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第九章 突き抜けた先にあるもの

第七十八話 恋心と本当の自分

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「ねえ、君、独りなの? 一緒に回らない?」

 ナンパの定形文が耳に入り、楓はかすかに眉をひそめた。

「ねえ、独りなんでしょ、いいじゃん別に」

 断ろうとすると、ナンパ少年は無理にでもと言わんばかりに詰め寄る。

 いくら断ろうともケロッとした顔をされるばかりで、楓は愛想笑いを浮かべるのも精一杯だった。

「あの、困ってるんですか? 助けてほしいんですか?」

 楓がそう言うと、ナンパ少年は一瞬戸惑った顔を浮かべた。しかしすぐに顔を自信に満ちた表情に戻して甘い言葉を掛ける。

「君がかわいいから、一緒に回りたいんだ」

 喉に穴が開いているのか疑ってしまうほど吐息の混じった声に、ゾゾゾッと背筋に寒気が走った。

(いや、困ってるって言ってよ。そっちの方が楽だから)

 一気に精神が疲弊した楓は、愛想笑いを保てなくなっていた。

(さっさと逃げたいなぁ)

 楓は自分の格好を確認した。浴衣に下駄。夏祭りに適した格好だが、お世辞にも走りやすいとはいえない。走って逃げるのは難しいだろう。浴衣は君乃に半強制的に着せられたもので、

「ほら、オレ、案外かっこいいと思うんだけどな」

 歯が浮きそうな言葉を投げかけながら、ナンパ少年はウィンクをした。楓はかったるそうな眼で、その顔をマジマジと見た。

(あと三十年ってところか)

 確かに顔は整っている。しかし好みではない、と楓は見切りをつけた。

(あの人そっくりになりそうだけど、今のままじゃね)

 どうすれば諦めてくれるだろうか、と思案していると、ナンパ少年の背後に人影が現れた。

 ゴツン、と。鈍い音が響いた。

「何をやってるか、このバカ孫が!」

 その渋い声には聞き覚えがあった。楓の顔がみるみる明るくなっていく。

「用務員さん!?」
「お、青木じゃないか」

 楓の視線の先には、中学校の用務員がいた。普段はオレンジ色の派手な作業服を着ているが、今はYシャツに半ズボンというシンプルな格好をしている。

(そういえば、同い年の孫がいるって言ってたなぁ)

 用務員に促されるまま、近くのベンチに座った。楓の隣には用務員が座り、ナンパ少年はベンチの横で立たされていた。

「孫が悪かったね。なんならビンタの一つや二つでもしてやってくれ!」

 ナンパ少年は「それは酷くない!?」と抗議の声を上げた。

「いえ、困ってはいましたけど怒ってはいないので」

 楓は背筋を伸ばしながら、さりげなく自分の臭いをかいた。汗臭くないか。変なにおいしないか。何度確認しても不安はぬぐえない。

 浴衣はおかしくないだろうか。白地にカキツバタ柄があしらわれており、目にも鮮やかな浴衣だ。浴衣の着こなしだって何度も確認した。大丈夫なはずだ、と自分に言い聞かせる。

「お詫びと普段のお礼だ」

 そう言いながら渡されたのは、イチゴ飴だった。団子のように三個が連なっていてかわいらしい。保存できないかと一瞬考えたのだが、今食べないのは失礼かと思い直して、結局は舐めることにした。

 イチゴ飴に『うれしそうだね』と語り掛けられて、小声で「そう?」と返した。

「それにしては青木は凄いな」

 突然褒められた衝撃で、イチゴ飴を落としそうになった。

「そんなことないですよ」

 地面に落ちる直前でキャッチできたイチゴ飴を、下品にならないように舐める。

(死ぬほど甘い)

「毎日のように学校で助っ人をして、家ではカフェの手伝い、今日なんかのど自慢大会で歌うんだろ。こんなに頑張ってる生徒は見たことない」

 楓は目を伏せて膝の上で握りこぶしを作って、耐え続けていた。

(喜んじゃダメだ。ニヤけるな、わたしの顔)

 緩み切った顔に力を入れて、出来るだけ顔を引き締めた。しかし念を入れて顔を見せないように俯き続ける。

「ただ約束を守ってるだけですから」
「……約束か」
「そうなんです。ろうぼ——恩人との大事な約束なんです。遺言なんです」

 遺言、という言葉に用務員の眉が跳ねた。

 用務員はスマホをいじっていた孫に「これでなんか食ってなさい」とお小遣いを与えて、露店に走らせた。「全く、素直なのはいいが少々軽薄で現金すぎるな」と愚痴を漏らしたのを聞き、楓は苦笑した。

 改めて、用務員は真剣な顔をして、楓に向き直った。

 覗くその瞳にドキリとした。薪ストーブのような、深い温かみのある瞳だった。

「青木は約束だから、いつも手伝ってくれるのか?」

 楓は言葉に詰まった。確かにその通りだった。だけど否定したい気持ちもある。それが何故なのか、自分でもわからなかった。

 何も言わないのを不審に思ったのか、用務員が言葉を継ぐ。

「青木は、人助けをしてどうしたいんだ?」

 一瞬、呼吸を忘れた。それほどの衝撃だった。考えないようにしていたことだったから。

「……人助けをして、君は幸せなのかい?」

 そうなると信じてきた。でも実際はどうだろうか。苦しいばかりで、ため息が尽きず、幸せが遠のくばかりだ。

 老木さんに言われて、『人助け』を続けてきた。老木さんのことだから、楓の幸せを望んでの言葉だったのだろう。

(本当に今のままでいいの?)

 そう自問自答しても、答えはいつも一つだ。

(今までを無駄にしたくないから、続ける)

 後ろ向きなのか、前向きなのかもわからない考えに、楓自身も呆れている。

 それでも、何度覚悟しても、いつも思ってしまうことがあった。

「わたしには、資格がないんでしょうか」

 『人助け』をする資格が。幸せだと感じる資格が。

 用務員は、ふっと表情をやわらげた。

「そんなことは無い。少なくても俺は助けられて嬉しかった。
 用務員というのは対等な立場が誰もいないんだ。教師は雲の上の存在で、生徒たちは見守るべき対象だ。挨拶はするが、会話をすることはほとんどない。
 子供が好きで就いた仕事だったが、嫌気が差していたんだ。そんな時、君が声を掛けてくれた。気を使ってくれた。それだけのことが嬉しくてたまらなかった」

 楓はふと考えた。なんで用務員さんに声を掛けたんだっけ。そうだ。辛そうな顔をしていたからだったっけ。
 いや、それだけじゃない。それ以前から声を掛けたいと思っていた。一目見たときから気になっていた。

「改めて言わせてもらうよ。ありがとう」

 楓は耳まで真っ赤にして、顔をそらした。

「君が誰の視線を恐れているかは分からないが、俺は好きに生きてほしいと思っている」

 好きか、と楓は息を吐いた。最近、この言葉がよくわからなくなっていた。

「すまんすまん、老婆心が暴走して説教臭くなってしまった。悪かったね」

 さっきまでの真面目な顔は、一転して人懐っこいものに変わった。

(今しかないよね)

 楓は意を決した。本音と嘘を混ぜて、言葉をつむいでいく。

「もし、もしもの話ですけど」

 楓の唇は、乾ききっている上に、震えていた。

「わたしが、用務員さんを好きだ、って言ったらどうしますか?」

 楓は今の自分の顔が怖かった。ただただ真剣な表情ではないことを祈った。

 その姿を見て、用務員は愛おし気に息を漏らす。

「うれしいよ。かわいい孫ができたみたいだ」

 用務員の表情を読み取れなかった。顔に刻まれた皺のせいで、感情が覆い隠されていた。

「かわいい孫、ですか」

 口をわずかに開けると、乾いた唇が切れて血がにじみ出た。血を止めるために、唇を強く噛んだ。

「孫と言っても、本当に男孫と結婚してほしいわけじゃないからな。あいつに君はもったいなさ過ぎる」
「そうですか」

 楓はひたすら顔を伏せて、逃げ出したい気持ちを耐えていた。

 ふと、ある気持ちが湧き上がる。

(あんなによくしたのに)

 自分の心に、驚愕した。

 やっと本当の自分に気付いてしまった。

(あ、そうか。わたし、本当は見返りを求めてたんだ)

 助けてあげるから独りにしないで。ひどいことをしないで、と。安心できる居場所を作り上げるために、『人助け』をしていた。

 純粋に他人のためじゃなくて、自分のためだったんだ。

 そう自覚した瞬間、自分が凄く汚い人間のように思えた。

 つらくてみじめで、嫌いな自分がさらに嫌になる。それなのに、どこか晴れやかさもあって、もうわけがわからなかった。全部が混ざって、心の中はごった煮シチューのように煮込まれていた。

「なになに、俺の結婚の話?」

 孫が戻ってきたところで密談は終わりになった。

「それじゃあ、また学校でな」
「はい」

 用務員と、大型犬のように連れていかれるナンパ少年を見送りながら、楓はいちご飴をかみ砕いた。

「ごめんなさい、老木さん」

 誰にも聞こえないように呟き、理由もなく振り向く。

 すると、一瞬だけ見えた。

 こんな日には絶対に見たくない顔。

 祖母の顔。

 しかし一瞬の出来事で、相手は楓に気付かずに過ぎ去っていった。

「サイサク」

 楓は逃げるように歩き出したのだった。
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