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1章
転落4
しおりを挟む《綾川冥視点》
ヤクザ達から追われる身になって3日間、綾川冥は命からがら、なんとか逃げ切っていた。しかし、着ていた服はボロボロになり、艶があった髪はボサボサで見る影も無くなっていた。その目には深く隈が刻み込まれ、長いこと満足に眠れていないことが分かる。彼女は路地裏の壁に背中を預け、座り込む。
もう……こんな生活限界。どこに逃げても必ず見つかるなんて……。一度海に逃げた時は酷かった……。死角になるところが少なく、危うく捕まる所だった。幸い、逃げている途中で雨が降り、視界が悪くなったことで逃げ切れたが、運が良かったとしか言いようがない。でも、こうしている間にもヤクザが近づいてきてるはず。
ピピッ! 彼女は右腕につけている腕輪が鳴ったことに気づき、重い腰を上げる。
ここにも……もういられない。移動しなくちゃ。
そうして、彼女はできるだけ死角が多いところを中心に歩き出す。彼女の後ろでは、黒いスーツを着た男達がキョロキョロと周囲を見渡すのだった。
ーーーーーーーーーー
なんとかヤクザ達から逃げ切った彼女は、誰も使っていない廃ビルで腰を下ろす。
……この逃亡生活を止められるのはただ1人、周王春樹。あの女に命令できる唯一の人間。もし、止められるとしたらアイツしかいない。このままだと私はいつか捕まって、酷い目に遭うのは目に見えている。
「春樹に……会わなきゃ!」
そうして、彼女は逃亡生活をしながら、周王春樹を探すという二重生活を続けた。
そしてある日……
「春樹……どこにいるのよ……!」
逃亡生活を続けて10日目、彼女は未だに周王春樹を見つけられていなかった。最初、彼女は春樹が元々住んでいた家の近くに張っていたが、家の周りを出入りするのは宅配業者ぐらいで、春樹が出入りしている様子がなかった。
部屋にこもりきりなのか? とも彼女は思ったが、以前に会った時の彼は、ほどほどに日焼けし、健康的な様子だった。そこで、彼女は今は別の場所であの女と暮らしている? という仮説を立て、彼の実家からある一定の距離に絞り、彼の今の住まいを探した。
しかし、当然のことながら、己の足のみで全ての場所をカバーできるわけもなく、何の成果も得られぬまま彷徨っていた。
「……るき……こ……?」
10日間、歩き通した彼女は大通りから見え辛い窪みに隠れ、ブロックでできた壁に背中を預け、項垂れる。そして……消え入りそうな声で彼の所在を虚空に訊ねる。
そんな風に、もはや生気のない目でただただ壁にもたれかかっていると、ぼやけた視界の端の中に周王春樹の姿を確認する。
「!」
はっきりと目を見開き、周王春樹の姿を確認すると、先ほどまで生気のなかった彼女の目に、生気が戻る。この時だけは彼女は疲れを忘れ、体を即座に起こし、周王春樹の姿を追う。
春樹! 春樹! 春樹! やっと見つけた! もうどんだけ探したと思っているのよ!
そして、ついに彼女は周王春樹に追いつき、彼の服の端を掴み、歩いていた彼の歩みを止める。
「ハァ……ハァ……春樹!」
「おまえ……冥か?」
あまりにも変わった彼女の風貌に、周王春樹は怪訝そうにしながら彼女に問う。
「ええ……ええ! 私よ! 冥よ!」
「お前……何があったんだ?」
春樹は何も知らない? なら、希望がある! 私があの女にされた仕打ちを教えて、そしたら優しい春樹なら助けてくれるはず!
「春樹、私がこんな格好になったのはあのおん「俺に関わるなっていっただろ!」」
先ほどまで、楽観的になんとかなると考えていた彼女は突如、声を荒げた周王春樹の姿に呆然と立ち尽くす。
「……春樹?」
「俺はあの時言ったはずだ! お前に微塵も関心が持てないって」
明らかに彼女を否定する彼の言葉に、彼女の精神は壊れかけていた。しかし、彼女はすんでのところで壊れそうな精神を立て直し、再度、彼に訴えかける。
「そっ、そんなこと言わないでよ春樹。私たち愛し合ってたじゃない?」
壊れかけた彼女の心は、ついには彼との偽りの思い出を作るところまで来ていた。自分達が愛し合っていたと信じてやまない彼女は言葉を続ける。
「私達、やり直そ? あんなに私達愛し合ってたんだから、今度こそ上手くいくよ! ほら、春樹がしたがってたキスもしてあげる! 春樹が望むならそれ以上のことも……」
「……」
彼との美しい未来を思い描く彼女は気づかない。黙って俯いている春樹の形相が険しくなっていることに。
「あの、宇佐美なんていう女なんかより春樹を楽しませてあげるッ!」
瞬間、春樹は俯いていた顔を上げる。
「ふざけるなァ!!! お前の方から裏切っておいて、挙句の果てには宇佐美のことまでバカにするつもりかッ!」
「ちっ、ちが……春樹!」
「違わないだろう!」
「……!」
もう、2人のいる空間は収拾がつかなくなっていた。復縁を望む者、復縁を否定する者、互いに意見が食い違っているのだ。収拾がつくはずがない。
彼女との対話を完全に拒んだ春樹は、彼女から背を向け、口を開く。
「冥……いや綾川。俺がお前に望むことはただ一つだ。俺の近くから、俺の目の届く場所から消えてくれ……」
背中越しに春樹は彼女の存在を否定し、大通りの方へ歩き出す。
「はっ、春樹!」
自分から離れていく春樹に向けて彼女は手を伸ばす。しかし、それを拒むように彼女の右腕につけている腕輪がピピッ! と鳴る。
「もっ、もう来てる! 春樹ッ! 春樹~ッ!」
逃げるため、彼から遠ざかる彼女は最後まで彼へ手を伸ばすが、彼女の手が掴むのは虚空ばかりであった。
そうか……。彼を裏切った時点で、私の運命はこうなるって決まってたんだ……。ああ、彼を裏切らなければ……。
綾川冥は最後の最後に初めて、自分の行動を後悔するのだった。
その後、彼女の姿を見た者はいないらしい。噂では、大都市の風俗店にいたという話や国外で娼婦をやっているのを見たという話があったが、その真偽は定かではない。
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