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第2章 蠱毒の頂
第27話 暗躍
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※後半に残酷な処刑描写があります。
空行で囲んでありますので、苦手な方は読み飛ばしてください。
翠蓮への襲撃事件から数日経って、離宮にはようやく落ち着きが戻ってきた。渓青はやはり命に別状はなかったものの、左目は完全に失われた。本人はすでに欠けている身だからそれが一ヶ所増えたところでどうとも、そんなことよりも遠近感の取りかたに早く慣れなければ、とけろりとしている。
ただその状態の渓青と翠蓮を引き合わせたときのほうが、瑛藍は辛かった。
あの気丈な翠蓮が大粒の涙をぼろぼろとこぼして、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っていた。そうして包帯の上から何度も渓青の左目があったところに口づけ――まるでそうすれば傷が癒えてまた左目が見えるようになるのではないかというように、ずっと離れないでいた。
それで瑛藍は完全に理解してしまったのだ。
翠蓮が唇を捧げている相手が誰なのかを。
うすうすそうなのではないかと思っていた。
公燕といたときの翠蓮について、瑛藍はあまり記憶がない。一度くらい見かけたことがある気がするが、ただ美しいな、とそれしか印象になかった。
公燕からも、正式に婚儀を挙げるまでは貞節を守っていると聞いていたから、おそらく口づけさえしていなかったのではないかと思う。
そこまで考えて、翠蓮にとっては渓青が初めての相手なのか、と腑に落ちた。
なにもかも奪われたなかで、すくい上げてくれたたった一つの手。
(……敵うわけ、ないよねぇ……)
瑛藍はため息をついて、甲斐甲斐しく渓青の看護をする翠蓮を見やった。
瑛藍の部屋を翠蓮に明け渡して以来、渓青もまた翠蓮の寝室の裏手にあたる部屋で療養している。
渓青に代わって翠蓮の護衛についている貞護によれば、翠蓮は湯殿や厠へ行くなどの用をのぞいて、ほとんど渓青のそばにいるのだという。食事も渓青とともにとっていた。まるで雛が親鳥から離れないように。
貞護が口が固く寡黙な性格で良かった、と瑛藍は思う。もっともそうでなければ渓青が右腕のように使うわけがないとも思うが。
小さな巣を守るために、瑛藍はもうひとつため息をつくと、琰単の部屋へと向かった。
「おお、瑛藍。待ちわびたぞ。翠蓮の様子はいかがだ」
「はっ、陛下。呉昭儀様はようやく起き上がられて粥など召し上がられるようになりました」
「そうか、それは良かった。翠蓮の警護は引き続きそなたに任せる」
「御意。大任承りまして光栄にございます」
それだけ言うと琰単は最近のばしはじめた顎髭を撫でた。本人は威厳があると思っているらしいが、似合わないし滑稽なことこのうえない。
「してな、今日は皇后と淑妃の件で石鎮を呼んだのだ」
紹介されて瑛藍は向かいに座る老将軍に深々と礼をした。
「ご無沙汰しております、李司空」
「斉王殿下もお変わりなく」
李石鎮。
最高名誉職である三公の一つ、司空に就いているが、北族ではなくどちらかというと叩き上げの武人に近い。鄭の建国前の動乱から戦いに身を投じ、実直な働き方と天性の軍を動かす才能でもって数多くの戦功をたて、常に軍部の中心にあり続けた。
だがそんな軍才を先帝は畏れた。北族ではないという出自ゆえに、孫佐儀に縛られることもない。万が一牙を剥いたならば阻止する手立てがなかった。
その忠誠心を試すために先帝は賭けにでた。一度、石鎮を地方に左遷したのだ。そうして琰単が即位したならば、すぐに中央へ呼び戻せ、と言い置いて。要は、地方から中央に戻したのは琰単なのだから、恩義を感じて尽くせ、というわけである。
果たしてその言葉通りに、琰単の即位後すぐに石鎮は中央で高官に復帰した。そして今までどおり職務を果たしているように見える。
が、内実はそうではないのではないのか、と瑛藍は踏んでいる。
それはそうだろう。生真面目に粉骨砕身して前線に立ち続けた結果が、突然の地方左遷で、しかも忠誠心を疑われたのである。
それ以来、石鎮は非常に慎重になった。対外遠征の閣議でも決め手になるようなことはなにも言わない。琰単の機嫌をとるようなこともしないが、張了進のように諫言をするわけでもない。
実は今日、李石鎮を呼んだのは他でもない瑛藍だ。
正確には、皇后と淑妃の処刑の件で誰にそれを命じるか悩んでいた琰単にそっと囁いただけだ。
孫太尉は皇后様のお身内ですから、なにかと辛い思いをされましょう、ここは関わりのない李司空が適任では、と。
そうして李石鎮のほうには内密に顔を合わせていた。
皇上陛下はこのように思し召しです、と伝え、これはあくまで昭儀襲撃の罪だけでなく皇帝への大逆罪である、と強調すれば察しの良い石鎮はすべてを理解したようだった。
だから今日のこの琰単の前でのやりとりは完全に茶番である。
「石鎮、そなたも聞き及んでいるであろうが、先日呉昭儀が襲撃された。襲ったのは皇后が放った者だと確定したのだが、昭儀がな……」
「昭儀様は大層恐ろしい思いをされ、しばらくは寝込んでしまわれました。御子は無事でしたが、もし流れてしまっていれば先日の皇子に引き続き二人目となってしまいます。昭儀様の繊細なお心は壊れてしまっていたことでしょう。また、その日はたまたま陛下とご一緒ではありませんでしたが、一歩間違えれば陛下が襲われていたことは必至」
「う、うむ。そうなのだ」
琰単が余計なことを口に出す前に、瑛藍は立て板に水とばかりに喋りそれを阻止する。琰単に向かってにっこりと笑いかけ、あとはすべて任せろ、と目で伝える。
「昭儀様やその腹の子だけでなく、皇上陛下まで狙われたとあれば、ことは単純な問題ではございません」
「そうであろうな……」
「皇后陛下と淑妃様には大逆罪を適用し、極刑を課すのが妥当かと思われます」
「ち、朕もそのように思う!」
老将は深いため息をつくと、重々しく言った。
「……御心たしかに承りました。閣議でそのように申し伝えましょう」
***
桃の花が咲いた日、皇后と淑妃はひそかに処刑された。
それを決定した閣議は荒れたが、結局は李石鎮の言葉と、孫佐儀は身内であるがために強く出られなかったことが決定打となり、廃位ではなく処刑と決まった。
身分を剥奪されて庶人に落とされた二人は、それでも元の身分を憚って毒を賜ることになった。
幽閉先で毒杯――仮死状態になる薬をあおいだ二人の体は、秘密裏に郊外に運び出された。だが二人が目を覚ましたのは、棺桶というよりは大きな酒樽とでも言うべき木桶の中だった。
まさかもう一度日の光を見られるとは思っていなかった二人は、きょろきょろとあたりを見回す。
「ここは……?」
「私たちは死んだのでは……」
鼻をつく凄まじい臭い。ふごふごという動物の息づかいのような声。半地下のような場所で周りの壁は高い。すぐにここが猪厠だと思い至った。
桶の中には液体が並々と注がれている。溺れるほどの水位はないが、こんなところからは早く出ようとした二人は驚愕した。
「手足が……っ!」
二人の四肢はちょうど豚の脚ほどの長さで斬られていた。表面は焼かれて血止めされている。だが不思議と痛みは感じなかった。
「なぜこんな……っ」
元・淑妃だったものが喚くと、上から鈴のような声音が降ってきた。
「ご機嫌よう。気分はいかがですか」
「……呉、昭儀……! ここから出しなさい……!」
「あら、そんなに暴れると桶が倒れてしまいますよ?」
案の定、淑妃のほうの桶はがたがたと揺れて横倒しになった。桶の中を満たしていた液体――酒が飛び散り、まわりにいた豚たちがいっせいにそれに群がる。
「ひっ……! やめっ、私は餌じゃ……っ!」
「餌ではないけれど白豚のようなものでしょう?」
猪厠の縁に立って微笑みを浮かべる翠蓮と、絶叫をあげて豚に食い散らかされていく淑妃を皇后はがたがたと震えながら見ていた。
「そのお酒には甕子粟が入っていますから、痛くありませんでしょう? ああ、でもそのせいで豚たちがすぐに次を欲しがっていますね」
その言葉どおり、ひとつ目の桶の酒と淑妃を食べ尽くした豚たちは、血走った目で皇后の入っている桶をゆすり始める。みしみし、と嫌な音を立てて木桶が歪んだ。
「な、なぜ……なぜ、このような目に……っ……おのれ、呉昭儀……っ!」
「なぜ、ですって?」
大きな音をたてて木桶がついに破裂した。
一際大きな豚が皇后の左目に喰らいつく。
「渓青に傷を負わせたのですから、これくらいは当たり前でしょう?」
急速に人の形を留めなくなっていく皇后を見やることもなく、翠蓮はその場を後にした。
空行で囲んでありますので、苦手な方は読み飛ばしてください。
翠蓮への襲撃事件から数日経って、離宮にはようやく落ち着きが戻ってきた。渓青はやはり命に別状はなかったものの、左目は完全に失われた。本人はすでに欠けている身だからそれが一ヶ所増えたところでどうとも、そんなことよりも遠近感の取りかたに早く慣れなければ、とけろりとしている。
ただその状態の渓青と翠蓮を引き合わせたときのほうが、瑛藍は辛かった。
あの気丈な翠蓮が大粒の涙をぼろぼろとこぼして、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っていた。そうして包帯の上から何度も渓青の左目があったところに口づけ――まるでそうすれば傷が癒えてまた左目が見えるようになるのではないかというように、ずっと離れないでいた。
それで瑛藍は完全に理解してしまったのだ。
翠蓮が唇を捧げている相手が誰なのかを。
うすうすそうなのではないかと思っていた。
公燕といたときの翠蓮について、瑛藍はあまり記憶がない。一度くらい見かけたことがある気がするが、ただ美しいな、とそれしか印象になかった。
公燕からも、正式に婚儀を挙げるまでは貞節を守っていると聞いていたから、おそらく口づけさえしていなかったのではないかと思う。
そこまで考えて、翠蓮にとっては渓青が初めての相手なのか、と腑に落ちた。
なにもかも奪われたなかで、すくい上げてくれたたった一つの手。
(……敵うわけ、ないよねぇ……)
瑛藍はため息をついて、甲斐甲斐しく渓青の看護をする翠蓮を見やった。
瑛藍の部屋を翠蓮に明け渡して以来、渓青もまた翠蓮の寝室の裏手にあたる部屋で療養している。
渓青に代わって翠蓮の護衛についている貞護によれば、翠蓮は湯殿や厠へ行くなどの用をのぞいて、ほとんど渓青のそばにいるのだという。食事も渓青とともにとっていた。まるで雛が親鳥から離れないように。
貞護が口が固く寡黙な性格で良かった、と瑛藍は思う。もっともそうでなければ渓青が右腕のように使うわけがないとも思うが。
小さな巣を守るために、瑛藍はもうひとつため息をつくと、琰単の部屋へと向かった。
「おお、瑛藍。待ちわびたぞ。翠蓮の様子はいかがだ」
「はっ、陛下。呉昭儀様はようやく起き上がられて粥など召し上がられるようになりました」
「そうか、それは良かった。翠蓮の警護は引き続きそなたに任せる」
「御意。大任承りまして光栄にございます」
それだけ言うと琰単は最近のばしはじめた顎髭を撫でた。本人は威厳があると思っているらしいが、似合わないし滑稽なことこのうえない。
「してな、今日は皇后と淑妃の件で石鎮を呼んだのだ」
紹介されて瑛藍は向かいに座る老将軍に深々と礼をした。
「ご無沙汰しております、李司空」
「斉王殿下もお変わりなく」
李石鎮。
最高名誉職である三公の一つ、司空に就いているが、北族ではなくどちらかというと叩き上げの武人に近い。鄭の建国前の動乱から戦いに身を投じ、実直な働き方と天性の軍を動かす才能でもって数多くの戦功をたて、常に軍部の中心にあり続けた。
だがそんな軍才を先帝は畏れた。北族ではないという出自ゆえに、孫佐儀に縛られることもない。万が一牙を剥いたならば阻止する手立てがなかった。
その忠誠心を試すために先帝は賭けにでた。一度、石鎮を地方に左遷したのだ。そうして琰単が即位したならば、すぐに中央へ呼び戻せ、と言い置いて。要は、地方から中央に戻したのは琰単なのだから、恩義を感じて尽くせ、というわけである。
果たしてその言葉通りに、琰単の即位後すぐに石鎮は中央で高官に復帰した。そして今までどおり職務を果たしているように見える。
が、内実はそうではないのではないのか、と瑛藍は踏んでいる。
それはそうだろう。生真面目に粉骨砕身して前線に立ち続けた結果が、突然の地方左遷で、しかも忠誠心を疑われたのである。
それ以来、石鎮は非常に慎重になった。対外遠征の閣議でも決め手になるようなことはなにも言わない。琰単の機嫌をとるようなこともしないが、張了進のように諫言をするわけでもない。
実は今日、李石鎮を呼んだのは他でもない瑛藍だ。
正確には、皇后と淑妃の処刑の件で誰にそれを命じるか悩んでいた琰単にそっと囁いただけだ。
孫太尉は皇后様のお身内ですから、なにかと辛い思いをされましょう、ここは関わりのない李司空が適任では、と。
そうして李石鎮のほうには内密に顔を合わせていた。
皇上陛下はこのように思し召しです、と伝え、これはあくまで昭儀襲撃の罪だけでなく皇帝への大逆罪である、と強調すれば察しの良い石鎮はすべてを理解したようだった。
だから今日のこの琰単の前でのやりとりは完全に茶番である。
「石鎮、そなたも聞き及んでいるであろうが、先日呉昭儀が襲撃された。襲ったのは皇后が放った者だと確定したのだが、昭儀がな……」
「昭儀様は大層恐ろしい思いをされ、しばらくは寝込んでしまわれました。御子は無事でしたが、もし流れてしまっていれば先日の皇子に引き続き二人目となってしまいます。昭儀様の繊細なお心は壊れてしまっていたことでしょう。また、その日はたまたま陛下とご一緒ではありませんでしたが、一歩間違えれば陛下が襲われていたことは必至」
「う、うむ。そうなのだ」
琰単が余計なことを口に出す前に、瑛藍は立て板に水とばかりに喋りそれを阻止する。琰単に向かってにっこりと笑いかけ、あとはすべて任せろ、と目で伝える。
「昭儀様やその腹の子だけでなく、皇上陛下まで狙われたとあれば、ことは単純な問題ではございません」
「そうであろうな……」
「皇后陛下と淑妃様には大逆罪を適用し、極刑を課すのが妥当かと思われます」
「ち、朕もそのように思う!」
老将は深いため息をつくと、重々しく言った。
「……御心たしかに承りました。閣議でそのように申し伝えましょう」
***
桃の花が咲いた日、皇后と淑妃はひそかに処刑された。
それを決定した閣議は荒れたが、結局は李石鎮の言葉と、孫佐儀は身内であるがために強く出られなかったことが決定打となり、廃位ではなく処刑と決まった。
身分を剥奪されて庶人に落とされた二人は、それでも元の身分を憚って毒を賜ることになった。
幽閉先で毒杯――仮死状態になる薬をあおいだ二人の体は、秘密裏に郊外に運び出された。だが二人が目を覚ましたのは、棺桶というよりは大きな酒樽とでも言うべき木桶の中だった。
まさかもう一度日の光を見られるとは思っていなかった二人は、きょろきょろとあたりを見回す。
「ここは……?」
「私たちは死んだのでは……」
鼻をつく凄まじい臭い。ふごふごという動物の息づかいのような声。半地下のような場所で周りの壁は高い。すぐにここが猪厠だと思い至った。
桶の中には液体が並々と注がれている。溺れるほどの水位はないが、こんなところからは早く出ようとした二人は驚愕した。
「手足が……っ!」
二人の四肢はちょうど豚の脚ほどの長さで斬られていた。表面は焼かれて血止めされている。だが不思議と痛みは感じなかった。
「なぜこんな……っ」
元・淑妃だったものが喚くと、上から鈴のような声音が降ってきた。
「ご機嫌よう。気分はいかがですか」
「……呉、昭儀……! ここから出しなさい……!」
「あら、そんなに暴れると桶が倒れてしまいますよ?」
案の定、淑妃のほうの桶はがたがたと揺れて横倒しになった。桶の中を満たしていた液体――酒が飛び散り、まわりにいた豚たちがいっせいにそれに群がる。
「ひっ……! やめっ、私は餌じゃ……っ!」
「餌ではないけれど白豚のようなものでしょう?」
猪厠の縁に立って微笑みを浮かべる翠蓮と、絶叫をあげて豚に食い散らかされていく淑妃を皇后はがたがたと震えながら見ていた。
「そのお酒には甕子粟が入っていますから、痛くありませんでしょう? ああ、でもそのせいで豚たちがすぐに次を欲しがっていますね」
その言葉どおり、ひとつ目の桶の酒と淑妃を食べ尽くした豚たちは、血走った目で皇后の入っている桶をゆすり始める。みしみし、と嫌な音を立てて木桶が歪んだ。
「な、なぜ……なぜ、このような目に……っ……おのれ、呉昭儀……っ!」
「なぜ、ですって?」
大きな音をたてて木桶がついに破裂した。
一際大きな豚が皇后の左目に喰らいつく。
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