異物どもめが

鬼ヶ崎韮子

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 感覚がなくなっていって、ぐちゃぐちゃの髪は乾く気配を見せなくて。震える手をもう片方の手で握った。此処は何処だろう。視界を上げようにも、濡れて垂れ下がった長い前髪が前を見させてくれない。それでもまだ、此処が何処だろうと止まる訳にはいかないのだ。俺は乱雑に前髪をかき上げた。どうやらどこかの路地のようであった。案の定というか、それを見ても此処が何処かなんて見当もつかない。だが今の自分にとって、そちらの方が好都合であった。
 
 黒沢翔太は、家出していた。以前から計画を立てていた訳ではない。計画を立てるような人間は何処かもわからない路地で雨に濡れて途方に暮れたりなどしない。気づいたら走り出していたのだ。通っている高校の制服のまま着替えようともせず。しかも今の自分は何も持っていない。ポケットに財布でもつっこんでくればまだ良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。家を出たときは橙色だった空はすっかり暗くなり、滝のような雨が打ち付けていた。傘も持っていないのだからその豪雨に耐えるしかない。ここまで絶望的な状況が存在するものかと、さっきから霧がかったようにはっきりしない頭で考えていた。感情がついてきていない。もう立っているのも精一杯で、シャッターの閉まった生気の無い建物に寄りかかるようにしてずるずると座り込んだ。元々ずぶ濡れだったためか、地面に座るのに抵抗は無かった。いつもはゆるく巻かれたくせ毛もすっかり水を吸って顔に張り付いているし、褐色の肌も今はなんとなく色が白かった。そうか、今自分は寒いのか。感覚が衰えていくのが嫌というほどわかった。死にかけというのはこういうことをいうのだ。もう眠かった。瞼が下がり始めている。もうそれに逆らうこともうまくできない。寝たら危ない。死んでしまうかもしれない。それでももう自分に打開策はなかった。あんな家に戻るくらいならば、いっそ__死んで、しまおう、か。

 雨は嫌いだ。あの日を思い出すから。針のような雨の降る外を見て、獅子頭明は目を伏せた。幼い頃からの夢であった自分の店の看板を下ろしたあの日を思い出したからである。ある日起きた忌まわしい事故のために閉店した自分の店。決して客は多くなかったが、楽しい仲間達といる店の雰囲気が獅子頭は何より好きだった。一度強盗に入られたことがあったが、獅子頭が店の厨房から姿を表した途端に逃げて行ったこともあった。190cmある大柄な体格に長いドレッドヘアというなかなかにインパクトのある見た目をしていたからであろう。しかし残念ながら長い髪の下には小動物のような愛嬌あふれる顔が隠れているため、そのギャップに驚いた人は数しれず。仲間達には散々いじられたが、悪意は無いとわかっているため別に気にはしていなかった。そんな楽しい日々も、あの雨が降る日に全てが壊されてしまった。もう誰も座らないカウンターの高めの椅子も、かつては料理の並んだ木製のテーブルも、今は色あせてしまった。もう自分には何も残っていなかった。そうこうしている内に、月日は流れていった。ただ憂鬱な気分が嫌で部屋を見渡すと、カレンダーに目がとまった。…ああ、そうだった。店を閉めてから、ちょうど一年。ちょうど今から一年前に、この店は、死んだのだ。悲しみが心に傷をつけていく。もう一度あの時の楽しさを思い出そうと、外に出た。

 根本の錆びた鉛色のドアノブに手をかけた。ほんの少し躊躇ったが、すぐにドアを開けた。ざあざあと大きな音を立てて目の前も見えないほどの雨が降っていた。ひどい豪雨だ。雨の音が思った以上にうるさくて戻ろうとしたが、ふいに目がとまった。…人が、いる。自分より大きい人には会うことがほとんど無いが、その人影はいやに小さく見えた。気づけば雨の中人影に近づいて行った。学生だろうか。中学生くらいの体格の子供がシャッターにもたれかかり眠っている。いや、気絶しているのか。このあたりでは見たことのない制服だ。そもそもこんな路地を歩く中学生なんて見たことがない。ぐちゃぐちゃの髪が邪魔で顔がよく見えない。指先だけを使ってそっとどかすと、さっきまで見えなかった顔がよく見えた。少し濃い色をした肌には生気が無く、唇も真っ青になっていた。手の甲を頬に当てると生きているのかもわからないほど冷たかったが、息はしているようだった。しかし、こんなところにこの状態で放置しておけばまずいことになるのは確実だった。もう店はやっていないといっても、家の前に死体が転がっているなんてたまったものではない。獅子頭は仕方なく、そのボロボロの子供を担ぎ上げた。

 目が覚めたのはベッドの上だった。自分が生きていることにまず驚き、知らない部屋にいると気付き二度驚いた。服は制服ではなくなっていて、随分とサイズの大きいTシャツを着ていた。ズボンは履いていなかったが、これだけサイズが合っていないのだ。仕方あるまい。髪も体もすっかり乾ききっていて、体は暖かさを取り戻していた。周りを見渡すと、どうやらこの部屋は寝室のようだと思った。目覚まし時計やクローゼットが並ぶこの部屋には色濃く生活感が残っており、それが黒沢をひどく安心させた。今わかっているのは、自分を助けてくれたのはかなり大柄な人だということと、今自分がいるのは恐らく寝室だということだ。生きていられるのはありがたいことだが、通報でもされたらそれこそ黒沢の命が危ぶまれる。早く恩人に会って、話をつけなければ。急いで立ち上がる。体に無数についた傷にさえ手当されており、自分の今からしようとしていることはとんでもなく失礼なことなのではないかとも思ったが、今の自分に選択肢はなかった。ここで匿ってもらう。そうしなければ自分は死んでしまう。少し錆びたドアノブを握った。しかし、ぐいと下に下げてみても開く気配がない。…鍵を、閉められたのか。それでも諦める訳には、いかないのだが。そのまま力任せにドアを殴った。ガンガンとかなり大きい音が響いた。そのまま殴り続ける。勿論手は痛かったが、命には替えられない。
 
 どれくらいこの音が鳴っていただろうか。がちゃり、と音がして、ゆっくりとドアが開いた。そこには予想通り、自分より30cmくらい身長差のあるかなり大柄な人が立っていた。長いドレッドヘアが印象的だった。ぼーっとしてはいられない。こちらの要求を伝えるべく「あの、」と声を出した。が、それより先に腕を掴まれた。なにせ迫力のある人だったのだ。自分の生死がかかっているというのに、目先の恐怖に怯えてしまうくらいには。そのまま黙った俺など気にもとめず、その大柄な人はまじまじと俺の手を見ている。さっきドアを殴ったからか、骨折までせずとも赤黒く腫れてしまい、ひどく痛々しい。ズキズキと痛む手をあまり触られたくない。早く終わらないかと待っていると、やっと男が口を開いた。
「……痛くないのか?」
長い髪に隠れて表情は見えなかった。声は自分が思っていた程低くもなく、恐ろしい声でもなかった。どちらかというと、今狂ったようにドアを叩いていた得体の知れない子供を、自分を、なだめるように出された声のようであった。それにひどく安堵した。
「…痛い」

 蚊の鳴くような声であった。初めて聞く声は思ったより低く、子供のような声ではなかった。いきなり目の前に現れた大男に対して出す声にしては落ち着いていた。それに少しほっとした。大抵自分が姿を見せると怯えられてしまうのだ。これなら会話も難しくはない。少しずつ、少しずつ情報を引き出していこう。まずは、こちらの情報を与えてみよう。
「…俺は獅子頭。ここに住んでいる。」
少年は目こそ合わせないもののしっかり聞いているようではあった。次は少年の名前を聞いてみよう。
「君は?」
できるかぎり、落ち着いた声で。相手はこんな路地に転がっているような人だ。どのタイミングでなにをするかもわからない。まさに一発触発、どことなく張り詰めた雰囲気が流れていた。
「……黒、沢…です。」
黒沢。下の名前を聞こうとも思ったが、相手がこれ以上何も言わないのだ、無駄には掘り下げない。それに今はそれ以上の情報はそこまで重要ではない。
「何故あんなところに?あの制服は見たことがない。この辺に住んでいる訳ではないんだろう。まだ連絡はしていないが、場合によっては警察を呼ぶ。」
「…本当に?誰にも連絡してないんですか?」
そこに反応するということは、迷ったということではなさそうだった。
「ああ、本当だよ」
「…」
黒沢は言葉さえ発さなかったが、表情はどことなく緩んでいた。連絡をする前に話ができて良かったと心底思った。この様子では通報でもしていたら黒沢が苦しむことは目に見えてわかった。
「何故あそこにいたんだ?」
そう。一番疑問に思っていたのはそこだったのだ。迷った訳ではない、連絡はされたくない。何か後ろめたいことがあるのかもしれない。少し間が空いて、黒沢は口を開いた。
「…家出しました。」
家出。本当にそうだろうか。何せ黒沢は何も持っていなかった。この雨の中。制服のポケットにも一円玉の一つだって入っていなかった。こんなに無計画な家出があるだろうか。
「…何故?」
少し酷かもしれないが、黒沢のことを知る必要があった。
「…あんな家にいるのが、嫌になったから、です」
ゆっくりと、そう言った。まあそうだろうと思った。彼の体の傷がそう物語っていた。これ以上はきっと何も聞けない。次に口を開いたのは黒沢だった。
「……匿って、もらえません、か。」
その声が頭に響いていた。黒沢を、匿う。こちらにとってなんの利益も無い話だった。
「お願いします、もう戻れないんです。ここで匿ってもらえなかったら俺は死にます。お願いです、家に帰りたくないんです。お願いします、匿ってください。」
死ぬ。生々しいその言葉が脳内を反響して、がんがんと警報を鳴らした。黒沢の命を救えるのは自分だけだ。ここで見捨てればこいつは死ぬ。かと言ってこちらにはなんの利益も無い。どうすべきなのだろうか。

 どれくらい迷っていただろうか。カチカチと時計の音が響いていた。黒沢も俺も、何も言わなかった。黒沢の灰色の目がとうとう涙を落とした。それを見て何かおかしな感情が、頭の中を侵食していく。無意識に手をのばしていた。あの倒れているのを見つけたときのように。その涙を指先で拭う。…ふと、黒沢を匿ったとしたら自分の生活はどうなるのだろうと思った。今まで通りにはきっといかない。でもそれは今の自分に必要なことかもしれない。黒沢が来たら、何か変わるのかもしれない…?予測だけで結果は生まれない。実行しなければ結論はでない。
「……」
やっと、答えが決まったのだ。
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