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第1章 獣の檻
第9話 人形の意志
しおりを挟む翠蓮の言葉に、渓青は目を見開いて固まっていた。
それはそうだろう、自分でも荒唐無稽なことを言った自覚が翠蓮にはある。
けれども実現できないとも思えなかった。
否、渓青の協力が得られれば実現できる算段が翠蓮にはあった。
「……もしも渓青殿が私に協力してくださったならば。私は私の復讐が成った暁には、私が叶えられる最大限の貴方の望みを、なんでも貴方に報酬として与えると誓いましょう」
翠蓮がそう言うと渓青はふたたび息を止めた。
金か権力か女か。
渓青がなにを望んだって構わなかった。
復讐さえ成ってしまえば、あとはどうなろうと知ったことではなかった。
「……正直なところ……望みと言われてもすぐには思いつきませぬ……一番取り戻したいものはなにも戻ってきませぬゆえ……」
そう言って、渓青は俯いてしまった。
渓青の途切れとぎれの言葉に、やはり協力は得られないのかと翠蓮は嘆息した。
渓青が取り戻したいもの。それは明白だった。
まずは自身の男として象徴と尊厳だろう。それから武将として成るはずだった栄達と、心優しい主君に仕えるという夢。
それらは翠蓮にはどれ一つ叶えることができない望みだった。それができない以上、謹厳実直な渓青には翠蓮が今後叶えられそうな即物的な望みはなさそうに思えた。
だが、ふたたび顔をあげた渓青の瞳はさきほどまでのように澄んではおらず、かわりに濁った焔――自分と同じ復讐の色彩を宿していたのを見たとき、翠蓮は喜びに小さく震えた。
「おもしろい……じつにおもしろいです。貴女がなにを考え、どのように動こうとされているのかまだ分かりませんが、私も私をこのような目にあわせたやつらに一矢報いたい思いはあります。どうせすべてを絶たれた身ですから、なんの未練がありましょうや」
「では……では、協力していただけると?」
「ええ。どの道、ここで朽ちていくしかなかったのですから、貴女の仇花を咲かせるお手伝いをいたしましょう」
すこし前までの清冽な雰囲気はどこへやら、渓青はひどく妖しい気配を纏って微笑んだ。
翠蓮もそれに満足して微笑み返した。
「では、渓青殿はなにを望みますか?」
「それについては……すこし考えさせていただけますか。さきほども申しましたとおり、急なことですので今はなにも思いつかず……」
「分かりました。渓青殿がなにを望んでも、それが私に叶えられることであれば私はそれを叶えましょう。たとえそれが私の死だったとしても。けれどもこれだけは誓ってください。決して私を裏切らぬ、と」
「ええ。私と貴女は一蓮托生、というわけですね」
渓青はそう言うとくすくすと笑いだした。
「失礼ながら……貴女が公燕殿下の許嫁であったときには、正直貴女のことは見目麗しいだけの人形のようなものだと思っておりました。いつも微笑んでおられる姿しか見ておりませんでしたゆえ」
渓青の言葉に翠蓮はすこし驚き、そして皮肉っぽく返した。
「実際、そのようなものだったと思います。自分が獣に狙われているなど露ほども思わず、なにも知らずにただ安穏としていた愚かな仔鹿だったのですから」
「けれども悲しみ、怒り、そうして復讐のために瞳を燃やしている貴女のほうが、よっぽど『生きて』いるように私には思えます。人形に血がかよって魂を吹きこまれたようだ」
そうなのかもしれない、と翠蓮は思った。
いままで翠蓮は、ごく普通に育ち、公燕に見初められてそのまま愛されて一生を終えるのだと思っていた。
それはたしかに波乱とは無縁な平穏無事な日々だったことだろう。
けれどもそこに翠蓮の『意志』はなかった。
結婚を決めたのは翠蓮ではない。公燕と翠蓮の父が合意したからだ。
そしてまた公燕が優しい性格だったからこそ、翠蓮は不平不満を覚えることも、強烈な望みを抱くこともなく、ただただ穏やかに過ごしていた。
怒りも悲しみもなく、描かれた絵のような幸せな日々という贅沢を享受する自分は、まさしく雛遊び人形のようだった。
だが渓青に指摘されたように、翠蓮は今たしかに『生きて』いると感じている。
目的がたとえ薄暗い復讐のための思考だったとしても、なにを考えどう動こうか、翠蓮の頭は猛烈に稼働している。
それが幸せなことなのかどうか翠蓮には分からない。波風の立たないあの日々のほうが幸せだったのかもしれない。
ただ、翠蓮は生まれて初めて、自分の意志で動こうとしていた。
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