婚約者を妹に寝取られ王都を追放された私絶望の果てで出会った無口な王弟殿下に「俺だけの妻に」と誓われ一途で過保護な寵愛に包まれながら第二の人生

さくら

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 雪がやんで三日が過ぎた。森の木々にはまだ白が残り、昼の光を反射してまぶしく輝いている。吐く息は相変わらず白く、けれどその冷たさにも少しずつ慣れてきた。
 小屋の中は静かだった。暖炉の火が一定のリズムで燃え、時折ぱちんと音を立てる。その音が妙に心地よくて、私は椅子に座りながら針仕事をしていた。
 ルシアンが作ってくれた布の切れ端を縫い合わせ、小さな袋を作っている。中に乾いた月草を詰めて、香り袋にするつもりだった。彼が眠るとき、少しでも安らげるように——そんなことを考えている自分に、気づけば微笑んでしまう。

 扉の向こうで、雪を踏む音がした。外に出ていたルシアンが戻ってきたらしい。
 扉が開くと、冷たい風と一緒に森の匂いが流れ込んでくる。彼の肩には雪の粉が積もっていて、髪の端が濡れて光っていた。

「おかえりなさい」

「ああ。少し森を見回ってきた」

「何かあったんですか?」

「足跡があった。人のものだ」

 その言葉に、胸がきゅっと縮む。

「人……?」

「村の者かもしれん。けれど、見覚えのない靴跡だった」

 ルシアンの声が低く、警戒を帯びていた。
 私は無意識に立ち上がり、彼の外套の袖を掴んだ。

「危険なんですか?」

「まだわからん。しばらくは外に出るな」

「でも、もし——」

「大丈夫だ。ここはすぐには見つからない」

 ルシアンがそう言って私の手を包む。その手は冷たいはずなのに、驚くほど温かく感じられた。
 外の世界に再び“誰か”がいるかもしれない——その事実が、恐ろしいようで、どこか懐かしくもあった。
 王都を離れて以来、他人という存在を避けてきた。それなのに、心のどこかで、人の声を求めていたのかもしれない。

「……私、怖いのかもしれません」

「当然だ」

「あなたは?」

「俺は、慣れている」

 彼の声には、どこか哀しみがあった。
 戦で失った過去を、私は思い出した。彼の「慣れ」は、痛みの積み重ねの上にあるもの。
 それがどんなに重いか、少しだけ理解できた気がした。

「……もし、誰かがここを見つけたら、どうします?」

「必要なら追い払う」

「殺すんですか?」

 その言葉が、自分の口から出た瞬間、空気が凍った。
 ルシアンはしばらく無言だった。やがて、深く息を吐いた。

「殺さずに済むなら、それが一番だ」

 それだけを言って、暖炉の前に座る。
 私はその背中を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

「……ルシアンさん」

「なんだ」

「もし、あなたが誰かを傷つけてでも私を守ると言ったら……私は、逃げます」

 ルシアンが振り向く。その灰色の瞳が静かに揺れた。

「なぜだ」

「あなたが自分を責める姿を、もう見たくないから」

 沈黙が落ちた。暖炉の火の音が、やけに大きく響く。
 彼は何も言わずに私を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

「……約束しよう。お前を守るときは、自分も壊さない」

 その言葉が、あまりに優しくて、涙がこぼれそうになった。
 私は慌てて笑って誤魔化す。

「それなら、守られます」

「そうか」

 ルシアンの口元がかすかに動いた。笑ったように見えた。
 外では雪が再び降り始め、静かな音を立てて地面を覆っていく。

 ◇

 夜になり、森は深い闇に沈んだ。
 風の音も、鳥の声もなく、ただ雪だけがしんしんと降り続けている。
 暖炉の前でルシアンが木を削っていた。小さな音が一定のリズムで響き、私の心を落ち着かせていく。

「何を作っているんですか?」

「箱だ」

「箱?」

「ああ。食料を入れておく」

「……もしかして、私のために?」

「自分の分もある」

「それでも、嬉しいです」

 彼は手を止めずに言った。

「お前は、変わった」

「そうでしょうか」

「最初にここへ来たときは、まるで凍った花のようだった」

「凍った花?」

「ああ。触れたら崩れそうで、でも冷たく光っていた」

 胸が熱くなる。彼の言葉はどこか詩のようで、優しさが滲んでいた。

「今は?」

「今は……」

 彼が木片を置き、こちらを見る。
 火の明かりが彼の瞳に映り、影が頬をなぞる。

「今は、生きている花だ」

 その一言で、何も言えなくなった。
 心臓が音を立てて跳ね、喉が熱を持つ。
 言葉よりも確かな何かが、胸の奥で静かに広がっていく。

「……ありがとう、ございます」

 そう言うのが精一杯だった。
 ルシアンは何も言わず、ただ木を削り続けた。
 けれど、その横顔は確かに柔らかく、火の明かりに包まれていた。

 外では雪が積もり続けている。
 それでも、小屋の中には確かな温もりがあった。
 ふたりでいることが、こんなにも自然で、静かで、幸せなことだと知った夜だった。




 夜が明けるころ、風がやみ、雪は音もなく止んでいた。森の上には薄い雲が広がり、東の空だけが淡い金色に染まっている。小屋の外では、樹々の枝からぽたぽたと雫が落ち、そのたびに静かな音が響いた。
 私はいつもより早く目を覚ました。まだ寝台の上にはルシアンの外套が掛けられていて、その重みが心地よい。彼はすでに起きているようで、外から薪を割る音が聞こえていた。
 静かな朝だった。
 けれど、その静けさの奥に、言葉にならない予感のようなものがあった。

 私は起き上がり、暖炉に残った火を整える。灰の下から小さな炎が顔を出し、部屋に再び光が戻る。木の香りと焦げた煙の匂いが混ざり合い、胸の奥をくすぐった。
 扉の向こうから、ルシアンの低い声がした。

「起きたか」

「はい。雪、止んだんですね」

「ああ。今日は森が静かだ」

 扉を開けると、彼が振り返った。
 朝の光が彼の髪に差し、黒の中に金色が差し込んでいた。腕には束ねた薪、肩には霜が少し残っている。
 彼の姿を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
 こんなに静かな幸福があるなんて、少し前の自分には想像もできなかった。

「ルシアンさん」

「なんだ」

「……こうして朝を迎えられるのが、うれしいです」

 私の言葉に、彼は一瞬だけ動きを止めた。
 そして、短く頷いた。

「それは、いいことだ」

 彼は薪を置き、小屋の隅にある木箱の蓋を開けた。
 昨日削っていた箱だ。滑らかな木目が光を受けて美しく、丁寧に仕上げられている。

「完成したんですね」

「ああ。だが少し小さかった。食料は半分しか入らん」

「ふふ、それでも立派です。……ありがとうございます」

「礼を言うほどのことじゃない」

 彼はいつものように言葉を短く切る。けれど、その声音にはどこか柔らかさがあった。
 私は棚から布袋を取り出し、箱の中に月草の香り袋をそっと忍ばせた。

「これ、入れておいてもいいですか?」

「それは……お前が作ったのか」

「はい。眠りやすくなる香りだって、あなたが教えてくれたから」

 ルシアンは無言で袋を見つめ、やがて小さく息を吐いた。

「勝手にしろ」

 そう言いながらも、彼は箱の中を丁寧に整え、香り袋を隅に置いた。
 その仕草が、どこまでも不器用で優しい。
 私は胸の奥で、何かがじんわりと広がるのを感じた。

 ◇

 昼になると、森の奥から微かな鳥の声が聞こえてきた。
 雪解けの水が小さな流れを作り、地面の下で春の準備を始めているのだろう。
 私は小屋の前に出て、乾いた木の枝を拾い集めていた。手袋越しに冷たい感触が伝わる。
 ふと背後で足音がして、ルシアンが近づいてきた。

「一人で動くなと言っただろう」

「森の入口までです。危険なことはしていません」

「約束は守れ」

「守っています。ただ……」

「ただ?」

「少し、歩いてみたかったんです。ここに来てから、森の景色が変わるたびに、なんだか新しい世界に触れている気がして」

 ルシアンは無言のまま私を見つめていたが、やがて目を伏せた。

「お前は本当に、ここが好きなんだな」

「ええ。あなたがいるから」

 その瞬間、彼の肩がわずかに動いた。
 言葉を探しているように、目線を宙に彷徨わせ、やがて小さく息をつく。

「……俺は、特別なことなどしていない」

「特別なことをしなくても、あなたは特別です」

 その言葉が自然と口をついて出た。
 言ってから、頬が熱くなる。けれど、嘘ではなかった。
 ルシアンはしばらく黙ったまま、森の奥を見ていた。
 雪の反射光が彼の瞳に入り、灰色の中で金がきらめく。

「……お前がそう思うなら、それでいい」

 ようやくそう言って、彼は視線を戻した。
 それだけの言葉なのに、胸が高鳴る。
 彼の声は、氷を溶かす春風のように優しかった。

「さあ、戻れ。冷える」

「はい」

 小屋へ戻る途中、彼の後ろ姿を見つめた。
 広い背中。歩幅を少しだけ狭めてくれているのが分かる。
 その小さな気遣いが、言葉よりもずっと強く、私の心に届いていた。

 ◇

 夜。再び火を灯し、二人で温かなスープを飲んだ。
 ルシアンが手にした木の器は、私の作った布で包まれている。湯気が立ち、香草の匂いが柔らかく広がった。
 彼がゆっくりと口をつける。その仕草が妙に穏やかで、見ているだけで胸が安らぐ。

「……この味、悪くない」

「また“悪くない”ですか」

「誉め言葉だ」

「ええ、知っています」

 二人の間に小さな笑いがこぼれた。
 それはまるで、夜の静寂に溶ける火の粉のように儚く、けれど確かな温度を持っていた。

 しばらくして、彼が呟くように言った。

「エリシア」

「はい」

「お前は……もし明日、またあの足跡の主が来たとしても、恐れずにいられるか」

 私は少し考え、そして頷いた。

「あなたがいるなら、大丈夫です」

 彼の瞳が揺れた。
 それは雪明かりのように淡く、しかしどこまでも深い光だった。

「……なら、俺も負けないようにしないとな」

 その言葉に、思わず微笑む。

「負ける?」

「お前の強さに」

 静かな夜の中で、火の灯がゆっくりと揺れた。
 その炎が、彼の顔を照らし、影を柔らかく包み込む。
 私はその光景を胸に焼きつけるように見つめながら、そっと囁いた。

「……あなたがいる限り、私は怖くありません」

 ルシアンが目を伏せ、わずかに唇を動かした。

「……俺もだ」

 その声が、火の揺らめきの中に溶けていった。




 翌朝、雪は完全に溶けていた。森の中を流れる小川のせせらぎが、久しぶりに耳に届く。夜のあいだに氷が割れ、透明な水が流れ始めたのだろう。木々の根元にはまだ白が残っていたが、そこから新しい芽が顔を出していた。
 私は扉を開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。冷たさの中に、どこか柔らかな匂いが混じっていた。冬の終わり、そして春の予感。
 背後から、足音が近づく。ルシアンだ。いつものように無言で外に出てきて、隣に立つ。彼の肩にも朝の光が当たり、淡い金の縁が浮かんでいた。

「雪、全部消えましたね」

「ああ。森の息が戻った」

「生きているみたいに、音がします」

「実際、生きている。人間が何をしなくても、森は勝手に季節を変える」

 その言葉に、私は微笑む。
 彼の隣に立っていると、世界が穏やかに回り始める気がする。
 以前の私は、何かを取り戻すために生きていた。失ったものの痛みを抱え、それを埋めるために動いていた。
 けれど今は違う。ただ、この時間があればいいと思えるようになっていた。

 小屋に戻り、朝食の準備をする。パンを火で炙り、スープを温め、果実の蜜を少し垂らす。湯気が立ち上ると、ルシアンが椅子に腰を下ろした。
 彼は食事の前に短く手を合わせた。その動作があまりに自然で、思わず尋ねる。

「……祈っているんですか?」

「ああ。戦場では、毎日やっていた。誰かのために、というより、せめて自分が生きて戻れるように」

「それでも、あなたは今ここにいる」

「運がよかっただけだ」

「運じゃありません。……生きようとしたから、生きられたんです」

 ルシアンがスープを口にしながら、わずかに笑う。

「お前は、本当に強くなったな」

「あなたのそばにいると、強くなれる気がするんです」

「それは錯覚だ」

「いい錯覚です。消えないでほしい」

 私の言葉に、彼は何も言わず、ただ静かに視線を逸らした。
 その横顔に、微かな苦笑が浮かんでいた。

 ◇

 昼過ぎ、外で薪を割るルシアンの背を見ながら、私は洗濯物を干していた。風が少し強く、布がはためくたびに陽光が透ける。
 森の奥からは遠く鳥の鳴き声が聞こえ、雪解けの水が地面を伝って流れていく音がした。
 私はその音を聞きながら、ふと自分の名前を呼ばれるのを待っていた。
 「エリシア」
 そう呼ぶ彼の声が、今では私の一日の始まりになっている。

 けれど、その声は今日は聞こえなかった。代わりに、ルシアンの斧が止まる音がした。彼が森の方を見つめている。
 胸がざわめいた。私は布を干す手を止め、彼の隣に歩み寄った。

「どうしました?」

「……誰かがいた」

「え?」

「森の奥、三つ目の岩の向こう。煙が見えた」

 息が詰まる。
 足跡だけではなかった。実際に、人が近くにいる。

「村の人……ではないんですか?」

「わからん。だが、動きが静かすぎる。狩人なら焚き火をもっと高くする」

 ルシアンの声が鋭くなる。
 私は思わず裾を握りしめた。手の中が汗ばんで冷たくなる。

「……怖いです」

「中にいろ」

 そう言って彼は短剣を腰に差し、外套を羽織る。
 私は慌てて彼の腕を掴んだ。

「待ってください。ひとりで行く気ですか?」

「俺以外に誰が行く」

「でも、危険かもしれない」

「お前を守るほうが危険だ」

「そんなの、嫌です!」

 叫んでしまった。
 ルシアンが驚いたように振り返る。
 その瞬間、胸の奥にあるものが堰を切ったようにあふれ出した。

「あなたが傷つくのは、もう見たくありません。あなたがいない世界なんて、嫌です」

 沈黙。
 雪解けの水が小屋の軒先を滴り落ちる音だけが聞こえた。
 ルシアンは目を細め、しばらく私を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。

「……なら、一緒に来るか」

「え……?」

「離れるな。俺の背後を歩け」

 その言葉に、胸が高鳴った。
 怖いはずなのに、不思議と心は落ち着いていた。
 ルシアンと一緒なら、どんな闇でも越えられる気がした。

 ◇

 森の奥へと進む。雪解けの地面がぬかるみ、足音が柔らかく吸い込まれていく。
 木々の合間からは光がこぼれ、枝の先に小鳥が止まる。けれど、その美しさとは裏腹に、空気の底には緊張が満ちていた。
 ルシアンは迷いのない足取りで進み、時折立ち止まっては耳を澄ませる。

「煙はこの先だ」

「誰か、本当にいるんですね……」

「ああ」

 彼の声が低く落ちる。
 やがて、森の切れ間が現れた。そこには古びた荷車がひとつ、傾いたまま放置されていた。
 その脇に、小さな焚き火。けれど、火はもう消えかけている。
 ルシアンは慎重に近づき、周囲を見回した。

「人の気配は……ない?」

「いや。ここにいた」

 彼は地面の跡を指差した。雪が踏み荒らされ、二人分の足跡が残っている。
 その先、森の奥へと続いていた。

「二人……」

「おそらく旅人か、あるいは——」

「——私を探している人?」

 言葉が震える。
 ルシアンがこちらを見た。その瞳の奥に、一瞬だけ光が走る。

「可能性はある」

 胸の奥が冷たくなる。
 王都の影。あの場所での裏切りは、もう終わったと思っていたのに。
 私を“追う理由”がまだ誰かに残っているのだろうか。

「ルシアンさん……もし、私のせいであなたが危険な目にあったら……」

「その時は、お前の手を離さなければいいだけだ」

「え?」

「逃げるときは一緒に逃げる。それでいい」

 彼の言葉が、胸に深く染みた。
 私は小さく頷く。涙がにじむのを必死でこらえた。

 森の奥で、風が吹く。
 落ち葉が舞い、木々の間から光が差す。

 その光の中で、私はルシアンの背を見つめていた。
 ——この人となら、どこへでも行ける。
 そんな確信が、静かに心に宿っていた。
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