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第1章 獣の檻
第35話 沙羅の落ちる頃
しおりを挟む桃も李もすっかりと葉を茂らせ、柳の細い葉先からこぼれる陽射しが回廊の石畳にくっきりとした影を落とすようになった。
翠蓮には相も変わらず琰単も老帝も絡めとられている。用意周到に張りめぐらされた蜘蛛の糸に、自分の翅が絡みつかれているとも知らない滑稽な羽虫たちは、かわるがわる翠蓮を思うがままにしていると思い込んでいた。
琰単に抱かれるときに身に忍ばせているのは「藍月漿」。催淫効果も中毒効果もいまのところ含ませていないただの潤滑剤だが、琰単はすでに翠蓮の体に、そして思い通りにならない女を凌辱する快楽に耽溺している。
一方、老帝の閨に侍るときに使用する「爛月漿」は、わずかずつではあるが甖子粟の含有量が増えていた。
渓青の説明によれば、甖子粟は長期にわたって使用すると耐性がつくのだという。当初の使用量では多幸感や酩酊作用が得られなくなり、量や回数が増えていく、と。
後宮入りしてから数ヶ月は放置されていたのが嘘のように、皇帝の伽をする回数は増え、そしてその間隔は狭まっていった。
本来ならば、これだけ夜伽をしていれば翠蓮の位はすでに才人から九嬪の一角に食いこむほどにはなっていただろう。
けれども九嬪ともなれば専用の宮が与えられ、当然周囲の警備や使用人の数も増える。そうなると琰単が忍びこみにくくなるため、皇帝の愉しみが減るというとんでもなく身勝手な理由により、翠蓮の位はそのままだった。
夜伽の回数が増えていることに対して、周囲の妃嬪たちは忌々しく思っていたが、それにしては位がいっこうに上がらないことに彼女らは安堵し、そしてまた溜飲を下げていた。
もしも翠蓮がごく当たり前に後宮入りし、後宮での位階が上がっていくことを人生の指針としていたならば、翠蓮の心は粉々に砕け散っていただろう。
そんな状態ではなくて良かった、と翠蓮は思うとともに、女一人の人生をいともたやすく壊せる皇帝の身勝手が、誰にも咎められることなくまかり通る状況に、心のうちの焔はよりいっそう激しく燃えた。
そして皇帝の寝所に上がる回数が増えたことに対して琰単は嫉妬し、ますます翠蓮のもとを訪れ、犯す。
皇帝と太子。
豪奢な装束を一枚剥げば、畜生にも劣る愚物がいると翠蓮はせせら嗤った。
皇帝と太子の両方に公然と抱かれていることに対して、とんでもない不義密通だと糾弾した韓徳妃という女もいたが、皇帝の命により秘密裏に処断された。
翠蓮が窓辺に腰かけて格子窓から入りこむそよ風を心地よく感じていると、飾り棚に生けられた沙羅の木の真っ白な花が、ぽとり、と落ちた。
それをつまみ上げた者が翠蓮に一言声をかける。
「……翠蓮様、一つ悲しいお知らせが」
「……なんですか」
渓青にそう問いはしたものの、翠蓮にはなかばその予測がついていた。今の翠蓮が悲しい思いをするほどのものが残されているとすれば、それはもう一つしかなかったからだ。
「……お父上が、赴任先で息を引きとられた、と」
「…………そうですか……」
ああやはり、と翠蓮は思った。
州都督だった翠蓮の父は、公燕が謀反を企んだと捏造されたときに、その共謀者とみなされた。命まで奪われることこそなかったものの、職を追われ西北の辺境へ左遷されていた。
それでも娘が後宮入りしたことに一縷の望みを抱いていたのだろう。ここにきた最初のころは何度か便りがきていた。陛下にご寵愛いただけたなら、自分のこともとりなしてほしい、と。
だが翠蓮が後宮で放置されていたことを風の噂で知ったのだろう。そのうち書簡も来なくなった。それから人伝てに病に伏せっているとは聞いていたので、翠蓮はいくばくかの見舞いの品や金銭を送っていた。
父が失意のうちに亡くなることは、翠蓮には想像できたことだった。覚悟はしていたので、思っていたほどの衝撃はなかった。
穏やかな父だった。軍事や政争とは無縁で、人づきあいと人柄の良さ、そして祖父から受け継いだ財産であまり苦労することなく州都督の地位を得た。そんな父だったからこそ、一度は公燕との見合い話を辞退したのだろうし、そしてまた公燕の優しさと通ずるところがあったのだろう。
翠蓮の母は、翠蓮が少女のころに病で亡くなっている。これでもう自分には、残されたものはなくなってしまった、と翠蓮は思った。
(……いえ、だからこそいっさい未練がないとも言えますね)
翠蓮はただ一人だけ残された共犯者を見つめた。
「ねぇ、渓青……そろそろころあいですね」
「……ええ、翠蓮様」
白い花は渓青の手の中で、くしゃりと音を立てて潰れた。
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