3 / 7
3
しおりを挟む
第3話 隣国の王子様
〇
翌朝、私は柔らかな日差しで目を覚ました。窓の外には、昨日までの荒れた砂漠とはまるで違う光景が広がっていた。小さな家々の屋根が朝露を受けて輝き、石畳の道には市場へ向かう人々の足音が響く。どこか懐かしいような香ばしいパンの匂いが、窓の隙間からふわりと入り込んだ。
シーツの上で身体を起こすと、まだ夢の続きを見ているような気分だった。異世界に来て、まだ数日。けれど、昨日の馬車での旅と、レオンの穏やかな声が、もうずっと前の記憶みたいに胸に残っている。
「おはようございます、ミナさん」
扉をノックして現れたのはクララだった。朝の光を浴びて栗色の髪が柔らかく揺れている。彼女はトレイを持っていて、銀のポットから湯気が立ち上っていた。
「レオン殿下からのご伝言です。“朝食を共にしたい”とのことです」
「えっ、王子様と……朝食を……?」
寝ぼけた頭が一気に覚める。クララはくすりと笑いながら、カーテンを開けた。
「緊張なさらないでください。殿下は怖い方ではありません」
「そ、そう見えないけど……」
レオンの穏やかさを思い出して、少しだけ肩の力が抜ける。
クララに案内され、廊下を歩く。宿の二階には木の香りが漂い、壁には花を描いたタペストリーが掛かっている。階段を下りると、小さな中庭に面した食堂があり、そこにレオンがいた。
白いシャツの袖を少しまくり、金の髪を風に揺らして朝の光の中に立っている。まるで絵画の中の人物のようだった。彼が振り向くと、陽光がその輪郭を縁取った。
「おはよう、ミナ。よく眠れたか?」
「はい……あの、こんな素敵な部屋をありがとうございます」
「気にすることはない。君の顔色が戻っていて安心した」
レオンの声は柔らかく、それだけで周囲の空気が温かくなる。席に着くと、テーブルには焼きたてのパン、果物、そして香り高い紅茶が並べられていた。まるで貴族の朝食のようで、私は思わず手を止めてしまう。
「……すごい。まるで映画みたい」
「映画?」
「あっ、いえ、私のいた世界で見る物語みたいなものです」
「ふむ……君の世界では、こういう朝食は出ないのか?」
「パンとコーヒーだけです。こんな贅沢、初めてです」
レオンは穏やかに笑う。
「贅沢ではない。人が一日を始めるのに必要な力を得る時間だ」
パンを一口かじると、外はカリッとしていて中はふんわり。バターの香りが広がる。紅茶を飲むと、ほのかな花の香りが口の中に残った。クララが遠くの席で控えているが、レオンの視線が私に注がれているのを感じて、胸がくすぐったい。
「ミナ」
「はい」
「昨日も言ったが、これから君には私の屋敷で暮らしてほしい。必要なものはすべて用意させる」
「でも、私……何もできません。本当に役に立たないんです」
「役に立つかどうかは、君が決めることではない。私は君に、君らしくいてほしい」
その言葉に、胸が温かくなる。私は小さく頷き、紅茶を見つめた。
「ルーベリアの都までは、あと一日の距離だ。今日はこの町で支度を整えてから出発する」
「都……どんな場所なんですか?」
「広い川に囲まれた緑の都だ。水の魔法が盛んで、街中に噴水がある。君の世界の……そうだな、水の都のようなものかもしれない」
彼の言葉に、胸の奥が高鳴る。想像するだけで、美しい景色が頭に浮かんでくる。
「君の服も用意しよう。昨日のままでは旅に向かない」
「えっ、そんな……悪いです」
「君は客人だ。遠慮はいらない」
レオンが軽く立ち上がる。背が高く、光を背負った姿に見惚れてしまう。
「……ミナ、君はこの世界で“無能”などではない。昨日、君を見た瞬間に分かった。君の中には――癒やしの光がある」
「癒やし……?」
「私の国で古くから語られる力だ。持つ者は少ないが、心と魂を包み、他者を救う」
彼の目が真っ直ぐに私を見つめる。その瞳の奥に、嘘のない温度があった。
「君がそれを望むなら、その力を見つける手伝いをしたい」
どう返していいか分からず、私はただ頷いた。胸の奥に、小さな灯がともるような感覚があった。
もしかしたら――この人となら、変われるかもしれない。
窓の外では、町の子供たちが笑いながら走り抜けていく。その声に背中を押されるように、私は静かに息を吸い込んだ。
こうして、私は隣国の王子の庇護のもと、新しい一歩を踏み出すのだった。
△
昼下がりの市場は、陽射しの中でまぶしく輝いていた。通りの両側には果物や香草を並べた露店が軒を連ね、香ばしい焼き菓子の匂いと、人々の楽しげな笑い声が混ざり合っている。私はクララと並んで歩きながら、あたりを見回した。見たことのない形の果物、金や銀の装飾を施した布地、透明な瓶に詰められた色とりどりの香料――すべてが新鮮で、夢の中にいるようだった。
「ミナさん、殿下のお召し物を仕立てる仕立屋は、あちらの路地を入ったところです」
「王子様が通うお店……なんだか緊張しますね」
「大丈夫です。ミナさんなら、どんな服もきっとお似合いになります」
クララの言葉に思わず笑ってしまう。彼女の明るさは、異国の喧騒の中でも不思議と安心感を与えてくれる。
路地を抜けると、石造りの建物の前に金文字の看板が掲げられていた。扉を開けると、甘い香水の匂いがふわりと漂う。中には絹のドレスや、柔らかな麻のワンピースが整然と並び、色とりどりの布が陽光を受けてきらめいていた。
「ようこそ。ルーベリア王家ご用達の仕立屋《フローレンス》へ」
出迎えた女性は、年配の仕立師だった。落ち着いた笑みを浮かべ、私を見てから、目を細める。
「まあ……珍しい。王族ではないのに、こんなに優しい光をまとう方は初めてです」
「そ、そんな……」
頬が熱くなる。クララが嬉しそうに笑い、仕立師に耳打ちする。
「殿下の特別なお客さまです。今日一番の布をお願いします」
「承知しました」
仕立師が指を鳴らすと、助手たちが動き出し、棚から布を取り出して並べていく。
淡い桜色の布、薄いミントグリーン、そして光を受けると銀に見える白――どれも柔らかく、肌に触れると冷たさが溶けていくようだった。
「この白の布はいかがでしょう。風を受けるとき、ほんの少し青く光ります」
差し出された布に手を触れると、指先から涼しい感触が広がる。まるで水面に指を浸したような透明さだった。
「……綺麗。こんな服、着たことありません」
「この国では、女性の清らかさを“風の色”で表すのですよ。あなたには、この布がいちばん似合います」
鏡の前に立ち、仮縫いされたドレスを羽織る。布が軽く肩を包み、裾がふわりと揺れた。胸元のレースは控えめで、上品な印象だ。
「どうです?」
クララが目を輝かせる。
「まるで……本物の貴婦人です!」
「やめてください、恥ずかしいです」
そう言いながらも、鏡に映る自分の姿に心が震えた。昨日まで灰色のスーツを着てパソコンに向かっていた私が、いま異世界の王子の庇護のもと、こんな服を着ている――信じられない。
「よく似合っている」
背後から声がして、振り返る。扉の前に、レオンが立っていた。昼の光が背後から差し込み、金の髪が柔らかく輝いている。彼の視線が、私の姿をまっすぐにとらえる。そのまなざしの深さに、胸がどきりと跳ねた。
「……レオンさん」
「驚かせたかな。途中で時間ができたので、様子を見に来たんだ」
彼は静かに歩み寄り、私の肩に触れる。指先が軽く布をなぞり、その感触を確かめるように動く。
「この色……いい。君にぴったりだ」
仕立師が満足そうに頷いた。
「殿下の見る目は確かです。仕上げは今夜までに」
「頼む。都へ向かう前に彼女へ渡したい」
クララと仕立師たちが準備を始め、店の中が慌ただしくなる。その間、私は言葉を失ったままレオンを見上げていた。彼は優しく微笑み、まるで何も特別なことを言っていないような顔をしている。けれど、その一言一言が、私の胸の奥を震わせていた。
「殿下……わたし、本当にこのままでいいんでしょうか。昨日まで無能だって言われてた人間なのに」
「いいんだ。誰かが何と言おうと、君が君であることに価値がある」
彼の声は静かで、けれど芯が通っていた。
「君がここにいること、それだけでこの町が少し明るくなる。俺はそう思う」
心臓が大きく鳴る。
何かを返そうとしても、喉が動かない。頬が熱くなり、視界の端でクララがにこにことこちらを見ているのが見えた。
「……ありがとう、ございます」
かろうじて言葉を絞り出す。レオンは穏やかに頷いた。
「礼は要らない。君の笑顔が見られただけで十分だ」
外に出ると、午後の陽射しがやわらかく差し込んでいた。道を歩く人々の笑い声が遠くに響き、風が髪を撫でる。
私は手にした白い布の切れ端を握りしめる。その感触が、まるで新しい未来の約束のように感じられた。
「レオンさん」
「うん?」
「私、この国で……何かできるようになりたいです」
彼の金色の瞳が優しく揺れる。
「それなら、まずは笑って生きることだ。それができれば、もう十分だ」
風が二人の間を通り抜ける。砂漠の熱が遠ざかり、代わりに花の香りが運ばれてきた。
私は小さく息を吐き、空を見上げる。雲ひとつない青の向こうで、太陽がまぶしく笑っていた。
◇
午後の陽射しがゆるやかに傾き始め、町全体が金色に染まり始めていた。仕立屋を出たあと、私とレオンは並んで歩いた。市場の喧騒が少し遠のき、通りの両脇には白い壁の家々が連なっている。風が吹き抜けるたび、窓辺に吊るされた鈴が小さく鳴った。
「この町は穏やかですね」
「そうだな。ルーベリアの民は、争いよりも日々を守ることを選ぶ」
レオンの言葉は、どこか遠い記憶を思い出すように静かだった。私は横顔を見上げる。陽の光を受けた金髪が、まるで炎のように柔らかく光っている。
「君の世界にも、こんな場所はあったか?」
「うーん……少し違うかもしれません。人は多いけど、皆せかせかしてて。空を見上げる余裕なんて、なかった気がします」
「なら、少しゆっくりしていくといい。この国の時間は、君の世界よりも少し優しい」
その言葉が、砂の上に落ちた光の粒のように心に染みた。
広場を抜けると、小さなカフェのような店があった。テラスには蔦の絡まるパラソルが立ち、木のテーブルが並んでいる。レオンは足を止め、店主に軽く声をかけた。
「ミナ、少し休もう。ここのハーブティーは、この国でいちばん美味い」
席に着くと、香草と果実の混ざった香りが鼻をくすぐった。店主が運んできたのは、淡い金色の液体の入ったガラスのカップ。光が反射して、小さな虹が机の上に落ちる。
「これは……バラの香り?」
「正解だ。バラと柑橘、それに“癒樹”の葉を少し混ぜてある」
「癒樹……?」
「この国で昔から伝わる木だ。触れるだけで痛みを和らげると言われている」
私はそっとカップを持ち上げ、ひと口飲む。舌に広がる甘さが静かに喉へと流れ、身体の奥がじんわりと温かくなる。
「おいしい……。まるで、心まで温めてくれるみたいです」
「だから“癒樹茶”と呼ばれているんだ」
レオンの目が私を見つめる。あの金の瞳に吸い込まれそうになり、息を呑む。
「……君は不思議だ。出会ってまだ二日しか経っていないのに、昔から知っているような気がする」
「私もです。どうしてでしょうね」
「たぶん、君がこの国に必要な人だからだろう」
その言葉に胸が跳ねた。
「必、必要……? そんな、大げさな」
「そうでもない。ルーベリアには、いま癒しが必要なんだ」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「国の内情は複雑だ。表向きは平和だが、長い不作や疫病で民は疲れている。魔力で癒せぬ傷もある。……君のように、人の心を安らげる存在が必要なんだ」
「でも、私にできることなんて……」
「あるさ。昨日、君が泉で笑ったとき、あの場の空気が柔らかく変わった。あれが“力”だ」
言葉を失った。そんな大げさなことを言われても信じられない。だけど、レオンの瞳に浮かぶ光は真剣で、嘘をついているようには見えなかった。
「俺は、王族として民を導く立場にある。でも……どうしても届かないものがある。君の力は、それを癒やすことができる気がする」
「……レオンさん」
胸が熱くなり、視界が滲む。誰かに必要とされることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
「だから、怖がらなくていい。君がここにいること自体が、この国への祝福だ」
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「なら、俺が最初の一人になれて光栄だ」
レオンが柔らかく笑う。その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けるように温かく広がった。風が吹き、パラソルの布が音を立てて揺れる。紅茶の香りがふわりと漂い、時間が少しだけ止まったように感じた。
けれど、遠くで教会の鐘が鳴ると、その静寂が解ける。レオンが席を立ち、私に手を差し出した。
「そろそろ宿へ戻ろう。明日の朝、都へ向けて出発する」
「はい」
手を取ると、あたたかい指先が私の手を包み込む。
歩き出すと、陽はもう沈みかけていた。空の端が橙から紫へと変わり、鳥たちが家々の屋根へ帰っていく。私は隣を歩くレオンの横顔を見つめながら、心の中でそっとつぶやいた。
――どうか、この時間がもう少しだけ続きますように。
夕暮れの風が頬を撫で、遠くの塔の鐘がまた一度、柔らかく響いた。
〇
翌朝、私は柔らかな日差しで目を覚ました。窓の外には、昨日までの荒れた砂漠とはまるで違う光景が広がっていた。小さな家々の屋根が朝露を受けて輝き、石畳の道には市場へ向かう人々の足音が響く。どこか懐かしいような香ばしいパンの匂いが、窓の隙間からふわりと入り込んだ。
シーツの上で身体を起こすと、まだ夢の続きを見ているような気分だった。異世界に来て、まだ数日。けれど、昨日の馬車での旅と、レオンの穏やかな声が、もうずっと前の記憶みたいに胸に残っている。
「おはようございます、ミナさん」
扉をノックして現れたのはクララだった。朝の光を浴びて栗色の髪が柔らかく揺れている。彼女はトレイを持っていて、銀のポットから湯気が立ち上っていた。
「レオン殿下からのご伝言です。“朝食を共にしたい”とのことです」
「えっ、王子様と……朝食を……?」
寝ぼけた頭が一気に覚める。クララはくすりと笑いながら、カーテンを開けた。
「緊張なさらないでください。殿下は怖い方ではありません」
「そ、そう見えないけど……」
レオンの穏やかさを思い出して、少しだけ肩の力が抜ける。
クララに案内され、廊下を歩く。宿の二階には木の香りが漂い、壁には花を描いたタペストリーが掛かっている。階段を下りると、小さな中庭に面した食堂があり、そこにレオンがいた。
白いシャツの袖を少しまくり、金の髪を風に揺らして朝の光の中に立っている。まるで絵画の中の人物のようだった。彼が振り向くと、陽光がその輪郭を縁取った。
「おはよう、ミナ。よく眠れたか?」
「はい……あの、こんな素敵な部屋をありがとうございます」
「気にすることはない。君の顔色が戻っていて安心した」
レオンの声は柔らかく、それだけで周囲の空気が温かくなる。席に着くと、テーブルには焼きたてのパン、果物、そして香り高い紅茶が並べられていた。まるで貴族の朝食のようで、私は思わず手を止めてしまう。
「……すごい。まるで映画みたい」
「映画?」
「あっ、いえ、私のいた世界で見る物語みたいなものです」
「ふむ……君の世界では、こういう朝食は出ないのか?」
「パンとコーヒーだけです。こんな贅沢、初めてです」
レオンは穏やかに笑う。
「贅沢ではない。人が一日を始めるのに必要な力を得る時間だ」
パンを一口かじると、外はカリッとしていて中はふんわり。バターの香りが広がる。紅茶を飲むと、ほのかな花の香りが口の中に残った。クララが遠くの席で控えているが、レオンの視線が私に注がれているのを感じて、胸がくすぐったい。
「ミナ」
「はい」
「昨日も言ったが、これから君には私の屋敷で暮らしてほしい。必要なものはすべて用意させる」
「でも、私……何もできません。本当に役に立たないんです」
「役に立つかどうかは、君が決めることではない。私は君に、君らしくいてほしい」
その言葉に、胸が温かくなる。私は小さく頷き、紅茶を見つめた。
「ルーベリアの都までは、あと一日の距離だ。今日はこの町で支度を整えてから出発する」
「都……どんな場所なんですか?」
「広い川に囲まれた緑の都だ。水の魔法が盛んで、街中に噴水がある。君の世界の……そうだな、水の都のようなものかもしれない」
彼の言葉に、胸の奥が高鳴る。想像するだけで、美しい景色が頭に浮かんでくる。
「君の服も用意しよう。昨日のままでは旅に向かない」
「えっ、そんな……悪いです」
「君は客人だ。遠慮はいらない」
レオンが軽く立ち上がる。背が高く、光を背負った姿に見惚れてしまう。
「……ミナ、君はこの世界で“無能”などではない。昨日、君を見た瞬間に分かった。君の中には――癒やしの光がある」
「癒やし……?」
「私の国で古くから語られる力だ。持つ者は少ないが、心と魂を包み、他者を救う」
彼の目が真っ直ぐに私を見つめる。その瞳の奥に、嘘のない温度があった。
「君がそれを望むなら、その力を見つける手伝いをしたい」
どう返していいか分からず、私はただ頷いた。胸の奥に、小さな灯がともるような感覚があった。
もしかしたら――この人となら、変われるかもしれない。
窓の外では、町の子供たちが笑いながら走り抜けていく。その声に背中を押されるように、私は静かに息を吸い込んだ。
こうして、私は隣国の王子の庇護のもと、新しい一歩を踏み出すのだった。
△
昼下がりの市場は、陽射しの中でまぶしく輝いていた。通りの両側には果物や香草を並べた露店が軒を連ね、香ばしい焼き菓子の匂いと、人々の楽しげな笑い声が混ざり合っている。私はクララと並んで歩きながら、あたりを見回した。見たことのない形の果物、金や銀の装飾を施した布地、透明な瓶に詰められた色とりどりの香料――すべてが新鮮で、夢の中にいるようだった。
「ミナさん、殿下のお召し物を仕立てる仕立屋は、あちらの路地を入ったところです」
「王子様が通うお店……なんだか緊張しますね」
「大丈夫です。ミナさんなら、どんな服もきっとお似合いになります」
クララの言葉に思わず笑ってしまう。彼女の明るさは、異国の喧騒の中でも不思議と安心感を与えてくれる。
路地を抜けると、石造りの建物の前に金文字の看板が掲げられていた。扉を開けると、甘い香水の匂いがふわりと漂う。中には絹のドレスや、柔らかな麻のワンピースが整然と並び、色とりどりの布が陽光を受けてきらめいていた。
「ようこそ。ルーベリア王家ご用達の仕立屋《フローレンス》へ」
出迎えた女性は、年配の仕立師だった。落ち着いた笑みを浮かべ、私を見てから、目を細める。
「まあ……珍しい。王族ではないのに、こんなに優しい光をまとう方は初めてです」
「そ、そんな……」
頬が熱くなる。クララが嬉しそうに笑い、仕立師に耳打ちする。
「殿下の特別なお客さまです。今日一番の布をお願いします」
「承知しました」
仕立師が指を鳴らすと、助手たちが動き出し、棚から布を取り出して並べていく。
淡い桜色の布、薄いミントグリーン、そして光を受けると銀に見える白――どれも柔らかく、肌に触れると冷たさが溶けていくようだった。
「この白の布はいかがでしょう。風を受けるとき、ほんの少し青く光ります」
差し出された布に手を触れると、指先から涼しい感触が広がる。まるで水面に指を浸したような透明さだった。
「……綺麗。こんな服、着たことありません」
「この国では、女性の清らかさを“風の色”で表すのですよ。あなたには、この布がいちばん似合います」
鏡の前に立ち、仮縫いされたドレスを羽織る。布が軽く肩を包み、裾がふわりと揺れた。胸元のレースは控えめで、上品な印象だ。
「どうです?」
クララが目を輝かせる。
「まるで……本物の貴婦人です!」
「やめてください、恥ずかしいです」
そう言いながらも、鏡に映る自分の姿に心が震えた。昨日まで灰色のスーツを着てパソコンに向かっていた私が、いま異世界の王子の庇護のもと、こんな服を着ている――信じられない。
「よく似合っている」
背後から声がして、振り返る。扉の前に、レオンが立っていた。昼の光が背後から差し込み、金の髪が柔らかく輝いている。彼の視線が、私の姿をまっすぐにとらえる。そのまなざしの深さに、胸がどきりと跳ねた。
「……レオンさん」
「驚かせたかな。途中で時間ができたので、様子を見に来たんだ」
彼は静かに歩み寄り、私の肩に触れる。指先が軽く布をなぞり、その感触を確かめるように動く。
「この色……いい。君にぴったりだ」
仕立師が満足そうに頷いた。
「殿下の見る目は確かです。仕上げは今夜までに」
「頼む。都へ向かう前に彼女へ渡したい」
クララと仕立師たちが準備を始め、店の中が慌ただしくなる。その間、私は言葉を失ったままレオンを見上げていた。彼は優しく微笑み、まるで何も特別なことを言っていないような顔をしている。けれど、その一言一言が、私の胸の奥を震わせていた。
「殿下……わたし、本当にこのままでいいんでしょうか。昨日まで無能だって言われてた人間なのに」
「いいんだ。誰かが何と言おうと、君が君であることに価値がある」
彼の声は静かで、けれど芯が通っていた。
「君がここにいること、それだけでこの町が少し明るくなる。俺はそう思う」
心臓が大きく鳴る。
何かを返そうとしても、喉が動かない。頬が熱くなり、視界の端でクララがにこにことこちらを見ているのが見えた。
「……ありがとう、ございます」
かろうじて言葉を絞り出す。レオンは穏やかに頷いた。
「礼は要らない。君の笑顔が見られただけで十分だ」
外に出ると、午後の陽射しがやわらかく差し込んでいた。道を歩く人々の笑い声が遠くに響き、風が髪を撫でる。
私は手にした白い布の切れ端を握りしめる。その感触が、まるで新しい未来の約束のように感じられた。
「レオンさん」
「うん?」
「私、この国で……何かできるようになりたいです」
彼の金色の瞳が優しく揺れる。
「それなら、まずは笑って生きることだ。それができれば、もう十分だ」
風が二人の間を通り抜ける。砂漠の熱が遠ざかり、代わりに花の香りが運ばれてきた。
私は小さく息を吐き、空を見上げる。雲ひとつない青の向こうで、太陽がまぶしく笑っていた。
◇
午後の陽射しがゆるやかに傾き始め、町全体が金色に染まり始めていた。仕立屋を出たあと、私とレオンは並んで歩いた。市場の喧騒が少し遠のき、通りの両脇には白い壁の家々が連なっている。風が吹き抜けるたび、窓辺に吊るされた鈴が小さく鳴った。
「この町は穏やかですね」
「そうだな。ルーベリアの民は、争いよりも日々を守ることを選ぶ」
レオンの言葉は、どこか遠い記憶を思い出すように静かだった。私は横顔を見上げる。陽の光を受けた金髪が、まるで炎のように柔らかく光っている。
「君の世界にも、こんな場所はあったか?」
「うーん……少し違うかもしれません。人は多いけど、皆せかせかしてて。空を見上げる余裕なんて、なかった気がします」
「なら、少しゆっくりしていくといい。この国の時間は、君の世界よりも少し優しい」
その言葉が、砂の上に落ちた光の粒のように心に染みた。
広場を抜けると、小さなカフェのような店があった。テラスには蔦の絡まるパラソルが立ち、木のテーブルが並んでいる。レオンは足を止め、店主に軽く声をかけた。
「ミナ、少し休もう。ここのハーブティーは、この国でいちばん美味い」
席に着くと、香草と果実の混ざった香りが鼻をくすぐった。店主が運んできたのは、淡い金色の液体の入ったガラスのカップ。光が反射して、小さな虹が机の上に落ちる。
「これは……バラの香り?」
「正解だ。バラと柑橘、それに“癒樹”の葉を少し混ぜてある」
「癒樹……?」
「この国で昔から伝わる木だ。触れるだけで痛みを和らげると言われている」
私はそっとカップを持ち上げ、ひと口飲む。舌に広がる甘さが静かに喉へと流れ、身体の奥がじんわりと温かくなる。
「おいしい……。まるで、心まで温めてくれるみたいです」
「だから“癒樹茶”と呼ばれているんだ」
レオンの目が私を見つめる。あの金の瞳に吸い込まれそうになり、息を呑む。
「……君は不思議だ。出会ってまだ二日しか経っていないのに、昔から知っているような気がする」
「私もです。どうしてでしょうね」
「たぶん、君がこの国に必要な人だからだろう」
その言葉に胸が跳ねた。
「必、必要……? そんな、大げさな」
「そうでもない。ルーベリアには、いま癒しが必要なんだ」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「国の内情は複雑だ。表向きは平和だが、長い不作や疫病で民は疲れている。魔力で癒せぬ傷もある。……君のように、人の心を安らげる存在が必要なんだ」
「でも、私にできることなんて……」
「あるさ。昨日、君が泉で笑ったとき、あの場の空気が柔らかく変わった。あれが“力”だ」
言葉を失った。そんな大げさなことを言われても信じられない。だけど、レオンの瞳に浮かぶ光は真剣で、嘘をついているようには見えなかった。
「俺は、王族として民を導く立場にある。でも……どうしても届かないものがある。君の力は、それを癒やすことができる気がする」
「……レオンさん」
胸が熱くなり、視界が滲む。誰かに必要とされることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
「だから、怖がらなくていい。君がここにいること自体が、この国への祝福だ」
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「なら、俺が最初の一人になれて光栄だ」
レオンが柔らかく笑う。その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けるように温かく広がった。風が吹き、パラソルの布が音を立てて揺れる。紅茶の香りがふわりと漂い、時間が少しだけ止まったように感じた。
けれど、遠くで教会の鐘が鳴ると、その静寂が解ける。レオンが席を立ち、私に手を差し出した。
「そろそろ宿へ戻ろう。明日の朝、都へ向けて出発する」
「はい」
手を取ると、あたたかい指先が私の手を包み込む。
歩き出すと、陽はもう沈みかけていた。空の端が橙から紫へと変わり、鳥たちが家々の屋根へ帰っていく。私は隣を歩くレオンの横顔を見つめながら、心の中でそっとつぶやいた。
――どうか、この時間がもう少しだけ続きますように。
夕暮れの風が頬を撫で、遠くの塔の鐘がまた一度、柔らかく響いた。
175
あなたにおすすめの小説
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜
鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。
誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。
幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。
ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。
一人の客人をもてなしたのだ。
その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。
【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。
彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。
そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。
そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。
やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。
ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、
「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。
学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。
☆第2部完結しました☆
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
恋は、母をやめてから始まる――正体を隠したまま、仮の婚約者になりました
あい
恋愛
両親を失ったあの日、
赤子の弟を抱いて家を出た少女がいた。
それが、アリア。
世間からは「若い母」と呼ばれながらも、
彼女は否定しなかった。
十六年間、弟を守るためだけに生きてきたから。
恋も未来も、すべて後回し。
けれど弟は成長し、ついに巣立つ。
「今度は、自分の人生を生きて」
その一言が、
止まっていた時間を動かした。
役目を終えた夜。
アリアは初めて、自分のために扉を開く。
向かった先は、婚姻仲介所。
愛を求めたわけではない。
ただ、このまま立ち止まりたくなかった。
――けれどその名前は、
結婚を急かされていた若き当主のもとへと届く。
これは、
十六年“母”だった女性が、
もう一度“ひとりの女”として歩き出す物語。
【完結】転生したら悪役継母でした
入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。
その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。
しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。
絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。
記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。
夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。
◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆
*旧題:転生したら悪妻でした
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】
iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
愛のない結婚をした継母に転生したようなので、天使のような息子を溺愛します
美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
目が覚めると私は昔読んでいた本の中の登場人物、公爵家の後妻となった元王女ビオラに転生していた。
人嫌いの公爵は、王家によって組まれた前妻もビオラのことも毛嫌いしており、何をするのも全て別。二人の結婚には愛情の欠片もなく、ビオラは使用人たちにすら相手にされぬ生活を送っていた。
それでもめげずにこの家にしがみついていたのは、ビオラが公爵のことが本当に好きだったから。しかしその想いは報われることなどなく彼女は消え、私がこの体に入ってしまったらしい。
嫌われ者のビオラに転生し、この先どうしようかと考えあぐねていると、この物語の主人公であるルカが声をかけてきた。物語の中で悲惨な幼少期を過ごし、闇落ち予定のルカは純粋なまなざしで自分を見ている。天使のような可愛らしさと優しさに、気づけば彼を救って本物の家族になりたいと考える様に。
二人一緒ならばもう孤独ではないと、私はルカとの絆を深めていく。
するといつしか私を取り巻く周りの人々の目も、変わり始めるのだったーー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる