無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第1章 獣の檻

第31話 餓鬼の甘露

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 その報せがやってきたとき、渓青けいせいはついに来たか、と思った。

 翠蓮すいれんが後宮入りしてから数ヶ月。初日に老帝の閨へ侍って以来、夜伽の声はまったくかからず、翠蓮は完全に放置された形になっていた。

 それはそうだろう。皇帝にとっては、自分の息子の一人である公燕こうえんの婚約者に、もう一人の息子・琰単えんたんが横恋慕し、さらにそれを最終的に弄するのが自分、という優越感と背徳感を味わう装置にすぎなかったのだから、掌中に収めたあとは途端に興味が失せたのだ。

 つまりは、他人のものほど欲しくなる、という困った性分の発露の結果だ。だから自分のものになってしまえば、それはどうでもいい存在になり下がったのである。

 春もそろそろ終わりを迎えようとするその日、昼前に皇帝の使者である宦官が翠蓮の部屋を訪れ、今晩の夜伽が翠蓮に決定したことを知らせた。

 翠蓮自身はすでに覚悟を決めていたようで、湯浴みをし、渓青にされるがままに淡々と身支度を整えた。

 皇帝の寝台に上がるのに、豪華な装束は必要ない。掖庭宮えきていきゅうを出た女たちは、太極宮たいきょくきゅうの中の皇帝の寝所である甘露殿かんろでんで一度身につけたすべてのものを脱がされる。

 それは万が一にも皇帝の閨房へ異物を持ちこませないようにするためだ。だから翠蓮は質素に過ぎるほどの衣服と、数本の簪だけを身につけ、うっすらと化粧を施して静かに日が暮れるのを待っていた。

 翠蓮は物静かだったが、周囲はそうでもないだろう、と渓青は思う。今宵の伽が誰に命じられたのかは、すでに掖庭宮えきていきゅう中に知れ渡っているとみて間違いない。

 宦官や女官たちにとって、情報はある意味で生命線だ。それが自分の主人の将来を左右し、また同時に自分の人生をも大きく変える。噂話と侮ることなかれ、後宮に飛び交う雀たちのお喋りは重要な意味を持つものだった。

 高位の妃嬪たちはおそらく韓徳妃かんとくひから琰単との顛末を聞いていて、興味津々で今夜のなりゆきを見物しているに違いない。翠蓮と同列の、あるいは少しばかり序列が上のものたちは、上位陣の思惑など知らずに沸き立ち、そして焦燥にかられているだろう。

 いずれにせよ今宵一夜で後宮に波紋が起きるのは確実だった。

 そんな波模様の中心にいる翠蓮は、自室にいる間は動じた素振りも見せていなかったが、黄昏時になって迎えの使者とともに部屋を出ると、急におろおろとし始めた。渓青は供として少し後ろに下がってついていったのだが、夕闇の中でもその細い肩が震えているのが見える。

 回廊には誰もいないが、数多の好奇の視線が格子戸の影に潜んでいるのは言わずもがなだった。突き刺すような視線の中、翠蓮は胸の前で手を握り合わせ、足をもつれさせながら、よろよろと進む。

 甘露殿に到着すると、翠蓮は大きなため息をつき、少し安堵した様子だった。だがそれもつかの間、すぐに女官たちがやってきて、衣服から簪から、下帯に至るまですべてのものを剥ぎとり、用意された新しい白い絹の夜着を着せていく。

 渓青は部屋の隅にじっとたたずみ、それを眺めていた。ただでさえ白い翠蓮の顔は、いまや血の気を失って怯えているように見える。

 やがて宦官がやってきて翠蓮を寝所に案内する。渓青もまた、影のようにひっそりとつき従った。翠蓮は部屋に置かれた椅子に座らされ、その時を待つ。同じように渓青も部屋の隅に目立たないように立っていた。

(さすがに皇帝の寝所は初めてですね……)

 渓青は頭を動かさずに目線だけをぐるりとめぐらせて、部屋の中を観察した。何者かが隠れたり仕掛けられたりするのを防ぐためだろうか、通常は壁にはめ込まれている寝台は、部屋の中央に鎮座している。

 その周りには薄く透ける帳がおろされていたが、あれは防音としても目隠しとしてもほとんど意味をなさないだろう、と思う。もっとも、皇帝の生活には一切の隠し立てがなかった。

 この閨がいい例だ。皇帝の寝所に誰かが侍るとき、そこには必ず宦官が控える。それはなにかが起きた際の最後の備えという防御的な意味合いもあるし、皇帝がどの女を抱き、いつ何回吐精したか、という世継ぎを儲けるための確認という意味もある。
 また、寝台の上で妃嬪が皇帝におねだり――自分の縁故のものに高官の位を与えたり、反対に敵対するものを左遷したり――するのを防ぐという目的もある。無論これは侍る宦官を買収してしまえば、公然と行えるという抜け道も当然あった。

 だから渓青はこれから起こることを、ほぼ正確に知ることができる。
 それは幸いでもあり――それ以上は渓青は考えないようにした。

 かなりの時間が経ってから、皇帝はようやく寝所に現れた。入室した途端に酒精が部屋に満ちたところをみるに、相当飲んでいたようだ。床に跪く翠蓮の前を素通りすると、どかりと寝台に腰を下ろす。

「呉翠蓮」
「は、はい……」

 名を呼ばれて翠蓮はおどおどと顔を上げた。冠や豪奢な衣装を脱ぎ捨て、夜着だけになっている皇帝は意外と小さく見えるのだな、と渓青は思った。昔、武官だったころは皇帝に目通りできるように出世しようと意気込んでいたが、いざこうして至近距離で観察してみると、酔っているせいもあってか覇気もなく、ただの老境にさしかかった男にすぎなかった。

「……今宵、呼ばれた理由は分かっておろうな」

 酔いが回り、幾分か呂律が怪しいが、そう問われた翠蓮は「はい」と神妙に答えた。

「太子がそなたの部屋に出入りしておるのは真か」
「はい……東宮殿下は……宦官に賄賂を渡して掖庭宮えきていきゅうに入りこみ、わたくしが拒んでも何度も無理やり……」
「妃嬪たちからは、そなたが太子を引っぱりこんでいる、と聞いておるが?」
「それは真っ赤な嘘です!」

 翠蓮は激昂して立ち上がった。

「私は今は亡き公燕こうえん様の妻になるはずだった者です。今もまだ、公燕様をお慕いしております。ですから……私を哀れだと思し召しになるのなら、いっそ今、この場で姦通者として殺してください!」

 そういうと、翠蓮は涙を流して崩れ落ちた。そんな翠蓮に、老帝はゆらりと立ち上がり近づく。

「……妃嬪たちが嘘を言っておることは分かっておった」
「陛下……」
「……そなたは、そういう女だ。貞淑な寡婦の顔を涙で濡らしながら、無意識に男を誘い、抗えずに股の間も濡らす女だ」
「…………⁉︎」

 思いもしなかった言葉に翠蓮は声を失い、体を硬直させる。腕を無理やり掴まれ、翠蓮は寝台に投げいれられた。すぐさま老帝が上からのしかかり、夜着を剥ぐ。

「陛下……っ!」
「……この体で琰単を籠絡したのかっ」
「や、めっ……い、やあああっ!」



 はたからすべてを眺めていた渓青は、まるで地獄の餓鬼だな、と思った。

 翠蓮を凌辱した皇帝は、翠蓮の股の間にかじりつき、愛液を甘露のように甘い甘いと言いながらすする。それは飢えた亡者がわずかな水を啜り尽くすような惨めな様だった。



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