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第6話 小さな安らぎ
〇
翌朝は霧が濃く、外の景色が白い靄に包まれていた。森の音さえも遠く感じられるほど静かで、まるで世界がまだ眠っているようだった。私は暖炉のそばに座り、昨夜の残り火に薪を足す。火がぱちぱちと弾け、橙色の光が少しずつ部屋を満たしていった。
湯を沸かしながら外の様子を窺っていると、扉の向こうでかすかな足音がした。ルシアンだった。
「早いですね」
そう声をかけると、彼は外套を脱ぎながら「眠れなかった」と短く答えた。
夜明け前に森を一巡りしてきたらしい。肩に朝露が光り、黒髪の端が少し濡れている。私は慌てて布巾を取り、差し出した。
「拭いてください」
「いい」
「風邪をひきます」
思わず声が強くなった。彼は少し驚いたように目を瞬かせたが、しばらくして受け取ってくれた。
その動作がどこかぎこちなくて、思わず笑ってしまう。
「何がおかしい」
「いえ……あなたがそういう顔をするの、珍しいなと思って」
「顔?」
「はい。困ったような、照れたような」
ルシアンの眉がほんの少し上がる。彼は黙って布巾を折り、火のそばに掛けた。
その横顔が、普段よりも穏やかに見えた。
湯が沸き、薬草を入れると部屋いっぱいに香りが広がった。私は二つのカップを用意し、彼の前に置く。
「どうぞ」
「……ありがとう」
彼がカップを手に取る。薄く湯気が立ち、灰色の瞳がその向こうで柔らかく揺れた。
私も口をつける。温かさが喉を通り、身体の芯がゆっくりとほどけていくようだった。
「この香り、落ち着きますね」
「月草だ。森の奥にしか生えない」
「採ってきたのはあなたですか?」
「ああ。夜明け前なら見つけやすい」
「……夜明け前って、眠らずに?」
「寝つけない性分だ」
言葉は淡々としているけれど、その中に微かな疲労が混ざっていた。
私は少し考えてから、そっと言った。
「……眠れないときは、私の声を聞きますか?」
「声を?」
「ええ。昔、妹に子守唄を歌っていたんです。少しは眠りやすくなるかもしれません」
ルシアンはわずかに目を見開いた。
沈黙が流れ、火の音だけが部屋を満たす。やがて、彼が小さく笑った。
「子守唄など、久しく聞いていない」
「それなら、今夜試してみましょうか」
「……好きにしろ」
その答えに思わず微笑む。
ルシアンの声には、いつも冷たさと温かさが混ざっていた。どちらが本当なのか、まだわからない。けれど、どちらも彼を形作っている大切な一部なのだと、もう知っていた。
◇
午後になると、霧は薄れ、森の奥から陽が差してきた。外では小鳥が鳴き、川のせせらぎが聞こえる。
ルシアンは小屋の裏で木材を削っていた。私は洗濯物を干し終え、傍らで見守っていた。
木を削る音は心地よく、リズムが一定で、まるで音楽のようだった。
「何を作っているんですか?」
「椅子だ。古いのが壊れかけている」
「器用なんですね」
「慣れだ。森では、何でも自分で直す」
彼の言葉に、私は頷く。
彼の手は大きく、節ばっていて、しかし丁寧に動く。刃物を扱う指が恐ろしく正確で、その動きを見ているだけで時間を忘れてしまいそうだった。
「手……怪我の跡がたくさんありますね」
「昔のものだ」
「痛くなかったんですか」
「痛みは、生きている証だ」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
私は彼の手を見つめたまま、そっと囁く。
「……私は、痛みを避けてばかりでした」
「避けられるなら、それでいい」
「でも、避け続けた結果が“今”なんです」
ルシアンが手を止める。
木屑が風に舞い、日差しの中できらめいた。
「あなたは後悔しているのか?」
「わかりません。けれど、やり直せるなら——」
そこまで言って、言葉が詰まった。
王都の記憶が蘇る。妹の微笑み。王太子の冷たい眼差し。
あの場所に戻ることは、もうできない。
「——でも、ここでなら、少しは変われる気がします」
ルシアンはゆっくりとこちらを見た。
陽光が瞳に差し込み、灰色が淡く金色を帯びる。
「変わる必要はない」
「え……?」
「過去を消そうとするな。そうやって立っているなら、それでいい」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
誰もそんなふうに言ってくれたことはなかった。
私は小さく息を吸い、涙をこらえながら微笑んだ。
「あなたって、本当に不思議な人です」
「よく言われる」
短く返した彼の声が、どこか照れくさそうで、思わず笑ってしまう。
◇
日が暮れ、夜が訪れる。
暖炉の火が再び部屋を照らし、橙の光が壁に揺れる。
私は毛布を膝にかけ、ルシアンの隣に座っていた。
火の音を聞きながら、彼が静かに言う。
「……歌わないのか」
「え?」
「子守唄だ」
「あっ、覚えていてくださったんですね」
「一度聞くと忘れない」
私は頬が熱くなるのを感じた。少し息を整え、小さな声で歌い始める。
穏やかな旋律。森の風と同じように、ゆっくりと流れる音。
ルシアンは目を閉じ、何も言わずに聞いていた。
歌い終わる頃、火の音だけが残る。
彼は静かに息を吐き、低く呟いた。
「……悪くない」
その言葉が、何よりの褒め言葉のように聞こえた。
私は微笑みながら、囁くように返した。
「おやすみなさい、ルシアンさん」
「ああ。おやすみ、エリシア」
初めて聞く“あたたかい呼び方”だった。
その声を胸に、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
火の光が優しく揺れ、眠りへと導いていく。
——世界のどこにも、こんな穏やかな夜はなかった。
△
翌朝、外はうっすらと雪が降っていた。森の木々が白い粉をまとい、空気の匂いまでもが澄んでいる。吐く息が白くほどけ、頬を撫でる風が冷たくて気持ちよかった。小屋の屋根には薄い雪の層が積もり、まるで世界全体が音を失ったように静かだった。
私は戸口に立ち、外の景色を見つめていた。昨日まで秋の色を残していた森が、今はもう冬の気配を帯びている。
その変化が少し切なく、でも不思議と心地よかった。季節が移り変わるように、人の心も少しずつ形を変えていくのだろう。
「寒くないのか」
背後から低い声がして、振り返る。ルシアンが外套を羽織りながら立っていた。彼の肩にも雪が少し積もっている。
「こんな静かな雪、初めて見ました」
「この森では珍しくない。朝だけ降って、昼には溶ける」
「……儚いんですね」
「だが、その一瞬が美しい」
ルシアンの言葉に、胸の奥が温かくなった。
彼は外に出て、薪を確かめるように視線を落とした。雪が舞い、彼の黒髪の上に白く落ちては溶ける。
その姿を見ていると、不思議なほど穏やかな気持ちになった。
「何か手伝えることはありますか?」
「室内で火を絶やすな。冷える前に湯を沸かしておけ」
「はい」
私は小屋に戻り、火を起こした。昨日よりも火がよく燃える。炉の奥で炎が踊り、薪がゆっくりと音を立てる。
鍋に湯を張り、香草を入れて温めていると、ルシアンが戻ってきた。雪の結晶が外套に残ったまま、彼は扉を閉める。
「森の奥の小道が凍っている。しばらくは村にも行けん」
「そんなに冷え込んでいるんですか」
「ああ。無理に動けば足を取られる」
私は彼の手元に目をやる。指が少し赤くなっているのに気づいて、慌ててタオルを持ってきた。
「手、冷たいままじゃ……」
「平気だ」
「ダメです。ほら、出してください」
ためらいがちに伸ばした私の手に、ルシアンが視線を落とす。けれど拒まなかった。
彼の手を包むと、驚くほど冷たかった。
私は両手で包み込み、火の前へ引き寄せた。
「どうして、こんなに冷たくなるまで……」
「森を歩いていたらこうなる」
「そんな理屈、聞きません」
思わず声が強くなる。
ルシアンは目を瞬かせたあと、ふっと息を吐いた。
「お前は、よく怒るようになった」
「怒ってなんか……」
「前よりずっと、生きている顔をしている」
その一言が、胸の奥に響いた。
私は言葉を失い、ただ彼の手を包んだまま視線を落とした。指先がじんわりと温まっていく。
静かな空気の中、火の音だけがふたりをつなぐ。
「ルシアンさん」
「なんだ」
「……ここにいてもいいですか?」
彼の目が、少しだけ揺れた。
「何を聞いている」
「いつか、出て行くときが来るかもしれません。でも今は、まだここにいたい。あなたのそばで、生きていたい」
しばらく沈黙が落ちた。外では雪が舞い続け、窓を叩く音がかすかに響く。
ルシアンは、ゆっくりと口を開いた。
「……勝手にいればいい」
「ふふ、それ、許可ってことでいいですか?」
「解釈は自由だ」
私は思わず笑ってしまった。
その笑い声に、ルシアンの肩がわずかに揺れた気がした。
「……笑うのは、悪くないな」
「そうですか?」
「ああ。お前が笑うと、少しだけ……静かになる」
「静かに?」
「俺の心が、だ」
その言葉が、胸の奥で跳ねた。
ルシアンはそれ以上言わず、立ち上がって窓の外を見た。雪が薄くなり、森の奥に光が差している。
私はただ、彼の背中を見つめていた。
冷たい冬の朝の中で、不思議なぬくもりが生まれていた。
それはまだ形にならないけれど、確かにそこに在る“想い”だった。
◇
昼を過ぎても雪はやまなかった。細い粒がしんしんと降り続け、森の木々を静かに覆っていく。外の世界はすっかり白一色に染まり、音という音が吸い込まれたように消えていた。
小屋の中は暖炉の火で暖かく、外とは別の時間が流れているようだった。湯気の立つポトフの匂いが漂い、木の器からは微かな香草の香りが立ちのぼる。
「塩は入れすぎてないか?」
「少し濃いくらいが、寒い日にはちょうどいいですよ」
「そうか」
ルシアンは無表情のまま、匙を取った。
けれど、ひと口食べたあとに目を伏せ、ゆっくりと噛み締めるようにして味わっていた。
私はその様子を見て、そっと笑みを浮かべた。
「気に入ってもらえたなら、嬉しいです」
「……悪くない」
いつもの言葉。だが、どこか柔らかく聞こえる。
炎の明かりが彼の頬を照らし、無口な表情の端がかすかに緩んでいた。
「もう少し食べます?」
「いや、腹は満ちた」
彼は匙を置き、窓の外を見た。
雪の向こうには、森の奥がぼんやりと霞んでいる。
どこか遠くを見るようなその眼差しに、私は少しだけ胸が痛んだ。
「……何か、思い出しているんですか?」
「昔、冬が来るたびに、焚き火を囲んで酒を飲んでいた」
「仲間の方と?」
「ああ。馬鹿な連中だったが、よく笑う奴らだった」
その口調は淡々としていたが、声の奥には懐かしさが滲んでいた。
私は何も言わず、ただ彼の隣に座った。
暖炉の炎が二人の影を壁に映し、その影が寄り添うように揺れている。
「……みんな、もういないのですか」
「そうだ。戦の終わりと共に散った」
彼の声がわずかに低く沈む。
私は息を呑んだが、すぐに小さく囁いた。
「寂しかったでしょう」
ルシアンは一瞬だけ私を見て、そして静かに目を閉じた。
「寂しいと感じる暇もなかった。気づけば、誰もいなかった。それだけだ」
その言葉があまりにも静かで、逆に胸を締めつけた。
私はそっと手を伸ばし、彼の袖を掴む。
彼が目を開け、驚いたようにこちらを見る。
「今は……一人じゃありません」
「……」
「私が、ここにいます」
その瞬間、彼の瞳の奥にわずかな光が灯った。
言葉にはならない何かが、二人の間を流れた。
暖炉の火がぱちりと音を立て、静けさがより深く染み込んでいく。
しばらくして、ルシアンが小さく呟いた。
「お前は、どうしてそんなに強い」
「強い……ですか?」
「普通なら、あんな裏切りに耐えられん」
「……強くなったんだと思います」
「誰のために?」
「自分のために。……そして、少しだけ、あなたのために」
言った瞬間、頬が熱くなった。
ルシアンの視線が私に向く。灰色の瞳が静かに揺れていた。
「俺のために?」
「ええ。あなたに出会って、初めて、誰かの隣で息をしてもいいんだと思えたから」
その言葉が、部屋の中にゆっくりと溶けていった。
ルシアンは何も言わなかった。ただ、手を伸ばし、私の髪に落ちた雪の粒をそっと払った。
「……もう溶けている」
触れた指先があまりに優しくて、息が詰まった。
そのまま、彼の手が髪から離れず、わずかに指が震える。
「ルシアンさん……?」
彼は短く息を吐き、手を引いた。
「すまない」
「謝らないでください」
「癖なんだ」
「どんな癖ですか?」
「守れなかったものを、つい確かめたくなる」
その言葉が、心の奥を深く打った。
私は彼の手を取り、指先を包み込むように握った。
「じゃあ、これからは確かめてください。私がここにいることを」
ルシアンが目を見開いた。
火の光がその瞳に映り、灰の中に金の粒が散るように輝いた。
「……お前は、本当に不思議な女だ」
「そう言われるの、もう三回目です」
思わず笑うと、彼も小さく息を漏らした。
それはほとんど笑いのような音で、私の胸の奥をくすぐった。
外の雪はやみ、窓から光が差し込む。
白銀の森がまぶしく輝き、世界が新しく生まれ変わったようだった。
「雪、やみましたね」
「ああ」
「外、見に行きませんか?」
「寒いぞ」
「大丈夫です。あなたが隣にいれば、きっと」
その言葉に、ルシアンがわずかに息を止めた。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……そうか」
二人で扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
雪に覆われた森は静かで、光を反射して眩しかった。
私は息を吸い込み、胸いっぱいにその空気を抱きしめた。
「綺麗……」
隣でルシアンが小さく頷いた。
「こうして見ると、生きているだけで十分だと思える」
「ええ、そうですね」
風が吹き、雪の粒が宙を舞った。
それはまるで、祝福のようだった。
私はルシアンの方を振り向く。
彼の瞳が私を見つめていた。
その目の奥に、確かに何かが灯っている。
——これはきっと、始まりの光だ。
〇
翌朝は霧が濃く、外の景色が白い靄に包まれていた。森の音さえも遠く感じられるほど静かで、まるで世界がまだ眠っているようだった。私は暖炉のそばに座り、昨夜の残り火に薪を足す。火がぱちぱちと弾け、橙色の光が少しずつ部屋を満たしていった。
湯を沸かしながら外の様子を窺っていると、扉の向こうでかすかな足音がした。ルシアンだった。
「早いですね」
そう声をかけると、彼は外套を脱ぎながら「眠れなかった」と短く答えた。
夜明け前に森を一巡りしてきたらしい。肩に朝露が光り、黒髪の端が少し濡れている。私は慌てて布巾を取り、差し出した。
「拭いてください」
「いい」
「風邪をひきます」
思わず声が強くなった。彼は少し驚いたように目を瞬かせたが、しばらくして受け取ってくれた。
その動作がどこかぎこちなくて、思わず笑ってしまう。
「何がおかしい」
「いえ……あなたがそういう顔をするの、珍しいなと思って」
「顔?」
「はい。困ったような、照れたような」
ルシアンの眉がほんの少し上がる。彼は黙って布巾を折り、火のそばに掛けた。
その横顔が、普段よりも穏やかに見えた。
湯が沸き、薬草を入れると部屋いっぱいに香りが広がった。私は二つのカップを用意し、彼の前に置く。
「どうぞ」
「……ありがとう」
彼がカップを手に取る。薄く湯気が立ち、灰色の瞳がその向こうで柔らかく揺れた。
私も口をつける。温かさが喉を通り、身体の芯がゆっくりとほどけていくようだった。
「この香り、落ち着きますね」
「月草だ。森の奥にしか生えない」
「採ってきたのはあなたですか?」
「ああ。夜明け前なら見つけやすい」
「……夜明け前って、眠らずに?」
「寝つけない性分だ」
言葉は淡々としているけれど、その中に微かな疲労が混ざっていた。
私は少し考えてから、そっと言った。
「……眠れないときは、私の声を聞きますか?」
「声を?」
「ええ。昔、妹に子守唄を歌っていたんです。少しは眠りやすくなるかもしれません」
ルシアンはわずかに目を見開いた。
沈黙が流れ、火の音だけが部屋を満たす。やがて、彼が小さく笑った。
「子守唄など、久しく聞いていない」
「それなら、今夜試してみましょうか」
「……好きにしろ」
その答えに思わず微笑む。
ルシアンの声には、いつも冷たさと温かさが混ざっていた。どちらが本当なのか、まだわからない。けれど、どちらも彼を形作っている大切な一部なのだと、もう知っていた。
◇
午後になると、霧は薄れ、森の奥から陽が差してきた。外では小鳥が鳴き、川のせせらぎが聞こえる。
ルシアンは小屋の裏で木材を削っていた。私は洗濯物を干し終え、傍らで見守っていた。
木を削る音は心地よく、リズムが一定で、まるで音楽のようだった。
「何を作っているんですか?」
「椅子だ。古いのが壊れかけている」
「器用なんですね」
「慣れだ。森では、何でも自分で直す」
彼の言葉に、私は頷く。
彼の手は大きく、節ばっていて、しかし丁寧に動く。刃物を扱う指が恐ろしく正確で、その動きを見ているだけで時間を忘れてしまいそうだった。
「手……怪我の跡がたくさんありますね」
「昔のものだ」
「痛くなかったんですか」
「痛みは、生きている証だ」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
私は彼の手を見つめたまま、そっと囁く。
「……私は、痛みを避けてばかりでした」
「避けられるなら、それでいい」
「でも、避け続けた結果が“今”なんです」
ルシアンが手を止める。
木屑が風に舞い、日差しの中できらめいた。
「あなたは後悔しているのか?」
「わかりません。けれど、やり直せるなら——」
そこまで言って、言葉が詰まった。
王都の記憶が蘇る。妹の微笑み。王太子の冷たい眼差し。
あの場所に戻ることは、もうできない。
「——でも、ここでなら、少しは変われる気がします」
ルシアンはゆっくりとこちらを見た。
陽光が瞳に差し込み、灰色が淡く金色を帯びる。
「変わる必要はない」
「え……?」
「過去を消そうとするな。そうやって立っているなら、それでいい」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
誰もそんなふうに言ってくれたことはなかった。
私は小さく息を吸い、涙をこらえながら微笑んだ。
「あなたって、本当に不思議な人です」
「よく言われる」
短く返した彼の声が、どこか照れくさそうで、思わず笑ってしまう。
◇
日が暮れ、夜が訪れる。
暖炉の火が再び部屋を照らし、橙の光が壁に揺れる。
私は毛布を膝にかけ、ルシアンの隣に座っていた。
火の音を聞きながら、彼が静かに言う。
「……歌わないのか」
「え?」
「子守唄だ」
「あっ、覚えていてくださったんですね」
「一度聞くと忘れない」
私は頬が熱くなるのを感じた。少し息を整え、小さな声で歌い始める。
穏やかな旋律。森の風と同じように、ゆっくりと流れる音。
ルシアンは目を閉じ、何も言わずに聞いていた。
歌い終わる頃、火の音だけが残る。
彼は静かに息を吐き、低く呟いた。
「……悪くない」
その言葉が、何よりの褒め言葉のように聞こえた。
私は微笑みながら、囁くように返した。
「おやすみなさい、ルシアンさん」
「ああ。おやすみ、エリシア」
初めて聞く“あたたかい呼び方”だった。
その声を胸に、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
火の光が優しく揺れ、眠りへと導いていく。
——世界のどこにも、こんな穏やかな夜はなかった。
△
翌朝、外はうっすらと雪が降っていた。森の木々が白い粉をまとい、空気の匂いまでもが澄んでいる。吐く息が白くほどけ、頬を撫でる風が冷たくて気持ちよかった。小屋の屋根には薄い雪の層が積もり、まるで世界全体が音を失ったように静かだった。
私は戸口に立ち、外の景色を見つめていた。昨日まで秋の色を残していた森が、今はもう冬の気配を帯びている。
その変化が少し切なく、でも不思議と心地よかった。季節が移り変わるように、人の心も少しずつ形を変えていくのだろう。
「寒くないのか」
背後から低い声がして、振り返る。ルシアンが外套を羽織りながら立っていた。彼の肩にも雪が少し積もっている。
「こんな静かな雪、初めて見ました」
「この森では珍しくない。朝だけ降って、昼には溶ける」
「……儚いんですね」
「だが、その一瞬が美しい」
ルシアンの言葉に、胸の奥が温かくなった。
彼は外に出て、薪を確かめるように視線を落とした。雪が舞い、彼の黒髪の上に白く落ちては溶ける。
その姿を見ていると、不思議なほど穏やかな気持ちになった。
「何か手伝えることはありますか?」
「室内で火を絶やすな。冷える前に湯を沸かしておけ」
「はい」
私は小屋に戻り、火を起こした。昨日よりも火がよく燃える。炉の奥で炎が踊り、薪がゆっくりと音を立てる。
鍋に湯を張り、香草を入れて温めていると、ルシアンが戻ってきた。雪の結晶が外套に残ったまま、彼は扉を閉める。
「森の奥の小道が凍っている。しばらくは村にも行けん」
「そんなに冷え込んでいるんですか」
「ああ。無理に動けば足を取られる」
私は彼の手元に目をやる。指が少し赤くなっているのに気づいて、慌ててタオルを持ってきた。
「手、冷たいままじゃ……」
「平気だ」
「ダメです。ほら、出してください」
ためらいがちに伸ばした私の手に、ルシアンが視線を落とす。けれど拒まなかった。
彼の手を包むと、驚くほど冷たかった。
私は両手で包み込み、火の前へ引き寄せた。
「どうして、こんなに冷たくなるまで……」
「森を歩いていたらこうなる」
「そんな理屈、聞きません」
思わず声が強くなる。
ルシアンは目を瞬かせたあと、ふっと息を吐いた。
「お前は、よく怒るようになった」
「怒ってなんか……」
「前よりずっと、生きている顔をしている」
その一言が、胸の奥に響いた。
私は言葉を失い、ただ彼の手を包んだまま視線を落とした。指先がじんわりと温まっていく。
静かな空気の中、火の音だけがふたりをつなぐ。
「ルシアンさん」
「なんだ」
「……ここにいてもいいですか?」
彼の目が、少しだけ揺れた。
「何を聞いている」
「いつか、出て行くときが来るかもしれません。でも今は、まだここにいたい。あなたのそばで、生きていたい」
しばらく沈黙が落ちた。外では雪が舞い続け、窓を叩く音がかすかに響く。
ルシアンは、ゆっくりと口を開いた。
「……勝手にいればいい」
「ふふ、それ、許可ってことでいいですか?」
「解釈は自由だ」
私は思わず笑ってしまった。
その笑い声に、ルシアンの肩がわずかに揺れた気がした。
「……笑うのは、悪くないな」
「そうですか?」
「ああ。お前が笑うと、少しだけ……静かになる」
「静かに?」
「俺の心が、だ」
その言葉が、胸の奥で跳ねた。
ルシアンはそれ以上言わず、立ち上がって窓の外を見た。雪が薄くなり、森の奥に光が差している。
私はただ、彼の背中を見つめていた。
冷たい冬の朝の中で、不思議なぬくもりが生まれていた。
それはまだ形にならないけれど、確かにそこに在る“想い”だった。
◇
昼を過ぎても雪はやまなかった。細い粒がしんしんと降り続け、森の木々を静かに覆っていく。外の世界はすっかり白一色に染まり、音という音が吸い込まれたように消えていた。
小屋の中は暖炉の火で暖かく、外とは別の時間が流れているようだった。湯気の立つポトフの匂いが漂い、木の器からは微かな香草の香りが立ちのぼる。
「塩は入れすぎてないか?」
「少し濃いくらいが、寒い日にはちょうどいいですよ」
「そうか」
ルシアンは無表情のまま、匙を取った。
けれど、ひと口食べたあとに目を伏せ、ゆっくりと噛み締めるようにして味わっていた。
私はその様子を見て、そっと笑みを浮かべた。
「気に入ってもらえたなら、嬉しいです」
「……悪くない」
いつもの言葉。だが、どこか柔らかく聞こえる。
炎の明かりが彼の頬を照らし、無口な表情の端がかすかに緩んでいた。
「もう少し食べます?」
「いや、腹は満ちた」
彼は匙を置き、窓の外を見た。
雪の向こうには、森の奥がぼんやりと霞んでいる。
どこか遠くを見るようなその眼差しに、私は少しだけ胸が痛んだ。
「……何か、思い出しているんですか?」
「昔、冬が来るたびに、焚き火を囲んで酒を飲んでいた」
「仲間の方と?」
「ああ。馬鹿な連中だったが、よく笑う奴らだった」
その口調は淡々としていたが、声の奥には懐かしさが滲んでいた。
私は何も言わず、ただ彼の隣に座った。
暖炉の炎が二人の影を壁に映し、その影が寄り添うように揺れている。
「……みんな、もういないのですか」
「そうだ。戦の終わりと共に散った」
彼の声がわずかに低く沈む。
私は息を呑んだが、すぐに小さく囁いた。
「寂しかったでしょう」
ルシアンは一瞬だけ私を見て、そして静かに目を閉じた。
「寂しいと感じる暇もなかった。気づけば、誰もいなかった。それだけだ」
その言葉があまりにも静かで、逆に胸を締めつけた。
私はそっと手を伸ばし、彼の袖を掴む。
彼が目を開け、驚いたようにこちらを見る。
「今は……一人じゃありません」
「……」
「私が、ここにいます」
その瞬間、彼の瞳の奥にわずかな光が灯った。
言葉にはならない何かが、二人の間を流れた。
暖炉の火がぱちりと音を立て、静けさがより深く染み込んでいく。
しばらくして、ルシアンが小さく呟いた。
「お前は、どうしてそんなに強い」
「強い……ですか?」
「普通なら、あんな裏切りに耐えられん」
「……強くなったんだと思います」
「誰のために?」
「自分のために。……そして、少しだけ、あなたのために」
言った瞬間、頬が熱くなった。
ルシアンの視線が私に向く。灰色の瞳が静かに揺れていた。
「俺のために?」
「ええ。あなたに出会って、初めて、誰かの隣で息をしてもいいんだと思えたから」
その言葉が、部屋の中にゆっくりと溶けていった。
ルシアンは何も言わなかった。ただ、手を伸ばし、私の髪に落ちた雪の粒をそっと払った。
「……もう溶けている」
触れた指先があまりに優しくて、息が詰まった。
そのまま、彼の手が髪から離れず、わずかに指が震える。
「ルシアンさん……?」
彼は短く息を吐き、手を引いた。
「すまない」
「謝らないでください」
「癖なんだ」
「どんな癖ですか?」
「守れなかったものを、つい確かめたくなる」
その言葉が、心の奥を深く打った。
私は彼の手を取り、指先を包み込むように握った。
「じゃあ、これからは確かめてください。私がここにいることを」
ルシアンが目を見開いた。
火の光がその瞳に映り、灰の中に金の粒が散るように輝いた。
「……お前は、本当に不思議な女だ」
「そう言われるの、もう三回目です」
思わず笑うと、彼も小さく息を漏らした。
それはほとんど笑いのような音で、私の胸の奥をくすぐった。
外の雪はやみ、窓から光が差し込む。
白銀の森がまぶしく輝き、世界が新しく生まれ変わったようだった。
「雪、やみましたね」
「ああ」
「外、見に行きませんか?」
「寒いぞ」
「大丈夫です。あなたが隣にいれば、きっと」
その言葉に、ルシアンがわずかに息を止めた。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……そうか」
二人で扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
雪に覆われた森は静かで、光を反射して眩しかった。
私は息を吸い込み、胸いっぱいにその空気を抱きしめた。
「綺麗……」
隣でルシアンが小さく頷いた。
「こうして見ると、生きているだけで十分だと思える」
「ええ、そうですね」
風が吹き、雪の粒が宙を舞った。
それはまるで、祝福のようだった。
私はルシアンの方を振り向く。
彼の瞳が私を見つめていた。
その目の奥に、確かに何かが灯っている。
——これはきっと、始まりの光だ。
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復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
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