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第4話 偽物の奇跡
朝の空気は、どこか落ち着かない匂いを含んでいた。村へ向かう道を歩きながら、私はそんな違和感を胸の奥で転がしていた。昨日までと同じはずの風景なのに、草の揺れ方や、鳥の鳴き声が、ほんの少しだけ乱れている気がする。理由は分からない。ただ、胸の奥の温もりが、今日は静かに、しかし確かに脈打っていた。
畑に着くと、すでに数人が作業を始めていた。年配の男性が私に気づき、軽く手を上げる。
「来たか」
「おはようございます」
挨拶を交わし、私は鍬を受け取った。昨日と同じ場所、同じ作業。身体は覚えていて、自然と動き出す。土に触れるたび、胸の奥がかすかに反応するけれど、それを表に出さないよう、意識して深呼吸をした。ここでは、私はただの働き手でいい。
作業を続けていると、村の外れの方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。振り向くと、若い男性が走ってくる。顔色が悪く、息が上がっている。
「大変だ……!」
その声に、畑の空気が一変した。人々が顔を上げ、手を止める。
「どうした」
「王都から、知らせが……」
男性は膝に手をつき、息を整えながら続けた。
「聖女様が、奇跡を起こしたそうだ」
その言葉に、ざわめきが走る。私は思わず、手を止めた。聖女。頭に浮かぶのは、凛香の顔だ。
「大きな病院街で、重い病に伏していた人々が、一斉に回復したって」
「おお……」
「さすが、異界から来た聖女様だ」
村人たちの声には、期待と安堵が混ざっている。災厄の噂が広がる中で、希望の象徴が現れた。そのこと自体は、悪い話じゃないはずだ。私は胸の奥を探る。温もりは、いつもより静かだった。
「……すごい、ですね」
誰かに聞かれたわけでもないのに、私はそう呟いていた。凛香が、奇跡を起こした。それは、驚くべきことでも、納得できることでもある。水晶が眩く光った姿を、私は覚えている。
「これで、この国も安泰だな」
「聖女様がいれば、災厄なんて怖くない」
そんな言葉が交わされる中、年配の男性が、わずかに眉を寄せた。
「……回復、か」
「どうした」
「いや。早すぎると思ってな」
彼はぽつりと呟く。私はその声に、無意識のうちに耳を澄ませた。
「病というのは、根が深いものだ。奇跡で一時的に良くなっても、揺り戻しが来ることがある」
誰かが笑って、その言葉を流した。
「細かいこと言うなよ。奇跡は奇跡だ」
年配の男性はそれ以上、何も言わなかった。でも、その沈黙が、私の胸に小さな棘を残した。胸の奥の温もりが、ほんの一瞬、ざわりと揺れた気がした。
作業を再開しながら、私は王都の様子を思い浮かべていた。人々に囲まれ、称賛を浴びる凛香。光り輝く奇跡。その裏側を、私は何も知らない。ただ、なぜか、落ち着かなかった。
昼前になり、村の小さな集会所に人が集まった。先ほどの知らせを聞いた者たちが、自然と集まってきたのだ。私も端の方に座り、話を聞く。
「聖女様の奇跡は、眩い光と共に起こったそうだ」
「祈っただけで、病が消えたって」
「まるで、神話みたいだな」
語られる内容は、どれも派手で、分かりやすい。人の心を掴むには、十分すぎるほどだった。私は膝の上で手を組み、静かに聞いていた。胸の奥の温もりは、反応しない。まるで、距離を取っているみたいに。
その時、集会所の外で、誰かが倒れる音がした。どさり、という鈍い音。ざわめきが一斉に外へ向かう。
「どうした」
「人が……!」
外へ出ると、年配の女性が地面に座り込んでいた。息が荒く、顔色が悪い。
「胸が、苦しい……」
周囲が慌てる。誰かが水を持ってきて、誰かが背中をさする。でも、症状はすぐには治まらない。
「さっきまで、元気だったのに」
「もしかして……」
誰も言葉を続けなかった。でも、私は胸の奥が強く反応するのを感じていた。温もりが、はっきりと存在を主張している。考えるより先に、身体が動いた。
「……失礼します」
私はそっと、女性のそばにしゃがみ込んだ。周囲の視線が集まるのを感じる。でも、怖さよりも、今は別の感情が勝っていた。楽にしてあげたい。ただ、それだけだ。
「ゆっくり、息をして」
声は、自然と低くなった。私は女性の背中に手を当てる。胸の奥の温もりが、静かに流れ出すのを感じる。派手な光はない。ただ、確かな感触だけがある。
女性の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。肩の上下が緩やかになり、顔色もわずかに戻ってきた。
「……あれ」
女性が、戸惑ったように目を瞬かせる。
「苦しく、ない……」
周囲がざわつく。私はそっと手を離し、一歩下がった。
「……よかった」
それだけ言って、視線を伏せる。胸の奥の温もりは、静かに収まっていた。誰かが「たまたまだろう」と言い、誰かが「休めば治る」と言った。私は、その流れに逆らわなかった。
ただ一人、年配の男性だけが、私をじっと見ていた。その視線に、私は気づかないふりをした。今は、目立つべきじゃない。聖女の奇跡が語られるこの時に、私の静かな力が知られる必要はない。
でも、胸の奥には、はっきりとした違和感が残っていた。凛香の派手な奇跡と、今ここで起きた小さな回復。その質が、まるで違うことを、私は身体で感じていた。
△
集会所の前に残った空気は、奇妙に重かった。誰もが口に出さないまま、先ほどの出来事をそれぞれの胸に仕舞い込もうとしているのが分かる。私は人の輪からそっと離れ、視線を落とした。胸の奥の温もりは、役目を終えたかのように静まり返っている。派手さも、余韻もない。ただ、確かに「届いた」という感覚だけが残っていた。
「……助かったのは事実だな」
年配の男性が、ぽつりと呟いた。その声には、喜びよりも、考え込むような重さが含まれている。周囲の者たちは、うん、と曖昧に頷きながらも、すぐに別の話題へと流れていった。聖女の奇跡の噂に比べれば、今の出来事はあまりにも地味だ。語るには、華が足りない。
私はそのまま畑へ戻り、黙々と作業を続けた。土を掘り返すたびに、頭の中で、王都の光景が勝手に組み立てられる。人々の歓声、神官たちの祈り、凛香の立つ中心。その周囲で起こったであろう奇跡は、きっと美しく、分かりやすく、誰の目にも「救い」と映ったはずだ。
「……でも」
手を止め、土の感触を確かめる。私が触れると、ほんのわずかに、植物が息をつくような気がする。その感覚は、病に苦しむ人に触れたときと同じだった。無理やり変えるのではなく、歪みを戻すみたいな、静かな働き。
畑の向こうで、別の村人が話している声が聞こえてきた。
「王都では、回復した人が増えすぎて、寝床が足りなくなってるらしい」
「え、いいことじゃないのか」
「いや、動けるようになったはいいけど、急に体が追いつかなくて倒れる人もいるって」
私は、思わず鍬を握る手に力を込めた。胸の奥が、わずかに疼く。回復が、急すぎる。年配の男性の言葉が、頭の中で反芻される。
「揺り戻しが来ることがある」
それは、病だけじゃない。無理やり引き上げたものは、反動を生む。私は自分の力を思い返す。あの時、私は「治そう」とは思っていなかった。ただ、「楽になってほしい」と願っただけだ。結果として、呼吸が整い、苦しさが引いた。それ以上は、何も起きていない。
「……同じ、奇跡じゃない」
呟いた声は、土に吸い込まれて消えた。比べるつもりはない。比べてはいけない。でも、質が違う。その違いを、私は否応なく感じていた。
夕方、作業が終わりに近づく頃、年配の男性が私のそばに来た。彼はしばらく何も言わず、私と同じように畑を眺めていた。
「さっきのことだが」
静かな声だった。私は、心臓が一瞬強く打つのを感じながら、顔を上げた。
「……はい」
「お前さん、特別なことはしていないと言うつもりか」
問いというより、確認だった。私は正直に答えるべきか迷った。下手に否定しても、肯定しても、何かが変わってしまう気がした。
「……ただ、背中に手を当てただけです」
年配の男性は、私の顔をじっと見つめた。その視線には、疑いよりも、測るような色があった。
「そうか」
それだけ言って、彼は畑に視線を戻す。
「昔な、この村にも、似たような力を持つ者がいた」
胸が、ひくりと鳴った。
「派手な奇跡は起こさなかった。ただ、触れて、祈って、歪んだものを元に戻す。誰にも気づかれないまま、何人も救っていた」
私は息を詰めた。続きを促す言葉が、喉の奥で固まる。
「だが、その者は、自分を聖女とは名乗らなかった」
年配の男性は、畑の向こう、夕焼けに染まる空を見つめている。
「名乗らなかったから、守られなかった。利用もされなかったが、記録にも残らなかった」
私は、胸の奥の温もりが、微かに揺れるのを感じた。それは、警告のようにも、共感のようにも思えた。
「……私は」
声を出しかけて、言葉を飲み込む。何を言っても、今は早い気がした。年配の男性は、私の沈黙を咎めなかった。
「急ぐ必要はない」
彼はそう言って、軽く頷いた。
「ただ、覚えておくといい。派手な奇跡ほど、人は信じたがる。だが、信じられるものが、正しいとは限らん」
その言葉は、重く、静かに胸に落ちた。私は深く頭を下げ、再び作業に戻る。夕暮れの光が、畑を柔らかく包み込んでいく。
その同じ時間、王都では、凛香の奇跡がさらに語られ、称えられているのだろう。人々の不安を一気に消し去る、眩い光の奇跡として。私は土を握りながら、その光の裏側に、確実に生まれ始めている歪みを、はっきりと感じていた。
◇
畑を離れる頃には、空はすっかり夕闇に沈みかけていた。昼間の喧騒が嘘のように、村は静かで、家々から立ちのぼる煙がゆっくりと流れている。私は籠を片付け、年配の男性に礼を言ってから、村を後にした。足取りは重くないのに、胸の奥には、消えないざらつきが残っている。
道を歩きながら、王都の噂を思い返す。回復した人々、溢れる歓声、光の奇跡。誰もが救われたと思い込みたくなる展開だ。実際、多くの命が助かったのだろう。それ自体を否定するつもりはない。けれど、胸の奥の温もりが、どうしても、違和感を訴えてくる。
「……歪み」
呟くと、風に溶けて消えた。私の力は、歪みを戻すものだ。無理やり押し上げるのではなく、自然な流れに寄り添うような感覚。それに比べて、噂に聞く奇跡は、あまりにも強引で、速すぎる。
宿に戻ると、女主人が珍しく、難しい顔をしていた。私はその様子に気づき、足を止める。
「……何か、ありましたか」
女主人は一瞬、私を見てから、ため息をついた。
「王都から、客が来てね」
「客……ですか」
「聖女様の奇跡で助かった、って人たちさ」
胸が、きゅっと締まる。
「助かったのは確かなんだけどね……」
女主人は言葉を探すように、少し間を置いた。
「元気すぎる、というか。落ち着かないというか」
私は黙って聞いていた。女主人は、続ける。
「傷が治ったのに、体の芯が冷えてる人がいた。熱もないのに、震えてる」
胸の奥の温もりが、はっきりと反応した。冷えている。歪みが、別の形で現れている。
「……それって」
言いかけて、私は口を閉じた。ここで踏み込むのは危険だ。私は聖女じゃない。医者でもない。ただの、城を追い出された女だ。
「変な話だよ」
女主人は苦笑する。
「奇跡で治ったなら、万々歳のはずなのにね」
私は曖昧に頷き、部屋へ向かった。階段を上る間、胸の奥が、じわじわと熱を帯びていく。助けたい、と思ってしまう自分がいる。その衝動を、必死に抑えた。
部屋に入ると、扉を閉め、深く息を吐いた。窓の外には、夜の街。遠くに、王城の塔が見える。あの場所で、凛香は今も称えられているのだろう。
「……どうして」
問いは、誰に向けたものでもなかった。どうして、同じ力が、こんなにも違う形で現れるのか。どうして、派手な奇跡の裏で、静かな歪みが生まれるのか。
私は椅子に腰を下ろし、両手を見つめた。温もりは、確かにそこにある。でも、それを使えば使うほど、私は目立つ。凛香のいる王都と、この静かな村。その間に立たされている感覚が、じわじわと強くなる。
「……まだ、早い」
自分に言い聞かせる。今は、見守るだけでいい。私が動くことで、事態が悪化するかもしれない。そう思う一方で、放っておくことへの不安も、確実に膨らんでいた。
その夜、眠りは浅かった。夢の中で、眩い光が何度も瞬き、そのたびに、誰かの影が歪んでいく。目を覚ましたとき、胸の奥は、強く、重く、脈打っていた。
偽物の奇跡が、確かに世界を動かしている。その事実だけが、はっきりと胸に刻まれていた。
朝の空気は、どこか落ち着かない匂いを含んでいた。村へ向かう道を歩きながら、私はそんな違和感を胸の奥で転がしていた。昨日までと同じはずの風景なのに、草の揺れ方や、鳥の鳴き声が、ほんの少しだけ乱れている気がする。理由は分からない。ただ、胸の奥の温もりが、今日は静かに、しかし確かに脈打っていた。
畑に着くと、すでに数人が作業を始めていた。年配の男性が私に気づき、軽く手を上げる。
「来たか」
「おはようございます」
挨拶を交わし、私は鍬を受け取った。昨日と同じ場所、同じ作業。身体は覚えていて、自然と動き出す。土に触れるたび、胸の奥がかすかに反応するけれど、それを表に出さないよう、意識して深呼吸をした。ここでは、私はただの働き手でいい。
作業を続けていると、村の外れの方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。振り向くと、若い男性が走ってくる。顔色が悪く、息が上がっている。
「大変だ……!」
その声に、畑の空気が一変した。人々が顔を上げ、手を止める。
「どうした」
「王都から、知らせが……」
男性は膝に手をつき、息を整えながら続けた。
「聖女様が、奇跡を起こしたそうだ」
その言葉に、ざわめきが走る。私は思わず、手を止めた。聖女。頭に浮かぶのは、凛香の顔だ。
「大きな病院街で、重い病に伏していた人々が、一斉に回復したって」
「おお……」
「さすが、異界から来た聖女様だ」
村人たちの声には、期待と安堵が混ざっている。災厄の噂が広がる中で、希望の象徴が現れた。そのこと自体は、悪い話じゃないはずだ。私は胸の奥を探る。温もりは、いつもより静かだった。
「……すごい、ですね」
誰かに聞かれたわけでもないのに、私はそう呟いていた。凛香が、奇跡を起こした。それは、驚くべきことでも、納得できることでもある。水晶が眩く光った姿を、私は覚えている。
「これで、この国も安泰だな」
「聖女様がいれば、災厄なんて怖くない」
そんな言葉が交わされる中、年配の男性が、わずかに眉を寄せた。
「……回復、か」
「どうした」
「いや。早すぎると思ってな」
彼はぽつりと呟く。私はその声に、無意識のうちに耳を澄ませた。
「病というのは、根が深いものだ。奇跡で一時的に良くなっても、揺り戻しが来ることがある」
誰かが笑って、その言葉を流した。
「細かいこと言うなよ。奇跡は奇跡だ」
年配の男性はそれ以上、何も言わなかった。でも、その沈黙が、私の胸に小さな棘を残した。胸の奥の温もりが、ほんの一瞬、ざわりと揺れた気がした。
作業を再開しながら、私は王都の様子を思い浮かべていた。人々に囲まれ、称賛を浴びる凛香。光り輝く奇跡。その裏側を、私は何も知らない。ただ、なぜか、落ち着かなかった。
昼前になり、村の小さな集会所に人が集まった。先ほどの知らせを聞いた者たちが、自然と集まってきたのだ。私も端の方に座り、話を聞く。
「聖女様の奇跡は、眩い光と共に起こったそうだ」
「祈っただけで、病が消えたって」
「まるで、神話みたいだな」
語られる内容は、どれも派手で、分かりやすい。人の心を掴むには、十分すぎるほどだった。私は膝の上で手を組み、静かに聞いていた。胸の奥の温もりは、反応しない。まるで、距離を取っているみたいに。
その時、集会所の外で、誰かが倒れる音がした。どさり、という鈍い音。ざわめきが一斉に外へ向かう。
「どうした」
「人が……!」
外へ出ると、年配の女性が地面に座り込んでいた。息が荒く、顔色が悪い。
「胸が、苦しい……」
周囲が慌てる。誰かが水を持ってきて、誰かが背中をさする。でも、症状はすぐには治まらない。
「さっきまで、元気だったのに」
「もしかして……」
誰も言葉を続けなかった。でも、私は胸の奥が強く反応するのを感じていた。温もりが、はっきりと存在を主張している。考えるより先に、身体が動いた。
「……失礼します」
私はそっと、女性のそばにしゃがみ込んだ。周囲の視線が集まるのを感じる。でも、怖さよりも、今は別の感情が勝っていた。楽にしてあげたい。ただ、それだけだ。
「ゆっくり、息をして」
声は、自然と低くなった。私は女性の背中に手を当てる。胸の奥の温もりが、静かに流れ出すのを感じる。派手な光はない。ただ、確かな感触だけがある。
女性の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。肩の上下が緩やかになり、顔色もわずかに戻ってきた。
「……あれ」
女性が、戸惑ったように目を瞬かせる。
「苦しく、ない……」
周囲がざわつく。私はそっと手を離し、一歩下がった。
「……よかった」
それだけ言って、視線を伏せる。胸の奥の温もりは、静かに収まっていた。誰かが「たまたまだろう」と言い、誰かが「休めば治る」と言った。私は、その流れに逆らわなかった。
ただ一人、年配の男性だけが、私をじっと見ていた。その視線に、私は気づかないふりをした。今は、目立つべきじゃない。聖女の奇跡が語られるこの時に、私の静かな力が知られる必要はない。
でも、胸の奥には、はっきりとした違和感が残っていた。凛香の派手な奇跡と、今ここで起きた小さな回復。その質が、まるで違うことを、私は身体で感じていた。
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集会所の前に残った空気は、奇妙に重かった。誰もが口に出さないまま、先ほどの出来事をそれぞれの胸に仕舞い込もうとしているのが分かる。私は人の輪からそっと離れ、視線を落とした。胸の奥の温もりは、役目を終えたかのように静まり返っている。派手さも、余韻もない。ただ、確かに「届いた」という感覚だけが残っていた。
「……助かったのは事実だな」
年配の男性が、ぽつりと呟いた。その声には、喜びよりも、考え込むような重さが含まれている。周囲の者たちは、うん、と曖昧に頷きながらも、すぐに別の話題へと流れていった。聖女の奇跡の噂に比べれば、今の出来事はあまりにも地味だ。語るには、華が足りない。
私はそのまま畑へ戻り、黙々と作業を続けた。土を掘り返すたびに、頭の中で、王都の光景が勝手に組み立てられる。人々の歓声、神官たちの祈り、凛香の立つ中心。その周囲で起こったであろう奇跡は、きっと美しく、分かりやすく、誰の目にも「救い」と映ったはずだ。
「……でも」
手を止め、土の感触を確かめる。私が触れると、ほんのわずかに、植物が息をつくような気がする。その感覚は、病に苦しむ人に触れたときと同じだった。無理やり変えるのではなく、歪みを戻すみたいな、静かな働き。
畑の向こうで、別の村人が話している声が聞こえてきた。
「王都では、回復した人が増えすぎて、寝床が足りなくなってるらしい」
「え、いいことじゃないのか」
「いや、動けるようになったはいいけど、急に体が追いつかなくて倒れる人もいるって」
私は、思わず鍬を握る手に力を込めた。胸の奥が、わずかに疼く。回復が、急すぎる。年配の男性の言葉が、頭の中で反芻される。
「揺り戻しが来ることがある」
それは、病だけじゃない。無理やり引き上げたものは、反動を生む。私は自分の力を思い返す。あの時、私は「治そう」とは思っていなかった。ただ、「楽になってほしい」と願っただけだ。結果として、呼吸が整い、苦しさが引いた。それ以上は、何も起きていない。
「……同じ、奇跡じゃない」
呟いた声は、土に吸い込まれて消えた。比べるつもりはない。比べてはいけない。でも、質が違う。その違いを、私は否応なく感じていた。
夕方、作業が終わりに近づく頃、年配の男性が私のそばに来た。彼はしばらく何も言わず、私と同じように畑を眺めていた。
「さっきのことだが」
静かな声だった。私は、心臓が一瞬強く打つのを感じながら、顔を上げた。
「……はい」
「お前さん、特別なことはしていないと言うつもりか」
問いというより、確認だった。私は正直に答えるべきか迷った。下手に否定しても、肯定しても、何かが変わってしまう気がした。
「……ただ、背中に手を当てただけです」
年配の男性は、私の顔をじっと見つめた。その視線には、疑いよりも、測るような色があった。
「そうか」
それだけ言って、彼は畑に視線を戻す。
「昔な、この村にも、似たような力を持つ者がいた」
胸が、ひくりと鳴った。
「派手な奇跡は起こさなかった。ただ、触れて、祈って、歪んだものを元に戻す。誰にも気づかれないまま、何人も救っていた」
私は息を詰めた。続きを促す言葉が、喉の奥で固まる。
「だが、その者は、自分を聖女とは名乗らなかった」
年配の男性は、畑の向こう、夕焼けに染まる空を見つめている。
「名乗らなかったから、守られなかった。利用もされなかったが、記録にも残らなかった」
私は、胸の奥の温もりが、微かに揺れるのを感じた。それは、警告のようにも、共感のようにも思えた。
「……私は」
声を出しかけて、言葉を飲み込む。何を言っても、今は早い気がした。年配の男性は、私の沈黙を咎めなかった。
「急ぐ必要はない」
彼はそう言って、軽く頷いた。
「ただ、覚えておくといい。派手な奇跡ほど、人は信じたがる。だが、信じられるものが、正しいとは限らん」
その言葉は、重く、静かに胸に落ちた。私は深く頭を下げ、再び作業に戻る。夕暮れの光が、畑を柔らかく包み込んでいく。
その同じ時間、王都では、凛香の奇跡がさらに語られ、称えられているのだろう。人々の不安を一気に消し去る、眩い光の奇跡として。私は土を握りながら、その光の裏側に、確実に生まれ始めている歪みを、はっきりと感じていた。
◇
畑を離れる頃には、空はすっかり夕闇に沈みかけていた。昼間の喧騒が嘘のように、村は静かで、家々から立ちのぼる煙がゆっくりと流れている。私は籠を片付け、年配の男性に礼を言ってから、村を後にした。足取りは重くないのに、胸の奥には、消えないざらつきが残っている。
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「……歪み」
呟くと、風に溶けて消えた。私の力は、歪みを戻すものだ。無理やり押し上げるのではなく、自然な流れに寄り添うような感覚。それに比べて、噂に聞く奇跡は、あまりにも強引で、速すぎる。
宿に戻ると、女主人が珍しく、難しい顔をしていた。私はその様子に気づき、足を止める。
「……何か、ありましたか」
女主人は一瞬、私を見てから、ため息をついた。
「王都から、客が来てね」
「客……ですか」
「聖女様の奇跡で助かった、って人たちさ」
胸が、きゅっと締まる。
「助かったのは確かなんだけどね……」
女主人は言葉を探すように、少し間を置いた。
「元気すぎる、というか。落ち着かないというか」
私は黙って聞いていた。女主人は、続ける。
「傷が治ったのに、体の芯が冷えてる人がいた。熱もないのに、震えてる」
胸の奥の温もりが、はっきりと反応した。冷えている。歪みが、別の形で現れている。
「……それって」
言いかけて、私は口を閉じた。ここで踏み込むのは危険だ。私は聖女じゃない。医者でもない。ただの、城を追い出された女だ。
「変な話だよ」
女主人は苦笑する。
「奇跡で治ったなら、万々歳のはずなのにね」
私は曖昧に頷き、部屋へ向かった。階段を上る間、胸の奥が、じわじわと熱を帯びていく。助けたい、と思ってしまう自分がいる。その衝動を、必死に抑えた。
部屋に入ると、扉を閉め、深く息を吐いた。窓の外には、夜の街。遠くに、王城の塔が見える。あの場所で、凛香は今も称えられているのだろう。
「……どうして」
問いは、誰に向けたものでもなかった。どうして、同じ力が、こんなにも違う形で現れるのか。どうして、派手な奇跡の裏で、静かな歪みが生まれるのか。
私は椅子に腰を下ろし、両手を見つめた。温もりは、確かにそこにある。でも、それを使えば使うほど、私は目立つ。凛香のいる王都と、この静かな村。その間に立たされている感覚が、じわじわと強くなる。
「……まだ、早い」
自分に言い聞かせる。今は、見守るだけでいい。私が動くことで、事態が悪化するかもしれない。そう思う一方で、放っておくことへの不安も、確実に膨らんでいた。
その夜、眠りは浅かった。夢の中で、眩い光が何度も瞬き、そのたびに、誰かの影が歪んでいく。目を覚ましたとき、胸の奥は、強く、重く、脈打っていた。
偽物の奇跡が、確かに世界を動かしている。その事実だけが、はっきりと胸に刻まれていた。
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でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
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