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第2章 蠱毒の頂
第29話 謀略の糸
しおりを挟む琰単が離宮に閉じこもっているあいだに、瑛藍は蜘蛛が巣をはるように細く透明な「相互不信」という糸をはりめぐらせていった。
瑛藍は皇族である以上、どうしても「北族」の一端に連なり、その繋がりがどれほど強固であるのか知っている。
もともとその名称から分かるとおり、北族はこの「嘉」という広大な平原に本来いた者たちではない。嘉の北方に広がる茫漠の草原地帯を源流とする遊牧騎馬民族だった。
長い歴史のなかで、草原に棲まう者たちは何度も南下した。
それは厳しい寒波に見舞われるという外因であったり、豊かな大地と財宝を求めての内因であったりしたが、嘉に根づく者たちにとっては脅威に他ならなかった。
ちょうどいま、旦抹が鄭の北東辺を脅かしているのとまったく状況は変わらない。
けれども嘉という大地は奇妙な性質を持っている。
侵略者であったはずの者たちはいつのまにか内部に取りこまれて再構築され、「嘉民族」という実態のあやふやな概念に昇華するのだ。
広大な土地と膨大な民を治めるのには、結局皇帝を頂点とする高度に発達した官僚機構や地方・軍事制度が必要になる。本来それらを必要としなかった遊牧の民が必要に迫られてあるいは自ら進んで変質していき、結果「嘉民族」というものへ収束される。
それがなんども繰り返されてきたこの地の歴史だった。
北族、という名称が残っている現在はちょうどその過渡期に相当するのではないかと瑛藍は思っている。瑛藍たちの世代にとって、自分たちの先祖が住んでいた北の草原はもはやお伽話の世界だ。
いまさら遊牧の生活に戻れといわれても不可能なほど、北族はその名称に反して「嘉」の大地に取り込まれている。
衣食住も考え方も文化も、草原時代のものはなにも残っていない。ただ自分たちは「北族」であるというその認識だけが、残骸のようにこびりついているのだ。
しかしその「北族」さえも、「貴族」だとか「特権階級」だとかと同義語になってきた。
北族の端くれである瑛藍としてはそのことを寂しく思うけれども、そろそろその言葉に引導を渡してやるべき時期なのも感じていた。
北族という呪縛に囚われている限り、自分たちは先へは進めない。
いままで、瑛藍は孫佐儀を北族という巨大な勢力と同一視していた。それは瑛藍も北族である以上、仕方のないことだった。
けれども緑基は違う。
北族でも特権階級でもないから、そこに食い込むすべを探し、冷静に観察を続けていた。そして「北族」とはいうものの、決して一枚岩ではないことを見抜いていたのだ。
本来、北族をまとめる役目は皇帝が担っていた。
実際に初代皇帝は彼らを率いて、この王朝を打ち立てた。だがその権威が形骸化し、代わりに孫佐儀のような重臣が力を持ちはじめる。無論それに従う者もいるし、なぜ孫一族ばかりがとひそかに反発を抱く者もいる。
いままでは孫佐儀の影響は絶大で手を出せる者がいなかった。しかし彼が権力の中枢にあってすでに三十年近くが経過している。盤石かと思われたその体制には、雨水がすこしずつ沁みこんで巨岩を割るように綻びが見え隠れしはじめていた。
孫皇后と劉皇后の外戚という地位を失ったこと。自らが推した琰単があまりにも愚昧であったこと。科挙により北族ではない官吏がわずかではあるが増加してきていること。
そして翠蓮という規格外の存在。
これらを巧みに見抜いた緑基は、巨岩の裂け目に打ち込む「楔」を提案した。
緑基が立てた秘策の骨子は「各個撃破」だ。一枚岩だと思われていた北族のあいだに、相互不信と疑心暗鬼の種を撒いて芽吹かせる。ひ弱な植物は成長すればその根で大岩をも割って打ち砕き、孫佐儀とそこに囚われた北族という概念を解体する。
もともと慎重派を貫いていた李石鎮には、時流は孫佐儀のほうには流れないとそれとなく言えば、保身を第一とするあの老人は石のように動かない。
北族出身の文官肌である関定憲には、佐儀が科挙官僚を優遇するつもりであるとうそぶき、反対に科挙出身の名族である頼士載には、孫佐儀がいるあいだは科挙出身者はどうあがいても北族にはかなわないと吹き込んで疑心暗鬼に陥らせた。
張了進は有能だが佐儀の右腕でもあり、直情的で融通が効かず、他人と群れることを良しとしないため、そのまま孤立させる。
そして今、最後の一人である慕容季正を前に瑛藍は憂いてみせていた。
慕容季正は孫佐儀よりも十ばかり年長で、北族の中では長老格といった趣である。清廉潔白なひととなりで、琰単の兄であった元・皇太子の教育にあたったこともある。
もっとも、彼の教育に反して琰単の兄は跡目争いを起こして自滅した。厳しすぎる教育に問題があったのか、そもそもの人格に問題があったのかは今となっては知る由もない。
「……いろいろな筋からすでにお聞きかと思いますが、陛下は呉昭儀様を皇后に迎えたがっておられます」
「じゃが、そんなことは孫太尉が賛同せんであろう」
「そうなのです。けれども考えてみてください。孫太尉が立てた皇后たちがいままでなにをひき起こしました? 孫皇后は後宮で恐怖政治を敷き、結果として順宗陛下はそれに反発し、孫皇后亡きあとの後宮は人倫にもとる行いが横行しました」
「う、うむ……」
「劉皇后も同様です。彼女は後宮を統率できず混乱をまきおこしました。妃嬪は殺害され、御子は闇に葬られ、はては皇上陛下の弑逆未遂です。後宮にいるものたちは常に身の危険に晒されているといっても過言ではありませんでした」
「そうじゃな……」
「ですが、呉昭儀様は基本的に争いごとを好まれない大人しい方ですし、陛下に無理な願いをいうこともありません。皇后位にもご本人はほとんど執着がないご様子で、ただ子が無事に育てばいいと願っておられます。前回があの惨事でしたゆえ……」
「あれは痛ましい事件じゃった……」
「……私は孫皇后の手元で陛下とともに育ちましたが……それが平穏な子供時代でなかったことはお察しいただけるかと思います。私は……次の世代を担う子供たちにそのような思いをさせたくないのです。血を分けた兄弟が後宮での争いに巻き込まれどんどん減っていくなど、二度と起こしてはならないと思うのです」
それは瑛藍の偽らざる本心だった。
もともと瑛藍は常に一歩引いた立ち位置で物事を冷めた目で見ていた。自分が巻き込まれないように細心の注意を払い、すこしでも疑いの目を向けられまいと愚か者を演じていた。
だが今は違う。
自ら渦中に飛び込み、ぎりぎりのところで危険を冒し、そしてかけがえのないものを得た。それらを守るために粉骨砕身する自分は、きっといままでよりもはるかに愚か者だし、そして同時に誇らしくも思う。
「……殿下のご事情は痛いほどに理解できます。私も、我が子同然にお育てした東宮殿下を……っ」
そう言うと老人は泣き崩れた。どんなに愚かな子でも老臣にとっては大切な子だったのだろう。
「……今また孫太尉の意を受けた女性が皇后になれば、ふたたび後宮は荒れるでしょう。東宮位を巡って同じような争いが起き、血が流れる。私が陛下のご意向に賛同するのはもう一つの理由もあるのです。呉昭儀様はすでにご両親を亡くされています」
これだけ言えば慕容季正には理解できるだろう。
翠蓮の両親がいないということは、外戚になる可能性の者が、すなわち第二の孫佐儀たらんとするものがいない、ということだ。
それは後ろ盾がないとも言えたが、同時に外戚専横の危険性がないことを――北族である慕容季正の基盤を脅かすものではないということを示していた。
まっすぐな気質の老臣には、情に訴えかけて揺さぶり、危害がないことを強調する。
上り詰めた老いた者はどんなに表面を取り繕おうと保身に腐心する。
孫佐儀しかり、李石鎮しかり、そして慕容季正しかり。
慕容季正の心の揺らぎを十分に確認して、瑛藍は微笑んだ。
ご老体たちにはそろそろ退いていただこう、と。
***
「兄上、少々よろしいですか?」
離宮に戻った瑛藍は、酒宴に翠蓮を侍らせて上機嫌な琰単ににこやかに話しかける。
「うむ、なんだ」
「呉昭儀様のお部屋の警備のことなのですが……やはり離宮は掖庭宮に比べるといまひとつ堅牢性に劣りますゆえ、これから臨月を迎えられる昭儀様の御身を心配しております」
「そうであるか……朕はここで出産を迎えさせようと思うておったのだがな」
「御身の安全を第一に考えられるならば、後宮の……儲春殿がもっとも堅固かと思われます」
瑛藍の言葉に琰単は苦い顔を浮かべた。
儲春殿は皇后に与えられる宮殿だ。
「……だがそれは佐儀めが許さぬ。あれだけ宝物を贈って、息子どもにも官位をくれてやり、朕が屋敷にまで出向いてやったのに、あの頑固爺はかたくなに頷かぬ。翠蓮のなにが悪いと申すのだ」
琰単がぐいと翠蓮の細腰を抱き寄せる。よろりと体勢を崩した翠蓮は、とっさに琰単の胸に縋りつきその豊かな胸を押しつける形になる。よりいっそう盛り上がった谷間と、こんなところでと困惑したような翠蓮の瞳を見て琰単がごくりと唾を飲んだ。
瑛藍はそれを相変わらず見事な手腕だな、と内心苦笑しながら見ていた。とはいえここで琰単が興奮しすぎて閨へ駆け込んでは話が続かないので、ほどほどにと翠蓮に目で合図する。
「孫太尉や張尚書右僕射はそうお考えでしょうが、はたして他の方々はどうでしょうか」
「……なに?」
「呉昭儀様は大人しい方。いままでのように荒れた後宮にはなりますまい」
翠蓮が大人しいだなんて真っ赤な嘘だけれど、と瑛藍は思いながら素知らぬ顔で言う。皇后と淑妃の顛末をあとから聞かされたときはさすがに言葉を失った。
あのとき、渓青が療養中で動かせなかったので、翠蓮は宇文貞護をひそかに使ったのだ。たしかに彼も淑妃には復讐を果たしたかったのだろうが、いつのまにか渓青以外の宦官たちをも従えて、しかもあんな凄惨な行為をまったく外部に漏らさせないほどの絶対的な忠誠を得ている翠蓮に瑛藍は肝が冷えた。
翠蓮が皇后になったならば、たしかに荒れた後宮にはならないだろう。
ただしそれは表面だけの平穏だ。水面下には謀略と統率の糸が緻密に張り巡らされた、孫皇后のときよりもはるかに恐ろしい空間ができあがるに違いない、と思った。
「いままで後宮がいかに争いごとばかりであったかを訴え、これから陛下が作り上げる御世には慈愛と和の心に満ちた呉昭儀様がふさわしいと語りかけられれば、重臣の皆様方も心動かされるのではないでしょうか」
「う、うむ……! そうだな、もう後宮での争いは朕もこりごりだ!」
後宮で諍いが起きていたのはひとえにおまえのせいだ、と言いたいのを瑛藍はぐっとこらえてさらに畳みかけた。
「それに昭儀様が立后されれば、先日のように手出しする不届き者はでますまい。これは昭儀様のためにも、そして産まれてくる御子の安らかなご成長のためにも必要なことかと存じます」
「そうであるな! よし、瑛藍。急ぎ皇宮に戻る手配をし、閣僚会議を開く旨を皆に申し伝えよ」
「……御意に」
どうすれば琰単が皇宮に戻るかなど、瑛藍は知り尽くしていた。
瑛藍が動き終わるまでは、琰単にはここでうつつを抜かしていてくれたほうがよかっただけだ。下手に動かれてこちらの計画を潰されてはたまったものではない。
気は熟した、と瑛藍と翠蓮は目だけで言葉を交わした。
気づかぬは琰単ばかりであった。
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