31 / 75
第1章 獣の檻
第31話 餓鬼の甘露
しおりを挟むその報せがやってきたとき、渓青はついに来たか、と思った。
翠蓮が後宮入りしてから数ヶ月。初日に老帝の閨へ侍って以来、夜伽の声はまったくかからず、翠蓮は完全に放置された形になっていた。
それはそうだろう。皇帝にとっては、自分の息子の一人である公燕の婚約者に、もう一人の息子・琰単が横恋慕し、さらにそれを最終的に弄するのが自分、という優越感と背徳感を味わう装置にすぎなかったのだから、掌中に収めたあとは途端に興味が失せたのだ。
つまりは、他人のものほど欲しくなる、という困った性分の発露の結果だ。だから自分のものになってしまえば、それはどうでもいい存在になり下がったのである。
春もそろそろ終わりを迎えようとするその日、昼前に皇帝の使者である宦官が翠蓮の部屋を訪れ、今晩の夜伽が翠蓮に決定したことを知らせた。
翠蓮自身はすでに覚悟を決めていたようで、湯浴みをし、渓青にされるがままに淡々と身支度を整えた。
皇帝の寝台に上がるのに、豪華な装束は必要ない。掖庭宮を出た女たちは、太極宮の中の皇帝の寝所である甘露殿で一度身につけたすべてのものを脱がされる。
それは万が一にも皇帝の閨房へ異物を持ちこませないようにするためだ。だから翠蓮は質素に過ぎるほどの衣服と、数本の簪だけを身につけ、うっすらと化粧を施して静かに日が暮れるのを待っていた。
翠蓮は物静かだったが、周囲はそうでもないだろう、と渓青は思う。今宵の伽が誰に命じられたのかは、すでに掖庭宮中に知れ渡っているとみて間違いない。
宦官や女官たちにとって、情報はある意味で生命線だ。それが自分の主人の将来を左右し、また同時に自分の人生をも大きく変える。噂話と侮ることなかれ、後宮に飛び交う雀たちのお喋りは重要な意味を持つものだった。
高位の妃嬪たちはおそらく韓徳妃から琰単との顛末を聞いていて、興味津々で今夜のなりゆきを見物しているに違いない。翠蓮と同列の、あるいは少しばかり序列が上のものたちは、上位陣の思惑など知らずに沸き立ち、そして焦燥にかられているだろう。
いずれにせよ今宵一夜で後宮に波紋が起きるのは確実だった。
そんな波模様の中心にいる翠蓮は、自室にいる間は動じた素振りも見せていなかったが、黄昏時になって迎えの使者とともに部屋を出ると、急におろおろとし始めた。渓青は供として少し後ろに下がってついていったのだが、夕闇の中でもその細い肩が震えているのが見える。
回廊には誰もいないが、数多の好奇の視線が格子戸の影に潜んでいるのは言わずもがなだった。突き刺すような視線の中、翠蓮は胸の前で手を握り合わせ、足をもつれさせながら、よろよろと進む。
甘露殿に到着すると、翠蓮は大きなため息をつき、少し安堵した様子だった。だがそれもつかの間、すぐに女官たちがやってきて、衣服から簪から、下帯に至るまですべてのものを剥ぎとり、用意された新しい白い絹の夜着を着せていく。
渓青は部屋の隅にじっとたたずみ、それを眺めていた。ただでさえ白い翠蓮の顔は、いまや血の気を失って怯えているように見える。
やがて宦官がやってきて翠蓮を寝所に案内する。渓青もまた、影のようにひっそりとつき従った。翠蓮は部屋に置かれた椅子に座らされ、その時を待つ。同じように渓青も部屋の隅に目立たないように立っていた。
(さすがに皇帝の寝所は初めてですね……)
渓青は頭を動かさずに目線だけをぐるりとめぐらせて、部屋の中を観察した。何者かが隠れたり仕掛けられたりするのを防ぐためだろうか、通常は壁にはめ込まれている寝台は、部屋の中央に鎮座している。
その周りには薄く透ける帳がおろされていたが、あれは防音としても目隠しとしてもほとんど意味をなさないだろう、と思う。もっとも、皇帝の生活には一切の隠し立てがなかった。
この閨がいい例だ。皇帝の寝所に誰かが侍るとき、そこには必ず宦官が控える。それはなにかが起きた際の最後の備えという防御的な意味合いもあるし、皇帝がどの女を抱き、いつ何回吐精したか、という世継ぎを儲けるための確認という意味もある。
また、寝台の上で妃嬪が皇帝におねだり――自分の縁故のものに高官の位を与えたり、反対に敵対するものを左遷したり――するのを防ぐという目的もある。無論これは侍る宦官を買収してしまえば、公然と行えるという抜け道も当然あった。
だから渓青はこれから起こることを、ほぼ正確に知ることができる。
それは幸いでもあり――それ以上は渓青は考えないようにした。
かなりの時間が経ってから、皇帝はようやく寝所に現れた。入室した途端に酒精が部屋に満ちたところをみるに、相当飲んでいたようだ。床に跪く翠蓮の前を素通りすると、どかりと寝台に腰を下ろす。
「呉翠蓮」
「は、はい……」
名を呼ばれて翠蓮はおどおどと顔を上げた。冠や豪奢な衣装を脱ぎ捨て、夜着だけになっている皇帝は意外と小さく見えるのだな、と渓青は思った。昔、武官だったころは皇帝に目通りできるように出世しようと意気込んでいたが、いざこうして至近距離で観察してみると、酔っているせいもあってか覇気もなく、ただの老境にさしかかった男にすぎなかった。
「……今宵、呼ばれた理由は分かっておろうな」
酔いが回り、幾分か呂律が怪しいが、そう問われた翠蓮は「はい」と神妙に答えた。
「太子がそなたの部屋に出入りしておるのは真か」
「はい……東宮殿下は……宦官に賄賂を渡して掖庭宮に入りこみ、私が拒んでも何度も無理やり……」
「妃嬪たちからは、そなたが太子を引っぱりこんでいる、と聞いておるが?」
「それは真っ赤な嘘です!」
翠蓮は激昂して立ち上がった。
「私は今は亡き公燕様の妻になるはずだった者です。今もまだ、公燕様をお慕いしております。ですから……私を哀れだと思し召しになるのなら、いっそ今、この場で姦通者として殺してください!」
そういうと、翠蓮は涙を流して崩れ落ちた。そんな翠蓮に、老帝はゆらりと立ち上がり近づく。
「……妃嬪たちが嘘を言っておることは分かっておった」
「陛下……」
「……そなたは、そういう女だ。貞淑な寡婦の顔を涙で濡らしながら、無意識に男を誘い、抗えずに股の間も濡らす女だ」
「…………⁉︎」
思いもしなかった言葉に翠蓮は声を失い、体を硬直させる。腕を無理やり掴まれ、翠蓮は寝台に投げいれられた。すぐさま老帝が上からのしかかり、夜着を剥ぐ。
「陛下……っ!」
「……この体で琰単を籠絡したのかっ」
「や、めっ……い、やあああっ!」
はたからすべてを眺めていた渓青は、まるで地獄の餓鬼だな、と思った。
翠蓮を凌辱した皇帝は、翠蓮の股の間にかじりつき、愛液を甘露のように甘い甘いと言いながら啜る。それは飢えた亡者がわずかな水を啜り尽くすような惨めな様だった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる