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第2章 蠱毒の頂
第32話 我が子
しおりを挟む翠蓮が産んだ子は、翠蓮たっての希望で清と名づけられた。瑛藍のものと同じ雪灰色の髪がほわほわと立っているのを、瑛藍はそっと撫でる。
隣で眠る我が子を、翠蓮は優しく見つめていた。
以前の子は琰単の子でもあり、その行く末があらかじめ定められていたので複雑な思いを抱いていた、と瑛藍は聞いている。
だが今度はなにに遠慮することもなく可愛がれる。そしてまた絶対に守りとおしてみせるという、母の強い眼差しが翠蓮にはあった。
(もっとも、手出しできる人はもう誰もいないけれどね……)
先日の閣議で翠蓮の立后が正式に決まった。
琰単は今の皇太子を廃して、生まれた子を世継ぎにするのではという憶測がすでに流れ始めている。
後宮にはいく人かの妃嬪はいまだにいるけれども、翠蓮の受ける絶対的な寵愛や男児を儲けたことが決定打となり、誰も翠蓮と競って蹴落とそうという気概すら起こらない。
それどころかすでに翠蓮は後宮を掌握しきっていた。
孫皇后のように恐怖政治を敷くのでもなく、劉皇后のように神経質に目を尖らせているのでもない。
翠蓮は下級の妃嬪であろうと女官であろうと宦官であろうと、分け隔てなく対等に接した。女官たちの不正や訴えがあれば真摯に話を聞いて公正に裁き、琰単に相談して後宮内の不要な仕事やしきたりを廃して簡素化した。
空いた人手の分に退職希望者を募ると、ぽろぽろと応じる者たちがいた。野心を抱いて後宮にきた者ほど、翠蓮の皇后としての完璧な振る舞いと揺らがない寵愛を前にして心折れたのだ。そういった者たちには十分な手当てを与え、再嫁先や仕事を斡旋したりした。
宦官たちも同じだ。人手を減らした分で余った金を宦官たちに適切に行き渡るようにする。十分な給金ときちんとした仕事、そして「やった仕事を主人に感謝される」ということに、宦官たちの意識はすこしずつ変わり始めた。
家畜が言葉を覚えて人になるように、掖庭宮の宦官たちは精彩を取り戻した。
これらはある意味で「当たり前」のことだ。
だがいままでその「当たり前」がないがしろにされてきた。
今では後宮は妃嬪・女官・宦官を問わず翠蓮の信奉者だらけだ。
だからたまに翠蓮を出し抜いてやろうと宦官に賄賂を渡して琰単の閨に潜り込もうとする「不届き者」がでても、「自浄作用」が働く。
宦官から、女官から、いずこともなく翠蓮の元に報告がはいる。
あの宦官という生き物が、自ら賄賂を渡されそうになったと報告するのだ。
それがどんなに「異常」なことか。
そうして翠蓮はその不届き者を「当たり前の言葉」で諭す。「宦官を賄賂で動かしてはいけませんよ」と。
すこし理解できる者ならすぐにその異常性に気づくだろう。それで怯えて態度を改めるならよし。改めない者については――瑛藍はそこまでは知らない。そこから先はいまや全宦官の頂点に立つことになった、内侍監である渓青の仕事だからだ。
隻眼の穏やかな内侍監がいかに恐ろしい存在かは、宦官たちの身に沁みていた。
そうやって翠蓮は飴と鞭を使い分けて、後宮に絶対的な支配空間を作り上げた。
瑛藍と緑基が閣僚相手に奔走しているあいだ、身重なのだから大人しくしているのかと思っていたが、翠蓮がそんな性格ではないということを瑛藍は忘れていた。
苦笑して我が子の頬を撫でながら、瑛藍はふと気になっていたことを尋ねた。
「……そういえば、なんで「清」って名前にしたの? 久しぶりに「おねだり」発動したって聞いたよ?」
「それは……」
瑛藍が問うと、翠蓮がすこし顔を赤くする。
実は琰単は違う名前にしたかったらしいのだが、翠蓮は必殺技であるところの「お願い」攻撃を琰単にくらわせ、一も二もなくこの名前になったと聞いている。
「……『青は藍より出でて藍より青し』だからです……」
「え……?」
「……どうしても、瑛藍とのつながりを残しておきたかったのです。瑛藍が父であると公にはできなくても、この子は『藍』から出でたきよらかなものである、と」
「……君、僕を殺すつもり……?」
こみあげるものを瑛藍は抑えきれなかった。涙が出るなんて、何年ぶりのことだろうと思う。ぽたぽたと次から次へと落ちる涙に、翠蓮のほうが驚いていた。
翠蓮が心配そうな顔で見上げる。
「大丈夫……嬉し涙だから。ねぇ、翠蓮。聞いてくれるかな」
「はい」
「僕さ、散々女好きって言われてる割には、奥さんも妾もいないでしょ?」
「そういえば……そうですね」
「僕はずっと琰単の影だったから、妻も子も――大切なものはなにも作らないようにしてたんだ。いつ奪われるか分からなかったから」
孫皇后の存命中は、とくに細心の注意を払っていた。妓楼に通うときでさえ馴染みを作らないように、何人も渡り歩いた。何回か結婚も勧められたが、まだまだ遊びたいと言って断っているうちに、相当な遊び人という噂が定着して縁談話も来なくなった。
孫皇后が亡くなったあとでさえ、気は抜けなかった。琰単にとっては瑛藍は気に食わなかったらいつでも処分できる玩具にすぎなかった。ちょうど、公燕があっけなく最期を迎えて、翠蓮を奪い取られたように。
「だから僕は、自分の子を抱けるとは思っていなかったんだ。不満を抱えながらもなにもできずに、戦場で一生を終えるんだと思ってた」
でも今は、自分の血を分けた子と――翠蓮がいる。
「……ありがとう」
そう言って微笑むと、こぼれた涙を翠蓮が優しく拭ってくれた。
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