無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第2章 蠱毒の頂

第31話 静かなる決戦

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 数日後、李石鎮りせきちんから体調が回復した旨の連絡が、瑛藍えいらんのもとへ内密にもたらされた。この報せが瑛藍のところに来る時点で瑛藍には趨勢すうせいがある程度予測できた。
 もしも石鎮が孫佐儀そんさぎに与するならば、瑛藍のもとへ連絡をよこすことなどしないだろうから。

 瑛藍はそれを琰単えんたんに伝え、非公式な会見の場を設ける。
 太極宮たいきょくきゅうの小部屋へ赴くと、白髪頭の老臣は小さく平伏して待っていた。

「おお、石鎮。体調の方は大丈夫なのか」
「はい。先日の閣議を欠席いたしましてまことに申し訳なく……」
「そなたが復帰してくれて頼もしいぞ。なにしろ張了進ちょうりょうしんときたら自分がお目付役であるとばかりにまくしたてる。翠蓮すいれんが皇后になれば後宮に平穏が戻るというのに、筋が通らないの一点張りだ。なにかいい方法はないものか……」

 長い年月を経たいわおのような老将軍を瑛藍は窺い見る。
 その表情は変わらないが、おそらく彼の中で一つの「方向性」が決まっているであろうことは見て取れた。

 李石鎮は孫佐儀とは距離を置いている。北族ではないし、武官上がりの彼は貴族層とも毛色が違うゆえに、自らの身は自らで守らねばならない。
 ここで孫佐儀一派に加担したところで、北族の枠に入れない彼はいずれは冷遇されるのは目に見えている。そしてその北族自体も、彼が軍に身を投じたころのような団結力と熱意はなく、おのが派閥の保身と官僚的思考に染まりつつある。

 孫佐儀のように権力に固執するわけでなく、「保身」を第一とする石鎮がどちらに傾くかは自ずと知れた。

「恐れながら……老いた無骨者が愚考いたしますに、皇上陛下は「皇帝」という類稀なき尊き御身である前に、恐れ多くも一人の「男」でございます。男が好いた女性にょしょうを妻に迎えたいと思うのは当然のことわりでございましょう」
「うむ……! そうである、ちんはただ男として翠蓮を幸せにしてやりたいだけなのだ!」

(幸せ、ねぇ……)

 それをすべて奪ったやつがどの口で言うか、と瑛藍は内心で嘲笑した。本当に翠蓮を幸せにしたいならばまずは謝罪から始めるべきだろうと思うが、おそらく琰単の頭の中にはそんなことは微塵もない。
 傲慢もここまでくると憐れだな、と瑛藍は思った。

「……であれば、此度の件は陛下一個人の「ご家庭」のこと――つまり「家事」にございますれば、他人が、ましてや臣下のごときが口出しをすべきことではございますまい」
「……! そ、そうだな……! 当人たちがそれを望んでおるのだ、なんの不都合もあるまい!」

 老将の静かな言葉に、琰単は一気に喜色を浮かべる。よくもうまく論理をすり替えたものだと瑛藍はいっそ感心した。

 冷静に考えればおかしいのである。
 ことは「皇帝と皇后」という公人としての立場でその資質を問うているのに対し、「家庭」だとか「好いた」だとか私人としての抽象的な論理で反論しているのだから。

 しかしその言葉で琰単はお墨付きを得たように舞い上がり、はやくも次の閣議を召集せよと命じてくる。瑛藍はそれに微笑んで頷いた。



   ***



 やや風の冷たい夏の終わりの日、再度閣僚会議が開かれた。

 出席者は前回の三人に加えて、前回欠席した李石鎮、それに前回は呼ばれていなかった関定憲かんていけん頼士載らいしさいだ。
 今回は佐儀の名ではなく、皇帝・琰単の勅命により召集された。これで二人は「皇帝は二人を信頼しているが、佐儀には重要視されていない」という印象を受けるだろう。

諸卿しょけいらには先日から議論してもらっておる、ちんの婚儀のことであるが、いかが思うか」

 そう切り出した琰単には、事前に瑛藍がよくよく言い含めている。決して「皇后」という言葉を使うな、と。婚儀や妻という一般的な単語を使うことにより、李石鎮の言った「家事」の論理を貫き通すのだと諭した。物覚えの悪い琰単でもこれくらいはさすがに理解できたらしい。

「……恐れながら陛下、臣めの意見は変わりませぬ。此度のことは筋目に沿わぬこと。血統も経歴も正しい女性にょしょうを再度お選びに……」
「だがちんは翠蓮と幸せな家庭を築きたいのだ!」

 琰単の思いもかけず強い調子に、張了進もおもわずたじろいだ。

(まるで駄々をこねる子供だな……)

 瑛藍はそう思わずにはいられなかったが、今回ばかりはこの琰単の短気で我慢のきかない性格が、「翠蓮を必死に愛する」という印象を与えるのに一役買っている。

「……張右僕射ちょううぼくや。正しさも大切なことではあるが、そればかりでは上手くいかぬこともあるであろう……」

 李石鎮の静かな声音に一同の注目が集まった。

「……どういう、ことですか……」
「劉前皇后はたしかに血統も経歴も「正しき」女性であった。だが彼女がなにを引き起こした。正しさを追求するあまり陛下の御心の安らぎをないがしろにされ、寵愛も御子も得られずに後宮に未曾有みぞうの惨禍を巻き起こしたことを忘れたわけではなかろうて」
「ぐっ……」
「そのような経験をされた陛下が、たおやかでおとなしき女人にょにんに心の安寧を見出し、あたたかな家庭を望まれたとてなんら不思議ではない。此度のことは陛下一個人の御身の幸せを願ってのこと。我ら臣下が陛下のご家庭の「正しさ」にまで口を挟むのは、いささか僭越せんえつではなかろうか」

 さすがに政界の荒波の中を乗り切ってきただけのことはある。李石鎮の言葉は、本人が真実どう思っているかはさておき、重みと説得力があった。

 張了進はこれになにも言えなくなっていたが、孫佐儀もまた同様であった。劉皇后のその言動が正しかったか正しくなかったかで言えば、間違いなく正しくなかったのだから。

 そして慕容季正ぼようきせいは相変わらず沈黙を保っていた。どうやらこの老人はだんまりを決めこむことにしたらしい。積極的に賛成もしなければ、反対もしない、ということかと瑛藍は他を見回す。

 関定憲かんていけん頼士載らいしさいもまた一言も発しなかった。というよりは、李石鎮がこちらに傾いていることに驚きを隠せないようだった。
 だがここで孫佐儀に与したところでそれぞれの立場はなんら改善されないと二人には吹き込んである。下手に口の開きようがないだろうと瑛藍はほくそ笑んだ。


 そのときである。部屋の隅に控えていた宦官たちがにわかに騒がしくなり始めた。ちらりとそちらを見ると、本来ここにはいないはずの貞護ていごがいるのを瑛藍は見つける。

 貞護が来るということは渓青けいせいは翠蓮から離れられないということか、と瑛藍は瞬時に察する。また翠蓮の身になにかと嫌な方向に想像が走り、瑛藍は並いる面々に「失礼」と一言断りをいれ、貞護を呼び寄せた。

「呉昭儀になにか?」

 瑛藍が小声で問うと、貞護はごくりと唾を飲んで答えた。

「呉昭儀様、やや早産ではございましたが、ご無事に出産されました」
「なんだと⁉︎」

 琰単ががたがたと玉座から降り、駆け寄ってくる。

「こ、子は……男か、女か⁉︎」
「元気なの子にございます」
「おお……!」

 やってくれたな翠蓮め、と瑛藍は思わず嬉し泣きしそうになった。
 この場で、この時に、最高の援護に他ならなかった。

 ただすこしあとで冷静になって考えてみると、瑛藍が仕込んで妊娠を確定させ、そのあとに琰単が孕ませたように画策したのだから、当然産み月は予定されている日よりも少々早くなる。
 そのことをすっかり忘れていたことに瑛藍は気づき、我ながらどこか焦りと緊張と――期待があったのかもしれない、と苦笑した。

 ただこれで閣議の流れは一気に翠蓮へと傾いた。
 石鎮の振りかざす「家事」の理論、そして翠蓮がまた男児を産んだこと。

 戦の勝敗は、見えていた。



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