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第1章 獣の檻
第7話 一条の光
しおりを挟む渓青は手際よく盥と湯を部屋に運びこんでくれた。衝立のうしろで翠蓮が汚れた衣服を脱ぎ去り、頭から湯をかぶって汚れを落とすころには、清潔な布と新しい服がいつの間にか用意されていた。
湯浴みと着替えを終えた翠蓮が衝立の陰から出ると、椅子へと座るようにそっと手招きされる。促されるままに座ると、柔らかな布で濡れ髪が拭われ、鼈甲の櫛で髪が梳られた。
「……あのころはこうして貴女の髪に触れられるなど、思ってもみませんでした」
ゆっくりと髪を梳きながら渓青は言った。大きな手は温かく、翠蓮は束の間、微睡むような心地になったが、ふと気づいたことがあった。
「……あの……渓青殿はこうして私の面倒など見ていても大丈夫なのですか……?」
さきほど、後宮の女たちと思しき者から受けた仕打ちを思えば、自分がここで良く思われていないことは間違いない。
そんな自分の世話を焼くなど渓青の立場を悪くするのではないかと翠蓮は危ぶんだ。
だがそんな翠蓮の懸念に、渓青はくすりと笑って答えた。
「私はこうみえて、新参者ながらここではなにかと重宝されておりまして。多少の自由はきくのです。それに新たに妃嬪になられた方の世話は誰かが担当せねばならぬもの。されど誰も貴女付きに名乗り出なかったため、勝手ながら旧知の私がいましがた側仕えに志願してまいりました。無論、お気に召さぬようであれば配置替えを乞われることも可能です」
「そんな! 渓青殿がこうしていてくださって、どれほど心強かったことか……!」
なにもかもを奪われて、絶望の淵に叩き落とされた翠蓮の目の前にさしこんだ一条の光が渓青だった。
彼がいなければいまごろ翠蓮は腰紐で首を括っていたに違いない。
「……このさき、なにをよすがに生き、ここでどう暮らしていくのか、私にはなにも分かりません。渓青殿さえよければ、今しばらく私のそばにいてくださいませんか……?」
「……もとよりそのつもりでございます。心優しい主人と、その美しい婚約者の貴女がともに歩くさまは、我ら紀王府の者にとっては憧れの光景だったのですから」
紀王とは亡き公燕が戴いていた王位だ。首都・光安にほど近いところに封地を得ていた公燕は、翠蓮と正式に婚約したあとは翠蓮を手元に呼び寄せ、慈しんでくれていた。
「でも……私のせいで公燕様は……」
翠蓮は涙ながらになにが起きたのか、一部始終を語った。
今回、翠蓮が京師を訪れていたのは、結婚にあたり方々に挨拶をするため、と公燕からは聞かされていた。
京師にある公燕の邸宅で支度をし、出かけようとしていたところに皇太子・琰単の率いる軍勢が突如として乗り込んできてあの惨劇が起きたのだ。
「ああ……やはり殿下は貴女を守りきれなかったのですね……」
「え……?」
渓青の言葉に翠蓮は疑問を感じてふりむいた。渓青の口ぶりは、翠蓮が狙われていたことを知っていたようだったからだ。琰単は花見の折に翠蓮に目をつけ、謀反にかこつけて公燕を斬り、目的通り翠蓮を陵辱した、そうではないのかと渓青の澄んだ瞳を見つめた。
「以前より公燕殿下のもとには、東宮殿下より再三貴女を寄越せと無理難題が突きつけられていましたが、殿下はなんとかそれを躱しておられました。けれども東宮殿下はそれに目をつけ、公燕殿下と貴女の父上が手を組んで謀叛を企んでいるゆえ、貴女をさしださないのだと難癖をつけたのです」
「なんということを私一人のために……」
「もっとも、東宮殿下は公燕殿下を討たねばならなかったのです」
「え……? 私のせいで公燕様は亡くなられたのではないのですか?」
翠蓮の疑問に、渓青は緩く首を振って答えた。
「確かに貴女も一因ではありますが、根はもうすこし深いところにあります。いまの東宮殿下が東宮位に就かれた経緯はご存知ですか?」
「え、ええ……おおよそは……」
渓青の言葉に、翠蓮は父などから漏れきいた数年前の出来事を思いだしていた。
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