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第1章 獣の檻
第16話 隠された『らんげつしょう』
しおりを挟む「……そもそも、私の実家は西市の紅楼街に近いところに肆を構えていまして」
「紅楼街って、もしかして……」
「おや、ご存知でしたか」
それは公燕がつきあいで行く、と言っていた妓楼街の名前だったはず、と翠蓮は思い出す。
「そういった環境なので、通常の丸薬や膏薬の他に、妓楼にあがる客や娼妓向けの薬も置いてあるのです」
「そうだったのですね」
「おかげさまというかなんというか、その手のことには人様よりも詳しくなってしまいました。役に立たない知識かと思っておりましたが、少なくとも翠蓮様に教授することはできそうです」
渓青はにっこりと笑ったが、翠蓮はそんな渓青を直視できなかった。確かに、教えて欲しい、と言ったのは自分自身なのだが、いざ面と向かうとあのときの自分は、なんと大それたことを言ってしまったのだろう、という思いが強くなってきていた。
しかし、そんな翠蓮にはお構いなしに、渓青は弟子に講義をする師匠のごとく続けた。
「乱月漿は潤滑液と同じように女性に使用するものです。ですからもちろん興奮作用は女性に対して働きます。女性が自ら媚薬を使うことはほとんどありませんから、大体は娼妓と情熱的な夜を過ごしたい方とか、夫婦の営みが単調になってしまって刺激を求めたい方など、男性が購入される薬ですね」
まったくもってその手のことに疎い翠蓮は、渓青の言葉を経典に書かれていることでもあるかのように素直に聞いていたのだが、渓青はとんでもないことをさらりと言った。
「もちろん今夜、翠蓮様がこちらの乱月漿を試されたいのであれば止めはしませんが……」
「だ、誰がそんなこと……っ!」
「体に害はございませんよ?」
「そういう問題ではありませんっ!」
翠蓮が顔を真っ赤にして怒ると、渓青はくすくすと笑い始めたので、自分がからかわれたのだと翠蓮はようやく知る。むすっとしながら翠蓮は、話を逸らすために残る最後の一つについて尋ねた。
「……二つの『らんげつしょう』については分かりました。それで、その最後のは……?」
翠蓮がそう言うと、渓青はとたんにすっと顔を引きしめ、ある種の緊張感さえ漂わせたので、思わず翠蓮も背筋を伸ばした。
(この薬になにが……?)
最後の一つは、容れ物からして異質だった。藍月漿と乱月漿は中身が見える玻璃瓶に入れられている。瓶自体もそう特殊なものではなく、どこにでもありそうな小瓶だった。
けれども残る一つは、黒い釉薬がかけられた小さな磁器の瓶に入っていて中身が見えない。表面には虞美人草のような花が画花文で描かれていた。そして取っ手のついた蓋は紙で厳重に封がされていて、簡単には開けられないようになっていた。
「……最後の一つは、爛れる月と書いて『爛月漿』と言います。先の二つは私の実家以外の肆でも簡単に安価で手に入りますが……これは実家の春若薬舗の秘伝の薬で、他では売っていません」
秘伝の薬、と聞いて翠蓮は一体どんな効能が、と興味津々になった。藍の月が潤滑剤、乱れる月が媚薬ならば、爛れる月という名前からしてただごとではない薬なのでは、という翠蓮の杞憂は的中することとなった。
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