルシアンが立っていた。逆光の中で輪郭だけが浮かび上がり、声は低く静かだった。

「そんなに遠くまで行くな」

「もう戻ります」

 そう言いながら、私は笑った。川面に映る自分の顔も、少しだけ笑っていた。
 彼が近づいてくる。足音が水音と混ざり、森の匂いが一層濃くなった。

「……この場所にいると、時間を忘れてしまいます」

「それでいい。時間に追われる生き方は、命を削る」

「あなたは、そう思ってここに?」

「そうだ。生き残った代わりに、何かを置いてきた。もう、焦る理由がない」

 彼の言葉に、心が静まる。川面に揺れる光が彼の瞳に映り、灰色が銀に溶ける。
 私はその光景を、息を詰めて見つめた。

「ルシアンさん」

「なんだ」

「もし……もしも、私がここを出て行くことになったら」

「……」

「あなたは、止めますか?」

 少しの間、彼は何も言わなかった。風が木々を揺らし、水面が細かく波打つ。

 そして、静かに答えた。

「止めない。俺は誰の自由も奪わない」

「そう、ですか」

 胸が締めつけられた。
 けれど同時に、その言葉がどこか救いでもあった。
 私の中で、王都の鎖が少しずつ外れていくのを感じた。

「……でも、しばらくは行きません」

「そうか」

 彼はわずかに目を細め、淡く笑った。

 風が吹き、二人の間を抜けていく。
 それはまるで、新しい約束のように静かで確かな風だった。




 夜、森を包むように霧が降りていた。小屋の外では、虫の声が遠くで響き、空には星が滲むように散っている。暖炉の火はもう小さく、部屋の隅で橙色の灯をゆらゆらと揺らしていた。
 私は毛布を膝にかけ、窓の外を見つめていた。昼間、川辺で見た光景が何度も頭をよぎる。水面に映ったルシアンの背、あの銀色の瞳。そして「止めない」と言った彼の声。
 優しすぎるその言葉が、どうしようもなく胸に残っていた。

 ——彼は、私に自由をくれる。
 それはきっと、誰よりも尊いこと。けれど、同時に寂しかった。
 あの人は、誰の中にも踏み込まない。心の奥に見えない壁を作って、そこから先には決して他人を入れようとしない。
 私は、その壁の向こうを見てみたかった。

 扉の外で、小さな音がした。風かと思ったが、足音だった。
 振り向くと、ルシアンが帰ってきたところだった。いつもより静かに、彼は外套を脱ぎ、火のそばに掛ける。肩に落ちた霧の雫が光を受けて、細い線のように滑り落ちた。

「まだ起きていたのか」

「ええ。眠れなくて」

「外は冷えている。風邪を引く」

「大丈夫です」

 そう言いながら、私は小さく笑う。彼は暖炉に薪を足し、火を少し強めた。炎がぱちりと弾け、橙の光が彼の頬を照らす。
 その光の中で、彼の横顔がやけに近く見えた。

「ねえ、ルシアンさん」

「なんだ」

「あなたは、どうしてそんなに……優しいんですか?」

 彼の動きが止まる。火の音だけが、静かに響く。
 やがて、ゆっくりと彼が言った。

「優しくなんてない」

「そんなことありません。あなたは、私を助けて、食べさせて、守ってくれる」

「それは——俺が、そうしたいからだ」

 その一言が、驚くほど真っ直ぐに届いた。
 心臓が跳ねる。喉がきゅっと締めつけられる。

「……そうしたい、から」

「ああ」

「じゃあ、私があなたのそばにいるのも、私が“そうしたい”からで、いいんですよね」

 ルシアンがこちらを見る。
 灰色の瞳が、炎を映してゆらぐ。何かを言いかけたように口が動き、しかし言葉は出てこなかった。
 長い沈黙。けれどその沈黙が、不思議と怖くなかった。

 私は毛布を握りしめたまま、視線を落とす。

「あなたの言葉に、救われました」

「俺の言葉?」

「ええ。『自由でいい』って言われたとき、胸の奥が少し痛くなって……でも、それが嬉しかったんです」

 ルシアンは何も言わない。代わりに、火が強く燃えた。
 その光が、彼の横顔を優しく照らし、影を床に落とす。

「……俺は昔、誰かを縛ったことがある」

 唐突に、彼が言った。声は低く、掠れていた。
 私は顔を上げる。

「誰かを、縛った?」

「守るつもりで、閉じ込めた。外の世界から、戦から、痛みから。だが、それはただの逃避だった。結局、その人は……」

 言葉が途切れる。火の粉が弾け、音が静寂を裂く。
 ルシアンの瞳に一瞬だけ影が走った。

「……その人は、俺のせいで死んだ」

 胸の奥がきゅっと痛む。
 私は言葉を探したが、見つからなかった。彼の顔には悔いも哀しみもなかった。ただ、長い時間を経てやっと口にできた、という静けさだけがあった。

「だからもう、誰も縛らない。守る代わりに、選ばせる」

 彼の声がかすかに震えた。
 私はそっと立ち上がり、彼の隣に座る。火の熱が頬を撫で、彼の影が重なった。

「……あなたは、それでも優しいです」

「優しさなんて、もう意味がない」

「いいえ。意味があります」

 そう言って、私は彼の手の上に自分の手を重ねた。
 彼の指がぴくりと動く。驚いたように私を見る。その瞳の中に、炎が小さく揺れていた。

「誰かの手を取ることは、縛ることじゃありません。導くことです」

 自分でも不思議だった。どうしてこんな言葉が出てくるのか。
 けれど、嘘ではなかった。心の底から、そう思った。

 ルシアンはしばらく何も言わなかった。けれど、やがて小さく息を吐いた。

「……お前は、強いな」

「いいえ。あなたがいたから、少しだけ強くなれたんです」

 その言葉に、彼の目がわずかに柔らかくなる。
 火が小さく揺れ、影がふたりの間で溶け合う。

 どれくらいそうしていただろう。
 外では風が止み、森の音が消えていた。世界に残っているのは、火の音と呼吸のリズムだけ。
 私たちは言葉を交わさず、ただ同じ時間の中にいた。

 それは、どんな約束よりも確かな“繋がり”だった。

 私はそっと囁いた。

「……おやすみなさい、ルシアンさん」

「……ああ」

 低く優しい声が返ってくる。
 火の灯が静かに沈み、夜が再び世界を包み込んでいった。
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