クズ男と逃げた魚

宵の月

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逃げた魚の回想録 前編

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 長い片思いに別れを告げるため、恋い焦がれた人とベッドにいる。たった一度触れ合いたかった。ほんのひととき見てほしかった。心から愛した人に捧げたかった。

 「ひゃあ!ああっ!あっ!あっ!シスル様!」
 「………ああっ……くっ……うっ……ああ!出る!出る!」

 初めて知る男女の営み。痛いとは聞いていたが、これほど激しいとは思ってもみなかった。
 荒い息をつきながら、アスティが浮き上がるほどシスルは何度も突き上げる。その度にひどく卑猥な水音が響く。もう何度も中に注がれているのに、シスルは一度も出ていくことがない。汗が肌を伝うのも構わずに獣のように腰を振り、情欲に塗れた男の顔でアスティを貪っている。

 「……ぐっ……あぁっ………出すぞ!アスティ!出す!」
 「ああっ……あぁ……シスルっ!!!」

 絶頂したアスティを押さえながら、シスルは中に出し切ると倒れ込むようにベッドに崩れ落ちた。ぎしりとベッドが軋み、隣にシスルの体温を感じながら閉じた目は、昼の少し前まで夢も見ない深い眠りの底で開くことはなかった。

 ぼんやりとしたままだるい身体を起こす。ベッドの惨状と身体のあちこちに残る軋みが、アスティにシスルとの行為を思い起こさせた。
 まだ隣で眠っているシスルを見つめる。あどけなく見える寝顔に胸が引絞られるように痛んだ。喉が引きつれるように痙攣する。

 (シスル様……貴方はこんなふうに……)

 誰かと抱き合い愛し合っていたのだろう。何度も振り返らない背中を見送った。こうして肌を重ねたことで、それがリアルにアスティの胸に迫った。抱かれたことでより生々しく脳裏に浮かべられる光景。知らなかったときより、より深く残酷にアスティを抉る。
 激しく貪るような行為は、今もアスティに色濃く感覚を残している。その身体を抱きしめるようにして、アスティは声を押し殺して涙を流した。
 シスルは仕方なくアスティを抱いた。交換条件がなければ触れようともしなかった。だから甘いキスも睦言もなかったのだ。
 
 (他の人はきっともっと……)

 優しい口づけに蕩ける睦言。シスルはどんな目をしてそれを口にするのだろうか。
 アスティのひび割れた心が、粉々に砕けて突き刺さる。

 「………ふぅ……ううっ………ふっ……」

 こらえきれない嗚咽が溢れる。自分の惨めさに涙が止まらなかった。
 誰に何を言われても自分を貫くシスルが好きだった。そんな人の《好き》になれたら、きっと好きを貫くだろう。そんな人の、そんなシスルの《好き》が欲しかった。
 アスティの嗚咽が室内に響いても、深い快楽に満たされたシスルは目覚めない。

 「シスル様、本当に貴方が好きでした。……さようなら。」

 ほんのわずか、掠めるだけの口づけをそっと盗み取る。縋るような媚びるような恋だった。ただひたすら耐え酷く惨めで哀しい初恋だった。
 でも諦めきれなかった。本当に好きだった。その恋をようやく手放す。アスティは服を着て静かに部屋を後にした。

 扉が閉まる音に、少しだけ肩の荷が下りた気がした。



※※※※※



 パタパタと駆けてくる軽い足音に、アスティは苦笑した。淑女教育はうまくいっていないかもしれない。

 「………お母様!」
 「リリアナ。走ってはだめじゃない。」
 「ふふふ。ごめんなさい。」

 小言はどうしても浮かんでしまう微笑み付きでは、リリアナの心には響かなかった。
 アスティと亡き夫マクエルの一人娘リリアナは、トロウェル侯爵家の唯一の跡取りと定まった。1年かけて争った養育権は、アスティ側とトロウェル家が半分の権利を得ることで決着した。
 3ヶ月ぶりに会えた娘。時を惜しむように母娘はフラメル侯爵領での時間を過ごしていた。

 「……お母様、お祖母様に婚約することになったって言われたの……」
 
 不安げに瞳を揺らして俯いたリリアナに、アスティはそっと息を吐き出した。侯爵家の唯一の跡取り娘になったリリアナ。すぐさま縁談が持ち上がったことには驚かなかった。

 「……お母様が初めて婚約したのは今のリリアナと同じ8歳の時だったわ。」
 「不安ではありませんでしたか?」
 「お母様は婚約相手と何度か会ったことがあったの。怖くはなかったわ。」

 むしろあんなに素敵なシスルと婚約できるのだと、とても嬉しかったことを思い出す。

 「………でもね、うまくいかなかったの。お母様なりに頑張ったけれど、10年経っても嫌われたままだった。」
 「………婚約しても仲良くなれないのは辛くはなかったですか?」
 「そうね、とても辛かった。」

 アスティはシスルがとても好きだったから。関係はこじれ続けて、口を開くことすら怖くなっていた。顔色ばかり伺って、どうしようもなく溝ばかりが深まっていった。

 「でも、フラメルのお祖父様は味方でいてくれたわ。リリアナだってそうよ。お祖父様もお母様もいつだって貴女の味方だわ。」

 何度解消するように言われてもアスティは拒否していた。とうとうこれ以上は続けられないと覚悟を決めたとき、拒否を続けた娘のわがままを父は受け止めてくれた。白紙にしてからは、アスティのために半年の猶予をくれた。どれほど救われたか。

 「……もしもうまくいかなくて、辛かったらお母様を信じて正直に話して?必ず力になるわ。」
 「………本当?」
 「ええ。約束する。お母様が嘘をついたことある?」
 「ないわ!」
 「そうでしょう?」

 リリアナが元気を少し取り戻し、アスティは微笑んだ。

 「それにお父様のような方かもしれないわ。それなら仲良くなれるかもしれないでしょ?」
 「そんな人、いるかなぁ?」

 リリアナは抱えていたくまのぬいぐるみを見つめる。アスティとお揃いのくま。亡き夫になんだかとても似ているのだ。

 「初めてお父様に会った時、どうだったの?」
 「ふふふ。とても安心したわ。優しくて穏やかで。」

 タレ目の瞳を細めて笑って挨拶してくれた。纏う空気さえも柔らかくて、ボロボロに傷ついたアスティを包み込んでくれるような気がしたことを思い出して、アスティはくすくすと笑った。

 「お父様は病弱でね、だからこそ人の痛みが分かる人だった。婚約を白紙にしたばかりだったから、凄く噂されていたのよ。それなのにきちんとお母様に挨拶してくださったの。ああ、優しくて誠実な人だってすぐに分かったわ。」

 だからこそ嘘はつけなかった。あの当時、ランコムとシスルとの関係で、アスティは噂の的だった。純潔ではないこと。望んでシスルとの関係を持ったこと。ランコムとの過ち……。マクエルは黙って聞いてくれた。
 
 《正直に話してくれてありがとう。勇気が必要でしたよね。彼をとても好きだった貴女が、すぐに僕を好きになるのは難しいと思います。ですが、信頼と親愛を育てていくことはできると思うんです。僕は貴女の人柄をとても好ましく思っています。ゆっくりと夫婦になっていきませんか?》
 
 マクエルの穏やかで優しい声が蘇り、アスティは滲んだ瞳を隠すように俯いた。

 「…………たくさん話をしたの。好きな本の話。お花の話。お仕事の話。……お父様とはお祖父様が出会わせてくれたの。」

 向かい合って話をする。ちゃんと聞いてもらえる。怒らせるんじゃないかと怯えるなんてことは一度もなかった。それがとても嬉しかった。砕けた心を包み込んで、静かにゆっくりと染みてくる優しい声。
 そんなマクエルだったからアスティは立ち直れた。もう一度恋をすることができた。結婚したいと思えた。

 「リリアナのお話もたくさんしたのよ。」
 「私の?」
 「ええ。いつか子供が産まれたらどんなことをしてあげたいかって。貴女が産まれるのをとても楽しみにしていたの。産まれてからもどんなに貴女が可愛いかって。お母様がヤキモチを焼くくらいね。」
 「ふふふ。お母様が?娘が見ているのにいつも二人でくっついていたのに?」
 「リリアナが産まれる前は、ただいまのキスはお母様が一番最初だったの。それなのに……」
 「やだ!お母様ったら。」

 笑い転げる娘にアスティは目を細めた。

 「たくさん相手の方とお話をしてみるといいわ。縋って求めて胸を焦がす愛だけじゃなくて、信頼と親愛から育つ愛もあるの。」
 
 身を焦がす激情も、穏やかに歩み寄る積み重ねも等しく愛だ。シスルを愛していた。彼が欲しかった。マクエルを信頼していた。彼をとても尊敬していた。
 どちらが正しいかなど答えはない。アスティは選んだ。信頼と親愛を積み重ねていく愛を。その選択を後悔していない。マクエルと結婚を決めたときに後悔しない生き方をすると決めたのだ。だから振り返らなかった。

 「………リリアナ。」
 「………?お母様?」

 まだ早いだろうか?首を傾げるリリアナに、アスティは迷ったが、言葉を選んでゆっくりと言い聞かせた。

 「………リリアナもいつか大人になるわ。成人すれば相手の方との関係もまた変わってくる。」

 16歳の頃だった。シスルとの関係が悪化したのは。女遊びを始めたのもその頃だった。男女の関係は肌を合わせると大きく変わっていく。シスルもランコムも、マクエルでさえそうだった。
 その日を境に急に変わってしまう。あれほど疎まれていたのに、興味がなかったはずなのに熱心な求愛者になったりもする。マクエルの穏やかな理知的な瞳にも、初夜から熱い情欲が灯るようになった。

 《またすぐ君が欲しくなる。こんなふうになるなんて思わなかったよ》

 寝台ではマクエルも獣のようにアスティを貪った。病身が心配になるほどに。親友のような関係から、一夜で熱愛する恋人のような関係に。
 マクエルと信頼関係を先に築けていなかったら、自分が男を狂わせる身体であることを知らないアスティは、その変化に不信を抱いたことだろう。
 身体の関係から急激に変化する男女の仲。今より先の未来の娘の幸福に、それはどれほど影響するだろうか。

 「大人になってもお母様はお母様よ。だから何かあったら必ず相談して。」
 「うん!そうするわ!」
 「………人は心で繋がるの。服を着ている時間のほうがずっと長い。忘れないでね。」

 きょとんと首を傾げるリリアナに、アスティは曖昧に頷いた。意味を知るのはもっと先の未来。
 長年恋い焦がれたシスルの求愛に心が揺れなかったわけではない。でも戻れなかった。
 あんなふうに他の女と、寝台で過ごした夜がどれだけあっただろう。たった一度肌を重ねてからの、求愛を信じることはできなかった。穏やかな親愛に包まれることを知り、息をするのも緊張する恋に戻ることは怖かった。

 「信頼と尊敬を築ける方と幸せに暮らしてほしい。」
 「お父様とお母様のように?」
 「ふふっ。そうね。」
 「……それでもやっぱり怖い……。お祖母様が決めた方だし……。それにお祖母様はお母様に辛く当たるんだもの……。」
 「リリアナ……。そんなふうに言わないで。」
 「だって!!」
 「リリアナ。」

 我慢していただろう不満を吐き出したリリアナをアスティは優しく抱きしめた。

 「お祖母様はリリアナを大切に思っているわ。」
 「……後継者だからでしょ!」
 「いいえ、それだけではないわ。リリアナ、お母様は貴女が何より大切よ。お祖母様にとってもそうだったの。」

 大事な一人息子。倒れるまでは大切にしてくれた。徐々に弱っていく姿に焦燥し、とうとう亡くなった時にはたった一人の忘れ形見すらも失うかもしれない恐怖と疑心に苛まれていた。

 「お祖母様を責めないであげて。お父様を愛していらしたの。貴女のこともよ。」
 「……それでもっ!!」
 「貴女に何かあればお母様だって同じようになるかもしれない。……母親だもの。お気持ちがわかるの。」
 
 献身的にマクエルを支えていたアスティ。マクエルもアスティがそばにいるときは安らかな笑みを見せていた。それなのに祖母はマクエルが回復しないのをアスティのせいだと責め、リリアナをアスティから引き剥がした。

 「トロウェル侯爵家の跡取りは貴女よ。いつも一緒にはいられなくなってしまったけれど、とても誇らしいの。お父様は人の痛みを知る人だった。孤児院にも頻繁に顔を出して、同じものを食べて笑って……。領民を大切にしていたわ。」

 アスティは抱きしめたリリアナの涙に潤んだ瞳をみつめた。

 「お父様が大切にしていたトロウェル家を貴女が引き継ぐの。マックが……お父様が大切にしていたものを貴女が守っていく。それがお母様はとても誇らしい。いつも一緒にいたいわ。でもそれではトロウェル家の跡取りとして必要なものは得られなくなるかもしれない。こうして会えるようになっただけでも十分。リリアナ、わかってあげて。」
 「……お母様……。」

 固く抱き合って涙を流す母娘。物陰に佇み話しを聞いていたシスルは動くこともできず、ただ唇を噛み拳を握りしめた。


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