婚約者を妹に寝取られ王都を追放された私絶望の果てで出会った無口な王弟殿下に「俺だけの妻に」と誓われ一途で過保護な寵愛に包まれながら第二の人生

さくら

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第6話 小さな安らぎ



 翌朝は霧が濃く、外の景色が白い靄に包まれていた。森の音さえも遠く感じられるほど静かで、まるで世界がまだ眠っているようだった。私は暖炉のそばに座り、昨夜の残り火に薪を足す。火がぱちぱちと弾け、橙色の光が少しずつ部屋を満たしていった。
 湯を沸かしながら外の様子を窺っていると、扉の向こうでかすかな足音がした。ルシアンだった。

「早いですね」

 そう声をかけると、彼は外套を脱ぎながら「眠れなかった」と短く答えた。
 夜明け前に森を一巡りしてきたらしい。肩に朝露が光り、黒髪の端が少し濡れている。私は慌てて布巾を取り、差し出した。

「拭いてください」

「いい」

「風邪をひきます」

 思わず声が強くなった。彼は少し驚いたように目を瞬かせたが、しばらくして受け取ってくれた。
 その動作がどこかぎこちなくて、思わず笑ってしまう。

「何がおかしい」

「いえ……あなたがそういう顔をするの、珍しいなと思って」

「顔?」

「はい。困ったような、照れたような」

 ルシアンの眉がほんの少し上がる。彼は黙って布巾を折り、火のそばに掛けた。
 その横顔が、普段よりも穏やかに見えた。

 湯が沸き、薬草を入れると部屋いっぱいに香りが広がった。私は二つのカップを用意し、彼の前に置く。

「どうぞ」

「……ありがとう」

 彼がカップを手に取る。薄く湯気が立ち、灰色の瞳がその向こうで柔らかく揺れた。
 私も口をつける。温かさが喉を通り、身体の芯がゆっくりとほどけていくようだった。

「この香り、落ち着きますね」

「月草だ。森の奥にしか生えない」

「採ってきたのはあなたですか?」

「ああ。夜明け前なら見つけやすい」

「……夜明け前って、眠らずに?」

「寝つけない性分だ」

 言葉は淡々としているけれど、その中に微かな疲労が混ざっていた。
 私は少し考えてから、そっと言った。

「……眠れないときは、私の声を聞きますか?」

「声を?」

「ええ。昔、妹に子守唄を歌っていたんです。少しは眠りやすくなるかもしれません」

 ルシアンはわずかに目を見開いた。
 沈黙が流れ、火の音だけが部屋を満たす。やがて、彼が小さく笑った。

「子守唄など、久しく聞いていない」

「それなら、今夜試してみましょうか」

「……好きにしろ」

 その答えに思わず微笑む。
 ルシアンの声には、いつも冷たさと温かさが混ざっていた。どちらが本当なのか、まだわからない。けれど、どちらも彼を形作っている大切な一部なのだと、もう知っていた。

 ◇

 午後になると、霧は薄れ、森の奥から陽が差してきた。外では小鳥が鳴き、川のせせらぎが聞こえる。
 ルシアンは小屋の裏で木材を削っていた。私は洗濯物を干し終え、傍らで見守っていた。
 木を削る音は心地よく、リズムが一定で、まるで音楽のようだった。

「何を作っているんですか?」

「椅子だ。古いのが壊れかけている」

「器用なんですね」

「慣れだ。森では、何でも自分で直す」

 彼の言葉に、私は頷く。
 彼の手は大きく、節ばっていて、しかし丁寧に動く。刃物を扱う指が恐ろしく正確で、その動きを見ているだけで時間を忘れてしまいそうだった。

「手……怪我の跡がたくさんありますね」

「昔のものだ」

「痛くなかったんですか」

「痛みは、生きている証だ」

 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
 私は彼の手を見つめたまま、そっと囁く。

「……私は、痛みを避けてばかりでした」

「避けられるなら、それでいい」

「でも、避け続けた結果が“今”なんです」

 ルシアンが手を止める。
 木屑が風に舞い、日差しの中できらめいた。

「あなたは後悔しているのか?」

「わかりません。けれど、やり直せるなら——」

 そこまで言って、言葉が詰まった。
 王都の記憶が蘇る。妹の微笑み。王太子の冷たい眼差し。
 あの場所に戻ることは、もうできない。

「——でも、ここでなら、少しは変われる気がします」

 ルシアンはゆっくりとこちらを見た。
 陽光が瞳に差し込み、灰色が淡く金色を帯びる。

「変わる必要はない」

「え……?」

「過去を消そうとするな。そうやって立っているなら、それでいい」

 その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
 誰もそんなふうに言ってくれたことはなかった。
 私は小さく息を吸い、涙をこらえながら微笑んだ。

「あなたって、本当に不思議な人です」

「よく言われる」

 短く返した彼の声が、どこか照れくさそうで、思わず笑ってしまう。

 ◇

 日が暮れ、夜が訪れる。
 暖炉の火が再び部屋を照らし、橙の光が壁に揺れる。
 私は毛布を膝にかけ、ルシアンの隣に座っていた。
 火の音を聞きながら、彼が静かに言う。

「……歌わないのか」

「え?」

「子守唄だ」

「あっ、覚えていてくださったんですね」

「一度聞くと忘れない」

 私は頬が熱くなるのを感じた。少し息を整え、小さな声で歌い始める。
 穏やかな旋律。森の風と同じように、ゆっくりと流れる音。
 ルシアンは目を閉じ、何も言わずに聞いていた。

 歌い終わる頃、火の音だけが残る。
 彼は静かに息を吐き、低く呟いた。

「……悪くない」

 その言葉が、何よりの褒め言葉のように聞こえた。
 私は微笑みながら、囁くように返した。

「おやすみなさい、ルシアンさん」

「ああ。おやすみ、エリシア」

 初めて聞く“あたたかい呼び方”だった。
 その声を胸に、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
 火の光が優しく揺れ、眠りへと導いていく。

 ——世界のどこにも、こんな穏やかな夜はなかった。




 翌朝、外はうっすらと雪が降っていた。森の木々が白い粉をまとい、空気の匂いまでもが澄んでいる。吐く息が白くほどけ、頬を撫でる風が冷たくて気持ちよかった。小屋の屋根には薄い雪の層が積もり、まるで世界全体が音を失ったように静かだった。

 私は戸口に立ち、外の景色を見つめていた。昨日まで秋の色を残していた森が、今はもう冬の気配を帯びている。
 その変化が少し切なく、でも不思議と心地よかった。季節が移り変わるように、人の心も少しずつ形を変えていくのだろう。

「寒くないのか」

 背後から低い声がして、振り返る。ルシアンが外套を羽織りながら立っていた。彼の肩にも雪が少し積もっている。

「こんな静かな雪、初めて見ました」

「この森では珍しくない。朝だけ降って、昼には溶ける」

「……儚いんですね」

「だが、その一瞬が美しい」

 ルシアンの言葉に、胸の奥が温かくなった。
 彼は外に出て、薪を確かめるように視線を落とした。雪が舞い、彼の黒髪の上に白く落ちては溶ける。
 その姿を見ていると、不思議なほど穏やかな気持ちになった。

「何か手伝えることはありますか?」

「室内で火を絶やすな。冷える前に湯を沸かしておけ」

「はい」

 私は小屋に戻り、火を起こした。昨日よりも火がよく燃える。炉の奥で炎が踊り、薪がゆっくりと音を立てる。
 鍋に湯を張り、香草を入れて温めていると、ルシアンが戻ってきた。雪の結晶が外套に残ったまま、彼は扉を閉める。

「森の奥の小道が凍っている。しばらくは村にも行けん」

「そんなに冷え込んでいるんですか」

「ああ。無理に動けば足を取られる」

 私は彼の手元に目をやる。指が少し赤くなっているのに気づいて、慌ててタオルを持ってきた。

「手、冷たいままじゃ……」

「平気だ」

「ダメです。ほら、出してください」

 ためらいがちに伸ばした私の手に、ルシアンが視線を落とす。けれど拒まなかった。
 彼の手を包むと、驚くほど冷たかった。
 私は両手で包み込み、火の前へ引き寄せた。

「どうして、こんなに冷たくなるまで……」

「森を歩いていたらこうなる」

「そんな理屈、聞きません」

 思わず声が強くなる。
 ルシアンは目を瞬かせたあと、ふっと息を吐いた。

「お前は、よく怒るようになった」

「怒ってなんか……」

「前よりずっと、生きている顔をしている」

 その一言が、胸の奥に響いた。
 私は言葉を失い、ただ彼の手を包んだまま視線を落とした。指先がじんわりと温まっていく。
 静かな空気の中、火の音だけがふたりをつなぐ。

「ルシアンさん」

「なんだ」

「……ここにいてもいいですか?」

 彼の目が、少しだけ揺れた。

「何を聞いている」

「いつか、出て行くときが来るかもしれません。でも今は、まだここにいたい。あなたのそばで、生きていたい」

 しばらく沈黙が落ちた。外では雪が舞い続け、窓を叩く音がかすかに響く。
 ルシアンは、ゆっくりと口を開いた。

「……勝手にいればいい」

「ふふ、それ、許可ってことでいいですか?」

「解釈は自由だ」

 私は思わず笑ってしまった。
 その笑い声に、ルシアンの肩がわずかに揺れた気がした。

「……笑うのは、悪くないな」

「そうですか?」

「ああ。お前が笑うと、少しだけ……静かになる」

「静かに?」

「俺の心が、だ」

 その言葉が、胸の奥で跳ねた。
 ルシアンはそれ以上言わず、立ち上がって窓の外を見た。雪が薄くなり、森の奥に光が差している。
 私はただ、彼の背中を見つめていた。

 冷たい冬の朝の中で、不思議なぬくもりが生まれていた。
 それはまだ形にならないけれど、確かにそこに在る“想い”だった。



 昼を過ぎても雪はやまなかった。細い粒がしんしんと降り続け、森の木々を静かに覆っていく。外の世界はすっかり白一色に染まり、音という音が吸い込まれたように消えていた。
 小屋の中は暖炉の火で暖かく、外とは別の時間が流れているようだった。湯気の立つポトフの匂いが漂い、木の器からは微かな香草の香りが立ちのぼる。

「塩は入れすぎてないか?」

「少し濃いくらいが、寒い日にはちょうどいいですよ」

「そうか」

 ルシアンは無表情のまま、匙を取った。
 けれど、ひと口食べたあとに目を伏せ、ゆっくりと噛み締めるようにして味わっていた。
 私はその様子を見て、そっと笑みを浮かべた。

「気に入ってもらえたなら、嬉しいです」

「……悪くない」

 いつもの言葉。だが、どこか柔らかく聞こえる。
 炎の明かりが彼の頬を照らし、無口な表情の端がかすかに緩んでいた。

「もう少し食べます?」

「いや、腹は満ちた」

 彼は匙を置き、窓の外を見た。
 雪の向こうには、森の奥がぼんやりと霞んでいる。
 どこか遠くを見るようなその眼差しに、私は少しだけ胸が痛んだ。

「……何か、思い出しているんですか?」

「昔、冬が来るたびに、焚き火を囲んで酒を飲んでいた」

「仲間の方と?」

「ああ。馬鹿な連中だったが、よく笑う奴らだった」

 その口調は淡々としていたが、声の奥には懐かしさが滲んでいた。
 私は何も言わず、ただ彼の隣に座った。
 暖炉の炎が二人の影を壁に映し、その影が寄り添うように揺れている。

「……みんな、もういないのですか」

「そうだ。戦の終わりと共に散った」

 彼の声がわずかに低く沈む。
 私は息を呑んだが、すぐに小さく囁いた。

「寂しかったでしょう」

 ルシアンは一瞬だけ私を見て、そして静かに目を閉じた。

「寂しいと感じる暇もなかった。気づけば、誰もいなかった。それだけだ」

 その言葉があまりにも静かで、逆に胸を締めつけた。
 私はそっと手を伸ばし、彼の袖を掴む。
 彼が目を開け、驚いたようにこちらを見る。

「今は……一人じゃありません」

「……」

「私が、ここにいます」

 その瞬間、彼の瞳の奥にわずかな光が灯った。
 言葉にはならない何かが、二人の間を流れた。
 暖炉の火がぱちりと音を立て、静けさがより深く染み込んでいく。

 しばらくして、ルシアンが小さく呟いた。

「お前は、どうしてそんなに強い」

「強い……ですか?」

「普通なら、あんな裏切りに耐えられん」

「……強くなったんだと思います」

「誰のために?」

「自分のために。……そして、少しだけ、あなたのために」

 言った瞬間、頬が熱くなった。
 ルシアンの視線が私に向く。灰色の瞳が静かに揺れていた。

「俺のために?」

「ええ。あなたに出会って、初めて、誰かの隣で息をしてもいいんだと思えたから」

 その言葉が、部屋の中にゆっくりと溶けていった。
 ルシアンは何も言わなかった。ただ、手を伸ばし、私の髪に落ちた雪の粒をそっと払った。

「……もう溶けている」

 触れた指先があまりに優しくて、息が詰まった。
 そのまま、彼の手が髪から離れず、わずかに指が震える。

「ルシアンさん……?」

 彼は短く息を吐き、手を引いた。

「すまない」

「謝らないでください」

「癖なんだ」

「どんな癖ですか?」

「守れなかったものを、つい確かめたくなる」

 その言葉が、心の奥を深く打った。
 私は彼の手を取り、指先を包み込むように握った。

「じゃあ、これからは確かめてください。私がここにいることを」

 ルシアンが目を見開いた。
 火の光がその瞳に映り、灰の中に金の粒が散るように輝いた。

「……お前は、本当に不思議な女だ」

「そう言われるの、もう三回目です」

 思わず笑うと、彼も小さく息を漏らした。
 それはほとんど笑いのような音で、私の胸の奥をくすぐった。

 外の雪はやみ、窓から光が差し込む。
 白銀の森がまぶしく輝き、世界が新しく生まれ変わったようだった。

「雪、やみましたね」

「ああ」

「外、見に行きませんか?」

「寒いぞ」

「大丈夫です。あなたが隣にいれば、きっと」

 その言葉に、ルシアンがわずかに息を止めた。
 そして、ほんの少しだけ微笑んだ。

「……そうか」

 二人で扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
 雪に覆われた森は静かで、光を反射して眩しかった。
 私は息を吸い込み、胸いっぱいにその空気を抱きしめた。

「綺麗……」

 隣でルシアンが小さく頷いた。

「こうして見ると、生きているだけで十分だと思える」

「ええ、そうですね」

 風が吹き、雪の粒が宙を舞った。
 それはまるで、祝福のようだった。

 私はルシアンの方を振り向く。
 彼の瞳が私を見つめていた。
 その目の奥に、確かに何かが灯っている。

 ——これはきっと、始まりの光だ。
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