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第2章 蠱毒の頂
第17話 雲間の月
しおりを挟む翠蓮は瑛藍に貪られすぎて、そうそうに眠りについた。そんな翠蓮の警護は新しく麗涼殿に配属になった武官経験者の宦官――かの宇文貞護に頼み、渓青は瑛藍を案内して、蜘蛛の糸のように張り巡らされた後宮の隠し通路を進む。
翠蓮の宮殿、麗涼殿は掖庭宮の妃嬪たちに与えられた宮殿の中でもっとも南東にある。それは、ここが一番太極宮に近いという理由で琰単が与えたのだったが、もう一つ思わぬ利点もあった。
宦官たちを統括する部署である内侍省の建物もまた、掖庭宮の中の南に位置する。つまり、翠蓮の宮殿と内侍省は隣接しており、行き来がしやすかった。
そして内侍省にいる比較的高位の宦官たちは、様々な用事で掖庭宮の外に出る。紅い壁にはひっそりと目立たないように宦官用の隠し扉が設けられていた。以前、ここへ忍び込んできていた琰単も、そして今また瑛藍も、宦官の服に身を包み、中にいる宦官が手引きをすれば出入りは容易い。
隠し扉の見張りをする宦官には前もって大目に袖の下を渡してある。渓青が目配せを一つすれば音もなく扉が開いて、渓青と瑛藍はもっとも警備が堅固だと言われている掖庭宮をなんなく抜け出した。
月が雲に陰り、暗闇に沈む横街をひっそりと進む。前を歩いていた瑛藍がおもむろに呟いた。
「……つくづく宦官は敵に回したくないって思うよね」
瑛藍のこぼした言葉に、渓青は微笑だけで答えた。後宮に巣食う宦官たちは、短絡的に考えれば宮城の中に軍を引き込むことも、皇帝を殺害することも可能だ。
ただそれをやる理由と利益がないから普通の宦官たちはやらないだけで、やろうと思えば渓青だって琰単をいくらでも殺せた。
翠蓮がそんな殺し方を望んでいないから、やらないだけだ。
城壁沿いに広い横街を横切り、皇城域にたどり着く。瑛藍が鬱陶しそうに幘と巾を取り外した。
簡単にまとめただけの雪灰色の髪が月明かりに艶めく。同じ髪の色でも琰単は酷薄そうな印象を与えるのに、瑛藍だと柔らかな雰囲気をまとわせるのは、その人柄を知っているがゆえか。
「さて……ちょっと話そっか」
瑛藍が軽く顎をしゃくって示した方へ向かう。そこは土木工事や建築を司る役所である将作監の建物だった。昼間は大勢の官吏で賑わうここも、こんな深更とあっては静まり返っている。
誰もいない回廊の手すりに身をもたれかからせた瑛藍は、恨めしげに渓青を見やった。
「……で、話に聞いていたのと、全然違ったんだけど?」
「……翠蓮様はいろいろな表情をお持ちですから」
「っていうか、意図的に伝えていなかっただけでしょ⁉︎ なんなの、あの訓練って……あんなの耐えられるわけないじゃん!」
「それは重畳」
渓青は静かに微笑する。瑛藍はしばらく憎々しげに渓青を睨んでいたが、柳に風だと気づいたのか、はあと大きなため息をついて項垂れた。
「……君からこの話を受けたときはさ、驚いたし面白いとおもったけど……あんなのは……卑怯だよ」
もう一度大きく息を吐いた瑛藍だったが、その吐息にはさきほどと異なり、悩ましげな――色気とでも言うべき風情が乗っていた。
「翠蓮様がどのような反応を返されるかはおおよそ想像通りでしたが……さすがに閨での振る舞いまでは私も予想外でしたから」
「……ほんとに?」
「……たまに想像もつかないことをされるんですよ」
「はあ……演技じゃなくてそれって、よけいに始末に負えないじゃん……」
これじゃ琰単と変わらないよ……と瑛藍はぼやく。さすがにそんなことはないだろうと渓青は言おうと思ったが、あまり慰めにならなさそうなので口をつぐんだ。
渓青は、瑛藍とは知己だった。
公燕の護衛をしていたときに知り合った。すぐ下のまっすぐで優しい気性の弟を、瑛藍は殊のほか可愛がっていたらしく、公燕の前ではそれほど演技もしていなかった。
だから宮廷で瑛藍が見せる姿に逆に驚いたほどだ。
翠蓮から復讐の計画を告げられたとき。翠蓮の子の父親となるべき人物として、真っ先に渓青が思い浮かべたのが瑛藍だった。
今夜のことは翠蓮にはなにも話していない。
渓青の独断で動き――そして結果は想定通りだった。
翠蓮が次に孕む子の父親となる男を探さねばならないことは、決定事項だった。だが翠蓮は宦官である渓青に遠慮してか、それをなかなか言い出さなかった。
だから渓青は自分が知りうる中で最適の男を――自分が認めるに足る男を翠蓮にさえ内緒で翠蓮にあてがったのだ。
そうでなければ麗涼殿の翠蓮の居間に続く回廊に、瑛藍が侵入してこられるわけがない。渓青の許可なきものは何人たりとも麗涼殿に足を踏み入れることは叶わないのだ。
渓青はすでに麗涼殿で働く一切の宦官と女官を掌握し、掖庭宮の中にも渓青の息のかかった者が多数いた。
瑛藍のひととなり、生い立ち、境遇から翠蓮に興味を抱き、そして計画に賛同するだろうことは分かっていた。
万が一ことが露呈したときの保険としても最適だった。後宮の妃と皇弟が不貞関係にある。そんなことは古今東西、歴史書を紐解くまでもなく、そこら中に転がっている。
そして、子供が生まれてその血筋が問題になったとしても、たとえ直系でなくとも瑛藍は皇室の血を引いているのだ。これ以上の適任者はいなかった。
(そう、思っていたのですが……)
渓青はひそかに拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
翠蓮が自分のものにならないことは百も承知だった。
そんなことはすべて分かった上で復讐に臨んでいるのだし、それは計画外の事柄であり、あってはならないことだった。
だから自分は、翠蓮の足元で養分になるだけの「泥」でいいと思っていた。
琰単はまだいい。
翠蓮を満足させることはできないし、そもそもが一番の復讐の対象だ。
けれども瑛藍は違う。
心身ともに翠蓮を満たせる。子も儲けられるし、地位も血筋も、なにもかも持っている。渓青が失ったすべてのものを。
(覚悟が一番足りていないのは、私なのかもしれません……)
きっと翠蓮もすぐに瑛藍に夢中になる。
そしてまた、瑛藍も。
隣で悩ましげにため息をついている色男を見やる。
女性に関しては百戦錬磨のこの男が、珍しく本気で参っているようだった。
たしかに瑛藍には翠蓮が行なっている鍛錬のことはなにも伝えていなかった。それは、そのほうがきっと「おもしろい」だろうと思っていたからだ。
けれども瑛藍をここまでにしたのは、決して翠蓮の「体」ではないだろう。
顔を合わせるなり、琰単ではないと見抜いたこと。打てば響くような聡明でしたたかなやりとり。相手の意表をつくほどの見た目を裏切る度胸の良さ。
そして閨で琰単を散々に翻弄するほどの演技ができるのに、素顔をさらせば「初々しい」とでも言うべき反応が返ってくること。
目的をともにしているから演技をしつづけなくともよい、という安心感も瑛藍にとっては初めてのはずだ。
(それでいい……これで、いいんです……)
内側からこみ上げるものをぐっと押し殺して、渓青は一瞬姿を見せたもののまたすぐに雲に隠れゆく月をながめた。
だから気づかなかった。
自分が知らずのうちに唇に手を当てていたことも、それを瑛藍がそっと盗み見ていたことも。
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