6 / 75
第1章 獣の檻
第6話 悲劇の連鎖
しおりを挟む「……お労しや……白蓮華と謳われた貴女様が……」
漏れ聞こえた微かな声に翠蓮は伏せていた顔をがばりと上げた。
「誰⁉︎」
「……失礼いたしました……卑しい身分で差しでがましいことを申しました」
開け放たれたままになっていた扉が静かに閉められ、誰かが立ち去る気配がする。翠蓮は跳ね起きるように立ち上がると、扉を開けて慌ててその人物の袖を掴んだ。
「待って! なぜその呼び名を知っているの⁉︎」
それは亡き公燕が、二人きりのときに翠蓮を愛しく呼ぶ言葉だった。可憐な白い蓮のようだと翠蓮を褒め称え、「私の白蓮華」と甘く蕩けるような声で呼んでくれた。
袖を掴まれた人物は、慌てて回廊に平伏していてる。「お許しを」と小さく囁く声がした。
「貴方は誰⁉︎ 顔をあげて!」
ほとんど肩口を掴んで無理矢理あげさせた顔の、澄んだ瞳に翠蓮は息が止まりそうになった。
「……宋将軍……⁉︎」
それは翠蓮も見知った顔だった。公燕の配下だった武将で、公燕と年齢も同じで、乳兄弟なのだと聞いている。たしか翠蓮より五歳ほど年長だったはずだ。
背丈は八尺近くとなかなかの長身だ。柔らかく優しい空気をまとう公燕とは対照的に、謹厳実直で清冽な雰囲気を持っていた。公燕がお忍びで翠蓮の家を訪れる時も常に伴っていて、何度か会話を交わしたことがある。公燕からは右腕とも言える間柄なのだと紹介を受けていた。
以前は長い黒髪をすっきりと後ろにまとめていて、切れ長な瞳と凛々しい眉、通った鼻筋、ほどよく日に焼けた筋肉質な体つき、と侍女たちがきゃあきゃあと騒いでいたのを覚えている。
だが今は風貌こそ変わらないが、艶めいていた黒髪はすっかりと幘と呼ばれる帽子とそこから垂らされた巾によって隠されてしまっていた。
「……今はただ、渓青とお呼びください、呉才人様」
以前は「翠蓮殿」と親しげに呼んでくれていたのに、姓と官位名というひどく他人行儀なその呼び方に翠蓮は悲しみを覚える。けれども同時にもう一つのことに気づいて、翠蓮は体の芯が凍りつくほどの衝撃を受けた。
「待って、待ってください、渓青殿……なぜ貴方がここに……だって、ここは……」
ここは掖庭宮、つまりは皇帝の後宮だ。ここに存在できるのは数多の女たちと、ただ一人の男である皇帝。
そして男でも女でもない、男を捨てた者たち――
――宦官だけだ。
「……数ヶ月ほど前に公燕殿下に謀反の嫌疑がかけられ……私は先んじて捕らえられました。無実を訴えましたが聞き入られるわけもなく……そのまま宮刑に処されました」
「…………っ‼︎」
翠蓮は全身の血が凍てつくような感覚に陥った。
宮刑とは死刑の次に重いと言われる刑罰だ――男性にとって。
男性の象徴たる陰茎と陰嚢を強制的に切除し、男としての機能を失わせる。宮刑に処された者のうち、後宮で働く者を宦官といい、女だけの後宮において皇帝の男としての絶対性を脅かすことがない者として重宝されていた。
その反面、子孫を残し、家と血統を繋ぐことを重んじるこの国においては最高の恥辱でもあり、便利に使われる一方で蔑まれる存在であった。
自分一人が悲劇の主人公なのだと思い込んでいた翠蓮は、有望な一人の武将の未来を潰した元凶が自分だと悟って錯乱した。
「……ごめんなさい、ごめんなさいっ‼︎ 私のせいだわ……っ! 私が、私がいなければ……っ‼︎」
自分がいなければ、公燕が死ぬことはなかった。
そしてまた自分がいなければ、渓青が宦官にされることもなかった。
自分がすべての諸悪の根源だとしか、翠蓮には思えなかった。
「……落ち着いてください、呉才人様。ここは人目がありますゆえ……まずはその汚れを落としましょうか」
なにもかもが変わってしまったなかで、その柔らかな声音だけが以前と変わっていなくて、それがとても悲しくて翠蓮は一粒涙を落とした。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる