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第16話 迫る冬
しおりを挟むヤシュカは、またモレヤの背に乗せてもらって里の近くまで送ってもらった。
今回はヤシュカにも非があるとは思う。
発情期を迎えたモレヤの発する匂いに、熱病に浮かされたようになってしまって、我を忘れて誘い、そして溺れた。
けれどもモレヤもモレヤで、一切の手加減がなかった。
多分、モレヤも暴走に近いような状態だったのだろう。何しろ、発情期に雌と番うのは初めてのはずだから。
今までのモレヤは何だったのだろうと思ってしまうほどで、ヤシュカはぐったりとモレヤの背に体を預けて、とりあえず落ちないようにと捕まっていることしかできなかった。
モレヤもヤシュカを気遣っていつもよりもゆっくりと駆けてくれているが、あれだけのことをしたのに、どれだけ元気なんだろう、とヤシュカは遠い目をする。
ようやく里に辿り着く頃には随分と冷え込みが厳しくなっていた。
八つの嶺にいた頃は晴れていたのに、今はどんよりと重く雲が垂れ下がっていて、今にも――そう、雪が舞いそうなほどの寒さだ。
人形に戻るとあまりの寒さに体が震え、慌てて衣服を身に纏った。
「ヤシュカ、出立できそうな日が分かったら教えてくれ。出来るだけ早い方がいいと思う。 ……空気が、雪の匂いがする」
そう言ってモレヤが見上げた空を、ヤシュカも仰いだ。
既に青空はかけらもなく、まだ日が暮れるような時刻でもないのに薄暗い雰囲気は、確かにモレヤの言う通り雪の気配を感じさせた。
既にコメの収穫は終わっているが、やはりスハは冬の到来が早いと思う。
「分かったわ。また、連絡する。モレヤも……気をつけて」
その時、りーんとヤシュカの耳に鈴の音が届いた。ミサハに渡した鈴の腕輪の音だ。まずい、と思いヤシュカはモレヤに背を向けた。
けれども踏み出そうとした足は、モレヤががっしりと後ろから抱き締めてきたことで空を切った。
「モレヤ……っ! 私、行かなきゃ……!」
「待って」
「ひゃ、あっ……!」
急に右耳の付け根をかぷりと甘噛みされる。ぞわぞわとした感覚がヤシュカの体を駆け抜けた。
「何、して……っ!」
「……んー……予防線?」
「はぁ? とにかく、私、行くわ!」
「うん……じゃあ、また」
顔だけで振り向いて、モレヤの鼻の頭に口づけを落とすと、モレヤが金の目を見開いてから――とても嬉しそうに笑った。
モレヤの温もりがなくなることがこんなに寂しくなる日が来るとは思わなかった。これだけ冷え込んできた日は、社の中で一人寝るよりもモレヤに包まれて眠る方がどれだけ幸せか。
けれどもあと少しだけ我慢すれば、きっとそれも叶えられる。
ヤシュカは後ろ髪を引かれる気持ちを無理矢理押さえつけながら、里へと戻った。
戻る途中、ヤシュカの頬にふっと冷たいものが当たり、そしてあっという間に溶ける感覚がある。
思わず足を止めて天を仰ぐ。
雪だ。
ふわふわと風に舞った雪は、里に着く頃にはもう止んだ。
いつもの年だったなら、初雪だ、と喜べただろう。
けれども今のヤシュカには、それは白い魔手が迫ってきているようにしか思えなかった。
***
「ヤシュカ! どこへ行っていたの!」
里に戻るなりヤシュカを出迎えたのは、母の怒声だった。寒さと怒りと両方に身を震わせている。傍らに小さくなったミサハが、申し訳なさそうに立っていた。
目線だけでミサハにごめんね、と告げてから母に向き合って言う。
「……暗くなる前に夕方の禊をしていたの。最近、日が暮れるのが早いから」
出来るだけ落ち着いて、なんでもないことのように告げる。母は苛々とした態度を隠そうともしなかった。
「全く……! まあ、身を清めてきたならちょうどいいわ。そのまま支度をなさい」
「母様? 何の支度を?」
「決まっているでしょう! 貴方の初夜よ。トオミがやっと着いたのよ」
ヤシュカの全身から血の気が引いた。まさか、もう着くとは思ってもみなかった。
けれどもそれで合点がいった。
あんなところにヒトがいたのは、おそらくトオミたちの後をつけてきた斥候の者だ。ヒトは時として偽りの尾をつけて猿の獣人を装う。そうやってこのトミシナの国を探りに来たのだ。
「嘘……兄様と姉様が……?」
ヤシュカはミサハの声にハッと我に返った。
母の後ろにいたミサハは、可哀想なほどに顔を青褪めさせている。
「ミサハ、貴方は社で床の準備をして来なさい。ヤシュカはこちらへ」
それは余りにも残酷だ、とヤシュカは母に抗議しようとした。けれども当のミサハが俯いて真っ青な顔で「はい」と小さく返事をしたので、ヤシュカは黙るしかなかった。
恋い慕う異父兄と、既に番った相手がいると知っている異父姉の、初夜の床の準備をさせる。この母は、どこまでも人の気持ちが汲めないのだと改めて思い知った。ヤシュカに対してだけなのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
ヤシュカはミサハのことが気がかりだったが、母に引きずられるようにして族長の館へと向かった。
社ほど大きくはないが、こちらも高床の建物で屋根も大きく、普通の者たちの住居とは明らかに異なる館だ。
その館の前に、一人の雄が立っていた。
何よりも目を引くのは、大きく伸びた二本の鹿角。所々に傷が付いているのは、ヒトと争ったせいか、それとも一族の他の雄たちからの挑戦を受けたが故のものか。
堂々たる体躯に似合わぬ神経質そうな顔立ち。ミサハと同じ薄い榛色の髪と黄味がかった瞳は紛れもなく族長の血筋を示していたが、長く伸ばされていた真っ直ぐな髪は戦で失ったのか、肩のあたりで切り揃えて整えていたせいで以前よりも酷薄な印象を受けた。
服もそうだ。昔はヒトから手に入れた豪奢なキヌの服を纏っていた。袖も裾も長くて、よく絡まったりしないものだとヤシュカは内心思っていた。
けれども今は麻でできた簡素な上衣の上に熊の毛皮を羽織り、革の長靴と籠手を身につけている。それはさながら攻めてきたイカヅチの軍の武人のようだった。
「兄様」
異父兄のトオミが、そこにいた。
間に合わなかった、とヤシュカは絶望した。
あともう少しだけヤシュカが早く決断していれば、トオミが来る前に逃げ出せたのかもしれない。けれどもトオミが来てしまった以上、逃亡するのはかなり難しくなった。
かくなる上はミサハに協力してもらって、この後、寝所にトオミが来る前に逃げ出すしかない、とヤシュカはキュッと唇を噛んだ。
トオミに抱かれるなんて、絶対に嫌だ。
だってヤシュカを見るトオミの眼差しには、優しさなんてひとかけらもない。
そこにあるのは、侮蔑、支配欲、野心。
兄としての思いやりなどどこにもなく、ただ母と同じようにヤシュカを己の目的のために利用しようとする冷たさしか感じられない。
ヤシュカはもう知っている。
本当に相手を愛おしいと思った時、どんな風に見つめられるのかを。
モレヤの、あの甘く優しくとろけるような眼差しこそが、本当の番としてのものなのだと知ってしまった。
だからヤシュカも、兄を睨み返した。
絶対に利用されてなどやるものか、という意思を込めて精一杯の強さでトオミを真っ直ぐ睨んだ。
そんなヤシュカの表情を見て、トオミの眉がピクリと動いた。
今までヤシュカは、トオミをこうして正面から睨んだことなどない。
いや、トオミの方がいつだってヤシュカを意思などない物のように扱ってきた。
「…………臭い」
「え……?」
久しぶりに再会を果たした兄妹だというのに、兄の第一声はそれだった。八つの嶺の、毒霧の臭いでもついてしまったかとヤシュカは思ったが、兄の言わんとすることは違っていた。
「ヤシュカ、貴様、他の雄を咥え込んだな⁉」
ぐっと距離を詰めたトオミが、ヤシュカの服の胸ぐらを掴みあげたので、ヤシュカは思わず息が詰まりそうになった。
「他の雄の臭いがする」
右耳を、引き千切らんばかりに引っ張られてヤシュカは悲鳴をあげた。
「痛い、痛い! 兄様、離して!」
ヤシュカは思い切り突き飛ばされて、地面に倒れ込んだ。よろよろと兄を見上げると、トオミの瞳は憎悪に燃えていた。
「よもや、ヒトではあるまいな」
「……違う」
「ヤシュカ、貴方まさか他の雄と……」
狼狽えた母がガクガクと震えているのを見て、ヤシュカは服についた土をパンパンと払ってから立ち上がった。
「だとしたら? 何が悪いの、母様。相手がヒトでさえなければ、誰と番おうと生まれてくるのはミナカタの子よ?」
思い切り嘲笑って言うと、母の顔が真っ青になった。何のためにヤシュカとトオミを番にさせようとしていたのか、まさかヤシュカに気づかれていたなんて、とその顔にはありありと現れている。
そんな母を見下すように眺めていたヤシュカの右頬を、がっと鈍い衝撃が襲った。その反動でヤシュカは転びそうになったが、何とか踏みとどまる。
右頬が、感覚がなくなるほどに痛い。いや、熱い。
トオミに、思い切り殴られたのだと初めて気づいた。
「この淫売が! これだから雌は、雄と見ればすぐに誰でも咥え込む!」
「失敬ね。誰でもいいわけじゃないわ。兄様なんて、死んでもごめんよ!」
カッとなって言い返せば、トオミが顔を真っ赤にした。
今までヤシュカは、トオミに口ごたえなどしたことがない。それどころか、まともに口をきいたことだって数えるほどしかない。だから、ヤシュカに言い返されるだなんて、思ってもみなかったのだろう。
「ヤシュカ、貴様!」
「痛い! 離して!」
ギリギリと手首を掴まれ、ほとんど引きずられるようにしてヤシュカはトオミに連れ出された。
族長の館の前で起きたとんだ修羅場を、一族の者たちはほとんど総出で遠巻きにして見守っていた。ちらりと見たその眼差しは、ヤシュカに非難の目線を向ける者、反対に少々同情気味な者とが半々くらいだ。大体が前者が雄で、後者は雌だった。
このまま社の寝所でまさか強引に、とヤシュカは青褪めたが、連れて行かれたのは集落の外れに作られた、食料の貯蔵用の穴倉だった。
貯蔵用ではあるが、盗難に遭うのを防止するために入り口には分厚い扉が付いており、中は真ん中の通路を挟んで丸太格子で守られた横穴が幾つかある。
トオミはその一つにヤシュカを押し込むと、格子戸に閂代わりの横棒を差し込んだ。
「そこでしばらく頭を冷やせ! それからその臭いを抜け。こんな臭い奴など抱く気になれん」
「抱いてもらわなくて結構よ! だから出して!」
ヤシュカの叫びも虚しく、外側の扉がばたりと閉められ、閂が下される音がした。
ヤシュカは諦めて、ズキズキと痛む頬に手をそっと這わせる。
「痛っ……」
右頬は思い切り腫れていた。口の中を切ったようで、血の味がする。歯が折れなかっただけマシか、と思った。
外側の扉の隙間から漏れる光以外、明かりは何もない。ほとんど真っ暗な中でヤシュカはへたり込んだ。
「モレヤ……予防線にしては効きすぎだよ……」
ヤシュカは右耳の付け根の痛みに苦笑した。トオミを牽制する目的で、番にしか触れることを許さない耳に匂いを残したのだろうけれど、牽制どころか逆鱗に触れてしまったようだ。
もっともおかげで、トオミに嬲りものにされるという最悪の事態を当面は回避できたのだけれど。
はあ、とヤシュカは深い溜息をついた。
これからどうなるのだろう。
とりあえず臭いを抜け、とトオミは言っていた。モレヤの匂いが取れてしまったら、トオミに犯されるのだろうか。
そんなのは御免だ。
どうにかしてここを抜け出して、モレヤのところへ行って、逃げる。
それしかないと思った。
それまでは、絶対に諦めたりなんかしない。
そう、固く誓った。
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