無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第1章 獣の檻

第6話  悲劇の連鎖

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「……おいたわしや……白蓮華びゃくれんげうたわれた貴女様が……」

 漏れ聞こえた微かな声に翠蓮すいれんは伏せていた顔をがばりと上げた。

「誰⁉︎」

「……失礼いたしました……卑しい身分で差しでがましいことを申しました」

 開け放たれたままになっていた扉が静かに閉められ、誰かが立ち去る気配がする。翠蓮は跳ね起きるように立ち上がると、扉を開けて慌ててその人物の袖を掴んだ。

「待って! なぜその呼び名を知っているの⁉︎」

 それは亡き公燕こうえんが、二人きりのときに翠蓮を愛しく呼ぶ言葉だった。可憐な白い蓮のようだと翠蓮を褒め称え、「私の白蓮華」と甘く蕩けるような声で呼んでくれた。

 袖を掴まれた人物は、慌てて回廊に平伏していてる。「お許しを」と小さく囁く声がした。

「貴方は誰⁉︎ 顔をあげて!」

 ほとんど肩口を掴んで無理矢理あげさせた顔の、澄んだ瞳に翠蓮は息が止まりそうになった。

「……そう将軍……⁉︎」

 それは翠蓮も見知った顔だった。公燕の配下だった武将で、公燕と年齢も同じで、乳兄弟なのだと聞いている。たしか翠蓮より五歳ほど年長だったはずだ。

 背丈は八尺近くとなかなかの長身だ。柔らかく優しい空気をまとう公燕とは対照的に、謹厳実直で清冽な雰囲気を持っていた。公燕がお忍びで翠蓮の家を訪れる時も常に伴っていて、何度か会話を交わしたことがある。公燕からは右腕とも言える間柄なのだと紹介を受けていた。

 以前は長い黒髪をすっきりと後ろにまとめていて、切れ長な瞳と凛々しい眉、通った鼻筋、ほどよく日に焼けた筋肉質な体つき、と侍女たちがきゃあきゃあと騒いでいたのを覚えている。
 だが今は風貌こそ変わらないが、艶めいていた黒髪はすっかりとさくと呼ばれる帽子とそこから垂らされたきれによって隠されてしまっていた。

「……今はただ、渓青けいせいとお呼びください、呉才人ごさいじん様」

 以前は「翠蓮殿」と親しげに呼んでくれていたのに、姓と官位名というひどく他人行儀なその呼び方に翠蓮は悲しみを覚える。けれども同時にもう一つのことに気づいて、翠蓮は体の芯が凍りつくほどの衝撃を受けた。

「待って、待ってください、渓青殿……なぜ貴方がここに……だって、ここは……」

 ここは掖庭宮えきていきゅう、つまりは皇帝の後宮だ。ここに存在できるのは数多の女たちと、ただ一人の男である皇帝。

 そして男でも女でもない、男を捨てた者たち――

 ――宦官かんがんだけだ。

「……数ヶ月ほど前に公燕殿下に謀反の嫌疑がかけられ……私は先んじて捕らえられました。無実を訴えましたが聞き入られるわけもなく……そのまま宮刑きゅうけいに処されました」

「…………っ‼︎」

 翠蓮は全身の血が凍てつくような感覚に陥った。

 宮刑とは死刑の次に重いと言われる刑罰だ――男性にとって。
 男性の象徴たる陰茎と陰嚢を強制的に切除し、男としての機能を失わせる。宮刑に処された者のうち、後宮で働く者を宦官といい、女だけの後宮において皇帝の男としての絶対性を脅かすことがない者として重宝されていた。
 その反面、子孫を残し、家と血統を繋ぐことを重んじるこの国においては最高の恥辱でもあり、便利に使われる一方で蔑まれる存在であった。

 自分一人が悲劇の主人公なのだと思い込んでいた翠蓮は、有望な一人の武将の未来を潰した元凶が自分だと悟って錯乱した。

「……ごめんなさい、ごめんなさいっ‼︎ 私のせいだわ……っ! 私が、私がいなければ……っ‼︎」

 自分がいなければ、公燕が死ぬことはなかった。
 そしてまた自分がいなければ、渓青が宦官にされることもなかった。
 自分がすべての諸悪の根源だとしか、翠蓮には思えなかった。

「……落ち着いてください、呉才人様。ここは人目がありますゆえ……まずはその汚れを落としましょうか」

 なにもかもが変わってしまったなかで、その柔らかな声音だけが以前と変わっていなくて、それがとても悲しくて翠蓮は一粒涙を落とした。



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