無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第2章 蠱毒の頂

第28話 小さな種

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 瑛藍えいらんは離宮と皇城こうじょうを忙しなく行き来していた。皇帝である琰単えんたんは当初春までには戻るとしていた離宮での滞在をずるずると引き延ばしにしている。
 だが翠蓮すいれんへの襲撃事件を建前に、実際には面倒ごとの多い皇宮こうきゅうへ戻りたくないという本音が見え隠れしていた。

 皇帝がおらずとも実務は回さねばならない。当たり前だが中には皇帝の決裁を仰がねばならぬことも多々ある。そういった事柄に関しては成り行き上、瑛藍が窓口のような状態になり、琰単を持ち上げてなだめすかし、褒めちぎって言葉を飾りたて、「うむ」というただそれだけの返事を貰う。
 官吏たちも瑛藍に頼めば曲がりなりにも仕事が進む、ということで瑛藍の負担は増える一方だった。

(ま、隔離しておけるからいいと言えばいいんだけどね……)

 そうは言っても疲れは溜まる。たまには翠蓮に癒して・・・もらうくらいはバチも当たらないんじゃないかと瑛藍が考えていた時だった。

「おや、斉王せいおう殿下。離宮との往来ご足労にございます」
「して、陛下はいつごろお戻りになられるのでしょうか……」
「さあ、そればかりは私にも分かりませぬ」

 回廊で声をかけてきたのは関定憲かんていけん頼士載らいしさいの二人だった。これはおあつらえ向き、と瑛藍は内心でほくそ笑む。

頼中書令らいちゅうしょれい殿、申し訳ありませんが関侍中かんじちゅうに少々話がございまして、すぐに終わりますゆえよろしいですか」
「ええ殿下、かまいませんよ」
「ああ、君。私はすこし話してくるから、頼中書令らいちゅうしょれいのお相手を頼むよ。せっかくだから顔も売っておきなさい」
「はい」

 なに食わぬ顔で緑基りょくきにそう言うと、いつもとは異なり有能な官吏の仮面を被った緑基が頷く。

「では、関侍中かんじちゅう。少々お時間をいただけますか」
「はい」

 頼中書令らいちゅうしょれいからは声が聞こえなくなるほどのところまで来ると、瑛藍はほとほと困り果てた、という顔をした。

「……お疲れの様子でございますな、殿下」
「ええ。疲れも溜まりますよ。ここと離宮を行ったり来たり、私は使い走りの犬ですか……」
「ま、まあまあ、陛下も殿下のことは大層信頼していらっしゃるご様子ですし……」
「それはありがたいのですが、おかげで私は馴染みの妓楼に顔を出せず、娼妓たちから愛想を尽かされそうですよ……そこで北族でも知恵者と名高い侍中殿のお知恵を拝借いたしたくてこうしてお誘いしました」
「いったい、なんでしょうか……」
「陛下に離宮からお戻りいただくなにか良い案はありませんか」
「そうですね……なにか火急か重大な決議があれば陛下も……旦抹たんまつが攻め入ってくるとか……いやそれはないですね」
「そうなのですよ……」

 長年の懸案だった旦抹たんまつは、いまや内紛を起こしていてこちらに攻め入ってくるどころではなかった。それゆえ対外遠征の話も有耶無耶のうちに立ち消えになっている。

「他に陛下の関心ごとと言えば……やはりいまは昭儀様のことですか」
「ですよねぇ……」

 瑛藍はがっくりと肩を落とす。

「昭儀様の立后の是非を問う閣議を、ということであれば陛下もお戻りになられるのでは?」
「ですが、閣議を開いたところで孫太尉そんたいい張右僕射ちょううぼくやは絶対に賛成なさらないでしょう。それが分かっているから陛下も閣議を開かないのですよ……」

 そう言えば、と瑛藍はふと思いついたように言う。

「……その孫太尉そんたいいですが、すこし気になることを耳に挟みました」
「なんですか?」
「先だって元皇后陛下が処刑された際に、孫一族内からは随分と反発の声があがったそうです」
「それはそうでしょうね。これで太尉殿の重要な駒が失われてしまいましたから」
「ええ。ですがそれで孫太尉殿もずいぶん頭にきたようで。朝廷で北族が今の地位を保っていられるのは自分のおかげではないか、と。それに手のひらを返して太尉を叩き始めた一族や北族に相当不満が溜まっておいでのようです」
「ああ……まあ、気持ちも分からなくはありませんが、今は北族一丸となって……」
「それが、太尉殿自らそれを崩そうとしておられるようなのです」
「……なんですって?」

 瑛藍は声を潜めながらそっと囁くように言った。

「……最近、太尉殿のお屋敷に科挙出身の官吏が多く出入りしているようなのです」
「それは……」
「実は先ほど私が供に連れていた若者も科挙合格者なのです。しかも孫太尉のところからやってきた」
「え……?」
「元は吏部で働いていたのです。太尉殿から私のところで使ってみないかと言われ……お断りするわけにもいきませんから引き受けたのですが……私は太尉殿から送り込まれた間諜なのではないかと疑っております」
「そんなことが……」
「ほら、頼中書令らいちゅうしょれい殿も科挙合格されているでしょう? ですからこんな話はあの二人には聞かれたくなくてですね」
「たしかに最近科挙出身の官吏は徐々に増えてきておりますが……」
「それです。太尉殿はご自分の基盤を、北族から科挙出身者に切り替えようとされているのではないかと思うのです」

 瑛藍がそう言うと、関侍中はそんなことが、いやしかし……と考え込んだ。これは揺らいでいるな、と感じた瑛藍はもう一押し、と畳み掛ける。

「北族内では太尉殿の強引なやり口に反発している者もおります。けれども科挙出身者たちは北族との伝手つてがないものも多く、出世は見込めません。それを太尉殿が引き上げたら……彼らの忠誠心は太尉殿に向かうでしょうね。これで太尉殿には血縁に囚われない新しく強固な地盤が手に入ります。
 しかも縁故でありがちな無能な者を引き立てる必要はなく、毎年科挙で自動的に優秀なものが輩出されてくるのです。抜け目のない太尉殿がこれを放っておくでしょうか」
「ううむ……」
「あっ、すみません、すっかりお時間をいただいて。もし陛下を離宮から戻す良い方法があれば是非教えてください」
「え、ええ……」

 狼狽しはじめた関侍中を置いて、瑛藍は種は撒いたとばかりにその場を立ち去った。



   ***



 一方そのころ、残されていた緑基は目の前にいる頼中書令らいちゅうしょれいにぺこりと頭を下げた。

「お初にお目にかかります。斉王せいおう殿下麾下きかの周緑基と申します。以前は吏部におりました」
「吏部に……?」
「はい。三年前の科挙にて探花となり、吏部で書史令しょしれいをしておりました」

 緑基がそういうと、頼中書令は驚いた表情を浮かべた。

「探花が書史令……⁉︎ 君、それは……」
「私は庶民出身で、なんの伝手つてもございませんでしたから」
「そうか、大変な思いをしたのだな……それで、今はなぜ斉王殿下のところに?」
「はい。妹が殿下に見初められまして、殿下のお屋敷で女官をしております。それで私も併せて斉王府で働くことになりました」
「なっ……それでは、君は妹君を……」

 差し出して、と言いかけたのだろう頼中書令の言葉を、緑基は寂しそうな笑みで遮った。

「……それでも、私は殿下に感謝しております。私のような卑しい者は、こうでもして北族の方と縁を作らねば、満足な職につけませんから……」

「……どいつもこいつも、北族、北族だ! この国では北族以外は認められんのか!」

 頭に来たのであろう頼士載らいしさいを見て、緑基は内心で罠にかかった、と笑った。頼士載は北族ではない。東海にほど近い臨泉りんせんという非常に古い学問都市に連綿と続く貴族の家柄だ。

 臨泉頼氏と言えば、同じく臨泉出身の李氏と並んで天下第一とも称されるほどの名家だった。そんな名族出身の彼だが、科挙の進士科に合格してここまで昇りつめている。
 緑基と違って出世できたのは、ひとえにその「頼氏」の威光が大きかったに違いない。けれどもその「頼氏」の力も、北族の台頭によって随分と変容していた。

 ていを興した北族たちは、『氏族志しぞくし』という書物を編纂し、それぞれの家柄の家格を決めた。そこでは北族系の家柄が第一とされ、「頼氏」などの家は二流とされた。

 ただそれでも「頼氏」のような古くから続く名族の名を求める者は後を立たず、次第に「頼氏」は莫大な結納金を取って、婚姻によって「頼氏」を名乗ることを許容するという、「名」の切り売りを始めたのだ。

 頼士載はわざわざ科挙を受けていることからも分かる通り、生真面目な性格だ。そんな彼には自分の一族が「名」を売っている現実――自分たちが北族に金銭で買われる存在だということは耐えがたいと緑基には推測できた。

 もうすこし煽ってやるか、と緑基はひそかに笑む。

「……私も科挙に合格すれば、と思い勉学に打ち込みました。そのせいで両親は無理をして亡くなりましたが……科挙に合格してどれほど努力しても……結局は北族である殿下が引き取ってくださるのにはかないませんでした」

 これは真実だ。嘘にはいくばくかの真実を混ぜると、より本物のように聞こえる。

「結局のところ、北族の方たちはお身内が大切なのでしょうね。それはそうですよね、いくら勉学ができたところで得体のしれない者を雇う訳にはいきませんから。孫太尉そんたいいがいらっしゃるあいだは万全でしょうし、きっとその方が国がうまく回るのだと思います。ですから私は殿下にお情けをかけていただいて本当に運が良かったです」

 違う、と緑基は内心で反発する。
 運は、運命は、自分の力で掴み取るものだ。
 苦境に耐え、能力を磨き、一瞬の機会を見逃さずに、危機を冒して賭けに出て、勝ったからこそ今の緑基がある。
 ただなにもせずに与えられるのを待っているだけでは、奪われたものは返ってこない。

 だからこうして自分の道を切り開くために、毒を仕込む。

「……私も迎えられるならば、千金を積んでも北族の女性を妻にしたいものです」

 違う、と緑基はふたたび自問自答する。
 自分が妻を迎えるならば――

 そのときちょうどよく瑛藍が戻ってきた。

「では頼中書令、殿下が戻ってこられましたのでこれで失礼いたします」
「あ、ああ……」

 緑基は軽く会釈したが、中書令は茫然とした表情をしている。
 そうして戻ってきた関侍中との会話はどこかぎこちなかった。



 しばらく歩いて二人の姿が見えなくなったころ、隣に立つ瑛藍が声をかけてきた。

「……そっちの首尾は?」
「上々だぜ。ちょっと揺さぶったらあのおっさんふらふらになっちまいやがった」
「ふふっ。名族だなんだと言っても、結局は自分の権威が揺らぐとなると人間脆いもんだねぇ」
「誰かが築きあげた「名家」とか「名声」なんて不安定なもんにタダのりしてっからそうなるんだよ。自分の足だけで立ってりゃ、ああはならねぇ」
「……肝に銘じておくよ」
「あんたが乗っかってんのは女だろうが」
「お、言うようになったねぇ、緑基。君も乗ってみたらいいよ、あ、もちろん乗せるのも最高だけどね。行く? これから」
「行かねぇっつってんだろ!」

 あはははと笑う瑛藍に仕方ねぇなこいつは、と緑基はため息をついた。
 立場も身分も出身も全然違うのに、なぜか瑛藍は手のかかる兄のような感覚で憎めない。

 きっと、本当は関係ないのだ。
 北族とか名家とか血筋とか。

 そんなものが一切なくなっちまえばいいのにな、と緑基は瑛藍の雪灰色せっかいしょくの髪を眺めながら思った。




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