クズ男と逃げた魚

宵の月

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クズ男と囚われた魚 後編

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 固く閉ざされた扉の向こうから、絶叫が響き渡った。紙よりも白く血の気の失せたシスルは、扉の脇に座り込んで震える両手を握り締め震えていた。

 「アスティ……アスティ……」

 呆然とうわ言のように名を呼び、絶叫が響くたびに肩を飛び上がらせて神に必死に祈った。噛み締めた唇からは血が滲み、掻きむしった髪はボサボサと乱れている。

 「どうか……どうか……アスティ……」

 尋常ではない様子のシスルだったが、構うものは一人もいない。それどころではなかったからだ。

 「……っ!!あああああぁぁぁぁーーーー!!」
 「……っ!!アスティ!!」

 長く上がった悲鳴に、シスルは弾かれたように立ち上がり、隔てられた壁に取り縋った。壁に額をぶつけ、シスルはこらえきれずに嗚咽を漏らす。

 王都から急いで戻ってからの数カ月、シスルは至上の幸福の噛み締めて過ごしていた。
 大きくなったお腹を優しくさすり、柔らかく語りかけるアスティの姿。聖母のようなその姿に、疚しさなどすっかり消え失せていた。
 ランコムに滅多打ちにされたことも、抱いた罪悪感もきれいに忘れ去り、シスルの子を宿したアスティの美しさにただひたすら見惚れて過ごしていた。
 
 「ううっ……ぐっ!……ああっ!あああああーーーー!!」
 「アスティ!アスティ!!」

 再び響いた悲痛な叫びに、シスルは壁に向かって血を吐くようにアスティを呼んだ。
 全身が立っていられないほど震え、ズルズルとへたりこんだシスル。端正な美貌は絶望と後悔の涙でぐちゃぐちゃだった。
 
 シスルの至上の幸福は、アスティが出産を迎えるまでだった。痛みに歯を食いしばり、のた打ちながら苦痛に耐えるのは、シスルではなくアスティだったから。
 シスルの身勝手な願いの代償は、命がけでアスティが支払う。ようやくその現実に気付いてシスルは青褪め、心の底から後悔した。

 「アスティ……お願いだ……お願いだ……どうか……どうか……」

 二度と顔を見ることも、声を聞くこともできなくなる可能性があることを、シスルは考えてすらいなかった。アスティとの間に子供ができれば結婚できる。子供を置いて彼女はどこにも行かない。当然だった。一年弱もの間、体内で大切に慈しんで育てたのだ。命を懸けて苦悶と苦痛に耐え、悲痛な絶叫を響かせながら命を産み落とすのだから。
 
 「アスティ様!しっかり!もうすぐです!!」
 「はあ……はあ……ふぅぅ……ふっ!ああっ!!ああ!あああああーーーーーー!!」
 
 命を振り絞るような絶叫に、シスルは戦慄しそのまま床に蹲る。

 (どうか……どうか……お願いだ……マクエル!マクエル!!頼む……頼むからアスティを、アスティを連れて行かないでくれ!!)

 自分勝手な願いの代償の大きさに、耐えきれなくなったシスルはとうとう懇願した。憎くて、恨めしくて、めまいがするほど妬ましい男に。何をしてでも手に入れたかった唯一を、自分の愚かさで失いそうな恐怖に、シスルは心の底から縋った。

 「……んぎゃああーーー!!ふんぎゃあーーー!!んぎゃあーーー!!」

 甲高く元気に木霊した泣き声に、壁の気配に安堵のざわめきが広がっていく。シスルも目を見開いてゆっくりと手のひらに押し付けていた顔を上げた。止まない声に呆然と聞き入り、どっと押し寄せてきた感情に顔を歪めて嗚咽を漏らす。

 「旦那さん!生まれましたよ!元気な男の子です!!奥様が頑張ってくださいましたよ!!」

 室内から飛び出してきた喜色に満ちた声の主は、床にへたり込んで大泣きしている男の姿にぎょっとして後ずさった。出産において男とはとにかく役に立たず、おろおろするばかりのでくの坊と相場は決まっているものだ。数々の出産現場に立ち会ってきた助産師だが、それでもここまでの男は見たことがなかった。
 死ぬんじゃないかというほど顔色を悪くし、凄絶なほど憔悴して哀れなほど打ちひしがれている。比較的安産だったアスティの方が、まだ元気に見える。

 「……ふうっうっうっ!!……よ、よかった……よかった……アスティ……アスティ……マクエル、ありがとう……ありがとう……」

 そのまま蹲って憚ることなく泣き始めたシスル。助産師は戸惑いながら首を傾げる。喜びを爆発させながら、神に感謝する旦那は数えきれないほど見てきたが、これは見たことがないパターンだった。どうしたらいいか、困った助産師はそのままそっと扉を閉めることにした。


※※※※※


 ようやく落ち着けたアスティは、ぐったりと身を横たえたままシスルの訪れを待っていた。やがて部屋に入ってきたシスルに、アスティは眠気が吹き飛んだ。

 「……っ!!シスル!!」
 「アスティ……」

 現れたシスルは真っ白な顔色で、ふらふらと今にも倒れそうなほど憔悴していた。出産を終えたばかりの自分よりも死にそうなシスルに、アスティは呆然とする。倒れ込みそうな足取りで近づいてきたシスルは、そのまま寝台に取りすがってアスティの手を握りしめた。

 「アスティ……!アスティ……!ごめん!ごめん!許してくれ、アスティ!!」

 そのままシスルは腫れあがった目から涙をこぼし始めた。おいおいと泣き始めたシスルに、子供を抱かせようと控えていた乳母が、ぎょっとして口を開けた。アスティも驚愕で固まっていたが、ふと優しく口元に笑みを浮かべた。

 「泣かないで、シスル。」
 「アスティ、違うんだ……聞いてくれ……俺は、俺は……」
 「分かっているわ。でもまずは赤ちゃんを抱いてあげて?」
 「赤ちゃん……」
 「ええ、私たちの赤ちゃんよ。」

 頷いたアスティに乳母が恐る恐る近づいてくる。抱き方の注意点を伝えながら、ぎこちなく危なっかしいシスルの腕にそっと赤ちゃんを抱かせる。呆然としたように息子を抱くシスルは、そのままじっと戸惑ったように固まっている。

 「……小さい……軽くて、脆くて、あったかい……」

 震える声で呟いたシスルが、ゆっくりとアスティを振り返る。その瞳からはまたも涙が溢れ出していた。

 「……かわいい……アスティ……ありがとう……ありがとう……」

 ぼろぼろと泣き始めたシスルに、乳母は慌てて近づくとその腕からそっと子供を引き取った。アスティが頷くのを確認して、乳母は子供を連れて部屋を後にした。二人になるとアスティは、子供のように泣いているシスルを呼んだ。

 「……シスル、私ね、ずっと言おうか迷っていたことがあるの。言わずにいたのは、今日子供に会えた時のシスルを見てからにしようと思ったから。」

 戸惑ったように顔を上げたシスルを、アスティはまっすぐ見つめた。

 「子供は二人の責任よ。貴方と私の責任なの。貴方は次期当主でいつまでも結婚しないわけにはいかなかった。子供もそう。分かっていたけど私は甘えて言えなかった。リリアナへの影響やマクエルのことを考えたら……。たぶん子供ができなければ、いつまでも決断はできなかったかもしれない。」
 「アスティ……?」
 「それでも話し合うべきだった。子供を決断の理由にしてはいけなかった。これは私たちの過ちだわ。」
 「アスティ……ごめん、俺は……どうしても、どうしても結婚したくて……君にこんな……」
 「シスル、言ったでしょ?二人の責任よ。逃げないで本音で話し合うべきだった。何度でも。それができない程度の信頼では、結婚してもうまくいくことはないもの。」

 さっと顔色を変えたシスルに、アスティはぐっと瞳の色を強くした。

 「貴女は私を大切にしてくれる。再会してから気持ちを疑ったことはないわ。でも結婚は恋人から夫婦へ変わる。子供が生まれれば親になる。私ね、子供を見たシスルが結婚への理由としか思えない態度だったら割り切ろうと思っていたの。」
 「割り切る?」
 「父親のいない子供にするつもりはなかった。でも子供が結婚の布石でしかないなら、私は夫婦としての絆は諦めるつもりだった。政略結婚と同じだと割り切ろうって。」
 
 信じられないかのように目を見開くシスルに、アスティはちょっと気まずげに笑った。

 「ごめんね、シスル。貴方は私を純粋で優しい女と思っているみたいだけど、そんなことないの。子供のためならなんだってできるわ。」
 「アスティ……」

 言い切ったアスティは、今度はにっこりと微笑んだ。優しくも強い母親の笑み。こんな風にリリアナに微笑んでいた。そしてその笑みを生まれた子供にこれから向けるのだろう。あれほど心にざわめかせた母の顔をしたアスティは、今のシスルに美しく逞しく映った。

 「二人で決断したいの。どんなことも。後悔しないように。本音で話し合って、信頼しあえる夫婦になっていきたいの。」
 
 シスルはくしゃりと顔を歪めて、言葉が出ない代わりに何度も何度も頷いた。もう二度と過ちは繰り返さない。
 クズの本性をさらけ出したら愛を失うかもしれない。それでも永遠に想うことさえ許されない過ちを犯すくらいなら、クズだけど捨てないでと何度でも縋りつこう。何年かけてでも取り戻せる可能性を選ぶべきだと、シスルは心の底からそう自分に言い聞かせた。


※※※※※


 「…………ランコムが来る。アスティは晩餐に顔を出さないでほしい。」

 椅子に座るアスティの腰に抱き着き、顔を腹部に押し付けてシスルがくぐもった声を出す。

 「ねえ、シスル。視察のための来訪なのよ?出席しないわけにはいかないわ。何年も前のことだし、彼も私を覚えていないわ。」
 「…………い・や・だ!」
 「……」
 
 アスティは呆れたように黙り込み、小さくため息を吐いた。

 「…………肌は見せるな。宝石は俺の色で。あのクソに絶対笑いかけない。それなら我慢する……」
 「そうするわ。分かってくれてありがとう。」

 顔を上げないままのシスルをアスティがゆっくりと撫でた。

 「…………リリアナとレグルスにばかりかまって、俺の時間が少ない。」
 「……シスル……」
 「このままだと俺は嫉妬でレグルスを王都の寄宿舎に放り込むかもしれない。」
 「何を言っているの……。レグルスがいないことに貴方の方が先に耐えられなくなるわ。」
 「……だからそうなる前に俺との時間を作ってほしい……」
 「………もう……わかったわ。明日午後にお茶をするのはどう?」
 「……調整しておく。」

 顔を埋めたままのシスルを撫でながら、アスティはため息を噛み殺した。
 本音で話し合う。その約束をプライドの高いシスルは、いつもこの姿勢で遵守した。座ったアスティの腰に抱き付き、顔は上げずにずっと腹部に押し付けて。
 出てくる本音は呆れるほど幼稚で我儘。何年たってもそれは変わらない。全幅の信頼を寄せ心から尊敬し、後を安心してついていけた夫婦関係だったマクエルとは違い、まるで駄々っ子のようなシスル。

 アスティが優先順位を絶対に曲げず、欲しいものを我慢できないシスルを、

 (ふふっ。子供みたい。シスルは本当に昔から変わらないわね)

 と、笑ってくれるうちは、うまくやっていけるのだろう。

 「アスティ……愛してる。アスティも俺を愛してる?」
 「ええ、愛しているわ。」
 「………………今日は手加減しなくていいよな?」
 「……手加減してくれたことあったかしら?」
 「…………努力はしてる。アスティ、心から愛しているよ。結婚してくれて、ありがとう。」

 ようやく立ち上がったシスルは、優しく引っ張り上げてアスティを抱きしめ口づける。

 クズ男は逃げた魚を必死に追い回し、ようやくその腕に捉えた。
 囚われた魚はなかなかに幸せそうで、やっとクズ男はかなり幼稚で呆れるほど我儘な男くらいには、ほんのちょっぴり成長できたのかもしれない。


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