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第2話 「パン屋の奥さん」扱いされる
〇
村の大通りに面したパン屋の店先は、朝の喧騒を終えたあとも途切れずに人の気配が流れ込んでいた。窓越しに射す陽光が、粉で白くなった木の棚を照らす。焼き上がったばかりのパンを並べ替える私の背中越しに、外から声が飛んできた。
「おーい! カイの奥さん、塩パンまだあるかい?」
思わず手を止め、顔を上げた。奥さん、と呼ばれたのはもちろん私だ。頬に熱が昇る。だが、カイはいつもの無表情で籠を差し出し、返事をする。
「ある。十本でいいか」
「助かるよ! やっぱり奥さんが入ってから店の回転が早くて助かるわ」
村人たちは悪気も疑いもなく、当然のように私を“パン屋の奥さん”と呼んでいた。否定する隙もなく、私は笑顔を作り、紙に包んだパンを手渡す。手のひらに残る温もりに、どこかむず痒さが混じった。
「カイさん……これは、どういう」
「気にするな」
そう言うだけで、彼はまるで当然のように次の客に声をかけている。
──気にするな、だなんて。
私は内心で呟きながらも、客の応対を続けた。幼い子供が駆け込んできて、焼き印の押された甘いパンをねだる。老人が大きな籠いっぱいに硬めのパンを注文する。笑い声が絶えず、店は一日中活気づいていた。
王都での窮屈な舞踏会や、鋭い視線が飛び交う夜会とはまるで違う。ここでは、パンひとつで人々の顔がほころぶ。私はその光景に、戸惑いと同時に、温かさを覚えていた。
△
昼下がり、ようやく人の波が途絶えた。私は布巾で額の汗を拭き、深く息をつく。木の窓から入る風が粉塵を散らし、午後の光が白く室内を包んだ。
「……疲れた」
思わず呟くと、奥からカイが冷水の入った木杯を差し出した。
「よく働いた。村の連中も喜んでる」
「ですが……奥さん呼ばわりされるのは、やっぱり」
「嫌か」
「い、嫌というわけでは……ただ、誤解されては困ります」
「誤解されて困ることでもあるのか」
真っ直ぐな眼差しに、私は言葉を失った。王都での断罪がまだ胸に重く残っている。夫の座を追われ、婚約も破棄された私が、ここで“奥さん”と呼ばれるなど……。
「私は……何も持っていません。爵位も、財産も、名誉も。そんな私が奥さん扱いされるなんて、おかしいでしょう」
「パンは、お前が手で捏ねた。焼き上がったそれを食べて、村人が笑った。──それで十分だ」
短い言葉が、妙に深く響いた。カイの横顔は、窯の火を映して赤く照らされている。強さと静けさを同時に宿すその姿を見ていると、心の奥がざわめいた。
窯から取り出した新しいパンを二人で棚に並べる。粉の匂いが立ち上り、指先に温もりが残る。私は言葉を飲み込み、ただ黙って作業を続けた。
◇
日が落ちる頃、村人たちが再び集まり始めた。夜の食卓に備えるため、残りのパンを買い求めるのだ。店の前は再び賑わい、私は忙しさに押されて笑顔で応対していた。
「奥さん、今日のパンも美味しかったよ」
「奥さん、明日は甘いの多めに頼むよ」
次々と声がかかるたびに、胸がくすぐったくなる。否定の言葉は喉まで出かかるが、もう誰も疑わずにそう呼ぶ。その自然さに、次第に抵抗が薄れていく自分に気づいた。
最後の客を見送った後、私は棚に残った一切れのパンを眺めていた。
「……いつか、本当に“パン屋の奥さん”になれるのでしょうか」
小さく零した声を、カイは聞き逃さなかった。
「なればいい」
背後から落ちてきたその言葉に、胸が強く脈打つ。振り返ると、彼は真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
夜風が吹き込み、窯の火の余熱と混じり合う。私は視線を逸らせず、ただその場に立ち尽くした。
──村人たちの何気ない呼び方が、いつしか私自身の願いに変わりつつあることに、気づいてしまったのだった。
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村の大通りに面したパン屋の店先は、朝の喧騒を終えたあとも途切れずに人の気配が流れ込んでいた。窓越しに射す陽光が、粉で白くなった木の棚を照らす。焼き上がったばかりのパンを並べ替える私の背中越しに、外から声が飛んできた。
「おーい! カイの奥さん、塩パンまだあるかい?」
思わず手を止め、顔を上げた。奥さん、と呼ばれたのはもちろん私だ。頬に熱が昇る。だが、カイはいつもの無表情で籠を差し出し、返事をする。
「ある。十本でいいか」
「助かるよ! やっぱり奥さんが入ってから店の回転が早くて助かるわ」
村人たちは悪気も疑いもなく、当然のように私を“パン屋の奥さん”と呼んでいた。否定する隙もなく、私は笑顔を作り、紙に包んだパンを手渡す。手のひらに残る温もりに、どこかむず痒さが混じった。
「カイさん……これは、どういう」
「気にするな」
そう言うだけで、彼はまるで当然のように次の客に声をかけている。
──気にするな、だなんて。
私は内心で呟きながらも、客の応対を続けた。幼い子供が駆け込んできて、焼き印の押された甘いパンをねだる。老人が大きな籠いっぱいに硬めのパンを注文する。笑い声が絶えず、店は一日中活気づいていた。
王都での窮屈な舞踏会や、鋭い視線が飛び交う夜会とはまるで違う。ここでは、パンひとつで人々の顔がほころぶ。私はその光景に、戸惑いと同時に、温かさを覚えていた。
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昼下がり、ようやく人の波が途絶えた。私は布巾で額の汗を拭き、深く息をつく。木の窓から入る風が粉塵を散らし、午後の光が白く室内を包んだ。
「……疲れた」
思わず呟くと、奥からカイが冷水の入った木杯を差し出した。
「よく働いた。村の連中も喜んでる」
「ですが……奥さん呼ばわりされるのは、やっぱり」
「嫌か」
「い、嫌というわけでは……ただ、誤解されては困ります」
「誤解されて困ることでもあるのか」
真っ直ぐな眼差しに、私は言葉を失った。王都での断罪がまだ胸に重く残っている。夫の座を追われ、婚約も破棄された私が、ここで“奥さん”と呼ばれるなど……。
「私は……何も持っていません。爵位も、財産も、名誉も。そんな私が奥さん扱いされるなんて、おかしいでしょう」
「パンは、お前が手で捏ねた。焼き上がったそれを食べて、村人が笑った。──それで十分だ」
短い言葉が、妙に深く響いた。カイの横顔は、窯の火を映して赤く照らされている。強さと静けさを同時に宿すその姿を見ていると、心の奥がざわめいた。
窯から取り出した新しいパンを二人で棚に並べる。粉の匂いが立ち上り、指先に温もりが残る。私は言葉を飲み込み、ただ黙って作業を続けた。
◇
日が落ちる頃、村人たちが再び集まり始めた。夜の食卓に備えるため、残りのパンを買い求めるのだ。店の前は再び賑わい、私は忙しさに押されて笑顔で応対していた。
「奥さん、今日のパンも美味しかったよ」
「奥さん、明日は甘いの多めに頼むよ」
次々と声がかかるたびに、胸がくすぐったくなる。否定の言葉は喉まで出かかるが、もう誰も疑わずにそう呼ぶ。その自然さに、次第に抵抗が薄れていく自分に気づいた。
最後の客を見送った後、私は棚に残った一切れのパンを眺めていた。
「……いつか、本当に“パン屋の奥さん”になれるのでしょうか」
小さく零した声を、カイは聞き逃さなかった。
「なればいい」
背後から落ちてきたその言葉に、胸が強く脈打つ。振り返ると、彼は真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
夜風が吹き込み、窯の火の余熱と混じり合う。私は視線を逸らせず、ただその場に立ち尽くした。
──村人たちの何気ない呼び方が、いつしか私自身の願いに変わりつつあることに、気づいてしまったのだった。
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