無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第1章 獣の檻

第15話 二つの『らんげつしょう』

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 夕餉ゆうげも湯浴みも終えた後、翠蓮すいれんは手近にあった書物などをぱらぱらとめくっていたのだが、どうにも今夜のことが気になってしまって、内容はまったく頭に入ってこなかった。

 やけに長く感じられる時を過ごしたころ、ようやく渓青けいせいが「見回りです」といって入室してきた。翠蓮はあまりにもそわそわとしすぎて、椅子から中途半端に立ちあがった姿勢で渓青を迎えてしまったため、渓青にくすりと笑われたほどだ。

「お待たせいたしました」

 そう言って渓青は卓の上に、水色の玻璃はりの小瓶をことりと置いた。
 翠蓮はおずおずと手を伸ばし、そっとその瓶を持ちあげてみる。中にはややとろみのある透明な液体が入っていた。

「これが……」
「はい、ご所望の藍月漿らんげつしょうです」

 小さな瓶をしげしげと眺めながら、翠蓮は渓青に尋ねてみる。

「これは、高価なものなのですか?」
「いえ、これさほど値は張りません。比較的一般にも流通しておりますし、原材料も入手しやすく安価なものです」
「……これ……?」

 渓青の言い方に引っかかりを覚えた翠蓮は、続けざまに質問を重ねた。すると渓青は小さなため息をついて、懐から似たような大きさの瓶をあと二つ出して、卓に並べた。

「……翠蓮様からのご依頼は『らんげつしょう』を入手して欲しい、とのことでしたが、実は『らんげつしょう』という薬は三種類あるのです」
「えっ……⁉︎ そ、そうなのですか? わたくし、何も知らずに……」
「おそらくそうだろう、とは思っておりました。そもそも、翠蓮様はどこで『らんげつしょう』という薬の名と効能をお知りになったのです?」

「え、えっとですね……婚儀の用意をしてくれた侍女から、初夜の際に痛みが酷いようだったら『らんげつしょう』という薬を使うとよいと言われて……それで、その時に、その……初めて……潤滑剤……というものがあると、知りました……」

 言っているうちに翠蓮はおそろしいほどの羞恥に襲われて、最後のほうはかなりしどろもどろになってしまった。渓青の顔さえもまともに見れずうつむいてしまったが、渓青のため息だけは聞こえた。

「……不躾なことをお伺いしますが……その、東宮殿下と皇上陛下の時は、かなり痛かったのですか?」
「いえ、痛みはほとんどなかったのですが……東宮殿下には「感度が悪い女だ」と罵られました……陛下も口では何も仰いませんでしたが、小さく舌打ちされたあと、なにかべったりとしたものを塗りつけられました」

 思い出したくもないが、あのとき翠蓮は女としての自分はできそこないなのだと烙印を押されたような気持ちになり、より暗澹あんたんたる心地がした。

「多分、私はそういう性質なのだと思います……でもそれは、今後の計画において不利になるはずです。ですから、今のうちから潤滑剤の使い方に慣れておこうかと思って……」

 翠蓮がそう言うと、渓青は今までで一番大きなため息を「はあぁ……」とつき、そして顔を上げるとしっかりと翠蓮の目を見つめて言った。

「いいですか、翠蓮様。目の前で婚約者を殺された後に強姦されて悦ぶ女がいるとしたら、私はお目にかかってみたいです。ましてその後に訳も分からずその父親に同じ目に遭わされて悦楽に浸れるのならば、それはもはや快楽至上主義者か、色情狂の域に達してると思いますね。つまり、貴女は多分正常です」

 一気に言い切った渓青に、翠蓮はどっと体の力が抜けるのを感じた。

「そんな……」
「女性というのは繊細なものです。男のように目の前に裸の美女がいれば大多数が興奮するのと違って、よほど訓練を積むか経験を経なければ、強姦されて感じるなんてあり得ないと思いますよ。それに貴女は初めてだったのですから」
「では……」
「この『藍月漿らんげつしょう』は今夜は必要ないかと思います」

 渓青はそう言い、小瓶を片づけようとした。愕然としながらもそれを見ていた翠蓮は、ふと思いついて渓青に尋ねた。

「渓青、さっき『らんげつしょう』は三種類あると言いましたよね。藍月漿が潤滑剤ならば……残りの二つはなんの薬なのですか?」

 渓青は片づけの手を止め、二つある小瓶のうち、薄い緑色の玻璃瓶を手に取り言った。

「こちらはそう大したものではありません。乱れる月、と書いて『乱月漿らんげつしょう』と言いまして、先ほどの潤滑剤に媚薬を混ぜたものです」
「びやく……?」
「性的な興奮剤ですね」
「……⁉︎」

 それを聞いた瞬間、翠蓮は自分の顔に火がついたのかと思うほど体温が上がるのを感じた。そんなものが存在するとは思ってもみなかったのだ。


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